小林富次郎(初代)
経歴1877〜1910年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1877年主要役職の状況(推定含む目安)1910年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 鳴春舎 | 1877 | 職工として入社 | ||
| 1879 | 支配人(株式会社への改組時) | ||||
| 播磨商店(鳴行社) | 1885 | 石鹸部の共同経営者 | |||
| 小林富次郎商店(現・ライオン) | 1891 | 本所小泉町で石鹸・マッチ原料の取次店を開業。店主 | |||
| 1891 | 設立 | ||||
| 1910 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1852年、酒造業を営む両親の寄留先だった武蔵国北足立郡与野に生まれ、4歳から16歳までは原籍地の越後国中頸城郡柿崎村で祖母のもとに育った。1868年に与野へ呼び戻されて父と兄の酒造業を手伝ったが、家業は幕府役人の検査で科された罰金で傾き、新たに参入した養蚕と養豚でも大きな損失を出した。負債の整理のために郷里の家財を処分して酒造業から撤退し、以後は投機に関わらないと決めた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
1877年、25歳の小林富次郎氏は資本も伝手もないまま上京し、向島小梅で堀江小十郎氏が営む石鹸工場の鳴春舎に職工として入った。石鹸は世の中が進むほど需要が増す有望な事業だと見込んでの選択であった。まもなく問屋への売り込みと新規の販売先の開拓を任され、翌年には出資者の1人に加わった。1879年に鳴春舎が資本金3万円の株式会社に改組されると、支配人に就任した。
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章1 初代小林富次郎,苦闘の前半生
- [4]明治10年、25歳のとき裸一貫で上京し、向島小梅の堀江小十郎経営の鳴春舎石鹸工場に一職工として入った。「石鹸の製造事業は世の中が進むにつれてその需要が増していくことは確実で有望な事業である」と信じた。やがて販売係となり、その翌年、出資者の1人となった
- [5]明治10年、25歳のとき裸一貫で上京し、向島小梅の堀江小十郎経営の鳴春舎石鹸工場に一職工として入った。「石鹸の製造事業は世の中が進むにつれてその需要が増していくことは確実で有望な事業である」と信じた。やがて販売係となり、その翌年、出資者の1人となった
- [6]明治10年、25歳のとき裸一貫で上京し、向島小梅の堀江小十郎経営の鳴春舎石鹸工場に一職工として入った。「石鹸の製造事業は世の中が進むにつれてその需要が増していくことは確実で有望な事業である」と信じた。やがて販売係となり、その翌年、出資者の1人となった
- [7]明治12年、鳴春舎を資本金3万円の株式会社に改め、社長は堀江氏、富次郎はその支配人となった
その後、横浜の松村清吉氏から5,000円の出資を受けて上海での石鹸製造を計画したが、取引先だった神戸の石鹸業者、播磨幸七氏から協業を求められ、1885年の暮れに神戸へ移った。播磨氏の鳴行社では石鹸部を受け持ち、1886年には香港に支店を開設した。現地で日本製マッチの軸木と箱の品質の低さを知ると、帰国後に播磨氏を説いて軸木の製造に参入し、1889年に宮城県石巻の工場へフランス製の大型軸木機械を据えた。だが1890年8月の北上川の大洪水で1年分の原木の筏を流失し、事業は失敗に終わった。工場を縮小して後事を託し、自らは責任を取って職を辞し、同年秋に東京へ引き揚げた。
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章1 初代小林富次郎,苦闘の前半生
- [8]松村清吉氏が5000円の出資を申し出て上海で石鹸製造事業を画策したが、神戸の石鹸製造業者・播磨幸七氏から協議を求められ、播磨氏と共同して鳴行社石鹸部を経営することになり、明治18年の暮れに神戸移住に踏み切った
- [9]明治19年、石鹸・燐寸の販路を開くため香港に支店を出した。日本製燐寸は軸木と箱の品質が粗悪であることがわかり、軸木改良の急務を痛感。その後、播磨氏を説いて軸木製造の事業を起こさせ、みずからその衝にあたった
- [10]明治19年、石鹸・燐寸の販路を開くため香港に支店を出した。日本製燐寸は軸木と箱の品質が粗悪であることがわかり、軸木改良の急務を痛感。その後、播磨氏を説いて軸木製造の事業を起こさせ、みずからその衝にあたった
- [11]北上川の水運の便がある宮城県石巻港に工場設置を決定し、東京の新燧社からフランス製の新式大軸木機械を買い入れて据えつけ、大規模な製造に着手したのは明治22年
- [12]明治23年8月の大洪水で1年分の原木に相当する筏を流失。機械を売却して工場を縮小し、後事を託して自分は責任をとり職を辞し、明治23年の秋に東京に引き揚げた
- [13]明治23年8月の大洪水で1年分の原木に相当する筏を流失。機械を売却して工場を縮小し、後事を託して自分は責任をとり職を辞し、明治23年の秋に東京に引き揚げた
眼病で一時は失明に近い状態に陥り、約8カ月の療養で片目の視力を取り戻した。播磨氏から商売の再開を勧められると、東京の石鹸業者が30〜40軒に増加し、鳴春舎時代の部下や神戸以来のマッチ業者との縁も多いことから、石鹸とマッチの原料の取次業を選んだ。1891年4月に本所小泉町で小さな取次店を開設して自ら得意先を回り、扱う牛蝋・椰子油・苛性ソーダ・香料・軸木などは大半が播磨商店と横浜の松村商店から預かった委託の商品だった。同年10月30日に神田柳原河岸へ店舗を移して新たに発足し、ライオンはこの日を創業記念日としている。
