佐久間貞一
経歴1876〜1894年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1876年主要役職の状況(推定含む目安)1894年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 秀英舎(現・大日本印刷) | 1876 | 設立 | ||
| 1889 | — | ||||
| 1894 | — |
社長就任までの出自
出自
明治の初め、20歳前後の佐久間貞一氏は、国の基を固めて富強を図るには殖産興業を盛んにするほかないとする建白書を携え、鹿児島へ帰る薩摩出身の高官を追った。高官から天草の富川清一氏を紹介され、以後は東京で富川氏の補佐役として働いた。当時の月収は4〜5円で、そのなかから毎月1円を欠かさず貯蓄した。その後、大内青巒氏・宏仏海氏とともに、仏教誌「明教新誌」を出す明教社の事業を担った。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
1875年春、神仏合同の大教院が解散すると、その機関紙だった教会新聞は明教社に引き継がれ、隔日刊の仏教専門誌「明教新誌」に改められた。佐久間貞一氏は大内青巒氏・宏仏海氏とともにこの事業を担ったが、同誌を刷る印刷設備を持っていなかった。京橋の高橋活版所が活字と付属器具の一切を1,000円で譲渡すると聞いて購入を約したものの、3人とも資金がなく、保田久成氏を訪ねて連署の証書を入れて1,000円を借り、同氏を事業に誘い入れた。
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- [5]大内青巒の一文:明治八年春の大教院解散に当り教会新聞の事業を明教社に継承し、佐久間貞一・宏仏海と共にその局に当り明教新誌と改題して隔日発行とした。印刷機関を設備できず、高橋活版所が活字及び附属器具一切を金一千円で譲ろうとしていると聞き購求の契約をしたが、三人皆貧困で一千金を得る途なく、保田久成を訪ねて事業を共にすることを請い、三人連署して証書を入れ金一千円を借りた。機械が小さく新誌を印刷するに足らず、渋沢栄一の周旋で第一国立銀行構内の王子製紙東京分社の印刷工場から一大機械を借用し、新誌印刷の設備が完全となった
- [6]大内青巒の一文:明治八年春の大教院解散に当り教会新聞の事業を明教社に継承し、佐久間貞一・宏仏海と共にその局に当り明教新誌と改題して隔日発行とした。印刷機関を設備できず、高橋活版所が活字及び附属器具一切を金一千円で譲ろうとしていると聞き購求の契約をしたが、三人皆貧困で一千金を得る途なく、保田久成を訪ねて事業を共にすることを請い、三人連署して証書を入れ金一千円を借りた。機械が小さく新誌を印刷するに足らず、渋沢栄一の周旋で第一国立銀行構内の王子製紙東京分社の印刷工場から一大機械を借用し、新誌印刷の設備が完全となった
- [7]大内青巒の一文:明治八年春の大教院解散に当り教会新聞の事業を明教社に継承し、佐久間貞一・宏仏海と共にその局に当り明教新誌と改題して隔日発行とした。印刷機関を設備できず、高橋活版所が活字及び附属器具一切を金一千円で譲ろうとしていると聞き購求の契約をしたが、三人皆貧困で一千金を得る途なく、保田久成を訪ねて事業を共にすることを請い、三人連署して証書を入れ金一千円を借りた。機械が小さく新誌を印刷するに足らず、渋沢栄一の周旋で第一国立銀行構内の王子製紙東京分社の印刷工場から一大機械を借用し、新誌印刷の設備が完全となった
1876年10月9日、4人は1,000円を共同出資して高橋活版所の事業と設備を買収し、京橋の弥左衛門町13番地で活版印刷業を始めた。設備は手引印刷機2台と若干の活字だけで、従業員は20人余りだった。社名の秀英舎は勝安芳(勝海舟)氏の命名で、舎長の佐久間貞一氏に英国の右に秀でる意気で事業を発展させよと説き、自ら筆を執って3文字を書き与えた。機械が小さく明教新誌を刷り切れなかったため、渋沢栄一氏の紹介で王子製紙東京分社の印刷工場から大型機を借り、ようやく新誌の印刷体制を整えた。
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- [8]明治九年十月九日、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海及び保田久成の四名が金一千円を共同出資して高橋活版所の事業及び設備を買収し、東京府下第一大区八小区弥左衛門町十三番地に活版印刷の業を創む。四六判八頁掛手引印刷機械・半紙判掛手引印刷機械各一台並びに四号五号の活字若干の設備を有するのみで、従業員も二十余名に過ぎなかった
