村田製作所:清水焼から磁器コンデンサへの転換と大証二部上場
1944年〜清水焼から脱皮した村田昭と、三菱電機伊丹製作所の協力工場
創業者の村田昭氏は1944年10月、京都市内の染物工場の跡を借り、個人経営の村田製作所を始めた。村田家の家業は父が興した清水焼で、共同窯を借りて焼く零細業者の一つだった。東山の業者は似た陶磁器や碍子を焼いており、売上を拡大するには値下げで他の業者の得意先を取るほかなかった。1943年ごろ三菱電機から電波兵器用のステアタイトを焼く話が来たが、統制会社にまとめられた同業者は新分野に乗らなかった。村田氏は同業と競合しない製品を作れという父の教えを支えに、勤め先を辞めて一人で特殊磁器に取り組むと決めた。窯の技術を工業用の磁器に向けることで、価格競争を避けようとしたのだろう。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [1]1944年10月、村田昭が京都市内の染物工場の跡を借りて個人経営の村田製作所を創立
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [2]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- [3]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- [4]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [5]三菱電機伊丹製作所から関西でのステアタイト製造を頼まれ、同業者と競合しない独自製品を作れという父の教えもあり会社を辞めて独立を決意。四条大宮北の空いた染物工場を借りた
村田製作所は三菱電機伊丹製作所の協力工場として、通信機用の磁器コンデンサを作るところから事業を立てた。工場の玄関に協力工場の看板を掲げ、男性の職人1人と女性10人ほどで始めた。当初頼まれたステアタイトは準備に手間取るうちに他所へ回り、三菱電機は代わりに酸化チタン磁器コンデンサを求めた。電気の知識が無かった村田氏は本と人の助言に依拠して試作を重ね、1945年2月に合格品を納めた。製品は1個2円35銭から2円50銭で売れ、月1万個の注文も取り付けた。軍の無線機が磁器の誘電体を多く要したことが、素人の町工場に受注の道を開いたとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [6]三菱電機伊丹製作所の協力工場として通信機用セラミックコンデンサの製造に取り組んだ
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [7]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- [8]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- [10]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [9]1945年2月に満足できる製品ができ、三菱電機に合格とされ月1万個の注文を得た
- [11]1945年2月に満足できる製品ができ、三菱電機に合格とされ月1万個の注文を得た
1945年8月の終戦で三菱電機からの注文は途絶え、村田氏は12〜13人いた従業員の多くを解雇した。残った数人で電熱器を組み立て、柱上トランス用の碍子も売って資金をつないだ。京都大学の田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所から真空管用のステアタイトを受け、利益率の高い品目となった。1946年ごろ占領軍の命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に替わり、受信機に要る磁器コンデンサが再び売れ始めた。1947年には質の悪い酸化チタンで品質不良を出し、原因を突き止めるまで4か月余り生産を止めた。1949年ごろのラジオの普及期には、客が工場の前に並ぶほど注文が集まったという。軍需で身につけた製法を民間のラジオ向けに振り向けたことが、戦後の立て直しの軸になったと考えられる。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [12]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- [13]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- [14]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- 実業往来 501 1994年
- [15]1946年頃占領軍の命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替わりチタコンが売れ始めた。原料不良で製造停止し再開まで4カ月以上。復員ブームでラジオメーカーがチタコンを求めた
- [16]1946年頃占領軍の命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替わりチタコンが売れ始めた。原料不良で製造停止し再開まで4カ月以上。復員ブームでラジオメーカーがチタコンを求めた
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [17]1949年頃のラジオブームでスーパーヘテロダイン方式が定着し、工場の前に客が並ぶ時代だった
参考文献[1]-[17]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [1]1944年10月、村田昭が京都市内の染物工場の跡を借りて個人経営の村田製作所を創立
- [6]三菱電機伊丹製作所の協力工場として通信機用セラミックコンデンサの製造に取り組んだ
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [2]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- [3]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- [4]家業は父が創業した共同窯利用の零細な清水焼業者。同業は似た陶磁器・碍子を焼き値段競争に陥っていた。1943年頃三菱電機からステアタイトの依頼が来たが統制会社の同業者は賛同せず、独立を選んだ
