マツダ:東洋コルク工業の設立と三輪トラックからの四輪参入
1920年〜海塚新八氏が興した広島のコルク再建会社と、松田重次郎氏が改めた東洋工業の社名
東洋コルク工業は1920年1月30日、資本金50万円で広島市中島新町に設立された。母体は、清谷角八氏が1890年に興し、国産のアベマキ樹皮から瓶栓を製造していた清谷商会。第1次世界大戦で南欧産コルクの輸入が途絶えると、清谷商会の国産栓は輸入品の代わりとして注文が増えた。しかし戦後に輸入が再開し、売掛金も焦げ付いて、経営は恐慌の前から悪化していた。主な融資元の広島貯蓄銀行は、貸付金の回収と事業の存続を両立させるため、個人経営を会社組織に改める案をまとめた。初代社長には広島貯蓄銀行社長の海塚新八氏が就任し、取締役には広島の銀行役員と並んで松田重次郎氏が名を連ねた。役員の顔ぶれからみて、新会社は新事業の起業というより地元銀行の債権整理を担う会社として生まれたと推察される。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「広島とコルク工業」
- [1]1920年1月30日資本金50万円で設立。清谷商会は1890年清谷角八が創業、アベマキ樹皮の瓶栓を製造
- [2]1920年1月30日資本金50万円で設立。清谷商会は1890年清谷角八が創業、アベマキ樹皮の瓶栓を製造
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋コルク工業株式会社の設立」
- [3]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [4]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [5]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [6]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
1921年3月14日、海塚新八氏が病気を理由に社長を辞任し、重役会の互選で松田重次郎氏が第2代社長に選ばれた。ほかの取締役はそれぞれ別の企業を率いており、経営に専念できたのは松田重次郎氏1人である。松田重次郎氏は就任してすぐ圧搾コルク板の製造を提案し、実行に移した。一方で関東大震災による売掛金の焦げ付きに、ポルトガル産原料の輸入代金5万6,100円の支払いが重なり、資金繰りが苦しくなった。1925年6月には工員58名のうち44名を解雇。同年12月5日未明の火災は工場設備の約70%、総資産の54%を焼き、保険金を差し引いた実損は22万9,540円に達した。重役会は保険金を復興費に充当し、不足分は未払込株金の徴収で補って事業を続けると決めた。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長就任」
- [7]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- [8]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- [9]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「資金難と経営危機」
- [10]関東大震災の売掛金焦げ付きに加え、洋コルク輸入代金5万6,100円を一時に調達する必要が生じ資金繰りが逼迫
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「工場火災」
- [11]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
- [12]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
- [13]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
東洋コルク工業は1927年6月23日の定時株主総会で事業目的に機械の製造を加え、同年9月17日の臨時株主総会で商号を東洋工業株式会社に改めた。9月1日の重役会はいったん広島工業という社名を議決しており、臨時株主総会で原案の東洋工業に戻した。社名の変更と機械工業への進出を決めたのは社長の松田重次郎氏である。当時のコルクの主な用途は製氷・冷蔵設備の断熱材で、需要は季節によって大きく振れた。国内メーカーの乱立に加え、輸入原料に多くを依存する東洋コルク工業は為替安による原料高にも苦しんだ。1927年は金融恐慌の年で、設立を主導した広島産業銀行も4月に取付けを受けて休業した。前半生を機械とともに過ごした松田重次郎氏にとって、機械工業は経験を最も生かせる転換先だったと思われる。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業としての再出発」
- [14]1927年6月23日定時株主総会で目的に機械製造を追加、9月17日臨時株主総会で東洋工業株式会社に改称。9月1日重役会は一時「広島工業」を議決
- [15]1927年6月23日定時株主総会で目的に機械製造を追加、9月17日臨時株主総会で東洋工業株式会社に改称。9月1日重役会は一時「広島工業」を議決
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長の決意」
- [16]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- [17]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- [18]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「恐慌の連続」
- [19]1927年の金融恐慌で広島産業銀行が破綻。同行は清谷商会から東洋コルク工業への転換を主導した
参考文献[1]-[19]
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「広島とコルク工業」
