三菱自動車:クライスラーへの販売権譲渡と三菱重工業からの分離独立
クライスラーへの販売権委譲から自力販売網の構築へ
1960年〜国民車構想の挫折から資本自由化下の提携選択へ
三菱重工業が乗用車市場へ本格的に踏み出したのは1960年4月、通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車"三菱500"を発売したときである。当時自動車部長だった守屋學治によれば、三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないという声が社内にあった。開発の対象は、トヨタ・日産の手がける2000CCクラスと軽自動車の中間に置かれた。ただし360CC以下を軽として自動車税で優遇する当時の税制のもとで、500CCはその枠外にあった。翌1961年にコルト600、続いてコルト1000と上位車種を重ねた。だが久保富夫はトヨタのカローラを競争相手ながら進んだ車と認め、太刀打ちできなかったと振り返っている。1946年のスクーター生産から10年をかけて代理店を増やしてきたが、有力な販売網を作れなかったことが響いた。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
- [1]1960年4月 三菱重工業が通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車「三菱500」を発売
- [2]三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないとの声が社内にあった(守屋學治・当時自動車部長)
- [3]トヨタ・日産が生産していた2000CCクラスの向こうを張れず360CCでは小さすぎるとして、その中間の500CCの開発に着手した
- [4]当時の税制では360CC以下が軽自動車として自動車税を優遇され、500CCはその枠外にあった
- [7]1946年のスクーター生産開始から約10年かけて代理店網を作ったが、有力な販売網を作れなかったことが響いた(守屋學治)
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [5]1961年にコルト600、続いてコルト1000を発売し上位車種を揃えた
- [6]久保富夫はコルト1000で対抗したトヨタのカローラを画期的な車と評し、太刀打ちできなかったと述べている
シェアが伸びないまま資本自由化の日程が具体化し、米ビッグスリーの上陸が取り沙汰されるようになる。通商産業省はトヨタ・日産を軸とする自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は業務提携でこれに応じた。1966年12月にいすゞ自動車と富士重工業が結んだ提携へ加わって交渉が進んだ。富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一にまで及んでいる。いすゞとの関係が立ち消えになったのは、重工がクライスラーを提携相手に選んだためである。その話は白洲次郎が持ち込んだもので、副社長の牧田与一郎が応じ、社内には伏せたまま並行して交渉が進められていた。社長の河野文彦は国内での協調を、牧田は外資との提携を志向しており、自動車事業部長だった久保富夫は何も知らされないまま両者の間に立たされた。久保はその立場を『ハムレットの心境だった』と述べている。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [8]資本自由化が具体的日程にのぼり、米ビッグスリーの日本上陸が取り沙汰された
- [9]通商産業省がトヨタ・日産を中心とした自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は生き残りのための業務提携で対応した
- [10]1966年12月のいすゞ自動車・富士重工業の業務提携に三菱重工業が加わって交渉が進んだ
- [11]富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一を協議した
- [12]三菱重工業がクライスラーと提携したことで、いすゞ自動車との関係は自然消滅した
- [13]クライスラーとの提携話は白洲次郎が持ち込み、牧田与一郎副社長が社内には極秘のうちに交渉を進めた
1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎はデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した。骨子は、三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発である。三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウンと輸入販売も含む広範な内容だった。1970年4月、三菱重工業の全額出資で三菱自動車工業が設立された。同年6月に京都製作所の一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所など計4製作所を譲り受けて営業を開始する。1971年にクライスラーが株式15%を取得して資本提携が成立する。段階的に出資比率を上げる当初案は結局15%で止まった。同時に結ばれた合衆国流通契約は、国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [14]1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎がデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長・ボイド社長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した
