第1章 年〜年

三洋電機:三洋電機製作所の創業と国内初のプラスチックラジオ

自転車発電ランプの量産から噴流式洗濯機への横展開

1947年〜松下電器からの独立による自転車用発電ランプへの後発参入

松下電器を離れて自転車ランプを選ぶ

井植歳男氏は松下幸之助氏の妻の弟にあたり、1917年から松下電器に約29年在籍して専務を務めた。戦後の連合国軍総司令部による財閥解体で公職追放の対象となり、松下電器からの独立を決めた。1947年1月、大阪府守口で三洋電機製作所を個人経営で創業し、松下から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプと携帯ランプの製造に着手した。社名の"三洋"は太平洋・大西洋・印度洋の三つの大洋になぞらえ、海外市場を視野に置いた命名である。『終戦後、今の仕事が将来、有望であることはわかっていましたが、さらに大事なことは陸海軍というものがなくなって、日本の国力を回復充実するには、産業を復興する以外にない』(ダイヤモンド 1956/09/04)——井植氏が挙げた独立の動機である。掲げた経営理念は『情勢の変化に備えて経営の危険を分散し、事業をより安定させる』("企業の歴史 明治百年"経済春秋社, 1968)だった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]井植歳男 松下幸之助の妻の弟・松下電器に約29年在籍して専務
    • [4]松下から譲り受けた北条工場で自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造に着手
    • [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋に由来
    • [7]経営理念「経営の危険を分散し事業をより安定させる」
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [2]GHQの財閥解体で公職追放の対象
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [3]昭和22年1月 井植歳男が守口で三洋電機製作所を個人創業
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
    • [6]独立の動機に関する井植歳男の発言
松下と競わずに輸出へ回す

国内17社目のランプメーカーとしての後発参入ながら、松下電器で培った量産の手法を移し、1950年に自転車ランプの国内シェア約70%を占めた。同年4月に資本金2000万円で法人化し、1954年4月に大阪証券取引所へ株式を上場、同年12月には東京証券取引所にも上場した。国内では義兄の松下電器との正面競合を避け、輸出に活路を求める方針を早期に打ち出している。1949年から東南アジアへ発電ランプの輸出を始め、その後数年で輸出先は世界各地へ広がった。身内の会社と競わない方針が、逆説的に海外志向を育てる土壌になった。『家庭婦人を家事の重労働から解放するため、電気洗濯機を1台2.5万円程度で売ってあげるような時代の到来』という井植氏の言葉には、松下とは異なる製品哲学の輪郭が現れている。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [8]国内17社目の後発参入・1950年に自転車ランプ国内シェア約70%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [9]昭和25年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立
    • [10]昭和29年4月 大阪証券取引所に上場/同年12月 東京証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]松下電器との正面競合を避け輸出に活路を求める方針
    • [12]1949年から東南アジアへ発電ランプを輸出、数年後に世界各地へ
    • [13]海外志向を育てた棲み分けの方針
自転車店を代理店に変える

発電ランプは電気店ではなく自転車店で売れる商品であり、家庭電機の販路をまだ持たない三洋電機製作所は、売り先を一から組み立てる必要があった。井植歳男氏は外出のたびに行き合う自転車の台数と発電ランプの有無、その銘柄を記録し、新製品が出るたびに夕方の淀川堤防へ社員を集め、各社の製品を実際に走らせて性能を比べた。訪ねる代理店は自転車店に評判を聞いて絞り、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた。価格を保つために府県単位の会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った。全国の自転車店は北条工場へ招き、量産の工程をその目で見せた。創業の時点で16社が年間10万個をつくるにすぎなかった発電ランプは、4年後に200万個へ伸び、そのころ三洋は全国需要の過半数を占めていた。

