第1章 年〜年

ロイヤルホールディングス:福岡空港の機内食・喫茶とセントラルキッチンの採用

1951年〜板付の米軍基地で覚えた洋食で始めた日本航空の機内食と、ロイヤルベーカリー

日本航空が国内線の営業を始めた1951年10月、江頭匡一氏は福岡空港で機内食の搭載と喫茶の営業を始めた。江頭匡一氏は終戦直後の1945年9月に板付の米軍基地でコックとして働き、約1年後に基地へ生活物資を納める御用商人として独立した。江頭匡一氏は資金難の日本航空に当時の200万円を拠出して福岡支店の開設を援助し、見返りに機内食の納入を受け持った。取引銀行の専務から叱責を受けても、江頭匡一氏は航空会社が将来大きく発展するとみて取引を続けた。当初の福岡空港は1日1便ほどの運航で、機内食の事業は赤字が続いた。米軍相手の商売で得た資金を航空輸送の将来へ先回りして投じた判断が、ロイヤルの出発点になったとみられる。

  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年10月、日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港で機内食搭載と喫茶営業を開始
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [2]1945年9月に板付の米軍でコックとして働き、約1年後に独立して米軍に生活物資を納める御用商人となった
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [3]江頭匡一氏が200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、見返りに機内食を納入。当初は1日1便で赤字続き
    • [5]江頭匡一氏が200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、見返りに機内食を納入。当初は1日1便で赤字続き
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [4]日航福岡支店事務所を見返り条件に用意し、取引銀行の専務に叱られても航空会社の将来性を見込んだ(1979年講演)

1951年12月、江頭匡一氏は福岡市堅粕で菓子とパンの製造を始め、ロイヤルベーカリーを設立した。江頭匡一氏は基地への出入りを通じて、米軍からベーカリーや床屋の技術と経営の基本を教わり、基地内でベーカリーを営んでいた。1953年11月には福岡市東中洲にレストランを開業し、運営する会社として有限会社ロイヤルを設立した。機内食の便数が増えるにつれて事業は製パンとアイスクリームへ広がり、最中の皮で包んだアイスクリームは映画館で売れる商品になった。1955年2月にはアイスクリームの製造販売にも着手。空港の外に製パンと飲食の売り場を持ったことが、便数に左右される機内食の収入を補ったと推察される。

  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
    • [8]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
    • [10]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [7]米軍が出入り商人にベーカリー・床屋・DPEの技術と経営を教え、江頭匡一氏は基地内でベーカリーや床屋を経営していた
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [9]機内食が軌道に乗るにつれ製パン・アイスクリームへ広げ、モナカの皮で包んだアイスクリームがヒット商品となった
参考文献[1]-[10]
  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年10月、日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港で機内食搭載と喫茶営業を開始
    • [6]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
    • [8]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
    • [10]1951年12月に福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始しロイヤルベーカリーを設立。1953年11月に東中洲でレストラン開業・有限会社ロイヤル設立。1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [2]1945年9月に板付の米軍でコックとして働き、約1年後に独立して米軍に生活物資を納める御用商人となった
    • [7]米軍が出入り商人にベーカリー・床屋・DPEの技術と経営を教え、江頭匡一氏は基地内でベーカリーや床屋を経営していた
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [3]江頭匡一氏が200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、見返りに機内食を納入。当初は1日1便で赤字続き
    • [5]江頭匡一氏が200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、見返りに機内食を納入。当初は1日1便で赤字続き
    • [9]機内食が軌道に乗るにつれ製パン・アイスクリームへ広げ、モナカの皮で包んだアイスクリームがヒット商品となった
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [4]日航福岡支店事務所を見返り条件に用意し、取引銀行の専務に叱られても航空会社の将来性を見込んだ(1979年講演)