- [15]覚書の骨子は三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発
- [16]覚書には三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウン、クライスラー車の輸入販売も含まれていた
- [20]当初は85対15から段階的にクライスラーの出資比率を上げる取り決めだったが、結局15%で終わった
- [21]合衆国流通契約は国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [17]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
- [18]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
- [19]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)
参考文献[1]-[21]
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
- [1]1960年4月 三菱重工業が通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車「三菱500」を発売
- [2]三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないとの声が社内にあった(守屋學治・当時自動車部長)
- [3]トヨタ・日産が生産していた2000CCクラスの向こうを張れず360CCでは小さすぎるとして、その中間の500CCの開発に着手した
- [4]当時の税制では360CC以下が軽自動車として自動車税を優遇され、500CCはその枠外にあった
- [7]1946年のスクーター生産開始から約10年かけて代理店網を作ったが、有力な販売網を作れなかったことが響いた(守屋學治)
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [5]1961年にコルト600、続いてコルト1000を発売し上位車種を揃えた
- [6]久保富夫はコルト1000で対抗したトヨタのカローラを画期的な車と評し、太刀打ちできなかったと述べている
- [8]資本自由化が具体的日程にのぼり、米ビッグスリーの日本上陸が取り沙汰された
- [9]通商産業省がトヨタ・日産を中心とした自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は生き残りのための業務提携で対応した
- [10]1966年12月のいすゞ自動車・富士重工業の業務提携に三菱重工業が加わって交渉が進んだ
- [11]富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一を協議した
- [12]三菱重工業がクライスラーと提携したことで、いすゞ自動車との関係は自然消滅した
- [13]クライスラーとの提携話は白洲次郎が持ち込み、牧田与一郎副社長が社内には極秘のうちに交渉を進めた
- [14]1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎がデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長・ボイド社長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した
- [15]覚書の骨子は三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発
- [16]覚書には三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウン、クライスラー車の輸入販売も含まれていた
- [20]当初は85対15から段階的にクライスラーの出資比率を上げる取り決めだったが、結局15%で終わった
- [21]合衆国流通契約は国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [17]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
- [18]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
- [19]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)
1971年〜北米独占販売権が生んだ出血輸出と契約改訂の交渉
クライスラーが独占販売権を求めた根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大な費用がかかるという点にあった。ところが久保富夫が実態を調べると、力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった。店頭に高級車から安価な車までを並べる米国の販売方式のもとで、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らない。車体にはCOLTとしか書かれず、大きな広告を打つ他の日本車のなかで三菱の名は埋没した。クライスラーは契約の定めを盾に、三菱が2ドア・4ドアを並べて生産しても安い2ドア車だけを選んで引き取り、三菱には拒む手立てがなかった。しかも引き取り値まで買いたたかれ、三菱が採算割れの輸出で赤字を積み上げる一方、大きな利益はクライスラーの側に落ちた。こうした関係を改め、米国で自社ブランドの車を自前で売る体制を築く必要がある。1978年の時点でも、久保はそう語っていた。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [22]クライスラーが米国での独占販売権を要求した根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大なコストがかかるという点にあった