  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
    • [14]発電ランプの販路は自転車店で、三洋は家庭電機業界になじみがなく販売網の建設に骨が折れた
    • [15]外出の際は目的地へ着くまでに出会う自転車の数・発電ランプの有無・銘柄を記録した
    • [16]新製品が出るたび夕方から淀川堤防へ集合し、いっせいに自転車を走らせて各社製品の性能を比較した
    • [17]自転車店に聞いて地域で評判の代理店を訪問し、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた
    • [18]価格を維持するため府県単位に会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った
    • [19]全国の自転車店を北条工場へ招待して量産方式の生産ぶりを見学させた
    • [20]創業時は16のメーカーが年間10万個をつくるにすぎず、4年後には200万個、5年後には300万個に達した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [21]ナショナル発電ランプは全国需要の過半数を占める
参考文献[1]-[21]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]井植歳男 松下幸之助の妻の弟・松下電器に約29年在籍して専務
    • [4]松下から譲り受けた北条工場で自転車用発電ランプ・携帯ランプの製造に着手
    • [5]社名「三洋」は太平洋・大西洋・印度洋の三大洋に由来
    • [7]経営理念「経営の危険を分散し事業をより安定させる」
    • [11]松下電器との正面競合を避け輸出に活路を求める方針
    • [12]1949年から東南アジアへ発電ランプを輸出、数年後に世界各地へ
    • [13]海外志向を育てた棲み分けの方針
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [2]GHQの財閥解体で公職追放の対象
    • [8]国内17社目の後発参入・1950年に自転車ランプ国内シェア約70%
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
    • [3]昭和22年1月 井植歳男が守口で三洋電機製作所を個人創業
    • [9]昭和25年4月 資本金2000万円で三洋電機株式会社を設立
    • [10]昭和29年4月 大阪証券取引所に上場/同年12月 東京証券取引所に上場
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
    • [6]独立の動機に関する井植歳男の発言
  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
    • [14]発電ランプの販路は自転車店で、三洋は家庭電機業界になじみがなく販売網の建設に骨が折れた
    • [15]外出の際は目的地へ着くまでに出会う自転車の数・発電ランプの有無・銘柄を記録した
    • [16]新製品が出るたび夕方から淀川堤防へ集合し、いっせいに自転車を走らせて各社製品の性能を比較した
    • [17]自転車店に聞いて地域で評判の代理店を訪問し、年間200万個の需要が起こると説いて取扱いを勧めた
    • [18]価格を維持するため府県単位に会合を持ち、代理店主を自宅へ招いて夜おそくまで販売のあり方を話し合った
    • [19]全国の自転車店を北条工場へ招待して量産方式の生産ぶりを見学させた
    • [20]創業時は16のメーカーが年間10万個をつくるにすぎず、4年後には200万個、5年後には300万個に達した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [21]ナショナル発電ランプは全国需要の過半数を占める

1950年〜プラスチックラジオによる家庭電機への進出

プラスチックのラジオで大衆価格に賭ける

三洋電機が家庭電機の分野へ参入する足がかりに選んだのは、木の筐体をやめたラジオであった。三洋電機株式会社は1950年4月に資本金2,000万円で設立され、同じ年の12月に三洋電機製作所から事業の一切を受け継いだ。1952年2月には資本金を6,000万円とし、旧松下飛行機から買い取った住道工場でラジオ受信機を組み立て始めた。そのころラジオには30%の物品税がかかっていたため、大衆は正規メーカーの製品を避け、税の分だけ安いアマチュアの組立品を選んでいた。井植歳男氏は、素人の手製が工場で量産した品より安くつくはずがなく、品質もアフターサービスも欠いた安さは消費者のためにならないと見た。1952年に売り出したラジオは、当時としては画期的なプラスチックキャビネットを備え、価格も1万円を切っていた。その年の暮れには、業界で第二位の座に就いた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [22]総合弱電メーカーへのきっかけとなったのはラジオの生産着手
    • [25]ラジオに課せられていた30%の物品税により、大衆が正規メーカー品より安いアマチュア組立品を買うケースが目立った
    • [26]素人の手づくりが工場の量産品より割安ということはありえず、品質とアフターサービスを伴わない安値は消費者の利益にならないという信念
    • [27]昭和27年に画期的なプラスチック・キャビネットで1万円を割ったラジオを市場へ送り出した
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [23]昭和25年4月 資本金2,000万円で三洋電機株式会社を設立、同年12月に三洋電機製作所の事業一切を引継ぎ
    • [24]昭和27年2月 資本金を6,000万円へ増資、旧松下飛行機から買収した住道工場でラジオ受信機の製作を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [28]プラスチックキャビネットのラジオは大衆価格と相まって昭和27年末に業界第2位を占めた
RCAの特許を借りてテレビを組む

1953年6月、米国のRCA社とのあいだで、ラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機に関する全特許権を五年間使用する契約を結んだ。報償料は純売上高に対しAMラジオ受信機が〇・7%、FM無線通信機が一・5%、テレビジョン受像機が二・0%で、期間は両者の合意により延長できる形をとった。同年1月には資本金を1億円へ増やし、8月から住道工場でテレビジョンの製造を始めた。当初の生産は月産150台から200台にとどまり、量産の態勢はその後に整えられていった。売上高は1953年11月期に41億5,000万円となり、二年前の8億9,700万円から約四・六倍になっている。技術を外から買い、設備を先に置き、量はあとから積む——後発として時間を買うこの順序が、この時期の作り方であった。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [29]昭和28年6月 米国RCA社とラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機の全特許権を五年間使用する契約を締結
    • [30]報償料はAMラジオ受信機が純売上高の0.7%、FM無線通信機が1.5%、テレビジョン受像機が2.0%、契約は両者合意で延長可能
    • [31]昭和28年1月 資本金を1億円へ増資
    • [32]昭和28年8月 住道工場でテレビジョンの製造を開始
    • [33]テレビジョンの生産は月産150台〜200台で量産態勢を整えつつあった
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [34]売上高は1951年11月期8.97億円、1953年11月期41.5億円
噴流式洗濯機を主力に据える

