村田製作所:米Erie Technological Productsの買収と野洲・横浜事業所の開設
1980年〜米Erie Technological Productsの買収と、八日市事業所の自動製造ライン
台湾で工場を買い取った後、村田製作所は1978年と1979年に西独マルク建てとスイス・フラン建ての転換社債を海外で発行した。その資金を背に、社長の村田昭氏は1980年9月にErie Technological Products(ETP)の買収契約に調印した。ETPはトロントに本社を置き、米国・カナダ・西独・メキシコに生産と販売の拠点を持っていた。年間売上高は約5000万米ドルで、村田製作所は買収で海外売上高比率を4割から5割へ上げる計画を立てた。村田昭氏は、ETPの製品が産業用主体で自社とほとんど競合しない点を選んだ理由に挙げた。多品種少量の産業用は輸出では細かく対応できず、現地で作る拠点が要るとみていた。
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [1]1978年8月に4000万西独マルク、1979年7月に6000万スイス・フランの転換社債を発行
- [4]ETPは年間総売上高約5000万米ドル、買収で海外売上高比率を40%から50%へ引き上げる計画
- [5]村田昭社長談:エリーは産業用・軍事用主体で自社商品とほとんど競合しない
- [6]村田昭社長談:産業用は多種少量で輸出ではきめ細かなサービスができず現地生産が必要
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [2]1980年(昭和55年)9月にエリー社の買収契約に調印
- [3]エリー社はトロントに本社、ペンシルベニア州・メキシコ・ドイツに工場、伊仏に販売会社
海外の拠点を広げる一方、国内ではセラミックコンデンサを原料から製品まで自動機で一貫して作る体制を敷いた。滋賀県の八日市事業所が原料から素子までを受け持ち、島根県のイワミ電子工業が仕上げを担った。1980年時点でイワミ電子工業の生産は月1.8億個で、業界全体の月10億個のうち世界一の量だった。自動機はカムを主体に高速で回り、オペレータ1人が4〜5台を受け持った。八日市工場の建屋は、ソ連などへ製造プラントとノウハウを売った代金で大半が建っていた。村田昭氏は大量生産こそ最良のコストダウン策で、品質の安定にもつながると考えていた。
- 自動化技術 12(10) 1980年「カメラルポ 世界一の生産量を誇る セラミックコンデンサ自動製造ライン ㈱村田製作所・八日市事業所」
- [7]セラミックコンデンサを素原料から製品まで一貫自動生産、生産設備の自動化を経営方針に
- [8]素原料から素子までは八日市事業所、素子から加工製品までは孫会社イワミ電子工業(島根県大田市)
- [9]イワミ電子工業は月産1.8億個(業界全体は月10億個)で世界一の生産量
- [10]カム主体の自動機で高速化、オペレータ1人で4〜5台を受け持つ
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [11]八日市工場はソ連を中心とするプラント・ノウハウの販売資金で大部分ができた
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [12]大量生産が最良のコスト・ダウン策であり品質の安定度を高めるとの考えで設備投資
買収後、一部のコンデンサが米国の独占禁止法に触れ、村田製作所はその製品群をメキシコの工場へ移して手放した。積層コンデンサを作るステートカレッジ工場では、製法を村田の方式に改めて設備を入れ替えた。設備が古く赤字の続いたカーライルの水晶製品工場は閉鎖した。1981年に取得した西独の工場には村田流の生産方式と製品管理を持ち込み、村田の工場と呼べるまで数年を要した。1985年には米国と欧州の従業員が約2000人になり、米国の売上高は1億6000万ドル程度を見込んだ。材料から工程までを自社の方式にそろえなければ、品質の基準を一本にできないと判じたのだろう。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [13]FTCから一部商品が独禁法に抵触するとされ、メキシコのノハレス工場に移してエリー社営業部長に年賦で売却
- [14]ステートカレッジ工場の積層コンデンサは製法が異なり、村田方式に設備をすっかり入れ替えた
- [15]カーライルの水晶製品工場は設備が古く大幅赤字で閉鎖
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [16]1981年に買収した西独生産会社に村田流の生産方式・製品管理方式を導入、2〜3年前にようやく村田の工場といえる段階に
