ライオン:合成洗剤への転換と泰国獅王油脂の設立
ライポンFの用途開拓による花王石鹸への肉薄と、提携に頼った歯磨の多角化
1950年〜減収と資金繰り悪化に同時に見舞われた二社
歯磨の市場そのものはむしろ広がっていた。粉歯磨から練歯磨への移り変わりで高級化が進み、業界全体の出荷額は1958年度の80億円から1962年度には119億円に増えている。これに対してライオン歯磨の売上高は1954年11月期の26億4200万円が天井で、1955年11月期に25億7900万円、1957年11月期に25億1300万円と、上場して数年で伸びを失った。新製品を次々に出し、乱れた市場を立て直そうと力を尽くしたものの、1954年を山として売上も利益も減っていく流れは変わらず、伸びる市場で、創業60年の老舗だけが足踏みしていたのである。
- 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
- [1]歯磨の総出荷実績は昭和33年度80億円、昭和37年度119億円。練歯磨が消費の中心となり粉歯磨は衰退した
- 上場会社総覧(1956年版)
- [2]ライオン歯磨の1954年11月期の売上高は26億4200万円(上下期合算・単体)
- 上場会社総覧(1959年版)
- [3]ライオン歯磨の売上高は1955年11月期25億7900万円、1957年11月期25億1300万円(上下期合算・単体)
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [4]新製品の発売や市場の立て直しへの努力にもかかわらず、業績は昭和29年をピークに減収減益傾向が続いた
同じ創業者から分かれたライオン油脂は、より切迫していた。朝鮮動乱による原料高と製品安で資金繰りが極端に悪化し、続く原料油の暴落と仮需要の反動が致命的な打撃となった。1953年前後の貸借対照表では、短期借入金が6億円台に膨らみ、資本金1億円の6倍を超えている。1951年9月には給料の3分割払いに踏み切り、翌1952年5月には社長・専務・常務が15%、取締役が10%、部長・次長が5%の減給を決めた。同年10月、50名の予定で希望退職を募ったところ申し出は92名に及び、最終的に78名が退職した。1949年に月産900トンの設備を構えたマーガリン事業も、販売ルートを築けないまま新鋭設備への切替えができず、他社に立ち遅れた。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [5]朝鮮動乱で原料高の製品安となって資金繰りが極端に悪化し、原料油の暴落と仮需要の反動で致命的打撃を受けた
- [7]昭和26年9月に給料の3分割払いを実施した
- [8]昭和27年5月に社長・専務・常務15%、取締役10%、部長・次長5%の減給を決めた
- [9]昭和27年10月に50名の予定で希望退職を募り、申し出は92名、最終的に78名が退職した
- [10]マーガリンは昭和24年6月に平井工場へ月産900トンの設備を竣工したが、脱臭の品質問題と販売ルート未確立、経営危機による設備更新の遅れで他社に立ち遅れた
- 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
- [6]昭和27年から28年の各期の貸借対照表で短期借入金は6億2732万円から6億5499万円の水準にあり、資本金1億円を大きく上回っていた
油脂を支えたのは、洗濯ではなく台所だった。1950年6月に工業用洗浄剤として発売された"ライポン"は、翌1951年10月に絹・毛・化繊用の家庭用洗剤として売り出されたが、売上は伸び悩んだ。高級アルコール系のほうが鉱油系より優れているとみられていたうえ、粉石鹸に対する割高感もあったからである。そこで1953年、野菜と食器の洗浄という新用途を訴える打開策へ切り替えた。北海道大学農芸化学教室に苺の除菌効果を、茨城県衛生課に食器器具類の汚染除去を研究発表させるなど、研究機関と政府機関への実験依頼を地道に重ねている。1956年に野菜・果物・食器洗い用の"ライポンF"として売り直したこの洗剤は、日本で初めて合成洗剤の新用途を開拓した商品となった。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [11]「ライポン」は昭和25年6月に工業用洗浄剤として、昭和26年10月に家庭用「絹,毛,化繊用」洗剤として発売されたが売上は伸び悩んだ
- [12]伸び悩みの理由は高級アルコール系が鉱油系より優れていると考えられていたことと、粉石鹸に対する割高感
- [13]昭和28年に伸び悩みの打開策として「野菜・食器洗浄用」の新用途を訴え、新しい需要を開拓する作戦を展開した
- [14]北海道大学農芸化学教室での苺の除菌効果、茨城県衛生課での食器器具類汚染の除去成果など、研究機関・政府機関への実験依頼とその成果の発表を地道に続けた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]昭和31年に食器・野菜・果物専用洗浄剤「ライポンF」を発売し、わが国で初めて合成洗剤の新用途を開発した
参考文献[1]-[15]
- 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
- [1]歯磨の総出荷実績は昭和33年度80億円、昭和37年度119億円。練歯磨が消費の中心となり粉歯磨は衰退した
- 上場会社総覧(1956年版)
- [2]ライオン歯磨の1954年11月期の売上高は26億4200万円(上下期合算・単体)
- 上場会社総覧(1959年版)
- [3]ライオン歯磨の売上高は1955年11月期25億7900万円、1957年11月期25億1300万円(上下期合算・単体)
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [4]新製品の発売や市場の立て直しへの努力にもかかわらず、業績は昭和29年をピークに減収減益傾向が続いた
- [5]朝鮮動乱で原料高の製品安となって資金繰りが極端に悪化し、原料油の暴落と仮需要の反動で致命的打撃を受けた
- [7]昭和26年9月に給料の3分割払いを実施した