1953年7月、滋賀工場で電気洗濯機の生産を始めた。日本で最初の噴流式洗濯機であり、使いやすく大衆価格であることを条件に開発された商品であった。1953年は電化元年と呼ばれた年である。家庭生活を合理化しようという当時の風潮を受けて、全国の生産高は1953年の初めから急に伸び、1953年12月から1954年5月までに全国で9万3,803台が作られた。そのうち2万191台、21.5%が三洋の生産だった。1954年6月から8月までの部門別の構成を見ると、最も大きいのは電気機器部門の47.8%で、中でも電気洗濯機は全部門の中で約40%を占めた。家電メーカーとしての地歩を固めたのは、この洗濯機による。自転車用発電ランプで培った量産と値付けのやり方を、そのまま家庭電化の主力品に持ち込んだことになる。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [35]昭和28年7月 滋賀工場で電気洗濯機の生産を開始
    • [36]我国最初の噴流式洗濯機
    • [38]昭和28年12月〜29年5月の全国生産93,803台に対し当社生産20,191台(21.5%)
    • [39]昭和29年6〜8月の部門別構成比で電気機器部門47.8%、電気洗濯機は全部門を通じて約40%
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [37]ラジオに次いで着目したのは使いやすく大衆価格の電気洗濯機であった
    • [40]昭和28年を電化元年と呼び、電気洗濯機が家庭電機メーカーとしての地位を決定づけた
参考文献[22]-[40]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [22]総合弱電メーカーへのきっかけとなったのはラジオの生産着手
    • [25]ラジオに課せられていた30%の物品税により、大衆が正規メーカー品より安いアマチュア組立品を買うケースが目立った
    • [26]素人の手づくりが工場の量産品より割安ということはありえず、品質とアフターサービスを伴わない安値は消費者の利益にならないという信念
    • [27]昭和27年に画期的なプラスチック・キャビネットで1万円を割ったラジオを市場へ送り出した
    • [37]ラジオに次いで着目したのは使いやすく大衆価格の電気洗濯機であった
    • [40]昭和28年を電化元年と呼び、電気洗濯機が家庭電機メーカーとしての地位を決定づけた
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [23]昭和25年4月 資本金2,000万円で三洋電機株式会社を設立、同年12月に三洋電機製作所の事業一切を引継ぎ
    • [24]昭和27年2月 資本金を6,000万円へ増資、旧松下飛行機から買収した住道工場でラジオ受信機の製作を開始
    • [29]昭和28年6月 米国RCA社とラジオ受信機・無線通信機・テレビジョン受像機の全特許権を五年間使用する契約を締結
    • [30]報償料はAMラジオ受信機が純売上高の0.7%、FM無線通信機が1.5%、テレビジョン受像機が2.0%、契約は両者合意で延長可能
    • [31]昭和28年1月 資本金を1億円へ増資
    • [32]昭和28年8月 住道工場でテレビジョンの製造を開始
    • [33]テレビジョンの生産は月産150台〜200台で量産態勢を整えつつあった
    • [35]昭和28年7月 滋賀工場で電気洗濯機の生産を開始
    • [36]我国最初の噴流式洗濯機
    • [38]昭和28年12月〜29年5月の全国生産93,803台に対し当社生産20,191台(21.5%)
    • [39]昭和29年6〜8月の部門別構成比で電気機器部門47.8%、電気洗濯機は全部門を通じて約40%
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
    • [28]プラスチックキャビネットのラジオは大衆価格と相まって昭和27年末に業界第2位を占めた
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [34]売上高は1951年11月期8.97億円、1953年11月期41.5億円

1954年〜増資が支えた洗濯機の量産設備と総合家電への拡張

増資で洗濯機の設備を積む

1954年、各部門の設備増強と生産合理化による原価の引き下げのため、資本金を4億円へ増やした。増資額3億円のうち1億円は株式配当によるもので、資本金はさらに4億4,000万円へ積み増された。同年9月18日の取締役会は資本金を7億2,000万円とする増資を決め、1955年1月28日の定時総会に諮ったうえ、払込期日を同年2月1日と定めた。割当は二対一で、残る32万株は縁故割当とされた。資金の使途は、主として電気洗濯機の生産設備の増強と合理化のための設備資金、および運転資金にあてられた。1954年8月末の従業員は2,255人、1955年11月期の売上高は43億7,000万円であった。上場で得た資金の行き先は、売れている一つの商品の量産設備へ集められていた。