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章1・2
- [14]両眼を患い一時はほとんど失明の状態となった。東京で病気の回復に専念し、8カ月ほどで一眼だけは回復した
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章2 小林富次郎商店の創業
- [15]播磨幸七氏が商売を勧め、富次郎は東京の石鹸業者が30〜40軒にふえ鳴春舎時代の人たちが活躍しており、燐寸業者にも神戸以来の懇意な人が多いので石鹸と燐寸の原料の取次業が好都合と答えた。明治24年4月、本所小泉町に石鹸および燐寸原料取次販売の小さな店を開き、みずから得意先回りをした
- [16]播磨幸七氏が商売を勧め、富次郎は東京の石鹸業者が30〜40軒にふえ鳴春舎時代の人たちが活躍しており、燐寸業者にも神戸以来の懇意な人が多いので石鹸と燐寸の原料の取次業が好都合と答えた。明治24年4月、本所小泉町に石鹸および燐寸原料取次販売の小さな店を開き、みずから得意先回りをした
- [17]明治24年10月30日、神田柳原河岸に店舗を見つけて新発足した。取扱商品は牛蝋、椰子油、苛性曹達、香料、軸木、塩酸加里、赤燐などで、主に播磨商店や横浜の松村商店からの委託品。現在この日を創業記念日としている。明治26年には養嗣子徳治郎を呼びもどし副店主とした
- [18]明治24年10月30日、神田柳原河岸に店舗を見つけて新発足した。取扱商品は牛蝋、椰子油、苛性曹達、香料、軸木、塩酸加里、赤燐などで、主に播磨商店や横浜の松村商店からの委託品。現在この日を創業記念日としている。明治26年には養嗣子徳治郎を呼びもどし副店主とした
1892年には横浜の英国商館からコプラ20トンを買い入れて椰子油を採り、国産品と明示したうえで輸入品より安く売り込んだ。1893年2月には小石川久堅町に石鹸工場を建て、同年には養嗣子の徳治郎氏を副店主に迎えた。販売担当者が、人気の歯磨が月3,000円を売り上げる一方で自店の石鹸は月1,200円前後にとどまると伝えたことを受け、歯磨への参入に踏み切った。1896年3月に「獅子印ライオン歯磨」の商標を登録し、同年7月に新宿工場で粉歯磨の製造を始めた。発売後1〜2年は返品による損失にも苦しんだが、石鹸の利益を販路の拡張に充て、1898年には月の売上高が3,000円に達した。
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章2 小林富次郎商店の創業
- [19]明治25年、横浜・英一番館から20トンのコプラを買い入れ、埼玉県の大畑製油所で採油した。最初から国産品の表示をし、品質は少し劣るが値段は安いとありのままを打ち明けて販売した
- [20]明治24年10月30日、神田柳原河岸に店舗を見つけて新発足した。取扱商品は牛蝋、椰子油、苛性曹達、香料、軸木、塩酸加里、赤燐などで、主に播磨商店や横浜の松村商店からの委託品。現在この日を創業記念日としている。明治26年には養嗣子徳治郎を呼びもどし副店主とした
- [21]明治26年2月14日、新たに石鹸工場を小石川久堅町161番地に建設した
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章3 ライオン歯磨の発売
- [22]販売担当者たちは、ダイヤモンド歯磨が月額3000円の売上げがあると聞き、石鹸はせいぜい月額1200円ぐらいの売上げしかないことから歯磨は有望な事業と目をつけた。副店主徳治郎らが熱心に勧め、歯磨の製造・発売に踏み切った
- [23]明治29年7月、初めて新宿工場において歯磨の製造に着手。最初の製品は粉歯磨だけ。「獅子印ライオン歯磨」の商標を登録したのが明治29年3月、発売に踏み切ったのが同年7月
- [24]発売後、北海道地方からの返品で損害が生じるなど苦労がつづき、石鹸販売による利益を歯磨の販路拡張につぎこんだ。2年目に折り返し注文がきはじめ、3年目の明治31年に1カ月の売上高3000円に及んだ
1900年に腸チフスで重態に陥ったのち、余生を社会への奉仕に充てると決め、同年9月に3銭の袋入り歯磨の裏面へ1枚1厘の慈善券を付けて発売した。1910年12月13日、創業の地である神田柳原河岸の店舗の2階で59歳で死去し、同月19日に徳治郎氏が襲名して二代目となった。
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章 慈善券付ライオン歯磨袋入の発売
- [25]明治33年、富次郎は腸チフスで重態におちいり、快方に向かったとき余生を神と人とにささげ社会の幸福に奉仕しようという信念をもった。明治33年9月15日、三銭定価の空袋の裏面に1枚1厘の慈善券を印刷した「慈善券附ライオン歯磨袋入」の発売を得意先に告知した
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章7 初代小林富次郎の永眠
- [26]創業の地である神田柳原河岸の店舗の2階座敷で、明治43年12月13日に昇天。享年59歳
- ライオン100年史 いつも暮らしの中に(ライオン、1992年)
- [27]明治43年(1910年)12月13日に初代富次郎が永眠。葬儀を終えた12月19日、徳治郎が二代富次郎を襲名した
参考文献2件
参考文献
- ライオン歯磨八十年史(ライオン歯磨, 1973)第1章 創業前後
- ライオン100年史 いつも暮らしの中に(ライオン、1992年)
事実根拠:出所(ライオン)