村田製作所:米国の販売会社に始まる海外拠点と欧州初の西ドイツ販売会社
1964年〜米国の販売会社と、日本製コンデンサーへのダンピング調査
1963年に大阪証券取引所へ上場した村田製作所は、2年後の1965年5月に米国の現地法人を設けた。社長の村田昭氏がニューヨーク駐在員事務所を改め、ムラタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(MCA)とした。対米輸出は1961年に始まり、1963年に駐在員事務所を置いていた。だが米国のラジオ・テレビメーカーが日本に購買事務所を設けて部品を直接調達し始め、MCAの売上高は減少した。村田氏は産業用電子機器の大手へ売り先を移し、バイ・アメリカン政策をとるGMの電子機器部門に通い続けた。GMの技術者がセラミックフィルターを試して採用を推し、条件は3年のうちに米国に工場を建てることだった。現地法人は、購買の窓口が日本へ移るなかで米国の大口需要家と直接向き合う拠点になったのだろう。
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [1]沿革に1963年3月大阪証券取引所第2部上場、1965年5月現地法人アメリカ・ムラタ設立と記載
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [2]1965年5月、ニューヨーク駐在員事務所を改組し現地法人MCA(ムラタ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を設立した
- [4]1961年ごろから米国のラジオ・テレビメーカーが日本に購買事務所を置き、設立間もないMCAの売上高が減少した
- [5]売上を上げるため産業用電子機器の大手を開拓し、バイ・アメリカン政策をとるGMデルコ社へ売り込んだ
- [6]GMの技術者がセラミックフィルターの特性を認めて採用を主張し、3年のうちに米国に工場を作る条件で納入が決まった
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [3]1961年に対米輸出を開始し、1963年に駐在員事務所を設置した
1968年9月、米国は業界の提訴を受け、日本製コンデンサーにダンピングの疑いがあるとして調査に入った。日本側は輸出を阻むための嫌がらせと受け止め、米国向けの価格は国内の完成品メーカーへの納入価格より高いと反論した。村田製作所のコンデンサーに占める輸出は、1963年の1割ほどから5年後には4分の1まで上がっていた。1970年9月には米国が日本製コンデンサーを含む品目で関税評価を差し止め、日本の政府と業界に動揺が広がった。調査は1971年3月、コンデンサーは「シロ」との結論で決着した。輸出の比重が上がるほど、相手国の通商措置が業績を揺らす経路も太くなったと考えられる。
- 読売新聞(1968年9月25日)
- [7]米国が提訴を受けて日本製コンデンサーのダンピング容疑を調査すると報じた
- [8]日本側は嫌がらせと受け止め、米国向け輸出価格は国内完成品メーカーへの納入価格より高く安売りではないとした
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [9]輸出は1963年ごろセラミックコンデンサー全売上の10分の1程度で、5年後にはコンデンサー全体の4分の1を占めた
- 読売新聞(1970年9月7日)
- [10]米国が日本製コンデンサーにも関税の完全評価の差し止め措置をとり、政府と業界が衝撃を受けた
- 読売新聞(1971年3月9日)
- [11]ダンピング調査でコンデンサーは「シロ」と決着した
1969年12月、村田製作所は東京証券取引所市場第二部に上場し、1970年2月に東京・大阪の市場第一部へ移った。上場の月には公募増資を行い、資本金は11億7,000万円となった。村田氏が東証上場を目指したのは、市場の大きい東京で将来の資金を調達するためだった。だが当時は子会社を持つ会社の新規上場が認められず、証券会社にも取り合ってもらえなかった。村田氏は企業会計審議会の基準案に沿った連結財務諸表を公開すると申し出て、取引所との個別契約で上場を果たした。子会社を含めた開示を先に引き受けたことが、のちに海外で資金を調達する際の信用の土台になったとみられる。
- 『日本企業要覧』1970年版「村田製作所」
- [12]1969年12月東京証券取引所第2部に上場、1970年2月東京・大阪の第1部に昇格
- [13]1969年12月の公募増資で資本金が11億7,000万円(1,170百万円)になった
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [14]将来の資金調達のため市場の大きい東京証券取引所への上場を望んだ
- [15]子会社があると上場を認められないとされ、証券会社にも取り合ってもらえなかった
- [16]企業会計審議会の作成基準案に沿った連結財務諸表を公開する個別契約を提案し、1969年12月に東証上場を果たした
参考文献[1]-[16]
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- [1]沿革に1963年3月大阪証券取引所第2部上場、1965年5月現地法人アメリカ・ムラタ設立と記載