  • 証券 1955年(1)(66)
    • [41]昭和29年 各部門の設備増強と生産合理化によるコスト切下げのため資本金を4億円へ増資
    • [42]増資額3億円のうち1億円は株式配当、さらに4億4,000万円へ増資
    • [43]9月18日の取締役会で資本金7億2,000万円への増資を決議、昭和30年1月28日定時総会附議・払込期日は昭和30年2月1日
    • [44]割当は二対一、残余32万株は縁故割当
    • [45]資金の使途は主として電気洗濯機の生産設備増強と合理化のための設備資金と運転資金
    • [46]昭和29年8月末の従業員2,255人
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [47]1955年11月期の売上高43.7億円
冷蔵庫とトランジスタラジオで品揃えを拡充する

1950年代の後半、三洋電機は洗濯機とラジオの二本足から商品の幅を広げ、冷蔵庫とトランジスタラジオを加えた。1958年にはトランジスタラジオの輸出を始め、数年間にわたって輸出実績で第一位を占めている。売上高は1956年11月期の107億円から1959年11月期の312億円、1961年11月期の491億円へ伸び、従業員は同じ期間に3,935人から9,812人へ増えた。当期純利益も1957年11月期の12億8,000万円から1961年11月期の39億3,000万円へ増えている。1960年には貿易部を三洋電機貿易として分離独立させ、輸出の窓口を別会社へ移した。一つの商品の量産で得た利益を次の商品の設備へ回す反復が、総合家電メーカーの輪郭を形づくっていった。

  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [48]冷蔵庫、トランジスタラジオと商品分野の拡大がめざましく続いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [49]昭和33年からトランジスタラジオの輸出を開始し数年間第一位の実績
    • [53]昭和35年に貿易部を三洋電機貿易として分離独立
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [50]売上高は1956年11月期107億円、1959年11月期312億円、1961年11月期491億円
    • [51]従業員数は1956年11月期3,935人、1961年11月期9,812人
    • [52]当期純利益は1957年11月期12.8億円、1961年11月期39.3億円
東京三洋電機を別法人として立てる

資本金を30億円から50億円に積み増した1959年、三洋電機はかねての懸案だった関東への進出を実行に移した。受け皿は同年7月に群馬県邑楽郡大泉町で設立した東京三洋電機で、関東に総合的な生産拠点を築くことが狙いだった。132万平方メートルを上回る敷地を構えたこの進出は、当時大きな話題を呼んだ。生産品目はまず1959年9月のテレビで、1960年3月に冷凍機応用製品、同じ年の7月にトランジスタが続いた。何をどれだけ作るかは三洋電機の販売計画が決め、売るのも同社の販売網だった。その結果、1962年11月期には三洋電機の総売上高のうち36.4%を東京三洋電機が担うまでになった。製品の幅を広げながら生産と開発を別法人に置くこの役割分担は、27年後、合併によって組み直されることになる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [54]昭和34年に資本金を30億円から50億円に増やす一方、東京三洋電機を設立し関東進出に踏み切った
    • [56]132万平方メートルを超える敷地を持ち、関東市場への進出として当時大きな話題となった
  • 証券 1963年15(7)(170)
    • [55]東京三洋電機は昭和34年7月14日設立、本社は群馬県邑楽郡大泉町、三洋電機が関東における総合生産工場の開発を目的として設立
    • [57]昭和34年9月テレビ、35年3月冷凍機応用製品、35年7月トランジスタの生産を開始
    • [58]製品のすべては三洋電機の販売計画にもとづき生産され販売も三洋電機の販売網を通じて行なわれ、昭和37年11月期に三洋電機総売上高の36.4%を占めた
参考文献[41]-[58]
  • 証券 1955年(1)(66)
    • [41]昭和29年 各部門の設備増強と生産合理化によるコスト切下げのため資本金を4億円へ増資
    • [42]増資額3億円のうち1億円は株式配当、さらに4億4,000万円へ増資
    • [43]9月18日の取締役会で資本金7億2,000万円への増資を決議、昭和30年1月28日定時総会附議・払込期日は昭和30年2月1日
    • [44]割当は二対一、残余32万株は縁故割当
    • [45]資金の使途は主として電気洗濯機の生産設備増強と合理化のための設備資金と運転資金
    • [46]昭和29年8月末の従業員2,255人
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
    • [47]1955年11月期の売上高43.7億円
    • [50]売上高は1956年11月期107億円、1959年11月期312億円、1961年11月期491億円
    • [51]従業員数は1956年11月期3,935人、1961年11月期9,812人
    • [52]当期純利益は1957年11月期12.8億円、1961年11月期39.3億円
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
    • [48]冷蔵庫、トランジスタラジオと商品分野の拡大がめざましく続いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [49]昭和33年からトランジスタラジオの輸出を開始し数年間第一位の実績
    • [53]昭和35年に貿易部を三洋電機貿易として分離独立
    • [54]昭和34年に資本金を30億円から50億円に増やす一方、東京三洋電機を設立し関東進出に踏み切った
    • [56]132万平方メートルを超える敷地を持ち、関東市場への進出として当時大きな話題となった
  • 証券 1963年15(7)(170)
    • [55]東京三洋電機は昭和34年7月14日設立、本社は群馬県邑楽郡大泉町、三洋電機が関東における総合生産工場の開発を目的として設立
    • [57]昭和34年9月テレビ、35年3月冷凍機応用製品、35年7月トランジスタの生産を開始
    • [58]製品のすべては三洋電機の販売計画にもとづき生産され販売も三洋電機の販売網を通じて行なわれ、昭和37年11月期に三洋電機総売上高の36.4%を占めた

