第1章 年〜年

大日本印刷:秀英舎から大日本印刷への統合とエレクトロニクスへの参入

1876年〜秀英舎の創業と活版印刷業の草分け

活版印刷が木版印刷に取って代わると西洋人宣教師から聞いたのは、布教を担う大教院や仏教新聞「明教新誌」の仕事に携わっていた佐久間貞一で、これが自ら活版所を開く決断につながった。1876年10月、佐久間に大内青巒・宏仏海らを加えた発起人により、東京府下京橋区西紺屋町(現在の銀座西四丁目付近)で秀英舎が開業すると、佐久間の縁戚にあたる保田久成が出した1,000円で、高橋活版所が手放そうとしていた設備を取得し、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を並べた。社名は旧幕臣の佐久間が勝海舟に頼んで付けてもらったもので、英国という当時の先進国を上回るつもりで事業に励めという意味が込められていたと伝わる。官公庁の文書や法令集、出版物の印刷を手がけ、明治初期における近代活字印刷業の先駆として早い段階で足場を固めた。

  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる

創業まもなく中村正直訳"西国立志編"など明治初期の名著の印刷を引き受けて企業基盤を固め、1886年11月には牛込区市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)の敷地を取得して第一工場(市谷工場)を開設した。当初は活版部から始まり、鋳造課・電気版課・石版部へと設備を広げ、町工場の域を出なかった同社は有数の活版印刷会社へと成長した。1888年4月には有限責任会社組織に、1894年1月には商法施行に合わせて株式会社組織へ改組し、初代社長には佐久間貞一氏が就任して近代的な組織形態を早期に整えた。活字書体(秀英体)を自前で開発する技術志向は、後年のエレクトロニクス事業へつながる技術型企業の素地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 有価証券報告書
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任

市谷の第一工場は鉄筋コンクリート造の近代印刷工場へ建て替えられ、1923年9月の関東大震災で東京の印刷業界が壊滅的な打撃を受けるなか、秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまった。同業が操業を止めた間も印刷の注文が同社に殺到し、これが飛躍の契機となった。同年10月には本社を市谷の新工場へ移し、以後1世紀を超えて市谷が本社であり続けた。震災を境に新聞・雑誌など定期刊行物の受注が集中し、大正末から昭和初期にかけて凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整え、後の合併と多角化を支える生産基盤を構築した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた
  • 有価証券報告書
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
参考文献[1]-[12]
  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた

1907年〜日清印刷との合併による「大日本印刷」の誕生

合併相手の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に工場を構えてから、1927年に田端の市田オフセット印刷所、1928年に入新井の辻本写真工芸社を買収し、1932年には大崎に分工場を新設してグラビア印刷を手がける総合印刷所へ成長していた。1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併の契約に調印し、1935年2月に両社は合併、商号を大日本印刷株式会社へ改めた。資本金600万円で発足した新会社の初代社長には増田義一が就任し、専務には青木・平野が並んだ。当時の日本印刷業界における最大規模の再編で、新会社は当時日本最大の印刷会社となり、以後の"DNP"というブランドの起点となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点

日中戦争開始後の用紙統制と工場空襲をくぐり抜け、戦後は1946年9月に榎町工場を操業再開し、10月には京都工場を開設した。同年には大蔵省の管理工場に指定されて紙幣・証券類の印刷を担い、これが後の証券・カード分野の素地となった。1949年5月には東京証券取引所に上場して戦後復興期の資本調達基盤を整え、1951年11月の大崎工場、1956年9月の日本精版合併による大阪工場発足で東京・大阪の2大拠点体制を固めた。書体という"ソフト"と全国の工場群という"ハード"を併せ持つ体制は、復興期から高度成長期にかけて急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要に応える供給力となり、以後の多角化投資を支える収益基盤を形づくった。

  • 有価証券報告書
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)
参考文献[13]-[21]
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)

1955年〜北島織衛の再建と拡印刷・多角化の源流

戦後の混乱期、大日本印刷は労働争議で経営が揺らいだが、1955年に社長へ就任した北島織衛が再建を主導した。北島は当時専務だった青木弘の三男で、日本興業銀行への入行を志して果たせず大日本印刷へ入社し、営業の現場から頭角を現した経営者だった。社長就任に先立つ1951年6月には、専務として再建五カ年計画を全社へ発表し、全従業員の投票で全面的な支持を得て立て直しの足場を確立した。一つの主力事業だけに頼る危うさを避けて複数の収益源を立てる方針を掲げ、1951年に開設した大崎工場を足がかりに、米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出した。社内には出版偏重を崩すことへの反対もあったが押し切り、これが後の包装事業の中核へ育った。印刷の対象や素材、前後の工程まで広げる"拡印刷"と、受注産業でありながら自ら企画を売り込む発想とを軸に、北島は24年にわたって積極経営を率いた。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た