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [2]1965年5月、ニューヨーク駐在員事務所を改組し現地法人MCA(ムラタ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を設立した
- [4]1961年ごろから米国のラジオ・テレビメーカーが日本に購買事務所を置き、設立間もないMCAの売上高が減少した
- [5]売上を上げるため産業用電子機器の大手を開拓し、バイ・アメリカン政策をとるGMデルコ社へ売り込んだ
- [6]GMの技術者がセラミックフィルターの特性を認めて採用を主張し、3年のうちに米国に工場を作る条件で納入が決まった
- [9]輸出は1963年ごろセラミックコンデンサー全売上の10分の1程度で、5年後にはコンデンサー全体の4分の1を占めた
- [14]将来の資金調達のため市場の大きい東京証券取引所への上場を望んだ
- [15]子会社があると上場を認められないとされ、証券会社にも取り合ってもらえなかった
- [16]企業会計審議会の作成基準案に沿った連結財務諸表を公開する個別契約を提案し、1969年12月に東証上場を果たした
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [3]1961年に対米輸出を開始し、1963年に駐在員事務所を設置した
- 読売新聞(1968年9月25日)
- [7]米国が提訴を受けて日本製コンデンサーのダンピング容疑を調査すると報じた
- [8]日本側は嫌がらせと受け止め、米国向け輸出価格は国内完成品メーカーへの納入価格より高く安売りではないとした
- 読売新聞(1970年9月7日)
- [10]米国が日本製コンデンサーにも関税の完全評価の差し止め措置をとり、政府と業界が衝撃を受けた
- 読売新聞(1971年3月9日)
- [11]ダンピング調査でコンデンサーは「シロ」と決着した
- 『日本企業要覧』1970年版「村田製作所」
- [12]1969年12月東京証券取引所第2部に上場、1970年2月東京・大阪の第1部に昇格
- [13]1969年12月の公募増資で資本金が11億7,000万円(1,170百万円)になった
1972年〜シンガポールの生産・販売会社と、京都型の技術者教育
1972年12月、村田製作所はシンガポールに生産・販売会社を設けた。日本の賃金が上がり、同業の多くが韓国や台湾へ工場を移すなかでも、村田氏は低賃金を求めた進出をとらなかった。方針は市場のあるところで生産して供給することで、値下げの要請には機械化と合理化で応えた。その後セットメーカー自身が東南アジアへ移り、シンガポールに出る得意先から同じ時期の部品工場を求められて進出を決めた。米国でもGMとの約束に沿い、1973年にジョージア州に工場を建てた。2年のうちに日米とアジアで生産を抱え、日本の工場の技術を海外で再現できる人と組織が次の課題になったと推測される。
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [17]1972年12月シンガポールに生産・販売会社Murata Electronics Singapore (Pte.) Ltd.を設立
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [18]賃金上昇と値下げ圧力で部品メーカーの多くが韓国・台湾・香港へ工場を移したが、低賃金を求めた進出は考えなかった
- [19]「市場のあるところで生産し、供給する」を基本方針とし、値下げ要請には機械化・合理化で応えた
- [20]1972年、シンガポールに進出するセットメーカーから同時期に部品工場を作るよう要請され、工場進出を決めた
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [21]GMのバイ・アメリカン方針により米国に工場を建てることにし、1973年にジョージア州ロックマートに工場を設立した
1973年に米国の工場を取得したとき、村田製作所には送り込める適任者がおらず、日本からは3人だけを送った。1974年時点の技術開発部門では、階層別と職能別の訓練に加え、技術者向けの社内講習会を実施していた。講習には特許や品質管理と並んで英文の技術論文の書き方と英会話が入り、技術提携先の海外企業へ研修生も送っていた。専務の村田治氏は、市場調査から生産・販売まで一人で組み立てる力を技術者に求めた。米国の工場では、日本の従業員向けの指導書を英訳して現地の従業員に渡していたという。英語で技術を伝える力を講習に組み込んだのは、海外へ技術を移す人を社内から出す備えと推察される。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [22]1973年にJFD社を買収した際、送り込むべき適当な人がおらず実務者を残し、日本からは3人を送り込んだ
- マネジメント 33(10) 1974年 内橋克人
- [23]村田製作所の技術開発部門の教育は階層別訓練・職能別訓練・技術開発担当者養成社内講習会などで構成された
- [24]社内講習会に英文技術論文の書き方・英会話を含み、技術提携した海外企業へ研修生を派遣していた