筆者考察

三洋電機の創業は、大きな組織を出た人が、その組織の作り方だけを持って始めた事業であった。井植歳男氏が選んだ自転車用発電ランプは、すでに16社が年間10万個をつくっている市場の商品で、技術の新しさで競争優位を得られるものではない。競争の焦点は、同じものをどれだけ安く、大量に、品質を揃えてつくれるか、そしてそれをどこで誰に売るかに移る。松下電器で29年を過ごした人にとって、その二つはいずれも手の内にあった。後発として欠けていたのは、既存の販路だけだった。だからこの会社は、まず自転車店を代理店に変える作業から始めている。

商品を替えても、作り方は替えなかった。発電ランプで積んだ量産と価格の手法は、そのままプラスチックのラジオへ移り、噴流式洗濯機へ移り、冷蔵庫とトランジスタラジオへ移っていく。1万円を割ったラジオも、大衆価格の洗濯機も、新しい技術の産物ではなく、既にある技術を安く大量に届けるための設計である。上場で得た資金は電気洗濯機の生産設備へ集められ、そこで得た利益が次の商品の設備へ回る。14年で売上高が2億9,700万円から491億円へ伸びた過程は、この反復そのものであった。ただし同じ設計は、自前の技術で市場を開く力を社内に育てない。その代償は20年後に表へ出る。

売上高(単体) 1950年11月期〜1961年11月期(億円)

2.97 50.11 8.97 51.11 27.4 52.11 41.5 53.11 43.7 55.11 107 56.11 129 57.11 174 58.11 312 59.11 417 60.11 491 61.11
  • 棒はすべて単体。この時期の連結の開示は無い。
  • 1950年11月期と1951年11月期は日本経済新報6(29)、1952年11月期と1953年11月期はインベストメント7(4)、1955年11月期は日証(3)、1956年11月期以降は会社年鑑。
  • 1954年11月期の売上は分からない。

1947年〜1961年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年11月期 単体 2 n/a n/a n/a n/a
1951年11月期 単体 8 +202.0% n/a n/a n/a
1952年11月期 単体 27 +205.5% n/a n/a n/a
1953年11月期 単体 41 +51.5% n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年11月期 単体 43 n/a n/a n/a n/a
1956年11月期 単体 107 +144.9% n/a n/a n/a
1957年11月期 単体 129 +20.6% 12 9.9% n/a
1958年11月期 単体 174 +34.9% 16 9.7% n/a
1959年11月期 単体 312 +79.3% 32 10.4% n/a
1960年11月期 単体 417 +33.7% 40 9.8% n/a
1961年11月期 単体 491 +17.7% 39 8.0% n/a

出所:日本経済新報6、インベストメント7(4)、日証(3)、会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • 三洋電機 有価証券報告書 第87期(2011年3月期)【沿革】
  • 三洋電機三十年の歩み(三洋電機, 1980)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 三洋電機 会社年鑑(単体業績)
  • ダイヤモンド(1956年9月4日)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14(3)(井植薫)
  • 私の履歴書 経済人7 井植歳男(日本経済新聞社, 1980)
  • 証券 1955年(1)(66)
  • 証券 1963年15(7)(170)

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