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [17]エリー社買収で米国・欧州の従業員は約2000人、1985年の米国売上高は1億6000万ドル程度の見込み
参考文献[1]-[17]
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [1]1978年8月に4000万西独マルク、1979年7月に6000万スイス・フランの転換社債を発行
- [4]ETPは年間総売上高約5000万米ドル、買収で海外売上高比率を40%から50%へ引き上げる計画
- [5]村田昭社長談:エリーは産業用・軍事用主体で自社商品とほとんど競合しない
- [6]村田昭社長談:産業用は多種少量で輸出ではきめ細かなサービスができず現地生産が必要
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [2]1980年(昭和55年)9月にエリー社の買収契約に調印
- [3]エリー社はトロントに本社、ペンシルベニア州・メキシコ・ドイツに工場、伊仏に販売会社
- [11]八日市工場はソ連を中心とするプラント・ノウハウの販売資金で大部分ができた
- [13]FTCから一部商品が独禁法に抵触するとされ、メキシコのノハレス工場に移してエリー社営業部長に年賦で売却
- [14]ステートカレッジ工場の積層コンデンサは製法が異なり、村田方式に設備をすっかり入れ替えた
- [15]カーライルの水晶製品工場は設備が古く大幅赤字で閉鎖
- 自動化技術 12(10) 1980年「カメラルポ 世界一の生産量を誇る セラミックコンデンサ自動製造ライン ㈱村田製作所・八日市事業所」
- [7]セラミックコンデンサを素原料から製品まで一貫自動生産、生産設備の自動化を経営方針に
- [8]素原料から素子までは八日市事業所、素子から加工製品までは孫会社イワミ電子工業(島根県大田市)
- [9]イワミ電子工業は月産1.8億個(業界全体は月10億個)で世界一の生産量
- [10]カム主体の自動機で高速化、オペレータ1人で4〜5台を受け持つ
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [12]大量生産が最良のコスト・ダウン策であり品質の安定度を高めるとの考えで設備投資
- [17]エリー社買収で米国・欧州の従業員は約2000人、1985年の米国売上高は1億6000万ドル程度の見込み
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- [16]1981年に買収した西独生産会社に村田流の生産方式・製品管理方式を導入、2〜3年前にようやく村田の工場といえる段階に
1984年〜1個1円60銭のセラミックコンデンサと、円高のなかで開いた野洲事業所
1983年の村田製作所は、1個1円60銭のセラミックコンデンサと45円のセラミックフィルタで利益を積んだ。同年上期の経常利益は58億円と前年同期より51.1%増え、売上高経常利益率は11%に達した。米国向けVTRの増産で部品が品切れになっても、村田製作所は設備を増やさず休日出勤と残業で操業度を上げた。機器の小型化で部品のチップ化が進み、積層型のチップコンデンサは1985年も供給不足が続いた。1985年3月期の単体売上高は1560億円を見込み、うちコンデンサが653億円を占めた。村田昭氏は完成品には出ず、部品専業を続ける方針を掲げた。
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- [18]セラミックコンデンサ1本1円60銭、セラミックフィルタ45円が利益を生む
- [19]1983年9月中間の経常利益58億円、前年同期比51.1%増、売上高経常利益率11%
- [20]VTR増産期に品切れ、設備拡張せず土日出勤と残業でピーク時の20〜30%増しの操業
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [21]機器の小形化で部品のチップ化が進み、積層型チップ・コンデンサは供給不足が続く
- [22]1985年3月期は単体売上高1560億円見込み、うちコンデンサー653億円
- [23]セット・メーカーへの転業は一切考えず部品専業でいく方針
円高の進んだ1987年3月期、村田製作所の経常利益は204億円と前年より10%減った。円高の局面では、取引先から20%に及ぶ値引きを求められ応じたこともあった。欧州通貨が円に対して下がると、日本からの輸出に代えて西独の工場を広げ、現地で作る量を増やした。1987年には、海外の生産・販売網と輸出を組み合わせて円高の影響を吸収したと評された。1988年3月期の経常利益は236億円と16%増え、前年の減益を取り戻した。続けて海外生産比率を15%から2〜3年で25%へ上げる計画を掲げ、1988年には北米・中南米向けの輸出も担うブラジル工場を動かした。