- [23]販売店3000軒のうち実際に力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった
- [24]米国の販売は店頭に高級車から安い車まで品揃えする方式で、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らなかった
- [25]三菱車はクライスラーの多くの車種に埋没しCOLTとしか表示されず、他の日本車がブランド名を大きく宣伝するなかで判別できない状況だった
- [26]三菱はコルトの2ドア・4ドアなど複数車種を生産していたが、クライスラーは2ドアの最も安い車だけを売ろうとし、契約上それを拒めなかった
- [27]クライスラーの引き取り価格は大きく値切られ、三菱は出血輸出となって赤字が累増する一方、クライスラーは大きな利益をあげた
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [28]久保富夫社長は1978年時点で、北米・アフリカ・中米地区の独占販売権について契約を変更し米国で自社の車を売れるようにしたいと述べている
久保富夫が三菱自動車の社長に就任したのは1973年6月である。久保が崩したかったのは米国での独占販売権で、欧州はそのための突破口という位置づけだった。欧州ではクライスラーが三菱車を実際には売っていなかったため、契約全体を一度に覆す代わりに、まずその地域の販売権の回収から着手した。欧州とその他の地域の権利は戻ったが、米国の条項は動かせなかった。クライスラーへの警告は繰り返し行われた。自前の製品を販売して利益を得ることこそ本来の事業であり、他社製の車の販売で稼ぐ方へ力を注げばその事業自体が揺らぐ、という趣旨である。外資との提携について『非常に縛られるような提携はやめるべき』とも語った久保は、環境は絶えず変わるという前提から、10年20年50年先を見据えて独占でない契約を結ぶべきだと考えていた。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [29]久保富夫は1973年6月に三菱自動車工業の社長へ就任した
- [30]欧州の販売権奪還は、米国での独占販売権に風穴をあける突破口として位置づけられていた
- [31]クライスラーが欧州市場で三菱車をまったく売っていなかったため、久保富夫はまず欧州の販売権を取り戻す交渉を行った
- [32]欧州市場その他の地域の販売権は取り戻せたが、米国の独占販売権の改訂には至らなかった
- [33]久保富夫はクライスラーへ独占販売権への固執を繰り返し諫めていた
- [34]メーカーが自社製品を売って儲けるのが本業であるのに他社の車を売って儲けることに力を入れれば本業自体がおかしくなる、と久保富夫はクライスラーへ伝えていた
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [35]久保富夫は外資提携について非常に縛られるような提携はやめるべきだと述べた
- [36]久保富夫は環境が絶えず変わるとして10年・20年・50年先を見た非独占的な契約を結ぶべきだと述べた
契約が動いたのは、クライスラーが破産寸前の経営危機に陥ってからだった。1979年の危機で三菱車の米国販売は深い傷を負い、同年6月に社長となった曽根嘉年は、米国の販売網を立て直すことを第一の課題に据えた。豪州では、それに先立つ1979年5月、クライスラー・オーストラリアに三菱自動車と三菱商事が6分の1ずつ資本を入れていた。経営不安を抱えたクライスラーが1980年4月末にその肩代わりを頼んできたため、三菱は全株式を取得し、同年10月には社名を豪州三菱自動車工業に変えた。その間、解約通告を出すか否かで久保富夫は迷っていた。通告すれば相手に致命傷を与え、日米の経済摩擦を招くおそれがあったことから、当時の安倍通商産業大臣にも経緯を伝えていた。逆に通告が遅れれば、相手が破産したときに効力を失い、持ち株の行方も見通せなくなる。合衆国流通契約が改定されたのは1981年である。
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [37]米国の独占販売権を改めるには、クライスラーの経営危機を待たねばならなかった
- [42]解約通告はクライスラーの経営危機に決定的な打撃となり日米経済摩擦の火種になりうるとして、久保富夫は当時の安倍通商産業大臣に事情を説明した
- [43]破産の半年以上前に解約通告を出さなければ効力を失い、クライスラーが保有する三菱株の第三者移転も止められなかった
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
- [38]1979年の資本提携先クライスラーの経営危機は三菱車の米国販売に大きな支障を与え、1979年に社長就任した曽根嘉年にとって1980年は米国販売網の強化が最大の課題となった
- 日経ビジネス 1980年8月25日号
- [39]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
- [40]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受けた