- [9]1945年2月に満足できる製品ができ、三菱電機に合格とされ月1万個の注文を得た
- [11]1945年2月に満足できる製品ができ、三菱電機に合格とされ月1万個の注文を得た
- [17]1949年頃のラジオブームでスーパーヘテロダイン方式が定着し、工場の前に客が並ぶ時代だった
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [5]三菱電機伊丹製作所から関西でのステアタイト製造を頼まれ、同業者と競合しない独自製品を作れという父の教えもあり会社を辞めて独立を決意。四条大宮北の空いた染物工場を借りた
- [7]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- [8]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- [10]「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板で男性職人1人・女性10人ほどで開始。ステアタイトは他所に回り、酸化チタン磁器コンデンサ(チタコン)を求められた。1個2円35銭〜2円50銭で売れた
- [12]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- [13]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- [14]終戦で三菱電機の仕事がなくなり従業員を解雇。電熱器・碍子で食いつなぐ。田中哲郎助教授の紹介で川西機械製作所の真空管用ステアタイトを受注し利益率が高かった
- 実業往来 501 1994年
- [15]1946年頃占領軍の命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替わりチタコンが売れ始めた。原料不良で製造停止し再開まで4カ月以上。復員ブームでラジオメーカーがチタコンを求めた
- [16]1946年頃占領軍の命令でラジオがスーパーヘテロダイン方式に切り替わりチタコンが売れ始めた。原料不良で製造停止し再開まで4カ月以上。復員ブームでラジオメーカーがチタコンを求めた
1950年〜資本金100万円の株式会社と、福井工場・研究部で固めた材料からの一貫生産
ラジオ向けの受注が戻ったのち、村田氏は1950年12月に資本金100万円の株式会社村田製作所へ改組した。その前後に京都大学の田中研究室から岡崎清氏らが入社し、チタン酸バリウムの製品開発が動き始めていた。田中助教授との共同研究は、1952年に世界初のセラミック製ピックアップの開発へつながった。1950年に入社した佐分利治氏はNHK用のパワーコンデンサを開発し、村田製作所はNHKの指定メーカーとなった。防衛庁の認定メーカーにも指定され、特定の品目を長く独占的に納めた。それでも工場は細長い民家のままで、階段下の押し入れまで作業場に使っていた。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [18]1950年12月、資本金100万円の株式会社村田製作所に改組
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [19]大学卒などの人材が入社しチタバリの研究・製品開発が進み、1950年12月に資本金100万円の株式会社に改組。工場は民家で押し入れまで仕事場
- [23]大学卒などの人材が入社しチタバリの研究・製品開発が進み、1950年12月に資本金100万円の株式会社に改組。工場は民家で押し入れまで仕事場
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [20]田中哲郎助教授との産学協同でチタン酸バリウムに取り組み、1952年に世界初のセラミック製ピックアップを開発
- 実業往来 501 1994年
- [21]1950年入社の佐分利治がNHK用パワーコンデンサを開発しNHK指定メーカーに。防衛庁の認定メーカーに指定され長期に独占供給した
- [22]1950年入社の佐分利治がNHK用パワーコンデンサを開発しNHK指定メーカーに。防衛庁の認定メーカーに指定され長期に独占供給した
株式会社となって最初の大きな投資は、1951年6月の福井工場の設置だった。同年にラジオの民間放送が始まり、日本電気のマイクロ回線用部品の注文も増えて、四条大宮北の工場では量産が追いつかなかった。品質不良による生産停止が重なって資金は乏しく、土地を買う余裕も無かった。そこへ福井県宮崎村から、土地は無償で建物は出世払いという条件で工場誘致の話が来た。村田氏は試験場の石炭窯でも磁器コンデンサが焼けると確かめ、1951年2月に試験場の一部を借りて生産を始めた。1952年2月には京都工場を設け、同年5月に本社を山科へ移して東京出張所も置いた。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [24]1951年6月福井工場を設置、1952年2月京都工場
- [29]1951年6月福井工場を設置、1952年2月京都工場
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [25]1951年の民放開始と日本電気のマイクロ回線用部品で需要が増え、四条大宮北の工場では手狭。石炭窯で焼けることを確かめ1951年2月に福井県窯業試験場の一部を借りて生産開始
- [28]1951年の民放開始と日本電気のマイクロ回線用部品で需要が増え、四条大宮北の工場では手狭。石炭窯で焼けることを確かめ1951年2月に福井県窯業試験場の一部を借りて生産開始
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [26]生産停止が重なり資金が貯まらず土地もない中、福井県宮崎村から土地は無償・建物は出世払いで工場誘致の話が来た
- [27]生産停止が重なり資金が貯まらず土地もない中、福井県宮崎村から土地は無償・建物は出世払いで工場誘致の話が来た
- 実業往来 501 1994年
- [30]1952年5月に東山区山科に本社を移転し、同年東京出張所を設けた