- [9]明治九年十月九日、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海及び保田久成の四名が金一千円を共同出資して高橋活版所の事業及び設備を買収し、東京府下第一大区八小区弥左衛門町十三番地に活版印刷の業を創む。四六判八頁掛手引印刷機械・半紙判掛手引印刷機械各一台並びに四号五号の活字若干の設備を有するのみで、従業員も二十余名に過ぎなかった
- [11]大内青巒の一文:明治八年春の大教院解散に当り教会新聞の事業を明教社に継承し、佐久間貞一・宏仏海と共にその局に当り明教新誌と改題して隔日発行とした。印刷機関を設備できず、高橋活版所が活字及び附属器具一切を金一千円で譲ろうとしていると聞き購求の契約をしたが、三人皆貧困で一千金を得る途なく、保田久成を訪ねて事業を共にすることを請い、三人連署して証書を入れ金一千円を借りた。機械が小さく新誌を印刷するに足らず、渋沢栄一の周旋で第一国立銀行構内の王子製紙東京分社の印刷工場から一大機械を借用し、新誌印刷の設備が完全となった
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)社名及商標ノ由来
- [10]秀英舎の名称は勝安芳伯の命名。創業当時、伯は舎長佐久間貞一に対し将来英国の右に秀づる意気を以て事業の発展を期せよと激励し、毫を揮い秀英舎の三文字を題して与えた
開業当初は活版印刷の用途が狭く、定期刊行物は明教新誌1誌を残すのみで、注文は少なく運転資金も不足した。舎務を主宰する佐久間貞一氏は人員を絞り込み、自ら工場に入って活字を拾い、組版を崩し、手引印刷機のインキ付けまで受け持った。転機は中村正直氏が企てた「西国立志編」改正版の印刷と製本の受託で、発行部数の多い同書を引き受けて苦境を脱した。翌1877年には「かなよみ新聞」の印刷も受託した。
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- [12]当時活版印刷利用の範囲いまだ広からず注文を得るに難く、開知新聞は廃刊となり定期刊行物は隔日発刊の明教新誌一種を存するのみで、業務閑散にして流動資金は欠乏した。専らその衝に当れる佐久間貞一は従業人員の緊縮に留意し、舎務を主宰する傍ら自ら工場の一員となり活字を拾い解版を助け、手引印刷機械のインキ着けを行った。中村正直が西国立志編改正版の刊行を企図し、その印刷及び装幀の依託を受けた。発行部数の多い同書の印刷を引き受けたことは苦境を脱する一転機となった。翌十年にはかなよみ新聞の印刷を託された
- [13]当時活版印刷利用の範囲いまだ広からず注文を得るに難く、開知新聞は廃刊となり定期刊行物は隔日発刊の明教新誌一種を存するのみで、業務閑散にして流動資金は欠乏した。専らその衝に当れる佐久間貞一は従業人員の緊縮に留意し、舎務を主宰する傍ら自ら工場の一員となり活字を拾い解版を助け、手引印刷機械のインキ着けを行った。中村正直が西国立志編改正版の刊行を企図し、その印刷及び装幀の依託を受けた。発行部数の多い同書の印刷を引き受けたことは苦境を脱する一転機となった。翌十年にはかなよみ新聞の印刷を託された
- [14]当時活版印刷利用の範囲いまだ広からず注文を得るに難く、開知新聞は廃刊となり定期刊行物は隔日発刊の明教新誌一種を存するのみで、業務閑散にして流動資金は欠乏した。専らその衝に当れる佐久間貞一は従業人員の緊縮に留意し、舎務を主宰する傍ら自ら工場の一員となり活字を拾い解版を助け、手引印刷機械のインキ着けを行った。中村正直が西国立志編改正版の刊行を企図し、その印刷及び装幀の依託を受けた。発行部数の多い同書の印刷を引き受けたことは苦境を脱する一転機となった。翌十年にはかなよみ新聞の印刷を託された
- [15]当時活版印刷利用の範囲いまだ広からず注文を得るに難く、開知新聞は廃刊となり定期刊行物は隔日発刊の明教新誌一種を存するのみで、業務閑散にして流動資金は欠乏した。専らその衝に当れる佐久間貞一は従業人員の緊縮に留意し、舎務を主宰する傍ら自ら工場の一員となり活字を拾い解版を助け、手引印刷機械のインキ着けを行った。中村正直が西国立志編改正版の刊行を企図し、その印刷及び装幀の依託を受けた。発行部数の多い同書の印刷を引き受けたことは苦境を脱する一転機となった。翌十年にはかなよみ新聞の印刷を託された
