スズキ:鈴木道雄の鈴木式織機製作所の創業
1909年〜1台18円50銭の足踏織機で天神町村に開いた製作所と、抒箱上下器の実用新案
1909年10月、鈴木道雄氏は鈴木式織機製作所の看板を掲げ、織機の製作を本業に据えた。工場は浜名郡天神町村(現浜松市中島町)の借地に生家の蚕室を移して改造したもので、当初の働き手は鈴木道雄氏1人である。最初に仕上げた木鉄混製の足踏織機は売らずに母へ贈り、母はそれまでの機より10倍近く能率が上がることに驚いた。評判は近所から広がり、芳川村一帯から注文が相次いだ。個人経営の製作所として足踏織機から始め、のちに木鉄混製の動力織機へ製品を移した。看板を掲げてまもなく数名を雇い入れ、売値は1台18円50銭、従業員の日給は弁当持参で35銭だった。注文が先に集まり看板が後から付いた順序を見ると、製品の能率そのものが創業の起点だったとみられる。
- スズキ『50年史』(1970)「創業の記」
- [1]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [2]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [3]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [4]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [6]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- 会社銀行八十年史(1955)「鈴木自動車工業」
- [5]明治42年に鈴木道雄が個人経営の鈴木式織機製作所を創業。最初は足踏織機、次いで木鉄混製動力織機を製作
鈴木道雄氏が最初に得た権利は、2挺杼足踏織機に取り付ける抒箱上下器の実用新案である。創業当初の鈴木式織機は浜松の同業者と同じ1挺杼の足踏織機で、ほかに無い特色を持っていなかった。鈴木道雄氏は織屋仲間が縦横の縞を織れる機械を求めていると聞き、約1カ月で杼箱を上下させて縞柄を織り出す装置を考え出した。1911年2月7日に出願し、1912年12月18日に実用新案第26199号として登録。装置は遠州に加えて尾州・足利・播州の機業地でも採用され、夜具地の産地である青梅は上得意となった。続く経糸送出調節装置も特許第23515号を得て、力織機は1台50円で売れた。模倣機が出ても注文が離れなかったのは、顧客の要望から生まれた装置の権利を先に押さえていたためと推察される。
- スズキ『50年史』(1970)「創業の記」
- [7]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [8]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [9]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [10]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [12]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [13]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [11]23歳で杼箱上下器を発明し横縞柄を織る2挺杼動力織機を完成、1912年実用新案第26199号。第2号は経糸送出調節装置(大正2年特許第23515号)
- [14]23歳で杼箱上下器を発明し横縞柄を織る2挺杼動力織機を完成、1912年実用新案第26199号。第2号は経糸送出調節装置(大正2年特許第23515号)
1914年7月の第1次大戦の開戦に始まる2年は、鈴木式織機製作所にとって創業以来最も苦しい時期にあたる。50台を注文した織元が資金に窮して引き取らず、完成品は新設の織物会社へ3台100円の安値で売却した。1915年後期には青梅町の吉原紡織から力織機50台を受注し、ボイラーから据付けまで工場建設を一括して請け負った。1916年の足利の繊維共進会では1挺杼力織機と4挺杼の広幅力織機がともに1等賞を得て、注文が戻った。遠州の大幅織機は1916年の524台から1918年に3576台、1919年に5009台へと増えている。業績が過去にない水準に達した1919年末ごろ、鈴木道雄氏は1人で切り盛りする経営をやめ、製作所の株式会社化を構想し始めた。
- スズキ『50年史』(1970)「創業の記」
- [15]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [16]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [17]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [18]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [20]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [19]遠州の大幅織機は大正5年524台、7年3576台、8年5009台に増加(浜松発展史より)
参考文献[1]-[20]
- スズキ『50年史』(1970)「創業の記」
- [1]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [2]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [3]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [4]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [6]1909年10月に鈴木式織機製作所の看板を掲げた。工場は天神町村中島の借地に蚕室を移築。第1号の足踏織機を母に贈り能率は約10倍、芳川村一帯から注文。売値1台18円50銭・日給35銭
- [7]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [8]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [9]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [10]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [12]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [13]創業当初は同業と同じ1挺杼足踏織機で特色なし。縞柄を求める織屋の声を受け抒箱上下器を発明、1911年2月7日出願・1912年12月18日実用新案第26199号登録。尾州・足利・播州・青梅で採用され模倣機が出ても地位は揺るがず。経糸送出調節装置は特許第23515号、力織機1台50円