- [1]1920年1月30日資本金50万円で設立。清谷商会は1890年清谷角八が創業、アベマキ樹皮の瓶栓を製造
- [2]1920年1月30日資本金50万円で設立。清谷商会は1890年清谷角八が創業、アベマキ樹皮の瓶栓を製造
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋コルク工業株式会社の設立」
- [3]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [4]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [5]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- [6]広島貯蓄銀行が清谷商会の融資回収と存続のため会社化を計画し、1920年1月30日創立総会、海塚新八社長・松田重次郎ら取締役を選任
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長就任」
- [7]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- [8]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- [9]1921年3月14日海塚新八が病気で辞任、互選で松田重次郎が第2代社長。他の取締役は他社経営で、専心したのは松田のみ。就任早々に圧搾コルク板を製造
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「資金難と経営危機」
- [10]関東大震災の売掛金焦げ付きに加え、洋コルク輸入代金5万6,100円を一時に調達する必要が生じ資金繰りが逼迫
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「工場火災」
- [11]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
- [12]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
- [13]1925年6月工員58名中44名を解雇。同年12月5日火災で工場設備約70%・総資産54%焼失、実損22万9,540円。保険金と未払込株金徴収で事業継続を決定
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業としての再出発」
- [14]1927年6月23日定時株主総会で目的に機械製造を追加、9月17日臨時株主総会で東洋工業株式会社に改称。9月1日重役会は一時「広島工業」を議決
- [15]1927年6月23日定時株主総会で目的に機械製造を追加、9月17日臨時株主総会で東洋工業株式会社に改称。9月1日重役会は一時「広島工業」を議決
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長の決意」
- [16]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- [17]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- [18]社名変更と機械工業進出を決意したのは松田重次郎社長。コルクの用途は製氷・冷蔵の断熱材で季節変動が大きく、メーカー乱立と為替安の原料高に直面
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「恐慌の連続」
- [19]1927年の金融恐慌で広島産業銀行が破綻。同行は清谷商会から東洋コルク工業への転換を主導した
1929年〜工作機械とマツダ号DA型の二本柱と、三八式歩兵銃に傾いた戦時生産
東洋工業は1927年6月以降に約30台の工作機械と金属加工機械を購入し、1928年初めから日本製鋼所などの下請として海軍向けの部品を作り始めた。海軍は新規の企業に直接発注しなかったため、目標は、軍の指定工場になって安定した受注を得ることである。ところが1928年1月、破綻した広島産業銀行の債権譲受人が借入金の返済を求めて破産を申し立てた。東洋工業は未払込株金を2回に分けて徴収して返済し、芸備銀行へ9万6,000円の設備資金を申し込んだ。芸備銀行は日本窒素肥料社長の野口遵氏の保証を条件とし、野口遵氏は見返りに監査役1名の派遣を求めた。1928年10月以降、広・呉・佐世保の各海軍工廠の指定工場となった。1931年5月には松田重次郎氏以外の役員が日本窒素側で占められ、この後ろ盾が資金調達を支えたのだろう。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「機械生産体制の整備」
- [20]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- [21]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- [25]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「設備資金の導入」
- [22]1928年1月広島産業銀行の債権者が破産申立て。未払込株金を2回徴収して返済し、芸備銀行に設備資金9万6,000円の借入を申込み
- [23]1928年1月広島産業銀行の債権者が破産申立て。未払込株金を2回徴収して返済し、芸備銀行に設備資金9万6,000円の借入を申込み
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「日本窒素の経営参加」
- [24]芸備銀行が融資に野口遵の保証を条件とし、野口は監査役1名の派遣を要求。1931年5月までに松田重次郎以外の役員は日本窒素側に
