セゾン・アメリカン・エキスプレス・カードの発行と4大国際ブランド体制の完成
自社発行を貫いてきたアメックスの方針転換の間隙を、クレディセゾンはどう突いたか
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- 概要
- 1997年秋、クレディセゾンがアメリカン・エキスプレス(アメックス)と提携し、「セゾン・アメリカン・エキスプレス・カード」を発行した経営判断。すでにVISA・MasterCard・JCBと提携済みだったクレディセゾンは、アメックスを加えて4大国際ブランドをすべて自社会員に提供する体制を整えた。
- 背景
- アメックスは長く世界同一の自社発行にこだわってきたが、1996年に方針を転換し、銀行やノンバンクによる発行を認めた。国際ブランド間の競争が訴訟合戦の様相を呈するなかで、その間隙を突いてアメックス発行に乗り出したのがクレディセゾンであった。
- 内容
- セゾン・アメックスは年会費3000円と、アメックス本体(1万円)とセゾンカード(無料)の中間に置かれた。利用限度額を最高100万円とし、アメックスの3種類のプロパーカードがカバーできなかった若年層・女性層を狙った第4のカードとして、クレディセゾンが発行・管理を担った。
- 含意
- VISA・MasterCard・JCBに続きアメックスを揃えたことで、クレディセゾンは国内で唯一4大国際ブランドを自社発行する立場を得た。この提携は、後年のダイヤモンド・セゾン・アメックスなどプレミアムカード戦略の足がかりにもなった。
ブランドを借りて品揃えを完成させるということ
この判断の要は、自前で国際ブランドを立ち上げるのではなく、方針を転換した相手の資産を借りて品揃えを完成させた点にあるとみることができる。アメックスが自社発行に固執し続けていれば、クレディセゾンが4大ブランドを揃える道はなかった。相手が戦略を切り替えたときを逃さず、ビザ・マスターとの対立の間隙に第一号として滑り込んだ機動力に、流通系カード会社ならではの身の軽さがうかがえる。自社の色に固執せず、使える資産は外から借りるという構えは、その後の同社が提携を多用していく手法とも重なる。
もっとも、アメックスの色を借りて品揃えを整えるやり方は、ブランドの主導権が最終的には相手側にあることの裏返しでもあった。第4のカードとして裾野を広げた一方で、プレミアム領域の価値づけはアメックス本体のブランド力に依存する。借りたブランドでどこまで自社の顧客との関係を深められるかは、後年の独自経済圏づくりへと持ち越された課題であったとみられる。1997年のこの一手は、外部の資産を機敏に取り込む同社の強みと、借り物ゆえの限界とを、同時に映し出していた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国際ブランドの積み上げ
クレディセゾンは1982年に西武カードを発行して以降、国際ブランドとの提携を段階的に積み上げてきた。1988年にセゾンVISA・MasterCardインターナショナルカードを、1995年にセゾンJCBインターナショナルカードを発行し、主要な国際ブランドをそれぞれのブランドで会員に提供する体制を築いていた。ビザ・マスターと提携したカードを毎年100万枚近く発行し、その伸び率は業界トップにあった。残る国際ブランドはアメックスだけであった[1][2]。
クレディセゾンの強みは、西武百貨店や西友などグループ企業のハウスカードを手掛けるところから積み上げた発行力にあった。カウンターでの入会獲得を全国に広げ、会員基盤を厚くしてきた同社にとって、国際ブランドはその基盤に載せる商品の品揃えであった。VISA・MasterCard・JCBを揃えた時点で残るのはアメックスだけとなり、自社会員に4大ブランドをすべて用意できるかどうかが、品揃えを完成させる最後の一手として意識されるようになっていた[3]。
アメックスの方針転換とブランド間の火花
アメックスは長く、単一の発行体として発行業務も加盟店業務もすべて自ら賄う世界同一の自社発行路線をとってきた。ところが1996年に方針を大きく転換し、銀行やノンバンクがアメックスを発行することを認めた。世界200カ国以上に広がったブランドと加盟店網という資産を、パートナーに開放するグローバル・ネットワークサービスへと戦略を切り替えた。日本国内の発行枚数は約100万枚で頭打ちが見えており、会員一人当たりの年間利用額が同業他社の約5倍と高い一方、これ以上の大衆化には既存会員の抵抗もあった[4]。