- [15]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [16]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [17]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [18]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- [20]1914〜15年は注文流れで50台を3台100円で処分し創業以来最も苦しい時期。1915年後期に吉原紡織から力織機50台と工場建設を一括受注、1916年足利の共進会で1等賞。1918〜19年に業績最高、1919年末から株式会社化を構想
- 会社銀行八十年史(1955)「鈴木自動車工業」
- [5]明治42年に鈴木道雄が個人経営の鈴木式織機製作所を創業。最初は足踏織機、次いで木鉄混製動力織機を製作
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [11]23歳で杼箱上下器を発明し横縞柄を織る2挺杼動力織機を完成、1912年実用新案第26199号。第2号は経糸送出調節装置(大正2年特許第23515号)
- [14]23歳で杼箱上下器を発明し横縞柄を織る2挺杼動力織機を完成、1912年実用新案第26199号。第2号は経糸送出調節装置(大正2年特許第23515号)
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [19]遠州の大幅織機は大正5年524台、7年3576台、8年5009台に増加(浜松発展史より)
1920年〜株主72名・資本金50万円の鈴木式織機株式会社と、相生町の新工場
1920年3月15日、鈴木道雄氏は個人経営の製作所を改め、鈴木式織機株式会社を設立して取締役社長に就任した。資本金は50万円、1株50円の株式1万株を72名の株主が引き受け、第1回払込は12万5000円。専務取締役に次広小三郎氏、常務取締役に佐々木佐一郎氏が就任し、経営陣を複数の役員で構成した。改組の前、1918年から1919年にかけて事業は個人の手に余る規模まで広がっていた。鈴木道雄氏は将来の拡大に備えて会社の形を改めると決め、この設立日がのちの創立記念日にあたる。株主を外部から募った改組は、設備投資と運転資金を個人の信用から切り離す狙いだったと思われる。
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [21]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- [23]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- [24]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- 企業の歴史 明治百年(1968)「鈴木自動車工業」
- [22]大正9年3月に資本金50万円の株式会社に改組
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [25]大正7〜8年ごろ事業が個人の手に余り株式会社への改組を決意。設立日1920年3月15日を創立記念日とする
- [26]大正7〜8年ごろ事業が個人の手に余り株式会社への改組を決意。設立日1920年3月15日を創立記念日とする
設立と同じ1920年3月15日は、反動恐慌が起きた日にあたる。それでも鈴木式織機は1920年8月の第1期決算で純益1万5320円37銭を計上し、2割配当を実施した。独自の特長を持つ製品に注文が比較的残り、原材料の値下がりも利益を支えた。機業家の倒産で100台余りの在庫を抱えたが、四国に新設された織物会社へ1台180円で売却した。浜松の同業では豊田織機と遠州織機が白生地用の織機を作ったのに対し、鈴木式は生染糸を織る織機に特色があり、競合はほとんど生じなかった。1921年11月には相生町の8580m2の用地に本社と工場を移すと決めた。1922年3月には鈴木式機械株式会社を合併して資本金を100万円に増やした。
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [27]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [28]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [30]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [31]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [32]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [33]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [34]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- 会社銀行八十年史(1955)「鈴木自動車工業」
- [29]大正9年3月資本金50万円の株式会社に改組
相生町の新工場は資金計画が狂い、鈴木式織機は1922年11月期に初めて6088円余の欠損を計上して無配に転じた。1926年1月24日には、従業員100名余のうち74名が組合加入の承認や請負単価の据え置きを含む15条を要求した。重役会は不況下で応じられないとして全項目を退け、従業員はストライキに入った。鈴木道雄氏は地元有力者の調停を当座の収拾にすぎないとみて断ったが、デモが警官隊と衝突するに至り、2月23日に調停を委ねた。会社は組合結成と評議会加入を認め、中心人物の島津寿平氏ら5名を解雇して争議を収めた。6月には2度の暴風で組立工場と鋳物工場が壊れ、1926年11月期の利益金は602円にとどまった。
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [35]新工場の資金計画が外れ、1922年11月(第6期)に初の欠損6088円余で無配。以後第9・11期を除き無配。1926年1月に創立以来初の労働争議
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- [36]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [37]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [38]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [39]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [40]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