1954年〜6,700万円の追徴課税と息子の死で決めた外食一筋と、資本金100万円のロイヤル

1954年、江頭匡一氏は6歳の息子を自宅の池での事故で亡くした。同じ年の12月には国税庁の査察を受け、6,700万円の追徴課税を受けた。それまでの江頭匡一氏は、レストランやクラブ、パン屋、洋服屋、タクシーへと事業を広げ、利益になる商売を次々に手掛けていた。これに先立つ福岡国税局の調査で二重帳簿が見つかった際は少額の納付で済んだものの、2度目の査察で負担は一気に重くなった。追徴の後の約1年、江頭匡一氏は納税の金策に追われ、財産がほぼゼロになって虚脱状態が何か月も続いたと後年に振り返った。家族と財産を1年のうちに失ったことで、利益を追って事業を広げてきたやり方そのものが問い直されたと思われる。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [11]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
    • [12]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
    • [15]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [13]御用商人時代にレストラン・クラブ・パン屋・洋服屋・タクシーへ事業を広げ、福岡国税局の調査で二重帳簿が判明したが少額で済み、その後再び査察を受けた
    • [14]御用商人時代にレストラン・クラブ・パン屋・洋服屋・タクシーへ事業を広げ、福岡国税局の調査で二重帳簿が判明したが少額で済み、その後再び査察を受けた
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号 有訓無訓
    • [16]昭和20年代の終わりに国税庁の査察で財産がゼロ近くになり、何か月も虚脱状態が続いた(1989年の談話)

1955年の暮れ、税金の処理を終えた江頭匡一氏は、事業を飲食業だけに絞ると決めた。決断のきっかけとして、江頭匡一氏は1993年の回顧で『漁夫の一生は釣竿一本』の言葉を、1989年の談話では『脚下照顧』の掛け軸を挙げた。2つの回顧に共通するのは、儲かると見た事業へ無差別に出ていた過去を、金銭欲だけで動いた投機と同じだったとする反省である。江頭匡一氏は飲食業と関係しない会社を、タクシー会社も含めて全て処分した。金策の後、江頭匡一氏は事業を1つに絞るなら好きな仕事にすると考え、行き着いた先が飲食業である。江頭匡一氏は、1,000店近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると基地の米国人から聞き、飲食業の将来性を確信した。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [17]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [18]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [20]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [22]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [24]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号 有訓無訓
    • [19]査察後に父が掛け軸にした「脚下照顧」を思い出し、金持ちになりたい欲望で突っ走っていたと省みて一つに専念すると決めた
    • [21]査察後に父が掛け軸にした「脚下照顧」を思い出し、金持ちになりたい欲望で突っ走っていたと省みて一つに専念すると決めた
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [23]金策の後、何か一つ好きな仕事に絞ろうと考えて飲食業を選んだ

1956年5月、資本金100万円でロイヤル株式会社を福岡市東中洲に設立。設立の後、江頭匡一氏は自らが商売と営業はしてきたものの経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼んで月1回の指導を受けた。手本は、米国の外食業界誌で知ったレストランチェーンのハワード・ジョンソンである。1959年当時、ハワード・ジョンソンの年間売上高は400億円に達し、国内最大の食品店とされた不二家の15億〜16億円を大きく上回っていた。江頭匡一氏は、水商売と低く見られていた飲食業の地位を産業の水準まで引き上げることを、事業の目的に据えた。ロイヤルの設立と江頭匡一氏の社長就任を、沿革より半年遅い1956年11月とする資料もある。