多角化の収益源の一つが、印刷の微細パターン転写技術を紙以外へ応用するエレクトロニクス部材だった。1957年、通産省主導で始まったカラーテレビ国産化の試作にシャドーマスクの担い手として加わり、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として期待を集めた。エッチング技術でブラウン管用シャドーマスクを試作し、1958年には国内メーカーで初めて量産・販売を開始し、埼玉県上福岡市に無塵工場を構えた。1959年にはICの製造に欠かせないフォトマスク、1967年にはクロムマスクの生産へと広げ、半導体・ディスプレイ部材の供給者としての地位を確立した。1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究を体系的に担う拠点で、後のエレクトロニクス事業の発祥地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)

多角化はエレクトロニクスにとどまらなかった。北島は紙コップなど自社製品の需要拡大も見込み、1963年に大日本印刷が6割を出資して北海道飲料を設立、コカ・コーラの北海道ボトリングへ参入した。寒冷地での清涼飲料は売れないとの見方を覆して事業は伸び、後の清涼飲料セグメント(現在の北海道コカ・コーラボトリング)の源流となった。1972年1月の赤羽工場・蕨工場の新設と二葉印刷の合併など、高度成長期の生産拡張を重ね、1975年7月には製造技術そのものを体系的に研究する生産総合研究所を設立した。中央研究所と生産総合研究所の2本柱が、印刷会社の枠を越えてエレクトロニクス・包装・機能性材料へ広がる多角化の技術基盤となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 有価証券報告書
    • [32]1972年1月 赤羽工場・蕨工場を新設し二葉印刷を合併
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立
参考文献[22]-[33]
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)
    • [32]1972年1月 赤羽工場・蕨工場を新設し二葉印刷を合併
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立

筆者考察

秀英舎がこの100年で獲得したのは、印刷の技術そのものよりも、注文の出どころを自分で選べる立場だった。創業から半世紀のあいだ、この会社は西国立志編を刷り、官公庁の法令集を刷り、注文の量も中身も出版社と役所が決めていた。1923年の関東大震災で同業が操業を止めるなか市谷の新工場が持ちこたえ、注文が殺到したのも、鉄筋コンクリートに建て替えていたという偶然に助けられている。1935年に日清印刷と対等合併して日本最大の印刷会社になっても、注文が出版社から来るという構造は動かなかった。

それを動かしたのが北島織衛で、1951年の再建五カ年計画と米国視察を足場に紙器・包装へ出たとき、はじめて注文の出どころが出版社の外へ広がった。1958年に国内で初めて量産したシャドーマスクも、印刷の微細パターン転写を紙以外へ当てただけで、技術としては断絶していない。変わったのは客のほうで、相手が出版社から電機メーカーへ移った。1963年に6割を出資した北海道飲料は、紙コップの買い手を自分でつくる動きだった。1966年の中央研究所と1975年の生産総合研究所は、この客の選び替えを偶然に頼らず続けるための装置である。

売上高(単体) 1953年5月期〜1975年5月期(億円)

26.96 53.5 69.61 58.5 274.32 63.5 442.16 66.5 935.1 70.5 2,397.33 75.5
  • 棒はすべて単体。上下期の合算。
  • 出所は1958年5月期までが上場会社総覧(1956年版・1959年版)、1963年5月期以降が会社年鑑(1967年版・1971年版・1976年版)。

1876年〜1975年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年05月期 単体 26 n/a 2 n/a 1 7.0% n/a
1954年05月期 単体 33 +24.7% 2 n/a 2 6.2% n/a
1955年05月期 単体 37 +11.3% 2 n/a 1 4.8% n/a
1956年05月期 単体 41 +11.8% 2 n/a n/a n/a n/a
1957年05月期 単体 54 +31.0% 3 n/a n/a n/a n/a
1958年05月期 単体 69 +27.0% 4 n/a n/a n/a n/a
1959年05月期 単体 87 +25.9% n/a n/a n/a n/a n/a
1960年05月期 単体 116 +33.4% n/a n/a n/a n/a n/a
1961年05月期 単体 163 +39.6% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年05月期 単体 221 +35.4% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年05月期 単体 274 +24.1% n/a n/a n/a n/a n/a
1964年05月期 単体 350 +27.8% n/a n/a 14 4.1% n/a
1965年05月期 単体 404 +15.4% n/a n/a 18 4.5% n/a
1966年05月期 単体 442 +9.3% n/a n/a 20 4.7% n/a
1967年05月期 単体 534 +20.8% n/a n/a 24 4.6% n/a
1968年05月期 単体 633 +18.6% n/a n/a 29 4.6% n/a
1969年05月期 単体 750 +18.5% n/a n/a 34 4.6% n/a
1970年05月期 単体 935 +24.5% n/a n/a 41 4.5% n/a
1971年05月期 単体 1,112 +18.9% n/a 86 49 4.4% n/a
1972年05月期 単体 1,274 +14.6% n/a 95 54 4.2% n/a
1973年05月期 単体 1,479 +16.1% n/a 108 64 4.3% n/a
1974年05月期 単体 2,125 +43.7% n/a 188 89 4.2% n/a
1975年05月期 単体 2,397 +12.8% n/a 214 110 4.6% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版)(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑、会社年鑑(1976年版)(1986年版)半期合算

出典・参考

4件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)

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