業容が広がると、1878年1月に舎則を定め、同時に習業生制度を設けて少年を寄宿舎に収容し、学科と実技を教えて技術者を自前で育て始めた。この制度は佐久間貞一氏の主張に基づくもので、1916年の工場法施行で廃止されるまでに416人が課程を終えた。1879年1月には田口卯吉氏の東京経済雑誌の印刷を引き受け、1880年5月に資本金を5,000円とし、1881年1月に1万円、1886年1月に5万円へと積み増した。1886年11月には牛込区市谷加賀町に4,900坪余りの田地を買って埋め立て、第一工場を建てた。
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- [16]明治十一年一月舎則を定め、同時に習業生制度を設け、習業生を募集して寄宿舎に収容し斯業に必須なる学科及び実技の伝習教授に力め、夙に技術者の養成を開始した
- [17]大正五年九月工場法の実施と共に習業生制度を廃す。少年技術員の薫陶は佐久間貞一の主張に基づき明治十一年にこれを開始し、その廃止に至るまで習業生の課程を了えた人員は四百十六名に上った
- [18]明治十二年一月田口卯吉の経営する週刊東京経済雑誌の創刊と共にその印刷を引き受けた。十三年五月三十日更に舎則を議定し資本金を五千円に増額。翌十四年一月資本金を壱万円に増額。十九年一月更に資本金を五万円に増額した
- [19]明治十九年十一月牛込区市谷加賀町一丁目十二番地に四千九百余坪の田地を買収してこれを埋立て、約五百坪の工場と数棟の住宅及び寄宿舎を設け第一工場と称して業務を開始した
1888年1月の株主総会で会社組織に改めて有限責任秀英舎と称することを決め、同年4月に資本金を10万円と定めた。1889年1月には委員の互選で佐久間貞一氏が舎長に推された。第一工場の完成後、従業員は350人余りに増加し、1890年2月には国民新聞の印刷も受託した。新商法の施行に合わせて1894年1月13日に株式会社秀英舎へ改称し、取締役の互選で佐久間貞一氏が専務取締役社長に就任した。日清戦争後に印刷物の一層の増加が見込まれると、1896年3月に資本金を20万円へ引き上げた。
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- [20]明治二十一年一月十八日株主定式総会で明治十三年五月三十日制定の舎則を改正して会社組織に改め有限責任秀英舎と称すること等を決議し、同年四月二十二日株主臨時総会で資本金を拾万円と定めた。二十二年一月株主定式総会で委員七名を選挙し、委員の互選により佐久間貞一を舎長に推薦した。第一工場完成の後は従業員も三百五十余人に増加。明治二十三年二月国民新聞発行に際しその印刷を依託された
- [21]明治二十一年一月十八日株主定式総会で明治十三年五月三十日制定の舎則を改正して会社組織に改め有限責任秀英舎と称すること等を決議し、同年四月二十二日株主臨時総会で資本金を拾万円と定めた。二十二年一月株主定式総会で委員七名を選挙し、委員の互選により佐久間貞一を舎長に推薦した。第一工場完成の後は従業員も三百五十余人に増加。明治二十三年二月国民新聞発行に際しその印刷を依託された
- [22]明治二十一年一月十八日株主定式総会で明治十三年五月三十日制定の舎則を改正して会社組織に改め有限責任秀英舎と称すること等を決議し、同年四月二十二日株主臨時総会で資本金を拾万円と定めた。二十二年一月株主定式総会で委員七名を選挙し、委員の互選により佐久間貞一を舎長に推薦した。第一工場完成の後は従業員も三百五十余人に増加。明治二十三年二月国民新聞発行に際しその印刷を依託された
- [23]明治二十六年十二月五日株主臨時総会で新商法の実施に伴う定款の改正を決議し、翌二十七年一月十三日株主臨時総会で改正定款により取締役及び監査役の選挙を行い、取締役の互選を以て佐久間貞一が専務取締役社長に就任し、定款の改正と共に株式会社秀英舎と改称した。清国との戦勝の余沢で一般印刷物の数量が将来ますます増加すべき形勢を察し、明治二十九年三月資本金を弐拾万円に増加した
- [24]明治二十六年十二月五日株主臨時総会で新商法の実施に伴う定款の改正を決議し、翌二十七年一月十三日株主臨時総会で改正定款により取締役及び監査役の選挙を行い、取締役の互選を以て佐久間貞一が専務取締役社長に就任し、定款の改正と共に株式会社秀英舎と改称した。清国との戦勝の余沢で一般印刷物の数量が将来ますます増加すべき形勢を察し、明治二十九年三月資本金を弐拾万円に増加した
参考文献3件
参考文献
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)沿革略誌
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)社名及商標ノ由来
- 株式会社秀英舎創業五十年誌(秀英舎, 1927)創業五十周年記念祝賀式 国民新聞社長代理の祝詞
事実根拠:出所(大日本印刷)