  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1956年5月にロイヤル株式会社(資本金1,000千円)を福岡市東中洲に設立
  • 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
    • [26]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
    • [27]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
    • [29]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [28]江頭匡一氏はハワード・ジョンソンを手本に、水商売と蔑まれた飲食業を産業として日の当たる場所に出すことを事業の目的とした
    • [30]江頭匡一氏はハワード・ジョンソンを手本に、水商売と蔑まれた飲食業を産業として日の当たる場所に出すことを事業の目的とした
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [31]略歴で昭和31年11月にロイヤルを設立して社長に就任とする
参考文献[11]-[31]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [11]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
    • [12]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
    • [15]1954年に6歳の息子が自宅の池で溺死し、同年12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税され、約1年を金策に費やした
    • [17]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [18]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [20]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [22]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
    • [24]1955年暮れに「漁夫の一生は釣竿一本」の言葉を知り、多角的な商売を投機と同じだと反省して飲食業一筋を決め、飲食に関係しない会社をすべて処分。米国には千軒近い店舗を持ち上場するレストランチェーンがあると基地で聞いた
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
    • [13]御用商人時代にレストラン・クラブ・パン屋・洋服屋・タクシーへ事業を広げ、福岡国税局の調査で二重帳簿が判明したが少額で済み、その後再び査察を受けた
    • [14]御用商人時代にレストラン・クラブ・パン屋・洋服屋・タクシーへ事業を広げ、福岡国税局の調査で二重帳簿が判明したが少額で済み、その後再び査察を受けた
    • [23]金策の後、何か一つ好きな仕事に絞ろうと考えて飲食業を選んだ
    • [31]略歴で昭和31年11月にロイヤルを設立して社長に就任とする
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号 有訓無訓
    • [16]昭和20年代の終わりに国税庁の査察で財産がゼロ近くになり、何か月も虚脱状態が続いた(1989年の談話)
    • [19]査察後に父が掛け軸にした「脚下照顧」を思い出し、金持ちになりたい欲望で突っ走っていたと省みて一つに専念すると決めた
    • [21]査察後に父が掛け軸にした「脚下照顧」を思い出し、金持ちになりたい欲望で突っ走っていたと省みて一つに専念すると決めた
  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1956年5月にロイヤル株式会社(資本金1,000千円)を福岡市東中洲に設立
  • 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
    • [26]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
    • [27]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
    • [29]商売はしたが経営はしていないと気付き、西鉄の重役ら4人に社外重役を頼み月1回指導を受けた。米誌「レストラントマネジメント」のハワード・ジョンソン物語を読み、34年当時で年400億円の売上に対し不二家は15〜16億円だった
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [28]江頭匡一氏はハワード・ジョンソンを手本に、水商売と蔑まれた飲食業を産業として日の当たる場所に出すことを事業の目的とした
    • [30]江頭匡一氏はハワード・ジョンソンを手本に、水商売と蔑まれた飲食業を産業として日の当たる場所に出すことを事業の目的とした

1962年〜冷凍料理を製造するセントラルキッチンと、米国へ送った大卒の新卒社員

1962年9月、ロイヤルはセントラルキッチン方式(集中調理方式)を採り、業務用の冷凍料理を作り始めた。江頭匡一氏は1979年の講演で、日本で初めてのセントラルキッチン方式だったと位置づけた。1961年ごろから飲食業の産業化を構想していた江頭匡一氏は、主な客層を子連れの若い夫婦に置き、価格の安さを欠かせない条件とした。材料と人手を1か所に集約して一括で調理すれば調理の費用を下げられ、味付けも多数の客がおいしいと感じる水準にそろえられる。着手を1963年とする資料もあり、有価証券報告書の沿革とは1年の差がある。店の数を増やす前に調理を工場へ移したことで、店舗が増えても味と原価を一定に保てる仕組みが整ったと考えられる。

  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1962年9月にセントラルキッチンシステム(集中調理方式)を採用し、業務用冷凍料理の製造に着手
    • [38]1962年9月にセントラルキッチンシステム(集中調理方式)を採用し、業務用冷凍料理の製造に着手
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [33]昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手。36年ごろから飲食業の産業化を夢みていた(1979年講演)
    • [34]昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手。36年ごろから飲食業の産業化を夢みていた(1979年講演)
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [35]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする
    • [36]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする
    • [37]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする

ロイヤルが福岡・中洲の店にコック約60人を招集して方針を説明すると、素人の発想だと非難され、約半数が退職した。当時の日本の飲食店では冷凍食品を使うことは客を軽んじる行為とされ、関係者からも成功しないと見られていた。同業者や専門家からも、文化である料理を科学で処理するのは許されないとの非難が寄せられた。ロイヤルは反対するコックをセントラルキッチンへ案内し、説得を重ねた。店で作業するより安上がりだと理解させるため、経理上もセントラルキッチンを意図して赤字に置いた。1976年時点でも、セントラルキッチンの収支は機内食の利益を除けばほぼ均衡させてあった。

  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [39]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [42]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [43]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [44]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [40]冷凍食品の活用は日本の飲食店で客をないがしろにするものとしてタブー視され、関係者から絶対にうまくいかないと言われた
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [41]同業者や専門家から料理のような文化的なものを科学的に処理するのはけしからんと強く非難された(1979年講演)