松田重次郎氏が自動車への参入に着手したのは、1928年5月28日の重役会で研究用のオートバイ2台の輸入を諮ったときである。海軍工廠の下請は受注生産で、軍縮や緊縮財政のたびに注文が増減した。松田重次郎氏は企業には独自の量産製品が要ると考え、馬車や荷車に代わって三輪トラックが中小企業の貨物運搬に広がるとみた。1931年5月に本社を広島県安芸郡府中村の新工場へ移し、その建設に土地代を含めて約50万円を投じた。同年7月30日には野口遵氏の仲介で三菱商事と一手販売契約を結び、三菱商事は5万5,000円を上限に運転資金も融通した。同年10月には、200kg積みのDA車を市場に投入。東洋工業には一般の買い手と直接取引する窓口がなく、「マツダ号」の名が全国に知られたのは三菱商事の販売網を通じてである。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業の三輪トラック計画」
- [26]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- [27]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- [28]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三菱商事との提携」
- [29]1931年5月11日本社を安芸郡府中村へ移転、新工場に約50万円。同年7月30日野口遵の斡旋で三菱商事と一手販売契約、運転資金5万5,000円を限度に融通
- [30]1931年5月11日本社を安芸郡府中村へ移転、新工場に約50万円。同年7月30日野口遵の斡旋で三菱商事と一手販売契約、運転資金5万5,000円を限度に融通
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [31]1931年10月に200kg積みDA車を初めて市場に出した
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック直売制への移行」
- [32]一般市場との関わりが乏しかった東洋工業は三菱商事の販売網で「マツダ号」の声価を全国に高めた
1936年11月13日の重役会は、既存の設備を生かして小型四輪車を製造する案を約105万円の新規資金で採用した。三輪トラックが月産300台に達し、ダットサンを中心とする小型四輪車が民需で台頭したことが背景である。1937年7月、陸軍造兵廠小倉工廠から三八式歩兵銃を月2,000挺生産する交渉が持ち込まれた。1939年上期から1944年下期に生産額は約6.4倍に拡大し、1942年以降は小銃が毎期の生産額のなかばを占めた。四輪車計画は軍需生産の強化によって中断した。1945年8月6日の原子爆弾投下時、工場は爆心から約5.3kmにあり、機械設備はほぼ無傷だった。一方で建物疎開の作業に出ていた従業員が被爆し、東洋工業は死者119名、負傷者335名を出して生産を止めた。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「四輪車計画とその中断」
- [33]1936年11月13日重役会で小型四輪車製造の第2案(新規資金約105万円)を採用。三輪月産300台到達とダットサン等小型四輪の台頭が背景
- [34]1936年11月13日重役会で小型四輪車製造の第2案(新規資金約105万円)を採用。三輪月産300台到達とダットサン等小型四輪の台頭が背景
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「兵器生産の拡大」
- [35]1937年7月陸軍造兵廠小倉工廠から三八式歩兵銃月2,000挺の交渉。生産額は1939年上期〜1944年下期に約6.4倍、1942年以降は小銃が毎期の過半
- [36]1937年7月陸軍造兵廠小倉工廠から三八式歩兵銃月2,000挺の交渉。生産額は1939年上期〜1944年下期に約6.4倍、1942年以降は小銃が毎期の過半
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [37]1937年の四輪車計画は軍需生産強化で中断
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「原子爆弾と終戦」
- [38]1945年8月6日の原爆で工場は爆心から約5.3km、機械設備はほぼ無傷。建物疎開作業の従業員が被爆し死者119名・負傷者335名、同日で生産活動停止
- [39]1945年8月6日の原爆で工場は爆心から約5.3km、機械設備はほぼ無傷。建物疎開作業の従業員が被爆し死者119名・負傷者335名、同日で生産活動停止
参考文献[20]-[39]
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「機械生産体制の整備」
- [20]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- [21]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- [25]1927年6月以降工作機械等約30台を購入、1928年初頭から日本製鋼所・宇品造船所の下請で海軍関係部品を製作。1928年10月広海軍工廠、1929年1月呉・佐世保海軍工廠の指定工場
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「設備資金の導入」
- [22]1928年1月広島産業銀行の債権者が破産申立て。未払込株金を2回徴収して返済し、芸備銀行に設備資金9万6,000円の借入を申込み
- [23]1928年1月広島産業銀行の債権者が破産申立て。未払込株金を2回徴収して返済し、芸備銀行に設備資金9万6,000円の借入を申込み
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「日本窒素の経営参加」
- [24]芸備銀行が融資に野口遵の保証を条件とし、野口は監査役1名の派遣を要求。1931年5月までに松田重次郎以外の役員は日本窒素側に
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業の三輪トラック計画」
