江頭匡一
経歴1945〜2005年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1945年主要役職の状況(推定含む目安)2005年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 米軍板付基地 | 1945 | 入社 | ||
| キルロイ特殊貿易(米軍基地の御用商人) | 1950 | 設立 | |||
| ロイヤルホールディングス | 1956 | 設立 社長 | |||
| 1988 | 会長 | ||||
| 1988 | 社長 退任 | ||||
| 1991 | 代表権を返上 | ||||
| 1992 | 経営再構築推進本部長 | ||||
| 1993 | 会長兼社長 | ||||
| 1994 | 社長 退任 | ||||
| 2005 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1923年3月に福岡県田川郡で生まれた。旧制嘉穂中学校を1940年に卒業すると、民間パイロットを志して鳥取県米子の航空機乗員養成所に入り、浜松の航空隊で終戦を迎えた。1945年9月、板付に進駐した米軍に雇われてコックとして働き、約1年後に結婚を機に独立して、基地へ生活物資を納める御用商人になった。基地ではベーカリーや床屋を営み、米軍が出入りの商人向けに開いたセミナーで人事制度などの近代的な管理手法を学んだ。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1956年5月、資本金100万円のロイヤル株式会社を福岡市東中洲に設立し、自ら社長に就任した。前々年に国税庁の査察で6,700万円の追徴課税を受け、約1年を納税の金策に費やした後の再出発で、飲食業と関係しない会社はタクシー会社も含めてすべて処分していた。設立直後、商売と営業の経験はあっても経営の経験は無いと自覚し、西鉄の重役ら4人に社外重役を依頼して、月1回の経営指導を受けた。
在任中の主な施策
施策
福岡での上場の後は東京へ進出し、1981年8月に東京証券取引所の第二部へ上場し、1983年6月に第一部へ指定された。社長は65歳までと決めて周囲にも伝え、1984年に日本興業銀行から迎えた北条忠男氏に1988年に社長を譲り、会長に就任した。1991年に代表権も返上したが、3期続いた減益を受けて1992年1月に経営再構築推進本部長として経営に戻り、1993年3月に会長兼社長へ復帰した。再構築では店舗の建築費をバブル期の8割以下に抑え、1994年4月に生え抜きの稲田直太氏へ社長を引き継いだ。
創業ストーリー
創業ストーリー
江頭匡一氏は戦時中、浜松の航空隊で撃墜されたB29の残骸を見て、日本に無い素材やレーダーに米国の技術の厚みを知った。終戦後は板付の米軍基地のコックから御用商人に転じ、ドル建ての商売で資金を蓄えた。1951年10月、日本航空が国内線を開業すると、福岡空港で機内食の搭載と喫茶の営業を始めた。資金に乏しかった日本航空の福岡支店の開設に当時の200万円を出し、その見返りに機内食の納入を得た。取引銀行の専務からは叱責されたが、航空会社は必ず伸びるとみて手を引かなかった。
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- [14]戦争末期、浜松の航空隊にいたとき、撃ち落とされたB29の残がいを見て、見たこともない素材のチューブや電探(レーダー)など日本にない技術に驚いた。米軍の御用商人としてドル建てで商売をし、ドルの切り上げで大儲けもした
- [15]戦争末期、浜松の航空隊にいたとき、撃ち落とされたB29の残がいを見て、見たこともない素材のチューブや電探(レーダー)など日本にない技術に驚いた。米軍の御用商人としてドル建てで商売をし、ドルの切り上げで大儲けもした
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
- 日経ビジネス 1976年7月5日号
- [17]当時の日本航空は貧乏所帯で、米軍の御用商人で儲けていた江頭氏が当時の金で200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、その見返りに機内食を納入することになった。1日1便という状態で赤字続きだったが、便数が増えるに従って機内食も軌道に乗り、製パン、アイスクリームといった分野に手を広げた
- 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
- [18]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
当初は1日1便ほどの運航で機内食は赤字が続いたが、便数が増すにつれて採算を確保し、製パンやアイスクリームへ事業を拡大した。1951年12月に福岡市堅粕でロイヤルベーカリーを設け、1953年11月には東中洲にレストランを開業し、1955年2月にアイスクリームの製造販売に着手した。この頃は利益になると見ればタクシーなど飲食以外の事業にも出ていた。
- 日経ビジネス 1976年7月5日号
- [19]当時の日本航空は貧乏所帯で、米軍の御用商人で儲けていた江頭氏が当時の金で200万円を出して日航福岡支店の開設を援助し、その見返りに機内食を納入することになった。1日1便という状態で赤字続きだったが、便数が増えるに従って機内食も軌道に乗り、製パン、アイスクリームといった分野に手を広げた
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- [21]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
転機は1954年で、6歳の長男を事故で失い、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴された。約1年の金策を終えた1955年の暮れ、江頭匡一氏は手当たり次第の事業は投機と変わらないと省み、生涯1つの仕事を貫くと決めた。基地の米国人から、千店近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞き、飲食業の将来を確信した。米国の業界誌で、1959年当時に年400億円を売り上げていたハワード・ジョンソンの伝記を読み、手本に据えた。1956年5月、資本金100万円でロイヤル株式会社を設立した。