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [24]1987年3月期は円高で経常利益204億円、前年比10%減
- [25]泉谷裕常務:円高の時は20%にも及ぶ値引きに応じたこともある
- [28]1988年3月期の経常利益236億円、前年比16%増
- [29]海外生産比率15%を2〜3年先に25%へ高める計画、1988年に稼働したブラジル工場は中南米・米国・カナダへの輸出拠点
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [26]欧州通貨が円に対して弱く日本からの輸出が困難となり、西独の現地工場で生産すべく拡張
- 日経ビジネス 1987年10月12日号
- [27]ライバルが輸出減で収益悪化する中、海外の生産・販売体制と輸出を組み合わせ円高を吸収
1987年7月、村田製作所は滋賀県に野洲事業所を開設し、八日市に次ぐ第二の事業所とした。長岡京市の本社が手狭になり、滋賀県からの工場誘致を機に約9万坪の土地を確保した。野洲には生産技術の研究開発や基幹システムの開発、品質・信頼性センター、事業部長の本拠などを集めた。同じ年、事業所内に総工費13億円のコンピューターセンターを設け、本社の大型計算機を移した。このセンターが、国内26カ所の生産拠点と本社・販売網を結ぶ回線網の拠点になった。量産は各地の子会社に任せ、野洲は工場ごとの作り方をそろえる中枢を負ったと推察される。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [30]昭和62年に滋賀県の野洲事業所を設立、八日市に次ぐ第二の事業所
- [31]長岡京市の本社が手狭になり、滋賀県の工場誘致をきっかけに土地約9万坪を確保
- [32]野洲には生産技術のハード・ソフトの研究開発、基幹システム開発、品質・信頼性センター、分析センターなど
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [33]1987年に野洲事業所内にコンピューターセンター(総工費13億円)を設け、本社のIBM3080を移設
- [34]アルムネットは国内26カ所の生産拠点と本社・販売網を一つのネットワークで結ぶ
参考文献[18]-[34]
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- [18]セラミックコンデンサ1本1円60銭、セラミックフィルタ45円が利益を生む
- [19]1983年9月中間の経常利益58億円、前年同期比51.1%増、売上高経常利益率11%
- [20]VTR増産期に品切れ、設備拡張せず土日出勤と残業でピーク時の20〜30%増しの操業
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [21]機器の小形化で部品のチップ化が進み、積層型チップ・コンデンサは供給不足が続く
- [22]1985年3月期は単体売上高1560億円見込み、うちコンデンサー653億円
- [23]セット・メーカーへの転業は一切考えず部品専業でいく方針
- [26]欧州通貨が円に対して弱く日本からの輸出が困難となり、西独の現地工場で生産すべく拡張
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [24]1987年3月期は円高で経常利益204億円、前年比10%減
- [25]泉谷裕常務:円高の時は20%にも及ぶ値引きに応じたこともある
- [28]1988年3月期の経常利益236億円、前年比16%増
- [29]海外生産比率15%を2〜3年先に25%へ高める計画、1988年に稼働したブラジル工場は中南米・米国・カナダへの輸出拠点
- [33]1987年に野洲事業所内にコンピューターセンター(総工費13億円)を設け、本社のIBM3080を移設
- [34]アルムネットは国内26カ所の生産拠点と本社・販売網を一つのネットワークで結ぶ
- 日経ビジネス 1987年10月12日号
- [27]ライバルが輸出減で収益悪化する中、海外の生産・販売体制と輸出を組み合わせ円高を吸収
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [30]昭和62年に滋賀県の野洲事業所を設立、八日市に次ぐ第二の事業所
- [31]長岡京市の本社が手狭になり、滋賀県の工場誘致をきっかけに土地約9万坪を確保
- [32]野洲には生産技術のハード・ソフトの研究開発、基幹システム開発、品質・信頼性センター、分析センターなど
1988年〜年間10%の値引きに応えるCIMと、村田泰隆社長の就任