- [26]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- [27]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- [28]1928年5月28日重役会でモーターサイクル2台の輸入を決定。軍工廠下請は受注の変動が大きく、松田は独自の量産製品として馬車・荷車に代わる三輪トラックを構想
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三菱商事との提携」
- [29]1931年5月11日本社を安芸郡府中村へ移転、新工場に約50万円。同年7月30日野口遵の斡旋で三菱商事と一手販売契約、運転資金5万5,000円を限度に融通
- [30]1931年5月11日本社を安芸郡府中村へ移転、新工場に約50万円。同年7月30日野口遵の斡旋で三菱商事と一手販売契約、運転資金5万5,000円を限度に融通
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [31]1931年10月に200kg積みDA車を初めて市場に出した
- [37]1937年の四輪車計画は軍需生産強化で中断
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック直売制への移行」
- [32]一般市場との関わりが乏しかった東洋工業は三菱商事の販売網で「マツダ号」の声価を全国に高めた
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「四輪車計画とその中断」
- [33]1936年11月13日重役会で小型四輪車製造の第2案(新規資金約105万円)を採用。三輪月産300台到達とダットサン等小型四輪の台頭が背景
- [34]1936年11月13日重役会で小型四輪車製造の第2案(新規資金約105万円)を採用。三輪月産300台到達とダットサン等小型四輪の台頭が背景
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「兵器生産の拡大」
- [35]1937年7月陸軍造兵廠小倉工廠から三八式歩兵銃月2,000挺の交渉。生産額は1939年上期〜1944年下期に約6.4倍、1942年以降は小銃が毎期の過半
- [36]1937年7月陸軍造兵廠小倉工廠から三八式歩兵銃月2,000挺の交渉。生産額は1939年上期〜1944年下期に約6.4倍、1942年以降は小銃が毎期の過半
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「原子爆弾と終戦」
- [38]1945年8月6日の原爆で工場は爆心から約5.3km、機械設備はほぼ無傷。建物疎開作業の従業員が被爆し死者119名・負傷者335名、同日で生産活動停止
- [39]1945年8月6日の原爆で工場は爆心から約5.3km、機械設備はほぼ無傷。建物疎開作業の従業員が被爆し死者119名・負傷者335名、同日で生産活動停止
1945年〜原爆から4か月で再開した三輪トラックと、1県1特約店から小型四輪トラックへ
東洋工業は1945年12月に三輪トラックの生産を再開し、同月中に669ccのGA型10台を完成させた。専務の松田恒次氏らは終戦直後から三輪トラックで再建する方針を固め、松田恒次氏は9月15日に久留米のブリヂストンを訪ねて取引を打診した。終戦時に1万名近くいた従業員は、10月末には786名まで絞られた。11月24日には連合軍から民需転換の許可を得た。月産は1946年1月の1台から1947年12月の250台まで増えた。戦前から引き継いだ販売網には拠点のない都道府県が多く、東洋工業は1949年10月の販売統制撤廃を前に「1県1特約店方針」を定めた。この方針は1965年ごろまで販売拠点政策の基本であり続けた。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの復興過程」
- [40]1945年12月生産再開、同月669ccGA型10台完成。月産は1946年1月1台から1947年12月250台へ
- [44]1945年12月生産再開、同月669ccGA型10台完成。月産は1946年1月1台から1947年12月250台へ
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「生産再開へのみち」
- [41]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- [42]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- [43]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック1県1特約店制の確立」
- [45]戦前の販売網は拠点のない都道府県が多かった。1949年10月26日の販売統制撤廃を前に1県1特約店方針を確立、1965年ごろまで採用
- [46]戦前の販売網は拠点のない都道府県が多かった。1949年10月26日の販売統制撤廃を前に1県1特約店方針を確立、1965年ごろまで採用
東洋工業は1949年6月10日の経営協議会で、購買品の値下げや残業の撤廃など7項目からなる「企業危機突破7原則」を組合に示した。人員整理は避け、直接資材の購入費5%の引き下げ、経費20%の節減、約100名の直接部門への配置転換でドッジ不況を乗り切った。1950年7月に松田恒次氏が取締役として復帰し、9月に専務へ就任した。1951年12月26日、松田重次郎氏は会長に退き、社長の座は第3代の松田恒次氏に移った。松田重次郎氏はその3か月後の1952年3月9日に死去した。1957年1月12日にはマツダ車の生産累計が20万台に達し、10万台から20万台までの所要期間は2年10か月である。1931年の200kg積みから2トン積みのCHATB車へと積載量を広げたことが、この増産を支えたと考えられる。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「ドッジ不況と経営の合理化」
- [47]1949年6月10日経営協議会で企業危機突破7原則を提示。人員整理を避け、直接資材購入費5%・経費20%削減、約100名を間接部門から直接部門へ配置転換