1964年、ロイヤルは大卒の新卒社員の採用を始め、採用した社員を米国へ送って現地の外食業を学ばせた。1979年の時点で13年前にあたる1966年ごろには、大卒の社員が米国でレストラン経営を学ぶ留学制度を新設。江頭匡一氏は、料理を職人の文化から、手順をマニュアルにして誰でもすぐ再現できる科学へ移すには、大学出の人材が欠かせないとみていた。米国では約170の大学にホテル・レストランの学部があり、日本の大学には同じ学部が1つも無かった。冷凍食品の活用とセントラルキッチンによるチェーン展開の導入の下地は、米国で学んだ社員の知見にある。料理人の徒弟制度に代わる人材の供給源を大学に求めたことが、次の段階のロイヤルセンターの建設と多店化を担う組織の土台になったのだろう。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [45]1964年から大卒の新卒採用を始め、米国に送って現地の業界を学ばせ、その結果として冷凍食品の活用とセントラルキッチン方式のチェーン展開を導入した
    • [49]1964年から大卒の新卒採用を始め、米国に送って現地の業界を学ばせ、その結果として冷凍食品の活用とセントラルキッチン方式のチェーン展開を導入した
  • 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
    • [46]13年前(1979年時点)に米国への留学制度を設けて大卒者にレストラン学を学ばせた。カルチャーからサイエンス(マニュアル化)に移行するために必要だった
    • [47]13年前(1979年時点)に米国への留学制度を設けて大卒者にレストラン学を学ばせた。カルチャーからサイエンス(マニュアル化)に移行するために必要だった
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [48]米国では約170の大学にホテル・レストラン学部があるが日本にはない(1979年講演)
参考文献[32]-[49]
  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1962年9月にセントラルキッチンシステム(集中調理方式)を採用し、業務用冷凍料理の製造に着手
    • [38]1962年9月にセントラルキッチンシステム(集中調理方式)を採用し、業務用冷凍料理の製造に着手
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
    • [33]昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手。36年ごろから飲食業の産業化を夢みていた(1979年講演)
    • [34]昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手。36年ごろから飲食業の産業化を夢みていた(1979年講演)
    • [41]同業者や専門家から料理のような文化的なものを科学的に処理するのはけしからんと強く非難された(1979年講演)
    • [48]米国では約170の大学にホテル・レストラン学部があるが日本にはない(1979年講演)
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
    • [35]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする
    • [36]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする
    • [37]顧客の最大公約数を子供連れの若い夫婦とし、安さを絶対条件に、材料と人手を1カ所に集中して一括調理する最大公約数の味としてCKと結びついた。CK・冷凍食品開発の着手を38年とする
    • [39]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [42]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [43]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
    • [44]CK着手時に中洲店にコック約60人を集めて方針を説明したところ罵られ半分ほどが辞めた。反対者をCKに連れてきて説得し、CKは意識して赤字に置き、1976年時点も機内食の利益を除き収支トントン
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
    • [40]冷凍食品の活用は日本の飲食店で客をないがしろにするものとしてタブー視され、関係者から絶対にうまくいかないと言われた
    • [45]1964年から大卒の新卒採用を始め、米国に送って現地の業界を学ばせ、その結果として冷凍食品の活用とセントラルキッチン方式のチェーン展開を導入した
    • [49]1964年から大卒の新卒採用を始め、米国に送って現地の業界を学ばせ、その結果として冷凍食品の活用とセントラルキッチン方式のチェーン展開を導入した
  • 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
    • [46]13年前(1979年時点)に米国への留学制度を設けて大卒者にレストラン学を学ばせた。カルチャーからサイエンス(マニュアル化)に移行するために必要だった
    • [47]13年前(1979年時点)に米国への留学制度を設けて大卒者にレストラン学を学ばせた。カルチャーからサイエンス(マニュアル化)に移行するために必要だった

出典・参考

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出典・参考
  • ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号
  • 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
  • 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
  • 日経ビジネス 1988年4月11日号
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号 有訓無訓
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一

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