- [41]1980年10月 クライスラー・オーストラリアを「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [44]合衆国流通契約は1981年に改定
参考文献[22]-[44]
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [22]クライスラーが米国での独占販売権を要求した根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大なコストがかかるという点にあった
- [23]販売店3000軒のうち実際に力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった
- [24]米国の販売は店頭に高級車から安い車まで品揃えする方式で、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らなかった
- [25]三菱車はクライスラーの多くの車種に埋没しCOLTとしか表示されず、他の日本車がブランド名を大きく宣伝するなかで判別できない状況だった
- [26]三菱はコルトの2ドア・4ドアなど複数車種を生産していたが、クライスラーは2ドアの最も安い車だけを売ろうとし、契約上それを拒めなかった
- [27]クライスラーの引き取り価格は大きく値切られ、三菱は出血輸出となって赤字が累増する一方、クライスラーは大きな利益をあげた
- [29]久保富夫は1973年6月に三菱自動車工業の社長へ就任した
- [30]欧州の販売権奪還は、米国での独占販売権に風穴をあける突破口として位置づけられていた
- [31]クライスラーが欧州市場で三菱車をまったく売っていなかったため、久保富夫はまず欧州の販売権を取り戻す交渉を行った
- [32]欧州市場その他の地域の販売権は取り戻せたが、米国の独占販売権の改訂には至らなかった
- [33]久保富夫はクライスラーへ独占販売権への固執を繰り返し諫めていた
- [34]メーカーが自社製品を売って儲けるのが本業であるのに他社の車を売って儲けることに力を入れれば本業自体がおかしくなる、と久保富夫はクライスラーへ伝えていた
- [37]米国の独占販売権を改めるには、クライスラーの経営危機を待たねばならなかった
- [42]解約通告はクライスラーの経営危機に決定的な打撃となり日米経済摩擦の火種になりうるとして、久保富夫は当時の安倍通商産業大臣に事情を説明した
- [43]破産の半年以上前に解約通告を出さなければ効力を失い、クライスラーが保有する三菱株の第三者移転も止められなかった
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [28]久保富夫社長は1978年時点で、北米・アフリカ・中米地区の独占販売権について契約を変更し米国で自社の車を売れるようにしたいと述べている
- [35]久保富夫は外資提携について非常に縛られるような提携はやめるべきだと述べた
- [36]久保富夫は環境が絶えず変わるとして10年・20年・50年先を見た非独占的な契約を結ぶべきだと述べた
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
- [38]1979年の資本提携先クライスラーの経営危機は三菱車の米国販売に大きな支障を与え、1979年に社長就任した曽根嘉年にとって1980年は米国販売網の強化が最大の課題となった
- 日経ビジネス 1980年8月25日号
- [39]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
- [40]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受けた
- [41]1980年10月 クライスラー・オーストラリアを「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [44]合衆国流通契約は1981年に改定
1973年〜自動車一本への集中と東南アジアでの自力開拓
分離の際に背負った条件からして重く、航空機向けの設備を流用した工場は東京・名古屋・岡崎に分かれていたため、車種ごとの忙しさの差をならせず、間接費と運搬費が余計にかさんだ。高度成長期に採用を十分に行えなかったことから平均年齢は34.5歳まで上がり、一人当たりの賃金はほかの自動車メーカーと比べて際立って高かった。そこへ久保富夫の社長就任直後の石油ショックが重なって、三菱グループ内では"お荷物"扱いされ、社内の士気も落ちていた。同じころの三菱自動車は組立建築やプラスチックボートにまで参入して多角化を試みていたが、久保はそれを自動車への自信のなさの表れと受け止め、反対を押し切ってすぐにやめさせた。自動車部門の内部留保は重工側に残されたため、利益の出ない状態で借金経営から始めるほかなかった。
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [45]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
- [46]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
- [50]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [47]久保富夫の社長就任直後に石油ショックが重なり、三菱グループのなかでは「お荷物」といわれ社内は自信を失っていた
- [48]三菱自動車は組立建築やプラスチックボートに手を出して多角化を図っていた
- [49]久保富夫は多角化を自動車に自信がないからやっているとみて、投資が無駄になるとの反対論を押して直ちに中止させた