- [48]1949年6月10日経営協議会で企業危機突破7原則を提示。人員整理を避け、直接資材購入費5%・経費20%削減、約100名を間接部門から直接部門へ配置転換
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの興隆」
- [49]1950年7月松田恒次が取締役で復帰、9月専務。1951年12月26日会長制を採用し松田重次郎が会長、松田恒次が第3代社長
- [50]1950年7月松田恒次が取締役で復帰、9月専務。1951年12月26日会長制を採用し松田重次郎が会長、松田恒次が第3代社長
- 日本経済新聞「私の履歴書」松田恒次(経済人9 所収)
- [51]松田恒次は1951年12月に社長就任、父重次郎は3か月後の3月9日に死去
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [52]1957年1月12日マツダ車生産累計20万台。10万台までに22年6か月、次の10万台は2年10か月。20万台目は2トン積みCHATB車
トラック生産に占める小型三輪トラックの割合は1953年の72%を頂点に下がり、1959年には22.3%となった。生産台数も1957年の11万1,352台で頭打ちとなり、1958年には小型四輪トラックと地位が入れ替わった。東洋工業は1950年6月にCA型小型四輪トラックの生産を始めていた。しかし三輪トラックの増産を優先したため、1955年9月までの四輪車生産は合計109台にとどまった。1956年秋に新たな四輪トラックの開発に着手し、1958年4月17日に発売したのが1トン積みのDMA型「ロンパー」である。1,105ccの空冷2気筒エンジンを積み、小回りと酷使への耐性という三輪の特長を残した車で、7月には目標の月産500台に達した。三輪で蓄えた技術を四輪へ移したことで、市場の転換に後れを取らずに済んだとみられる。
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型三輪トラック生産の成長鈍化」
- [53]小型三輪のトラック生産比率は1953年72%がピークで1959年22.3%。生産台数は1957年11万1,352台がピーク、1958年に小型四輪と地位交替
- [54]小型三輪のトラック生産比率は1953年72%がピークで1959年22.3%。生産台数は1957年11万1,352台がピーク、1958年に小型四輪と地位交替
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [55]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [56]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [57]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [58]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
参考文献[40]-[58]
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの復興過程」
- [40]1945年12月生産再開、同月669ccGA型10台完成。月産は1946年1月1台から1947年12月250台へ
- [44]1945年12月生産再開、同月669ccGA型10台完成。月産は1946年1月1台から1947年12月250台へ
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「生産再開へのみち」
- [41]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- [42]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- [43]終戦直後に経営陣が三輪トラック生産再開を決意、1945年9月15日松田恒次が久留米のブリヂストンを訪問。従業員は1万名近くから10月末786名へ。11月24日民需転換許可
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック1県1特約店制の確立」
- [45]戦前の販売網は拠点のない都道府県が多かった。1949年10月26日の販売統制撤廃を前に1県1特約店方針を確立、1965年ごろまで採用
- [46]戦前の販売網は拠点のない都道府県が多かった。1949年10月26日の販売統制撤廃を前に1県1特約店方針を確立、1965年ごろまで採用
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「ドッジ不況と経営の合理化」
- [47]1949年6月10日経営協議会で企業危機突破7原則を提示。人員整理を避け、直接資材購入費5%・経費20%削減、約100名を間接部門から直接部門へ配置転換
- [48]1949年6月10日経営協議会で企業危機突破7原則を提示。人員整理を避け、直接資材購入費5%・経費20%削減、約100名を間接部門から直接部門へ配置転換
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの興隆」
- [49]1950年7月松田恒次が取締役で復帰、9月専務。1951年12月26日会長制を採用し松田重次郎が会長、松田恒次が第3代社長
- [50]1950年7月松田恒次が取締役で復帰、9月専務。1951年12月26日会長制を採用し松田重次郎が会長、松田恒次が第3代社長
- 日本経済新聞「私の履歴書」松田恒次(経済人9 所収)
- [51]松田恒次は1951年12月に社長就任、父重次郎は3か月後の3月9日に死去
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- [52]1957年1月12日マツダ車生産累計20万台。10万台までに22年6か月、次の10万台は2年10か月。20万台目は2トン積みCHATB車