- [25]専務の村田治氏は、市場調査から生産・販売までを一貫して組織できる力を技術者一人一人に持たせることを教育の目的とした
- 日経ビジネス 1975年6月23日号
- [26]米国の現地法人で日本の従業員指導マニュアルを英訳して与えていた(在アトランタの経営コンサルタントの談)
MCAは1973年7月、経営不振のJFDエレクトロニクスの電子部品部門を65万1,000ドルで買い、資本の60%を握った。JFDは村田製作所がガラストリマーの技術を導入していた相手で、1971年から買収を求められていた。年末に筆頭副社長兼総支配人として着任した井上弘氏は、従業員の1割と部長以上の管理職の4割を減らした。そのうえで人事、経理、生産計画、品質管理などの管理職9人を集める週1回の経営会議を設けた。部門ごとの縦割りで全体を見るのが社長だけという組織を、部門間の連絡で動かすためだった。1975年4月には村田氏が社長を兼ね、出資比率を98.6%まで高めた。横の連絡を根づかせたうえで、経営を米国人に渡す段取りだったと読める。
- 日経ビジネス 1975年6月23日号
- [27]1973年7月、MCAがJFDエレクトロニクスの電子部品部門を65万1,000ドルで買収し資本の60%を取得した
- [29]1973年末に井上弘氏が筆頭副社長兼総支配人として赴任し、従業員200人の1割、部長以上の管理職の4割を削減した
- [30]人事・総務、経理、購買、生産計画、販売、製造、技術、品質管理の部長以上9人による週1回の経営会議を新設した
- [31]従来は縦割り組織で部門間の情報交換がなく、全部門を横断的に見るのは社長だけだった
- [32]1975年4月に村田昭社長がJFDの社長を兼ね、出資比率を60%から98.6%に高めた
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [28]JFD社からライセンスを受けていたが1971年に会社を買ってほしいと要請され、1973年に買収した
参考文献[17]-[32]
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [17]1972年12月シンガポールに生産・販売会社Murata Electronics Singapore (Pte.) Ltd.を設立
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [18]賃金上昇と値下げ圧力で部品メーカーの多くが韓国・台湾・香港へ工場を移したが、低賃金を求めた進出は考えなかった
- [19]「市場のあるところで生産し、供給する」を基本方針とし、値下げ要請には機械化・合理化で応えた
- [20]1972年、シンガポールに進出するセットメーカーから同時期に部品工場を作るよう要請され、工場進出を決めた
- [22]1973年にJFD社を買収した際、送り込むべき適当な人がおらず実務者を残し、日本からは3人を送り込んだ
- [28]JFD社からライセンスを受けていたが1971年に会社を買ってほしいと要請され、1973年に買収した
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [21]GMのバイ・アメリカン方針により米国に工場を建てることにし、1973年にジョージア州ロックマートに工場を設立した
- マネジメント 33(10) 1974年 内橋克人
- [23]村田製作所の技術開発部門の教育は階層別訓練・職能別訓練・技術開発担当者養成社内講習会などで構成された
- [24]社内講習会に英文技術論文の書き方・英会話を含み、技術提携した海外企業へ研修生を派遣していた
- [25]専務の村田治氏は、市場調査から生産・販売までを一貫して組織できる力を技術者一人一人に持たせることを教育の目的とした
- 日経ビジネス 1975年6月23日号
- [26]米国の現地法人で日本の従業員指導マニュアルを英訳して与えていた(在アトランタの経営コンサルタントの談)
- [27]1973年7月、MCAがJFDエレクトロニクスの電子部品部門を65万1,000ドルで買収し資本の60%を取得した
- [29]1973年末に井上弘氏が筆頭副社長兼総支配人として赴任し、従業員200人の1割、部長以上の管理職の4割を削減した
- [30]人事・総務、経理、購買、生産計画、販売、製造、技術、品質管理の部長以上9人による週1回の経営会議を新設した
- [31]従来は縦割り組織で部門間の情報交換がなく、全部門を横断的に見るのは社長だけだった
- [32]1975年4月に村田昭社長がJFDの社長を兼ね、出資比率を60%から98.6%に高めた
1977年〜欧州初の西ドイツ販売会社と、台湾の生産・販売会社の買収
1978年4月、村田製作所は欧州で初めての販売会社を西ドイツに設けた。その前段として、1976年1月にデュッセルドルフに駐在員事務所を開設して欧州での販売を強めていた。村田氏は1965年ごろから、製品と市場の多様化で業績を安定させるため、米国に加えて欧州への輸出を始めていた。1979年の企業要覧は、セラミック・コンデンサーとセラミック・フィルターを世界首位の製品と記している。1980年初めの海外拠点は、米国・シンガポール・香港・台湾・西ドイツにそろった。世界首位の部品を欧州の機器メーカーへ直接売る窓口を持ち、米国とアジアに次ぐ3つ目の地域が加わったといえよう。