久保富夫がまず手を付けたのは開発である。設計出身の久保は担当常務も所長も設計者も手元に置いて自ら指揮し、平均値の車を作っても売れないと繰り返した。模型のできていたランサー・セレステを改良して1975年に発売し、翌1976年にギャラン2とギャランΛ、1978年にはFF小型車ミラージュを投入した。岡崎の工場用地は不振で着工できず地元から返還を求められていたが、ギャランの手応えを見て建設に踏み切り、1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設している。販売では、同じ店でギャランとミラージュを売っては効率が悪いとして、ギャラン系とは別にミラージュ専門のカープラザ網を立てた。三菱自動車販売の社長を兼務して両社の重複業務を一方へ統括し、人事交流も進めている。
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [51]設計出身の久保富夫は開発担当常務・所長・設計者を手元に置いて自ら指揮し、平均値の自動車を作っても売れないと毎日ハッパをかけた
- [56]久保富夫は三菱自動車販売の社長を兼務して両社の同種業務を一方へ統括し、人事交流も進めてセクショナリズムを解消した
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [52]模型ができていたランサー・セレステを改良して1975年に発売、1976年にギャラン2・ギャランΛ、1978年初にFF小型車ミラージュを市場へ投入した
- [53]岡崎の工場用地は自動車の不振で着工できず地元から返還を求められていたが、久保富夫はギャランの手応えを見て工場建設に踏み切った
- [55]同じ販売店でギャランとミラージュを売るのは効率が悪いとして、ギャラン系チャンネルとは別にミラージュ専門の「カープラザ」チャンネルを展開した
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [54]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
海外では、クライスラーの販売権が及ばない東南アジアで先に市場を獲得しにかかった。1970年に進出したインドネシアでは、トヨタと日産が圧倒的なシェアを占めていた。三菱は販売機種をトラックの小型・中型・大型各1つに絞り、全国へ販売とアフターサービスの拠点を置いた。1971年に日産を、1972年にトヨタを抜いて首位に立った。1973年8月には現地資本および三菱商事との共同出資で、三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立した。インドネシア政府が商業車の国産化を求めると、1978年にプレス部品の100%国産化を達成する。車全体の国産化比率は、他社の約18%に対し38%に達した。コルトは現地で乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売は10万台を超えた。1979年には生産台数が100万台に達し、1982年にはパジェロを発売している。
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [57]東南アジアと欧州はクライスラーの販売網を通さない重点市場だった(久保富夫社長)
- 日経ビジネス 1978年10月23日号
- [58]1970年のインドネシア進出時はトヨタ・日産が圧倒的シェアを占めており三菱は出遅れていた
- [59]三菱はトラックの小型・中型・大型各1機種に絞り、全国的な販売およびアフターサービス体制を築いた
- [60]三菱は1971年に日産を、1972年にトヨタを追い抜いてインドネシアで首位に立った
- [61]1973年8月 三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立(出資比率はクラマユダ社50%・三菱自動車工業25%・三菱商事25%)、1975年1月操業開始
- [62]インドネシア政府の商業車国産化政策に対し1978年に小型トラックのプレス部品100%国産化を達成した
- [63]車全体の国産化比率は他社が金額換算で約18%だったのに対し三菱は38%だった
- [64]インドネシアで「コルト」は乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売台数は10万台を超えた
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
- [65]1979年に全体生産台数が100万台の大台に乗った
- 有価証券報告書
- [66]1982年 SUV「パジェロ」を発売
参考文献[45]-[66]
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- [45]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
- [46]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
- [50]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
- [51]設計出身の久保富夫は開発担当常務・所長・設計者を手元に置いて自ら指揮し、平均値の自動車を作っても売れないと毎日ハッパをかけた
- [56]久保富夫は三菱自動車販売の社長を兼務して両社の同種業務を一方へ統括し、人事交流も進めてセクショナリズムを解消した
- [57]東南アジアと欧州はクライスラーの販売網を通さない重点市場だった(久保富夫社長)
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- [47]久保富夫の社長就任直後に石油ショックが重なり、三菱グループのなかでは「お荷物」といわれ社内は自信を失っていた