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- [22]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
- [23]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
- [24]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
- 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏
- [25]「レストラントマネジメント」という米国誌に「ハワード・ジョンソン物語」があり、昭和34年当時で年間400億円の売り上げをあげていた
- 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
- [26]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [27]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
創業後の打ち手は、調理を工場へ集めることから始まった。1962年9月にセントラルキッチン方式を採って業務用の冷凍料理の製造に着手し、本人は日本で初めての試みと位置づけたが、料理を科学で扱うことに同業者から強い非難を浴びた。1964年からは大卒の新卒社員を採り、米国へ送って現地の外食業を学ばせた。1967年には日本興業銀行が審査部員3人を約3か月派遣して飲食業の将来を調べ、翌1968年に融資を決め、1969年9月に福岡市那珂の新本社工場ロイヤルセンターが完成した。
- 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
- [28]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- [30]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- [32]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [29]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
- [33]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- [31]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
会社の形を決めたのは1970年の大阪万博である。米国側からアメリカ・ゾーンの飲食を一括で請け負う話が来て、約4,000万円の赤字を覚悟して出店し、福岡で調理した料理を冷凍で運ぶ方式で11億5,000万円を売り上げた。1971年12月には北九州市にロイヤルホストの1号店を出店した。同じ1971年に株式上場の準備室を設け、1978年8月に福岡証券取引所へ上場し、江頭匡一氏は飲食業の産業化が社会に認められた節目と受け止めた。
- 証券アナリストジャーナル 1979年 17巻8号 江頭匡一
- [34]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- [35]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- [37]某取引銀行の専務から大変叱られたが、航空会社は将来必ず大きく発展すると言った。昭和37年に日本で初めてセントラルキッチン方式を採用し業務用冷凍料理の製造に着手、同業者や専門家から強く非難された。42年に興銀から約3カ月、3人の審査部員が派遣され、43年に融資が決まった。45年の大阪万博でアメリカ・ゾーンへの出店を全部請け負う話を持ち込まれ、4,000万円ぐらいの赤字を予想したが出店し、福岡のセンターで作った料理を冷凍で大阪へ運び、売上高11億5,000万円となった。ハワード・ジョンソンの伝記を米国のレストラン・マネージメント誌で読んだ。46年に株式上場の準備室をつくり、53年8月に福岡証券取引所への上場が実現し、夢にみていた産業化が社会に認知されたと喜んだ
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- [36]1954年、6歳の子供を自宅の池での事故で亡くし、同じ年の12月に国税庁の査察で6,700万円を追徴課税された。それまでは儲かると思えばどんな事業にも手を出したが、それは投機と同じだと反省し、55年の暮れに一生ひとつのことをやり通すと決めた。基地内の米国人から、千軒近い店舗を持ち株式を上場するレストランチェーンが米国にあると聞いて確信を得た。64年から大卒の新卒社員を採用し米国に送って業界を勉強させた。71年12月に北九州市にロイヤルホストの第一号店を出店した
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [38]1951年10月日本航空国内線の営業開始と同時に福岡空港において機内食搭載と喫茶営業を開始。1951年12月福岡市堅粕で製菓・製パン業を開始、㈱ロイヤルベーカリーを設立。1953年11月福岡市東中洲にレストランを開業、㈲ロイヤルを設立。1955年2月アイスクリームの製造販売に着手。1956年5月ロイヤル㈱(資本金1,000千円)を設立。1962年9月セントラルキッチンシステムを採用し業務用冷凍料理の製造に着手。1969年9月福岡市大字那珂に新本社・工場(ロイヤルセンター)が完成。1978年8月福岡証券取引所に上場
参考文献5件
参考文献
- 日経ビジネス 1979年8月27日号 編集長インタビュー 江頭匡一氏「外食産業は75%がサイエンス、開発力で勝負」(略歴欄)
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊, 1993)「息子の死を機に外食産業一筋」江頭匡一
- 日経ビジネス 1993年7月12日号「江頭匡一氏[ロイヤル会長兼社長]社内緩み3期連続減益 現場復帰し立て直す」
- 日経ビジネス 1994年7月4日号「稲田直太氏[ロイヤル]理詰めの組織経営で舵取り」
- ロイヤルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
事実根拠:出所(ロイヤルホールディングス)