東燃ゼネラル石油石油精製専業からの多角化と、石炭液化・エンジニアリング分野への進出
緊急避難で守った収益を、どこへ振り向けるか——「石油の優等生」が精製の外に置いた事業
- 概要
- 1976年、東亜燃料工業は石油ショック後の緊急避難で固めた財務のうえに、石炭液化・エンジニアリング・石油化学など石油精製以外の分野へ事業を広げる方針を打ち出した。中原伸之常務が同年4月の日本証券アナリスト協会の講演でその構想を示している。
- 背景
- 石油ショック後、政府の価格凍結と円安により石油業界は巨額の赤字を抱えた。東亜燃料工業はガソリン比率の高い製品構成と軽い金利負担で黒字を保ち、業界では「東燃研究」という言葉が流行するほど収益力が際立っていた。
- 内容
- 直接脱硫装置の建設中止をはじめ設備投資を減価償却の範囲に抑え、利益を社内に残して財務を固めたうえで、エクソンの石炭液化、東燃テクノロジーによる保全管理・地盤改良・医療機器、東燃石油化学へと事業を広げる方針を示した。
- 含意
- 石油ショック後に設備投資を止めて残した余力を、精製の外側へ向けた判断であった。ただし1980年代前半の収益を支えたのは割安なサウジ原油を調達できるアラムコ系という位置であり、石炭液化も医療機器もまだ試行の段階にとどまった。
守りを固めた者だけが、先に手を伸ばせた
キャンセル料を払ってまで直接脱硫装置の建設を取りやめた1974年の決定が、1976年の構想を支えていた。250億円の見積りが資材の高騰で700億〜800億円へふくらむはずだった投資を負わずに済み、金利と償却の重荷を抱えないまま利益を内部に残せた。中原伸之常務が石炭液化から医療機器までを一度に並べられたのは、守りを固めた後に手元が空いていたからであろう。業界全体が逆ざやに沈んでいた年に、この会社は次の投資先を選ぶ側に立っていた。
1980年代前半に東燃の収益を支えたのは、石炭液化でも医療機器でもなく、割安なサウジ原油を調達できるアラムコ系という位置であった。1981年度上期にアラムコ系12社が2,567億円の黒字を出し、非アラムコ系22社が3,282億円の赤字を出した事実は、この時期の石油会社の成績が、原油をどこから買えるかでほぼ決まっていたことを示している。石炭液化について中原常務自身が「経済的なメリットはまだ十分にわからない」と述べたとおり、精製の外に置いた事業は、まだ収益の当てにならなかった。多角化が実を結ぶかどうかは、その先の経営に委ねられた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
エクソン・モービル折半出資の精製専門会社
東亜燃料工業は1939年7月、航空揮発油と潤滑油の国産化のため、石油関係10社の共同出資により資本金5,000万円で設立された。戦後の1949年2月にスタンダード・ヴァキューム石油と資本・業務提携を結び、1962年3月の同社解体後は、エッソ・スタンダード・イースタンとモービル・ペトロリアムが株式を25%ずつ持つ、エクソンとモービルの折半出資会社となった。和歌山・清水・川崎に製油所を構える精製専門会社で、製品の販売はエッソ・スタンダード石油とモービル石油が担った[1][2]。
収益力は業界のなかで際立っていた。1974年度の油種別販売構成比はガソリンが20.3%を占め、日本石油の11.8%や丸善石油の12.0%を引き離し、付加価値の高い白油に寄った構成になっていた。1975年の中間決算で経常黒字を計上した石油会社は、6月中間の東燃が38億5,000万円、9月中間の日本石油が15億3,000万円だけで、三菱石油は117億円、出光興産は154億6,000万円の赤字であった。業界では「東燃研究」という言葉まで流行した[3]。
石油ショックがもたらした緊急避難
1973年10月の石油ショックは、この会社にも減量を強いた。東燃は削減できる設備投資をすべて削り、なかでも和歌山製油所で計画していた直接脱硫装置の建設を、キャンセル料を払ってまで取りやめた。当時の見積りは250億円だったが、着手していれば資材の高騰で700億〜800億円を要したとみられ、金利と償却の負担が後々まで残るところであった。1974年の経費予算は売上数量が3年前の水準まで落ちることを前提に組み、省エネルギー運動と採用抑制も同時に進めた[4][5]。
それでも業界の傷は深かった。原油価格が4倍になった1974年1月以降も、政府は狂乱物価の元凶として3月17日まで石油製品価格を凍結し、解除後に認めたのはキロリットル当たり平均8,946円の値上げにとどまった。同年10月まで再値上げは認められず、業界はキロリットル当たり5,000円の逆ざやに陥った。ドルユーザンスの金利は一時年15%近くに達し、円安も重なって、東燃だけで1974年に約90億円の為替差損が出た[6]。
決断
先に財務を固める