- [48]三菱自動車は組立建築やプラスチックボートに手を出して多角化を図っていた
- [49]久保富夫は多角化を自動車に自信がないからやっているとみて、投資が無駄になるとの反対論を押して直ちに中止させた
- [52]模型ができていたランサー・セレステを改良して1975年に発売、1976年にギャラン2・ギャランΛ、1978年初にFF小型車ミラージュを市場へ投入した
- [53]岡崎の工場用地は自動車の不振で着工できず地元から返還を求められていたが、久保富夫はギャランの手応えを見て工場建設に踏み切った
- [55]同じ販売店でギャランとミラージュを売るのは効率が悪いとして、ギャラン系チャンネルとは別にミラージュ専門の「カープラザ」チャンネルを展開した
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- [54]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
- 日経ビジネス 1978年10月23日号
- [58]1970年のインドネシア進出時はトヨタ・日産が圧倒的シェアを占めており三菱は出遅れていた
- [59]三菱はトラックの小型・中型・大型各1機種に絞り、全国的な販売およびアフターサービス体制を築いた
- [60]三菱は1971年に日産を、1972年にトヨタを追い抜いてインドネシアで首位に立った
- [61]1973年8月 三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立(出資比率はクラマユダ社50%・三菱自動車工業25%・三菱商事25%)、1975年1月操業開始
- [62]インドネシア政府の商業車国産化政策に対し1978年に小型トラックのプレス部品100%国産化を達成した
- [63]車全体の国産化比率は他社が金額換算で約18%だったのに対し三菱は38%だった
- [64]インドネシアで「コルト」は乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売台数は10万台を超えた
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
- [65]1979年に全体生産台数が100万台の大台に乗った
- 有価証券報告書
- [66]1982年 SUV「パジェロ」を発売
筆者考察
この会社は、作る力ではなく売る場所を持たないまま独立した。三菱重工業は戦前に乗用車を手がけた草分けでありながら、1960年の三菱500も、続くコルト1000もトヨタ・日産の牙城に届かなかった。足りなかったのは技術よりも販売網であり、その不足を一挙に埋める手として選ばれたのが、全米に約3000軒の販売店を持つクライスラーとの提携だった。だが借りた販売網は、借りた側の商品を進んで並べてはくれない。北米の独占販売権を渡した見返りに、三菱車は最も安い2ドア車としてCOLTの名だけで店頭に置かれ、売れば売るほど利幅が相手へ移る構造に10年以上縛られることになった。
久保富夫が1973年に社長として持ち込んだのは、その構造の外側へ自前の出口を作る作業だった。組立建築やプラスチックボートといった多角化を止めて資源を車一本へ寄せ、ギャランとミラージュで商品を立て、ギャラン系とは別にカープラザの販売チャンネルを引いた。海外では、クライスラーの手が及ばない東南アジアと豪州から先に地面を取り、インドネシアではトラック3機種に絞って1972年にトヨタを抜いている。米国の契約が改まるのは1981年、提携先が経営危機に陥ってからである。自立は交渉で勝ち取ったというより、相手の弱りを待って手に入った。
- 1981年3月期までの伸びは、クライスラーの独占販売権が残る北米ではなく、欧州・東南アジア・豪州への自力展開が支えた。
- 出所は証券 41巻1号(1989年)「新規上場会社紹介 三菱自動車工業株式会社」。
1960年〜1982年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | フィリピンに三菱クラマユダ・モータースを設立(1973/08) |
| 1975年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 8,745 | n/a | 156 | 1.8% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 9,030 | +3.3% | 140 | 1.6% | 京都製作所滋賀工場を新設(1979/12) |
| 1981年03月期 | 単体 | 11,079 | +22.7% | 83 | 0.7% | 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーターズ・オーストラリアを設立(1980/10) |
| 1982年03月期 | 単体 | 10,821 | ▲2.3% | 131 | 1.2% | 三菱商事と共同出資でミツビシ・モーター・セールス・オブ・アメリカを設立(1981/12) |
出所:証券41(1)
出典・参考
8件
- 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
- 有価証券報告書
- 日経ビジネス 1978年7月31日号
- 日経ビジネス 1978年10月23日号
- 日経ビジネス 1980年8月25日号
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
- 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」