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [33]1978年4月、欧州で初めての販売会社をドイツに設立
- 『日本企業要覧』1979年版「村田製作所」
- [34]1976年1月にデュッセルドルフ駐在員事務所を設け、西独の事務所で欧州市場の販売を強化した
- [36]セラミック・コンデンサ、セラミック・フィルタは世界でトップと記載
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [35]製品の多角化と地域・市場の多様化のため、米国だけでなく欧州への輸出を始め、業績の安定化に努めた(1965年前後の回顧)
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [37]1980年3月時点の海外拠点は米国、シンガポール、香港、台湾、西独
1976年9月、村田製作所はシンガポールで株式を上場して新株を発行した。1973年に米国とシンガポールの工場建設を決めたが、海外で集めた資金は海外で使う条件があり、許可が下りにくかった。村田氏はシンガポールで集めて現地で使う案を立て、外国企業として初の上場へ預託証券の仕組みを現地と作った。だが第1次石油危機で1975年4月から受注が月ごとに落ち、準備を終えていた発行を取りやめた。米国でCBトランシーバーの需要が伸びて業績が戻り、中間決算を付けて発行にこぎつけた。国内でも1976年8月と1977年3月に公募増資を行い、転換社債の転換も重ねて資本金は1979年3月に22億5,297万7,000円となった。
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [38]1976年9月の中間決算を添付して、シンガポールで増資と上場を行った
- [39]1973年から米国とシンガポールに工場を作ることになったが資金がなく、海外で集めた資金は海外で使う条件で当局の許可も得にくかった
- [40]「シンガポールで集めた資金はシンガポールで使う」案で内認可を得て、外国会社初の上場のため預託証券制度を現地の銀行・当局と作成した
- [41]第1次オイルショックで1975年4月以降受注が毎月悪化し、準備が整っていた新株発行を中止した
- [42]1975年夏から米国でCBトランシーバーのブームが起き、輸出が増えて業績が急回復した
- 『日本企業要覧』1979年版「村田製作所」
- [43]資本変動は1976年8月・1977年3月に公募、1978年3月・1979年3月に転換社債の転換で、資本金2,252,977千円
1978年11月、村田製作所は台湾の生産・販売会社を買収した。売り手は米国のセラミック・コンデンサーメーカーのマロリー社で、台湾に持つ現地会社の譲渡を申し入れてきた。村田氏の回顧では、相手は日本企業との競争で工場の経営に行き詰まっていた。台湾には日本のセットメーカーが多く、進出を望む声もあったため、工場を買い取って設備をすべて新鋭機に替えた。米国企業が手放す会社を引き取る買収は、1973年のJFDに続いて2件目となった。同じ1978年の秋には、村田氏が目標としてきた米国のエリー社が売りに出ているとの情報も入った。自前で建てるより早く生産と得意先を得る買収の型が、次の大型交渉の前提になったとうかがえる。
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [44]1978年11月、台湾の生産・販売会社(現Taiwan Murata Electronics Co., Ltd.)を買収
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [45]米国のセラミック・コンデンサーメーカーのマロリー社から、台湾に持つ現地会社を譲りたいと申し入れられ買い取った
- [48]1973年に米JFD社を買い取った
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [46]1978年、日本企業に押されて工場経営が難しくなった米国の同業者から台湾の工場を買ってほしいと申し入れがあった
- [47]台湾には日本のセットメーカーが多く進出を望む声があったので工場を買い取り、設備を全部新鋭機に替えて生産を始めた
- [49]1978年秋、エリー社が売りに出ているとの情報が入った
参考文献[33]-[49]
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [33]1978年4月、欧州で初めての販売会社をドイツに設立
- [44]1978年11月、台湾の生産・販売会社(現Taiwan Murata Electronics Co., Ltd.)を買収
- 『日本企業要覧』1979年版「村田製作所」
- [34]1976年1月にデュッセルドルフ駐在員事務所を設け、西独の事務所で欧州市場の販売を強化した
- [36]セラミック・コンデンサ、セラミック・フィルタは世界でトップと記載