- [8]昭和27年5月に社長・専務・常務15%、取締役10%、部長・次長5%の減給を決めた
- [9]昭和27年10月に50名の予定で希望退職を募り、申し出は92名、最終的に78名が退職した
- [10]マーガリンは昭和24年6月に平井工場へ月産900トンの設備を竣工したが、脱臭の品質問題と販売ルート未確立、経営危機による設備更新の遅れで他社に立ち遅れた
- [11]「ライポン」は昭和25年6月に工業用洗浄剤として、昭和26年10月に家庭用「絹,毛,化繊用」洗剤として発売されたが売上は伸び悩んだ
- [12]伸び悩みの理由は高級アルコール系が鉱油系より優れていると考えられていたことと、粉石鹸に対する割高感
- [13]昭和28年に伸び悩みの打開策として「野菜・食器洗浄用」の新用途を訴え、新しい需要を開拓する作戦を展開した
- [14]北海道大学農芸化学教室での苺の除菌効果、茨城県衛生課での食器器具類汚染の除去成果など、研究機関・政府機関への実験依頼とその成果の発表を地道に続けた
- 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
- [6]昭和27年から28年の各期の貸借対照表で短期借入金は6億2732万円から6億5499万円の水準にあり、資本金1億円を大きく上回っていた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]昭和31年に食器・野菜・果物専用洗浄剤「ライポンF」を発売し、わが国で初めて合成洗剤の新用途を開発した
1958年〜長期経営計画とブリストル・マイヤーズ社提携による歯磨の多角化
社長小林喜一氏の長男である小林敦氏は、米国留学を終えて1955年に帰国し、貿易課長を務めたのち1957年に取締役に就いていた。停滞する会社を立て直すには柔らかい発想を持つ若手に任せるしかない、と父は判断し、1958年6月、ライオン歯磨は副社長制を復活させて敦氏をその座に就けた。経営の全責任を事実上担った敦氏は、改革がしくじれば小林家のもとでのライオン歯磨はそこまでになる、という退路のない覚悟で臨んだ。掲げた「経営の近代化」は、組織の改革、経営計画づくり、経営を市場に近づけること、科学的なマーケティングの実践、社員の参画意識という5本の柱で構成された。1959年上期には創業以来はじめてとなる長期経営方針が示され、1959年下期から1966年下期までの7年半を第1次・第2次の二つの計画に割り振った。第2次計画の最終年は創業75周年の1966年に置かれた。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [16]小林敦は米国留学を終えて昭和30年10月に帰国し、貿易課長を経て昭和32年に取締役へ就任していた社長小林喜一の長男
- [17]社長小林喜一は、低迷しているライオン歯磨に活を入れるには柔軟性のある若い世代に経営を委ねることだと考えるようになっていた
- [18]昭和33年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任した
- [19]小林敦は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わると「背水の陣」を敷く覚悟であった
- [20]「経営の近代化」は組織改革、未来志向の経営計画の策定、経営の市場への接近、科学的マーケティングマネージメントの実践、社員の革新への参画意識の高揚の5要素からなる
- [21]昭和34年上期に創業以来初めての長期経営方針を提示し、34年下期から41年下期までの7年半を第1次計画(2年半)と第2次計画(5年)に分割した
- 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
- [22]副社長小林敦は1966年の鼎談で「今年は当社の七十五周年であると同時に、第二次長期五カ年計画の五年目」と述べている
多角化の相手に選んだブリストル・マイヤーズ社は、小林敦氏が米国留学中に企業研究の対象とした会社である。扱う商品分野がライオン油脂の石鹸・油脂事業と抵触しないこと、東南アジアへ共同進出できること、提携しなくとも日本進出は必至であることを挙げて、最有力候補と判じた。1965年の全米テレビ広告主で第2位に立つ宣伝力を持つ相手でもあった。交渉は1960年初に始まり契約の発効は1962年8月だったが、信頼関係が先にできていたため調印前の同年7月に液体整髪料"バイタリス"と制汗剤"バン"を発売している。提携商品の売上は1962年下期を100として1963年下期に1141まで伸び、全社の売上高も1961年11月期の41億1100万円から1964年11月期の111億1400万円へ増えた。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [23]ブリストル・マイヤーズ社は小林敦が米国留学中に企業研究の対象に選んだ会社であった
- [24]提携先選定の理由に、扱い商品分野をライオン油脂の石鹸・油脂事業に抵触しないようにできること、東南アジア等への共同進出の可能性、提携しなくても日本進出は必至であることが挙げられた
- [26]提携交渉は昭和35年初に始まり契約発効は37年8月だったが、対等のパートナーシップができていたため調印前の37年7月に「バイタリス」「バン」を生産販売した
- 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
- [25]前年度の米国テレビ広告主ランクでブリストル・マイヤーズは7670万ドルで全米第2位
- 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
- [27]ライオン・ブリストル提携商品(LB商品)の売上は昭和37年下期を100として38年下期に1141.5
- 会社年鑑(1967年版)
- [28]ライオン歯磨の売上高は1961年11月期41億1100万円、1964年11月期111億1400万円(上下期合算・単体)