- [55]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [56]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [57]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- [58]1950年6月CA型小型四輪トラック生産開始、1955年9月までの四輪生産は計109台(三輪優先)。1956年秋開発着手、1958年4月17日DMA型ロンパー発売、1,105cc空冷2気筒、7月月産500台
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型三輪トラック生産の成長鈍化」
- [53]小型三輪のトラック生産比率は1953年72%がピークで1959年22.3%。生産台数は1957年11万1,352台がピーク、1958年に小型四輪と地位交替
- [54]小型三輪のトラック生産比率は1953年72%がピークで1959年22.3%。生産台数は1957年11万1,352台がピーク、1958年に小型四輪と地位交替
1920年〜1959年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年10月期 | 単体 | 53 | n/a | 3 | 6 | 11.3% | n/a |
| 1953年10月期 | 単体 | 97 | +82.8% | 12 | 10 | 10.5% | n/a |
| 1954年10月期 | 単体 | 122 | +25.2% | 10 | 10 | 8.5% | n/a |
| 1955年10月期 | 単体 | 126 | +2.9% | 8 | 8 | 6.9% | n/a |
| 1956年10月期 | 単体 | 148 | +17.9% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年10月期 | 単体 | 154 | +4.0% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年10月期 | 単体 | 167 | +8.3% | 9 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年10月期 | 単体 | 220 | +31.6% | 18 | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧 昭和31年版、上場会社総覧 昭和34年版、上場会社総覧 昭和36年版
出典・参考
25件
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「広島とコルク工業」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋コルク工業株式会社の設立」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長就任」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「資金難と経営危機」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「工場火災」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業としての再出発」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「松田重次郎社長の決意」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「恐慌の連続」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「機械生産体制の整備」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「設備資金の導入」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「日本窒素の経営参加」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「東洋工業の三輪トラック計画」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三菱商事との提携」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型四輪トラック部門への進出」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック直売制への移行」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「四輪車計画とその中断」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「兵器生産の拡大」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「原子爆弾と終戦」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの復興過程」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「生産再開へのみち」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラック1県1特約店制の確立」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「ドッジ不況と経営の合理化」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「三輪トラックの興隆」
- 東洋工業五十年史 沿革編 1920-1970(1972)「小型三輪トラック生産の成長鈍化」
- 日本経済新聞「私の履歴書」松田恒次(経済人9 所収)