1988年、村田製作所は国内の生産拠点と本社を結ぶオンライン網「アルムネット」を本格的に動かした。全商品の値下がりは年率7〜10%に及び、村田昭氏はそれを前提に合理化投資を組んでいた。1979年からは同じ工程を拠点横断で比べて採算を競わせてきたが、管理の手間が費用を押し上げていた。網の先には、受注から生産計画・資材・原価計算までを計算機で一元管理するCIMを据えた。ソニーや東芝など機器メーカーとのオンライン受注も、部品メーカーの先頭を切って一部で始めた。値下げを拒むのではなく、それを吸収できる原価構造の構築を優先したとみられる。
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [35]リアルタイムのオンライン網「アルムネット」を本格稼働
- [37]1979年から同じ工程を横串で抜き出し独立採算で競わせる「マトリックス経営」、管理項目の増加で管理コストが上昇
- [38]最終的に受注・生産・物流・資材・経理をコンピューターで一元管理するCIMへ発展させる予定
- [39]EDI推進センターのパイロットに指定され、ソニー・東芝・三菱電機・日立製作所とのオンライン受注を一部開始
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [36]全商品の値下がりは年率7〜10%で、これを意識して合理化投資をしている(村田昭社長)
CIMで原価を下げる一方、村田製作所は1988年、関西の研究開発部門を首都圏へ出す横浜開発センタを完成させた。通信機やコンピューターの得意先が関東に多く、関西だけでは技術者の採用にも限界があった。施設には日本初の10m法の電波暗室を設け、電子機器のノイズ対策の実験に充てた。1990年度には約250人が、センサーモジュールなどの回路部品とソフトを開発した。1990年には研究開発費を売上高比6.3%から8%へ上げ、顧客の需要を起点に開発する組織へ改めると決めた。仕様を待って作る限り値下げに追われ続けるため、次の要求を先に形にする拠点が要ったのではないか。
- 研究開発マネジメント 1(5) 1991年「特別寄稿 未来型研究所を創造する--村田製作所「横浜開発センタ」の設計事例」堀内信夫
- [40]横浜開発センタ(横浜市緑区白山町)は1984年計画開始・1988年竣工、関西から首都圏への研究開発部門の進出
- [43]1990年度の人員約250人、開発品目は各種センサーモジュールなどの回路部品とソフトウェア
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [41]通信機・コンピューターメーカーは関東に多く得意先と密着でき、関西では人材採用に限界があった
- [42]横浜開発センタにノイズ対策の実験用として日本で初めての10メートル法の電波暗室を設けた
- 日経ビジネス 1990年7月30日号
- [44]1989年度の連結研究開発費150億円・売上高比6.3%を8%に高める、シーズ指向からニーズ指向へ組織を変える
1991年6月、村田昭氏は70歳で社長を長男の村田泰隆氏に譲り、会長に就任した。村田昭氏は在任中、課長以上の全員に月1回の社長宛て報告を課し、現場の声を吸い上げていた。44歳で社長に就任した村田泰隆氏は常務会を実質の最高意思決定機関とし、役員に経営全般の責任を負わせた。自ら提案したマレーシアへの工場進出も、常務会で反対が多く取り下げたという。一方で1992年度は、機器メーカーの部品内製化と家電不況で値下げ要求が強まると予想されていた。1987年の円高で減益した記憶を抱えたまま、新体制は輸出の採算と値下げの両方に向き合うことになったと考えられる。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [45]平成3年6月、70歳で社長を長男に譲り会長に退いた
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [46]国内外の関係会社を含む課長以上全員に月1回、社長宛てリポートを義務づけた
- 日経ビジネス 1992年3月16日号
- [47]1991年6月に44歳で社長就任、常務会を設置し実質上の最高意思決定機関とし常務以上に経営全般の責任
- [48]泰隆社長が提案したマレーシアへの工場進出は常務会で反対が大半を占め自ら取り下げた
- [49]92年度はセットメーカーの部品内製化に加え家電不況で値下げ要求もきつくなる
参考文献[35]-[49]
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [35]リアルタイムのオンライン網「アルムネット」を本格稼働
- [37]1979年から同じ工程を横串で抜き出し独立採算で競わせる「マトリックス経営」、管理項目の増加で管理コストが上昇