- [43]資本変動は1976年8月・1977年3月に公募、1978年3月・1979年3月に転換社債の転換で、資本金2,252,977千円
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- [35]製品の多角化と地域・市場の多様化のため、米国だけでなく欧州への輸出を始め、業績の安定化に努めた(1965年前後の回顧)
- [38]1976年9月の中間決算を添付して、シンガポールで増資と上場を行った
- [39]1973年から米国とシンガポールに工場を作ることになったが資金がなく、海外で集めた資金は海外で使う条件で当局の許可も得にくかった
- [40]「シンガポールで集めた資金はシンガポールで使う」案で内認可を得て、外国会社初の上場のため預託証券制度を現地の銀行・当局と作成した
- [41]第1次オイルショックで1975年4月以降受注が毎月悪化し、準備が整っていた新株発行を中止した
- [42]1975年夏から米国でCBトランシーバーのブームが起き、輸出が増えて業績が急回復した
- [46]1978年、日本企業に押されて工場経営が難しくなった米国の同業者から台湾の工場を買ってほしいと申し入れがあった
- [47]台湾には日本のセットメーカーが多く進出を望む声があったので工場を買い取り、設備を全部新鋭機に替えて生産を始めた
- [49]1978年秋、エリー社が売りに出ているとの情報が入った
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [37]1980年3月時点の海外拠点は米国、シンガポール、香港、台湾、西独
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- [45]米国のセラミック・コンデンサーメーカーのマロリー社から、台湾に持つ現地会社を譲りたいと申し入れられ買い取った
- [48]1973年に米JFD社を買い取った
1964年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 48 | n/a | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 56 | +16.7% | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 79 | +41.1% | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 132 | +67.1% | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 122 | ▲7.6% | n/a | 8 | 5 | 4.1% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 138 | +13.1% | n/a | 3 | 3 | 2.2% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 192 | +39.1% | n/a | 8 | 5 | 2.6% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 239 | +24.5% | n/a | 14 | 7 | 2.9% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 212 | ▲11.3% | n/a | 0 | ▲1 | ▲0.5% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 257 | +21.2% | 4 | 0 | 0 | 0.0% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 460 | +79.0% | n/a | 42 | 19 | 4.1% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 367 | ▲20.2% | n/a | 21 | 9 | 2.5% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 418 | +13.9% | n/a | 22 | 13 | 3.1% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
12件
- 村田製作所 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- 村田昭『私の履歴書』(単著, 1994年)
- 日経ビジネス 1975年6月23日号
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 村田昭(1985年3月15日講演要旨)
- 読売新聞(1968年9月25日)
- 読売新聞(1970年9月7日)
- 読売新聞(1971年3月9日)
- 『日本企業要覧』1968年版「村田製作所」
- 『日本企業要覧』1970年版「村田製作所」
- マネジメント 33(10) 1974年 内橋克人
- 『日本企業要覧』1979年版「村田製作所」