以後の商品政策を貫いたのは用途別多様化という考え方で、その根拠は海外への派遣の報告にあった。ライオン油脂が1956年から1957年にかけて相次いで送り出したのは研究と生産の責任者で、行き先の米国と西ドイツはいずれも合成洗剤で先を行く国だった。報告によれば洗剤市場は、衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居用へと3つに割れていくとされ、商品政策はこの見立てに沿って組まれた。平井工場次長の植松重次郎氏は、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、この産業が大量生産と大量販売を絶対に必要とすることを報告に要約している。1961年には九州小倉、1964年には川崎に合成洗剤工場を建てた。粉石鹸の売上がピークに達した1959年に本格転換を決めたのは、主力が最も売れている時点でその主力を捨てる判断であった。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [29]昭和31年から32年にかけて合成洗剤の先進国であるアメリカと西ドイツを含む欧米へ研究や生産の責任者を相次いで派遣し洗剤市場を調査した
- [30]調査報告から、洗剤市場が衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居など衣類以外の洗剤の3つに分化するとの結論に達し、用途別多様化戦略を商品政策の基本方針とした
- [31]平井工場次長植松重次郎は欧米調査の報告で、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、マスプロとマスセールを絶対に必要とすることを挙げた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [32]昭和36年に九州小倉へ合成洗剤工場を新設し、39年に川崎で最新式の合成洗剤工場を完成させた
参考文献[16]-[32]
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [16]小林敦は米国留学を終えて昭和30年10月に帰国し、貿易課長を経て昭和32年に取締役へ就任していた社長小林喜一の長男
- [17]社長小林喜一は、低迷しているライオン歯磨に活を入れるには柔軟性のある若い世代に経営を委ねることだと考えるようになっていた
- [18]昭和33年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任した
- [19]小林敦は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わると「背水の陣」を敷く覚悟であった
- [20]「経営の近代化」は組織改革、未来志向の経営計画の策定、経営の市場への接近、科学的マーケティングマネージメントの実践、社員の革新への参画意識の高揚の5要素からなる
- [21]昭和34年上期に創業以来初めての長期経営方針を提示し、34年下期から41年下期までの7年半を第1次計画(2年半)と第2次計画(5年)に分割した
- [23]ブリストル・マイヤーズ社は小林敦が米国留学中に企業研究の対象に選んだ会社であった
- [24]提携先選定の理由に、扱い商品分野をライオン油脂の石鹸・油脂事業に抵触しないようにできること、東南アジア等への共同進出の可能性、提携しなくても日本進出は必至であることが挙げられた
- [26]提携交渉は昭和35年初に始まり契約発効は37年8月だったが、対等のパートナーシップができていたため調印前の37年7月に「バイタリス」「バン」を生産販売した
- [29]昭和31年から32年にかけて合成洗剤の先進国であるアメリカと西ドイツを含む欧米へ研究や生産の責任者を相次いで派遣し洗剤市場を調査した
- [30]調査報告から、洗剤市場が衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居など衣類以外の洗剤の3つに分化するとの結論に達し、用途別多様化戦略を商品政策の基本方針とした
- [31]平井工場次長植松重次郎は欧米調査の報告で、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、マスプロとマスセールを絶対に必要とすることを挙げた
- 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
- [22]副社長小林敦は1966年の鼎談で「今年は当社の七十五周年であると同時に、第二次長期五カ年計画の五年目」と述べている
- [25]前年度の米国テレビ広告主ランクでブリストル・マイヤーズは7670万ドルで全米第2位
- 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
- [27]ライオン・ブリストル提携商品(LB商品)の売上は昭和37年下期を100として38年下期に1141.5
- 会社年鑑(1967年版)
- [28]ライオン歯磨の売上高は1961年11月期41億1100万円、1964年11月期111億1400万円(上下期合算・単体)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [32]昭和36年に九州小倉へ合成洗剤工場を新設し、39年に川崎で最新式の合成洗剤工場を完成させた
1967年〜タイでの現地生産と、花王石鹸を追う二社の共同化
戦後の海外進出はタイへの技術援助から始まった。1958年11月、バンコクの代理店サハ社がライオン"ピンクシャンプー"の充填工場を建てることになり、ライオン油脂が技術指導を行った。1967年12月、同社はサハ社との合弁で泰国獅王油脂有限公司を設立する。資本金400万バーツ、出資比率は折半で、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ氏が就任した。現地生産を勧めたのはティアム氏の側である。リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが1963年頃に相次いで現地生産へ移り、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたため、洗剤の輸出が激減していた。派遣された日本人は2人だけで、できるだけ経営の表面に立たない方式を採った。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [33]ライオン油脂の戦後の海外進出はタイへの技術援助からスタートした