- [38]最終的に受注・生産・物流・資材・経理をコンピューターで一元管理するCIMへ発展させる予定
- [39]EDI推進センターのパイロットに指定され、ソニー・東芝・三菱電機・日立製作所とのオンライン受注を一部開始
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [36]全商品の値下がりは年率7〜10%で、これを意識して合理化投資をしている(村田昭社長)
- 研究開発マネジメント 1(5) 1991年「特別寄稿 未来型研究所を創造する--村田製作所「横浜開発センタ」の設計事例」堀内信夫
- [40]横浜開発センタ(横浜市緑区白山町)は1984年計画開始・1988年竣工、関西から首都圏への研究開発部門の進出
- [43]1990年度の人員約250人、開発品目は各種センサーモジュールなどの回路部品とソフトウェア
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [41]通信機・コンピューターメーカーは関東に多く得意先と密着でき、関西では人材採用に限界があった
- [42]横浜開発センタにノイズ対策の実験用として日本で初めての10メートル法の電波暗室を設けた
- [45]平成3年6月、70歳で社長を長男に譲り会長に退いた
- 日経ビジネス 1990年7月30日号
- [44]1989年度の連結研究開発費150億円・売上高比6.3%を8%に高める、シーズ指向からニーズ指向へ組織を変える
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [46]国内外の関係会社を含む課長以上全員に月1回、社長宛てリポートを義務づけた
- 日経ビジネス 1992年3月16日号
- [47]1991年6月に44歳で社長就任、常務会を設置し実質上の最高意思決定機関とし常務以上に経営全般の責任
- [48]泰隆社長が提案したマレーシアへの工場進出は常務会で反対が大半を占め自ら取り下げた
- [49]92年度はセットメーカーの部品内製化に加え家電不況で値下げ要求もきつくなる
1980年〜1992年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1980年03月期 | 単体 | 550 | n/a | 31 | 35 | 16 | 2.9% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 711 | +29.3% | n/a | 50 | 28 | 3.9% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 875 | +23.1% | n/a | 73 | 34 | 3.9% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 928 | +6.1% | n/a | 78 | 38 | 4.1% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 1,180 | +27.2% | n/a | 134 | 60 | 5.1% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 1,573 | +33.3% | n/a | 226 | 103 | 6.5% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 2,805 | n/a | n/a | 515 | 272 | 9.7% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
12件
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- 日経ビジネス 1984年1月9日号
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- 日経ビジネス 1987年10月12日号
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- 日経ビジネス 1989年8月14日号
- 日経ビジネス 1990年7月30日号
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- 日経ビジネス 1992年3月16日号
- 自動化技術 12(10) 1980年「カメラルポ 世界一の生産量を誇る セラミックコンデンサ自動製造ライン ㈱村田製作所・八日市事業所」
- 研究開発マネジメント 1(5) 1991年「特別寄稿 未来型研究所を創造する--村田製作所「横浜開発センタ」の設計事例」堀内信夫