参考文献[21]-[40]
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- [21]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- [23]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- [24]1920年3月15日に鈴木式織機株式会社設立。株主72名、資本金50万円(1万株・1株50円、第1回払込12万5000円)。社長鈴木道雄、専務次広小三郎、常務佐々木佐一郎
- [27]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [28]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [30]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [31]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [32]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [33]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [34]1920年3月15日の反動恐慌下でも第1期(1920年8月)純益1万5320円37銭・2割配当。在庫100台余を四国の織物会社へ1台180円で売却。豊田・遠州織機の白生地用に対し生染糸用で競合少。1921年11月相生町8580m2取得を決定、1922年3月鈴木式機械を合併し資本金100万円、相生町に新工場
- [35]新工場の資金計画が外れ、1922年11月(第6期)に初の欠損6088円余で無配。以後第9・11期を除き無配。1926年1月に創立以来初の労働争議
- 企業の歴史 明治百年(1968)「鈴木自動車工業」
- [22]大正9年3月に資本金50万円の株式会社に改組
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [25]大正7〜8年ごろ事業が個人の手に余り株式会社への改組を決意。設立日1920年3月15日を創立記念日とする
- [26]大正7〜8年ごろ事業が個人の手に余り株式会社への改組を決意。設立日1920年3月15日を創立記念日とする
- 会社銀行八十年史(1955)「鈴木自動車工業」
- [29]大正9年3月資本金50万円の株式会社に改組
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- [36]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [37]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [38]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [39]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
- [40]1926年1月24日、従業員100名余中74名が15条要求、会社は全面拒否しストライキ。調停を拒んだが紛糾し2月23日に6氏へ一任、組合と評議会加入を承認し島津寿平ほか4名解雇で解決。6月に2度の暴風で組立・鋳物工場破壊、1926年11月期利益金602円
1927年〜東南アジアへ約3000台を送ったサロン織機と、自動車の試作
1927年、機業家が両側織機と広幅織機の入れ替えや増設を進め、鈴木式織機は注文に追われた。1927年11月期から4期続けて利益金1万1000円余を計上。遠州では大正期から東南アジア向けのサロンを織っていたが、カバラの織込装置が無く、手作業に依存して輸出の機会を逃していた。従来の織機ではコスト高となり、需要があっても機業界は手を出せなかった。鈴木道雄氏は1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願し、1930年9月15日に特許第88338号を得た。男子用ハンカチ1枚に876枚要った杼換カードは66枚に減り、2ヤールのサロンを織れるサロン織機が完成した。
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- [41]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [42]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [43]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [45]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [46]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [44]東南アジアのサロン需要はあったが従来の織機ではコスト高で業界は手を出せず、サロン織機がこれを解決
1930年に始まったサロン織機の輸出は年々増え、東南アジア向けは約3000台にのぼる。サロン織物の輸出業者は、織機が出れば織物の輸出が減るとして反対し、組合の永久社は不買同盟を結成した。商工省も反対に回り、輸出は約10カ月止まった。鈴木道雄氏は、ジャワが綿製品の企業化を計画しており日本が出さなくても他国から織機を購入すると考え、商工省に最終判断を求めて了解を得た。製作部長の鈴木俊三氏は現地の技術指導の要請に応え、旅券を得て技術員とともに渡航した。サロン織機の注文が続き、利益金は1934年11月期に7万2672円まで増えた。1936年6月には八幡町の合資会社山下鉄工場を買収し、準備機や整理仕上機まで作る繊維機械の総合メーカーとなった。
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- [47]サロン織機の輸出は1930年に始まり東南アジアへ約3000台。輸出業者はサロン織物の輸出が減るとして反対
- [48]サロン織機の輸出は1930年に始まり東南アジアへ約3000台。輸出業者はサロン織物の輸出が減るとして反対
- スズキ『50年史』(1970)「3繊維機械総合メーカーに発展」