1955年4月、村田氏は試作室と呼んでいた研究部門を分けて大宮技術研究所を設けた。1947年には出所の分からない酸化チタンで品質不良を出し、以後は栃木化学から原料をまとめて買った。1953年にテレビ放送が始まり、翌年にはトランジスタの国産化も進み、新しい材料と製品が要ると村田氏は考えた。研究所はのちに長岡町の8,000坪に移って村田技術研究所となり、隣の工場で作った原料や焼き物を各工場に売った。村田製作所は十数次にわたり通産省の補助金を受け、材料から一貫して作る部品メーカーとなった。焼き物は原料の純度と配合で性能が変わるため、材料を自社で握ることが品質の安定に直結すると判断したと推測される。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [31]1955年4月研究部門を株式会社大宮技研として設置。十数次にわたり通産省の補助金を受けて研究開発し、材料から一貫生産体制をもつ
- [35]1955年4月研究部門を株式会社大宮技研として設置。十数次にわたり通産省の補助金を受けて研究開発し、材料から一貫生産体制をもつ
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [32]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
- [33]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
- [34]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
参考文献[18]-[35]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [18]1950年12月、資本金100万円の株式会社村田製作所に改組
- [24]1951年6月福井工場を設置、1952年2月京都工場
- [29]1951年6月福井工場を設置、1952年2月京都工場
- [31]1955年4月研究部門を株式会社大宮技研として設置。十数次にわたり通産省の補助金を受けて研究開発し、材料から一貫生産体制をもつ
- [35]1955年4月研究部門を株式会社大宮技研として設置。十数次にわたり通産省の補助金を受けて研究開発し、材料から一貫生産体制をもつ
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [19]大学卒などの人材が入社しチタバリの研究・製品開発が進み、1950年12月に資本金100万円の株式会社に改組。工場は民家で押し入れまで仕事場
- [23]大学卒などの人材が入社しチタバリの研究・製品開発が進み、1950年12月に資本金100万円の株式会社に改組。工場は民家で押し入れまで仕事場
- [25]1951年の民放開始と日本電気のマイクロ回線用部品で需要が増え、四条大宮北の工場では手狭。石炭窯で焼けることを確かめ1951年2月に福井県窯業試験場の一部を借りて生産開始
- [28]1951年の民放開始と日本電気のマイクロ回線用部品で需要が増え、四条大宮北の工場では手狭。石炭窯で焼けることを確かめ1951年2月に福井県窯業試験場の一部を借りて生産開始
- [32]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
- [33]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
- [34]1947年に質の悪い酸化チタンでQ不良、栃木化学から酸化チタンを購入。テレビ放送開始とトランジスタ国産化を受け1955年4月に試作室を分離し大宮技術研究所を設立、長岡町に8千坪を得て村田技術研究所とし原料・焼き物を本社や工場に販売
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- [20]田中哲郎助教授との産学協同でチタン酸バリウムに取り組み、1952年に世界初のセラミック製ピックアップを開発
- [26]生産停止が重なり資金が貯まらず土地もない中、福井県宮崎村から土地は無償・建物は出世払いで工場誘致の話が来た
- [27]生産停止が重なり資金が貯まらず土地もない中、福井県宮崎村から土地は無償・建物は出世払いで工場誘致の話が来た
- 実業往来 501 1994年
- [21]1950年入社の佐分利治がNHK用パワーコンデンサを開発しNHK指定メーカーに。防衛庁の認定メーカーに指定され長期に独占供給した
- [22]1950年入社の佐分利治がNHK用パワーコンデンサを開発しNHK指定メーカーに。防衛庁の認定メーカーに指定され長期に独占供給した
- [30]1952年5月に東山区山科に本社を移転し、同年東京出張所を設けた
1956年〜テレビ向けに伸びたセラミックコンデンサと、大阪証券取引所第二部への上場
材料から作る体制は、テレビ向けのコンデンサで収益に結びついた。テレビが出始めたころ、テレビ用のコンデンサを作れる他社は無く、村田製作所がほぼ一手に供給した。ラジオ用が1個5円ほどだったのに対し、テレビ用は30円から50円で売れた。使う個数も多く、白黒テレビ1台で約55個とラジオの7〜50個を上回った。1958年には皇太子の成婚を機に白黒テレビが大きく売れ、注文に生産が追いつかなくなった。1968年時点では国内のテレビ部門で45%の占有率を持ち、売上の53%が磁器蓄電器だった。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [36]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [37]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [38]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [40]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [39]白黒テレビ1台に約55個、ラジオ7〜50個を使用。国内テレビ部門の占有率45%(1968年時点)
- [41]白黒テレビ1台に約55個、ラジオ7〜50個を使用。国内テレビ部門の占有率45%(1968年時点)
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [42]事業内容は磁器蓄電器53%(1968年版)
テレビ需要に応えるため、村田製作所は1961年2月に本社を長岡町(現長岡京市)へ移した。移転先には村田技術研究所があり、1958年から原料工場と窯業工場を広げ、コンデンサの加工工場も建てていた。増設の速さに自己資金が追いつかず、通産省の推薦を得て日本開発銀行や日本長期信用銀行などの協調融資で賄った。1962年9月には滋賀県に八日市工場を建て、同じ月に福井村田製作所へ資本参加した。八日市工場は子会社にせず、量産体制への備えとして建てた唯一の直営工場だという。材料・焼成・加工がそろう長岡へ本社を寄せ、増産の指揮を一か所に集約する狙いだったと思われる。