東燃が先に置いたのは、事業を広げることではなく、身を固めることであった。石油ショック後は設備投資を減価償却の範囲内に抑え、利益はすべて社内に留保した。棚卸資産の評価法も、他社が総平均法などから先入先出法へ移して赤字を消すなかで、逆に最も保守的な後入先出法へ移し、価格高騰で生じた在庫の含み益を社内に蓄えた。自己資本比率は13.9%で、石油上位9社平均の1.88%を引き離していた[7][8]。
為替についても同じ考えを通した。中原伸之常務は「為替差損を不可抗力とみるのはマネージメントの放棄につながる」と述べている。1975年6月末の借入金は2,300億円近くに達し、うち2,042億円は原油代金支払いのためのユーザンス融資とハネ金融であった。低成長のもとで営業上の利益が伸びる見込みは薄く、資金運用による利益をどう取るかが課題になった。同年秋、東燃は財務部に外国業務課を新設し、資金課・財務企画課と並べた[9]。
精製の外に置いた事業
1976年4月23日、中原常務は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で「高収益力の定着化をはかる」と題して講演し、石油精製の外に置く事業を並べた。第一が石炭の液化である。提携先のエクソンが1966年からパイロットプラントを動かしており、東燃は専門家を派遣して詳細を詰める段階に入っていた。エクソンは1978年に日産250トンのプラントを建設し、1985年に日産5万バーレル規模の商業プラントを稼働させる計画で、開発費900億円の半分は米国のERDAが出資することが決まっていた[10]。
広げる先は石炭だけではなかった。エクソンの新規事業部門が1990年までに石油以外の5分野を作り、売上の4分の1をそこから得ようとしていたことを受け、太陽電池、電気自動車、夜間の余剰電力を油に蓄えるエネルギー貯蔵が候補に挙がった。100%子会社の東燃テクノロジーは、エクソンの精製技術を持ち込むエンジニアリングから、プラントの保全管理、地盤改良、都市ごみ処理、医療機器へと仕事を移そうとしていた。中原常務は自社をふりかえり、「石油精製一本槍で、どちらかというと地味な感じを与えてきた」と述べている[11]。
結果
1976年の回復と、新規事業までの距離
講演の時点で、環境はすでに好転していた。1976年度の国内石油製品需要は5%増と見込まれ、原油輸入量も2億7,000万キロリットルまで戻る見通しで、中原常務は「これ迄弱気であった私も」、環境の好転を前に「初めて強気に転じた」と述べた。1975年の経常利益96〜97億円に対し、1976年は上期だけで売上高2,800億円を予想し、経常利益は前年1年分を上回るとした。精製設備でも和歌山工場の日産7万バーレル拡張と清水工場の拡張の許可を得ていた[12]。
一方、新規事業の側はまだ形になっていなかった。石炭液化について中原常務は「経済的なメリットはまだ十分にわからない」と述べ、石炭を含む炭化水素の時代が続くという見通しを関心の理由に挙げるにとどめた。1976年の売上高は6,000億円が見込まれており、他社が極度の不振にあえいだ1975年に東燃石油化学が計上した税引後5億円近い利益は、これに比べればまだ小さい。多角化はこの時点で構想と試行の段階にあった[13]。
第二次石油ショックと広がる収益格差
1978年末に第二次石油ショックが起きると、石油需要そのものが縮んだ。1978年度に2億3,500万キロリットルだった国内需要は、1982年度に1億8,300万キロリットルまで減った。燃料転換と省エネルギーでC重油とナフサの落ち込みが目立ち、1973年度に36.9%だったナフサ以外の軽質製品の比率は1982年度に53.0%へ上がり、B・C重油は47.6%から32.5%へ下がった。ガソリンと白油に寄せた東燃の製品構成は、この変化とかみ合った[14]。
収益の差はさらに開いた。第二次石油ショック後、割安なサウジ原油を多く調達できるエッソ石油・ゼネラル石油・東亜燃料工業・モービル石油などのアラムコ系と、そうでない企業との格差が1980・81年度に極端になった。1981年度上期のサウジ原油とイラク原油の価格差は1バレル10ドル強に達し、当時は石油製品コストの約85%を原油調達費が占めていた。アラムコ系12社が為替差益を除いて2,567億円の黒字を計上する一方、非アラムコ系22社は3,282億円の赤字となり、丸善石油は993億円の経常赤字で債務超過に陥った[15]。
- 証券アナリストジャーナル 1976年6月号「東亜燃料工業 高収益力の定着化をはかる」(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役、日本証券アナリスト協会企業分析部会 1976年4月23日講演要旨)
- 日経ビジネス 1976年1月5日号「東亜燃料工業 泥沼に際立つメジャー戦略の冴え」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書【沿革】