梅本章夫・日本社長の見立てでは、当時の日本のカードビジネスは収益力の低い業界であった。銀行系のカード会社は顧客の囲い込みや余剰人員の雇用を目的にカードを手掛けてきた面が強く、事業として収益を上げる構えに乏しかった。そうした市場で、アメックスは自らのブランドと加盟店網を開放し、営業力のあるパートナーに発行を委ねることで、投資と運営コストを抑えつつ会員層を広げようとしていた。クレディセゾンは、その狙いに最も適した相手の一つであった[5][6][7]。
決断
間隙を突いた第一号
アメックスとビザ・マスターの対立は、欧米では訴訟合戦の様相を呈していた。ビザ・マスターは提携先の銀行にアメックスの発行を禁じる通達を出し、アメックスはこれを独占禁止法違反として各国政府に提訴していた。日本を含むアジア・太平洋地域ではビザ・マスターが明確な方針を打ち出せずにいたなかで、その間隙をついたのがクレディセゾンであった。クレディセゾンは1997年秋、アメックスと組んで新しい分野のカード市場に進出する第一号となった[8]。
1997年秋に発行されたセゾン・アメックスは、アメックスにとってプラチナ・ゴールド・グリーンに続く「第4のカード」とされ、社内ではブルーカードと呼ばれた。年会費は3000円と、アメックス本体の1万円とセゾンカードの無料の中間に据え、利用限度額を最高100万円とした。3種類のプロパーカードではカバーできなかった若年層、とりわけ女性の比重が高い市場を狙い、発行と管理はクレディセゾンが担って実際のセールス活動もセゾン側が受け持った[9][10]。
邦銀に先んじる意味
この提携でクレディセゾンが得たものは、単に商品が1つ増えたことにとどまらなかった。国内で唯一、VISA・MasterCard・JCB・アメックスの4大国際ブランドをすべて自社会員に提供できる立場に立った。ビザ・マスターが恐れていたのは、クレディセゾンをきっかけに日本やアジア・太平洋地域のカード会社が相次いでアメックス発行に乗り出すことであった。実際、アメックスは邦銀の発行にも前向きで、クレディセゾンはその流れの先頭に立った[11]。
アメックスにとっても、この提携は米国以外の事業の拡充という世界戦略の一環に組み込まれていた。同社は米国7割・米国以外3割の事業比率を2002年までに5対5にする目標を掲げ、ブランドと加盟店網の開放を成長の軸に据えていた。セゾン・アメックスは1997年末までに2万枚、年間で20万枚の発行を目標とし、発売直後の出足は快調と伝えられた。日本国内でアメックスの色をした第4のカードを、クレディセゾンの営業力で会員基盤へ届ける座組みが動き始めた[12]。
結果
4大ブランドを揃えた会員基盤
セゾン・アメックスの発行によって、クレディセゾンは主要な国際ブランドをひととおり揃えた会員基盤を持つに至った。1990年代末の会員数はおよそ1000万人と、日本のカード会社ではトップ級の規模に達していた。西武百貨店や西友などグループ企業のハウスカードから築いたカード会社としての土台のうえに、VISA・MasterCard・JCB・アメックスという4つの選択肢を重ねたことで、会員が用途や志向に応じてブランドを選べる品揃えが整った[13]。
この提携は、その後のプレミアムカード戦略への足がかりにもなった。年会費3000円のブルーカードで裾野の顧客を取り込む一方、クレディセゾンはのちにダイヤモンド・セゾン・アメックスなど上位のアメックス提携カードを重ね、富裕層向けの品揃えへと広げていった。アメックスの色を借りながら自社の営業力で会員へ届けるという1997年の座組みが、価格帯を上下に伸ばすプレミアム戦略の原型になったとみられる[14]。
- 日経ビジネス 1997年5月26日号「アメックスvsビザ・マスター戦争 日本上陸」
- 週刊東洋経済 1998年1月17日号「編集長インタビュー 梅本章夫 アメリカン・エキスプレス・インターナショナル社長」
- 週刊東洋経済 2000年8月26日号「トップの履歴書 クレディセゾン社長 林野宏」
- クレディセゾン 05-timeline(国際ブランドカードの発行)
- クレディセゾン 会社年鑑(1998年3月期・単体業績)