- [49]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [50]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [51]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [52]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [53]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- スズキ『50年史』(1970)「4自動車の研究試作」
- [54]1936年6月、八幡町の合資会社山下鉄工場を買収し準備機・整理仕上機も作る繊維機械の総合メーカーに
- 企業の歴史 明治百年(1968)「鈴木自動車工業」
- [55]綿織機・サロン織機・毛織機・各種準備機を一貫生産し業界三大メーカーの一つ
1936年、鈴木道雄氏は織機以外の製品として自動車の研究試作に着手した。織機は一度納めれば半永久的に使われ、織機事業に依存するだけでは会社の成長に上限が生じると鈴木道雄氏は考えていた。インドのタタ財閥の紡績工場で1887年製の英国織機がまだ動いていると聞き、その考えを強めた。長く利益を得るには消耗品が要るとみて、自社の技術と資力、国民の購買力から小型自動車を対象に選んだ。サロン織機で会社が伸びていた時期に、織機事業の限度と購買力の増大を見据えての判断である。鈴木三郎氏にオートバイ・エンジンの試作を命じ、1937年8月には英国の小型車オースチンを約4000円で参考車として購入した。好況の最中に次の製品を探した判断は、織機の寿命が需要の天井を決める構造を見ていたためだろう。
- スズキ『50年史』(1970)「4自動車の研究試作」
- [56]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [57]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [58]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [59]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [61]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [60]サロン織機全盛期に織機事業の限度と国民の購買力増大を考え小型自動車に着目
- スズキ『50年史』(1970)「5軍需品受注と高塚工場新設」
- [62]1937年8月にオースチンセダン1台を約4000円で購入、同年秋オートバイ・エンジン試作に成功
参考文献[41]-[62]
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- [41]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [42]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [43]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [45]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [46]1927年から両側・広幅織機の入替増設で受注増、第16〜19期に利益金1万1000円余。遠州のサロン製織はカバラ織込装置が無く停滞。1929年12月4日に4挺杼織機カード節約装置を出願、1930年9月15日特許第88338号。杼換カードは876枚→66枚、サロン織機が完成
- [47]サロン織機の輸出は1930年に始まり東南アジアへ約3000台。輸出業者はサロン織物の輸出が減るとして反対
- [48]サロン織機の輸出は1930年に始まり東南アジアへ約3000台。輸出業者はサロン織物の輸出が減るとして反対
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- [44]東南アジアのサロン需要はあったが従来の織機ではコスト高で業界は手を出せず、サロン織機がこれを解決
- [60]サロン織機全盛期に織機事業の限度と国民の購買力増大を考え小型自動車に着目
- スズキ『50年史』(1970)「3繊維機械総合メーカーに発展」
- [49]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [50]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [51]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [52]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- [53]永久社が不買同盟、商工省も反対し約10カ月輸出中止。ジャワの綿業企業化を理由に鈴木道雄が商工省の了解を得て再開。製作部長鈴木俊三が技術指導に渡航。利益金は1934年11月期7万2672円
- スズキ『50年史』(1970)「4自動車の研究試作」
- [54]1936年6月、八幡町の合資会社山下鉄工場を買収し準備機・整理仕上機も作る繊維機械の総合メーカーに
- [56]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [57]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [58]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [59]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- [61]1936年に自動車を試作。織機は半永久的な寿命で事業に限界があると認識、タタ財閥工場の1887年製英国織機の話で確信。消耗品として小型自動車を選び、鈴木三郎にオートバイ・エンジン試作を指示
- 企業の歴史 明治百年(1968)「鈴木自動車工業」
- [55]綿織機・サロン織機・毛織機・各種準備機を一貫生産し業界三大メーカーの一つ
- スズキ『50年史』(1970)「5軍需品受注と高塚工場新設」
- [62]1937年8月にオースチンセダン1台を約4000円で購入、同年秋オートバイ・エンジン試作に成功
出典・参考
9件
- スズキ『50年史』(1970)「創業の記」
- スズキ『50年史』(1970)「1鈴木式織機株式会社の設立と発展」
- スズキ『50年史』(1970)「サロン織機の発明と輸出」
- スズキ『50年史』(1970)「3繊維機械総合メーカーに発展」
- スズキ『50年史』(1970)「4自動車の研究試作」
- スズキ『50年史』(1970)「5軍需品受注と高塚工場新設」
- 会社銀行八十年史(1955)「鈴木自動車工業」
- 産業フロンティア物語(1966)「オートバイ・四輪車〈鈴木自動車〉」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「鈴木自動車工業」