- [34]昭和33年11月にバンコクの現地代理店サハ社がライオン「ピンクシャンプー」充填工場を建設し、ライオン油脂がその技術指導を行った
- ライオン 有価証券報告書【沿革】
- [35]1967年12月 サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)を設立
- 日経ビジネス(1974年8月19日号)
- [36]タイ・ライオン油脂は資本金400万バーツ、出資比率50対50で設立され、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ社長が就任した
- [37]サハ社のティアム社長がライオン油脂に現地生産を勧め、タイ・ライオン油脂の設立に踏み切った
- [38]リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが昭和38年ごろ相次いでタイでの現地生産に乗り出し、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたためライオン油脂の洗剤輸出は激減した
- [39]タイ・ライオン油脂は設立当初から日本人の派遣は2人だけで、できるだけ経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を採った
同じ多角化でも、食品は続かなかった。1964年3月、牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分で済む日本初のインスタントプディング"ママプリン"を発売し、1966年にはライオン食品株式会社を設立した。しかし販売店の店頭を直接管理するマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が重く、1969年8月、設立から3年で資本金1億円を500万円へ減資せざるをえなくなった。追い討ちをかけたのが同年10月の厚生省によるチクロの食品使用禁止措置で、食品事業の収益源だった"ママプリン"は市場からの回収と在庫処分を迫られ、1969年の売上は3年前の水準へ逆戻りし、決算は大幅赤字となった。立て直しは1971年のドレッシング導入から始まり、翌1972年にはタマノ井酢との資本提携へ進んだ。
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [40]昭和39年3月に「ママプリン」を市場導入。牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分の20分で済む日本最初のインスタントプディングであった
- [41]食品事業の本格展開のためライオン食品株式会社を設立した
- [42]セールスが直接販売店の販売管理・店頭管理を行うマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が大きく、昭和44年8月に資本金1億円を500万円へ減資した(設立から3年)
- [43]昭和44年10月の厚生省による「チクロの食品への使用禁止」措置で「ママプリン」の回収と在庫処分が必要となり、44年の売上げは3年前の水準に逆戻りして決算は大幅赤字となった
- 日経ビジネス(1972年7月10日号)
- [44]ライオン歯磨は2年前から脱本業政策を推進し、ドレッシングの下請け交渉から発展してタマノ井酢との資本提携に及んだ
1971年、ライオン油脂の直近2期を合わせた年間売上は488億2000万円に達し、首位の花王石鹸の577億800万円との差は88億円余りまで縮まった。5年前の開きは売上で約半分、経常利益で3分の1だった。同じ年のライオン歯磨の売上高は361億9400万円で、分家が本家を上回った。1970年に業界を席巻した酵素入り洗剤には、売れ行きに自信がないとして唯一参入せず、各社が1年で撤収する事態を免れた。花王が問屋と共同で販売網を作った際には、その反発を逆用して問屋内に"ライオン油脂製品部"を置かせ、約300問屋に自社製品を専門販売させている。二社は1967年に家庭用品の販売会社を共同出資で設立し、1971年には首脳の"AL会"で共同宣伝と原材料の共同購入を始めていた。首位を追う位置は、二社を一つへ寄せる力にもなった。
- 日経ビジネス(1971年8月9日号)
- [45]ライオン油脂の最近2期(昭和45年12月・46年6月)合計の年間売上は488億2000万円、花王石鹸は2期合計577億800万円でその差は88億円余り
- [46]5年前のライオン油脂は花王石鹸の売上の約半分、経常利益は3分の1程度であった
- [48]昭和45年に酵素入り洗剤が業界を風靡し花王はじめ各社が参入したがライオン油脂のみ「売れ行きに自信がない」として参入を見送り、各社が1年で撤収する事態を免れた
- [49]花王が問屋と共同で販売網を作った際の反発を逆用し、問屋内に「ライオン油脂製品部」を設けさせ全国約300問屋にライオン製品を専門販売させる体制を取った
- [51]両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設けて毎月1回経営戦略を総合的に検討し、共同宣伝・電算機ソフトウエアの交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まった
- 会社年鑑(1976年版)
- [47]ライオン歯磨の1971年11月期の売上高は361億9400万円(上下期合算・単体)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [50]昭和42年に姉妹会社のライオン歯磨と共同出資でライオンハウスホールド株式会社を設立し、家庭用関連品の販売を開始した
参考文献[33]-[51]