- 村田製作所 有価証券報告書 第89期(2025年3月期)「沿革」
- [43]1961年2月本社を現長岡京市に移転、1962年9月八日市事業所開設・福井村田製作所に資本参加
- [47]1961年2月本社を現長岡京市に移転、1962年9月八日市事業所開設・福井村田製作所に資本参加
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [44]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- [45]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- [48]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [46]1962年9月八日市工場を滋賀県八日市市に建設
村田氏は増設資金の手当てに苦しむなか、1961年に株式の公開と上場を決めた。テレビに加えステレオの需要も伸び、セラミックフィルターや正特性サーミスタの新製品にも資金が要ると見込んだ。上場に備えて1962年に村田技術研究所を合併し、同年7月の一般募集で資本金は1億9500万円となった。1963年3月、大阪証券取引所第2部と京都証券取引所に株式を上場した。同じ1961年には対米輸出を始め、1963年にはニューヨークに駐在員事務所を置いた。国内のセットメーカー、とりわけテレビ向けに依存するだけでは成長に限りがあり、上場で得た資金と信用を海外の開拓に向ける前提が整ったと推察される。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [49]1961年に資金確保のため株式公開・上場を決意。テレビ・ステレオ需要とセラミックフィルター・正特性サーミスタの新製品の資金を理由とし、1962年に村田技術研究所と合併
- [50]1961年に資金確保のため株式公開・上場を決意。テレビ・ステレオ需要とセラミックフィルター・正特性サーミスタの新製品の資金を理由とし、1962年に村田技術研究所と合併
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [51]1962年7月一般募集で資本金1億9500万円。1963年3月大阪証券取引所第2部・京都証券取引所に上場
- [52]1962年7月一般募集で資本金1億9500万円。1963年3月大阪証券取引所第2部・京都証券取引所に上場
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭
- [53]1961年に対米輸出を開始、1963年に駐在員事務所を設置、1965年に現地法人化
参考文献[36]-[53]
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [36]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [37]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [38]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [40]テレビ用コンデンサは他社にできず一手に供給、ラジオ用1個5円に対しテレビ用は30円・50円。1958年に白黒テレビが爆発的に売れ注文に間に合わない
- [44]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- [45]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- [48]1958年白黒テレビ需要で村田技術研究所に原料工場・窯業工場の拡張と加工工場を建設、自己資金で賄えず通産省推薦で開銀・長銀などの協調融資。八日市工場は将来の量産体制に備えた唯一の直営工場
- [49]1961年に資金確保のため株式公開・上場を決意。テレビ・ステレオ需要とセラミックフィルター・正特性サーミスタの新製品の資金を理由とし、1962年に村田技術研究所と合併
- [50]1961年に資金確保のため株式公開・上場を決意。テレビ・ステレオ需要とセラミックフィルター・正特性サーミスタの新製品の資金を理由とし、1962年に村田技術研究所と合併
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- [39]白黒テレビ1台に約55個、ラジオ7〜50個を使用。国内テレビ部門の占有率45%(1968年時点)
- [41]白黒テレビ1台に約55個、ラジオ7〜50個を使用。国内テレビ部門の占有率45%(1968年時点)
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [42]事業内容は磁器蓄電器53%(1968年版)
- [46]1962年9月八日市工場を滋賀県八日市市に建設
- [51]1962年7月一般募集で資本金1億9500万円。1963年3月大阪証券取引所第2部・京都証券取引所に上場
- [52]1962年7月一般募集で資本金1億9500万円。1963年3月大阪証券取引所第2部・京都証券取引所に上場
- 村田製作所 有価証券報告書 第89期(2025年3月期)「沿革」
- [43]1961年2月本社を現長岡京市に移転、1962年9月八日市事業所開設・福井村田製作所に資本参加
- [47]1961年2月本社を現長岡京市に移転、1962年9月八日市事業所開設・福井村田製作所に資本参加
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭
- [53]1961年に対米輸出を開始、1963年に駐在員事務所を設置、1965年に現地法人化
出典・参考
7件
- 村田製作所 有価証券報告書 第89期(2025年3月期)「沿革」
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「村田製作所」(1968年)
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- 日経ベンチャー別冊『創業者精神』(1993年)「"運、鈍、根"頼りに清水焼から脱皮」
- 実業往来 501 1994年