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- [33]ライオン油脂の戦後の海外進出はタイへの技術援助からスタートした
- [34]昭和33年11月にバンコクの現地代理店サハ社がライオン「ピンクシャンプー」充填工場を建設し、ライオン油脂がその技術指導を行った
- [40]昭和39年3月に「ママプリン」を市場導入。牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分の20分で済む日本最初のインスタントプディングであった
- [41]食品事業の本格展開のためライオン食品株式会社を設立した
- [42]セールスが直接販売店の販売管理・店頭管理を行うマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が大きく、昭和44年8月に資本金1億円を500万円へ減資した(設立から3年)
- [43]昭和44年10月の厚生省による「チクロの食品への使用禁止」措置で「ママプリン」の回収と在庫処分が必要となり、44年の売上げは3年前の水準に逆戻りして決算は大幅赤字となった
- ライオン 有価証券報告書【沿革】
- [35]1967年12月 サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)を設立
- 日経ビジネス(1974年8月19日号)
- [36]タイ・ライオン油脂は資本金400万バーツ、出資比率50対50で設立され、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ社長が就任した
- [37]サハ社のティアム社長がライオン油脂に現地生産を勧め、タイ・ライオン油脂の設立に踏み切った
- [38]リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが昭和38年ごろ相次いでタイでの現地生産に乗り出し、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたためライオン油脂の洗剤輸出は激減した
- [39]タイ・ライオン油脂は設立当初から日本人の派遣は2人だけで、できるだけ経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を採った
- 日経ビジネス(1972年7月10日号)
- [44]ライオン歯磨は2年前から脱本業政策を推進し、ドレッシングの下請け交渉から発展してタマノ井酢との資本提携に及んだ
- 日経ビジネス(1971年8月9日号)
- [45]ライオン油脂の最近2期(昭和45年12月・46年6月)合計の年間売上は488億2000万円、花王石鹸は2期合計577億800万円でその差は88億円余り
- [46]5年前のライオン油脂は花王石鹸の売上の約半分、経常利益は3分の1程度であった
- [48]昭和45年に酵素入り洗剤が業界を風靡し花王はじめ各社が参入したがライオン油脂のみ「売れ行きに自信がない」として参入を見送り、各社が1年で撤収する事態を免れた
- [49]花王が問屋と共同で販売網を作った際の反発を逆用し、問屋内に「ライオン油脂製品部」を設けさせ全国約300問屋にライオン製品を専門販売させる体制を取った
- [51]両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設けて毎月1回経営戦略を総合的に検討し、共同宣伝・電算機ソフトウエアの交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まった
- 会社年鑑(1976年版)
- [47]ライオン歯磨の1971年11月期の売上高は361億9400万円(上下期合算・単体)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [50]昭和42年に姉妹会社のライオン歯磨と共同出資でライオンハウスホールド株式会社を設立し、家庭用関連品の販売を開始した
筆者考察
一人の創業者から分かれた二つの会社は、同じ30年を別々の速さで走った。本家のライオン歯磨は歯磨で全国の半分近い市場を握りながら、1954年から3年続けて売上を落とした。分家のライオン油脂は朝鮮動乱の反動で資金が詰まり、78人の希望退職者を送り出すところまで追い込まれた。そこから先の立ち直りの手は対照的である。歯磨は米国のブリストル・マイヤーズ社から整髪料と制汗剤を借りて事業の数を増やし、油脂は洗濯用として売れなかった洗剤を台所用へ充当して用途の数を増やした。借りた事業は食品で行き詰まり、充当した用途のほうは合成洗剤の全域へ広がった。他人の商品を並べるより、自社の一品を別の使い道で売り直すほうが遠くまで行けた30年だった。
1971年、油脂の年間売上488億円は歯磨の361億円を追い越し、首位の花王石鹸との差を88億円まで詰めていた。分家が本家を抜いたのは、追う側の位置を使い切ったからである。酵素入り洗剤が業界を席巻したときは一社だけ参入せず、各社が1年で撤収するのを横目に無傷で残った。花王が問屋と販売網を組んだときは、そこで生じた反発を引き取って自社の製品部を問屋の中に置いた。どちらも、先に動いた相手がいて初めて成り立つ手である。正面から当たらずに済む位置は、2位にしか与えられない。二つの会社が毎月の会合で共同購入と共同宣伝を始めたとき、10年後の合併までの距離はもう短くなっていた。
- 出所は上場会社総覧 1956年版・1959年版・1961年版と会社年鑑 1963年版・1967年版・1971年版・1976年版(各期とも上下期の合算)。
1950年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1950年11月期 | 単体 | 8 | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年11月期 | 単体 | 13 | +49.1% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年11月期 | 単体 | 18 | +37.7% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年11月期 | 単体 | 25 | +37.0% | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年11月期 | 単体 | 26 | +4.6% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年11月期 | 単体 | 25 | ▲2.4% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年11月期 | 単体 | 26 | +2.7% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年11月期 | 単体 | 25 | ▲5.1% | 0 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年11月期 | 単体 | 25 | +3.2% | 0 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年11月期 | 単体 | 31 | +20.2% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年11月期 | 単体 | 36 | +16.4% | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 41 | +13.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 55 | +35.9% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | 86 | +54.1% | n/a | n/a | 4 | 5.2% | n/a |
| 1964年11月期 | 単体 | 111 | +29.1% | n/a | n/a | 6 | 5.5% | n/a |
| 1965年11月期 | 単体 | 135 | +21.9% | n/a | n/a | 5 | 4.3% | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | 177 | +31.3% | n/a | n/a | 8 | 4.6% | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 218 | +23.1% | n/a | n/a | 10 | 4.8% | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 232 | +6.2% | n/a | n/a | 10 | 4.4% | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 248 | +6.8% | n/a | n/a | 11 | 4.6% | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 302 | +21.9% | n/a | 30 | 16 | 5.3% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 361 | +19.5% | n/a | 38 | 16 | 4.6% | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 431 | +19.1% | n/a | 40 | 23 | 5.5% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 509 | +18.2% | n/a | 46 | 27 | 5.3% | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 602 | +18.3% | n/a | 31 | 16 | 2.7% | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 691 | n/a | n/a | 35 | 14 | 2.0% | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 695 | +0.6% | n/a | 32 | 15 | 2.2% | n/a |
| 1978年11月期 | 単体 | 740 | +6.5% | n/a | 39 | 17 | 2.3% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 431 | ▲41.8% | n/a | 23 | 11 | 2.6% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、上場会社総覧 1959年版、上場会社総覧 1961年版、会社年鑑 1963年版、1967年版、会社年鑑 1967年版、1971年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版、会社年鑑
出典・参考
13件
- ライオン 有価証券報告書【沿革】
- ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
- 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
- 上場会社総覧(1956年版)
- 上場会社総覧(1959年版)
- 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
- 会社年鑑(1967年版)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 会社年鑑(1976年版)
- 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
- 日経ビジネス(1971年8月9日号)
- 日経ビジネス(1972年7月10日号)
- 日経ビジネス(1974年8月19日号)