第1章 年〜年

オリエンタルランド:浦安沖の埋立とディズニーとの独占契約

1958年〜沿線開発の延長として構想された浦安沖の埋立

株式会社オリエンタルランドの出資者は、京葉工業地帯で交通網と商業地・住宅地を開発していた京成電鉄、同地帯の埋立を担っていた三井不動産、そして船橋地区を埋め立てて船橋ヘルスセンターを営んでいた朝日土地興業の3社である。話の発端は1960年で、朝日土地興業の丹沢善利社長と京成電鉄の川崎千春社長が、三井不動産社長の江戸英雄氏のもとへ話を持ち込んだ。浦安地区で予定される200数十万坪の埋立のうち、東京寄りの約63万坪はレジャー用地に充てる、というのが千葉県の許可に付いた条件であり、その事業を3社共同の新会社で担おうという提案だった。会社は同年7月、2億5,000万円の資本金で発足している。定款が掲げた目的は千葉県浦安沖の海面を埋め立て、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設の建設を行うことだった。創業期の実態は、集客事業の運営会社ではなく用地造成の交渉組織である。

  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [1]設立母体は京成電鉄・三井不動産・朝日土地興業の3社で、朝日土地興業は1970年に三井不動産へ吸収合併された
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [2]1960年、朝日土地興業の丹沢善利社長と京成電鉄の川崎千春社長が三井不動産の江戸英雄社長に対し、浦安地区200数十万坪のうち東京に近い約63万坪をレジャー施設にする条件で県の許可が下りたとして、3社で別会社を作るよう誘った
  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
    • [3]1960年7月 資本金2億5,000万円にて株式会社オリエンタルランドを設立
    • [4]設立目的は浦安沖の海面埋立、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設の建設

川崎千春氏は1927年に東京帝国大学経済学部を卒業して川崎信託に入り、証券と不動産を扱った経験から、1939年に京成電気軌道へ移った後も副業に力を入れた。日本の私鉄経営は、鉄道単独では成り立たず、地域開発を含む副業全般によって全体が発展してきた業態である。運賃は運輸省が決めるため物価の変動に合わせて上げられず、赤字が続く局面を不動産事業が支える必要があった。1958年に社長へ就任した川崎氏は不動産・観光・流通へ事業を拡大し、上野駅の隣接地に京成会館を建ててホテルと結婚式場を営み、那須と房州館山にも観光施設を抱えていた。浦安沖の埋立も、その副業群の延長線上に置かれていた。

  • 日経ビジネス 1979年8月13日号
    • [5]川崎千春は1927年東京大学経済学部卒・川崎信託入社、1939年に京成電気軌道の後藤圀彦社長に招かれて転じ、1940年に京成本社へ入社した
    • [6]川崎千春は、日本の私鉄経営は副業全般・地域開発を含めて鉄道業全体が発展してきたと述べた
    • [7]運賃は運輸省が決めるため物価変動に応じた値上げができず、赤字経営が続く局面を副業がバックアップする必要があった
    • [8]1958年11月に川崎千春が京成電鉄社長へ就任し、不動産・観光・流通事業へ事業を広げた
  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
    • [9]京成電鉄は上野駅隣接地の京成会館でホテル・結婚式場・レストラン・映画館を営み、那須温泉と房州館山にも観光施設を持っていた

浦安を選んだ理由は、東京への近さにあった。浦安は千葉県で東京に最も近い場所であり、1963年の時点で、銀座から月島を経て埋立地の中央を貫く幅員100メートルの高速道路が建設省の計画に入っていた。この道路を使えば銀座から15分で着く。京成電鉄は同じ時期に筑波山で2万坪、館山で20万坪の用地を確保しており、資金が逼迫していたため土地だけを先に押さえ、順に手を付ける方針をとっていた。この立地は後年、都心から10キロメートル、半径50キロメートル圏に東京・千葉・埼玉・神奈川の主要都市を含む条件として、会社が挙げる優位の第一になった。浦安の埋立地も、まず用地を握り、用途は後から決める対象だった。

  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
    • [10]川崎千春は、浦安が千葉県で東京に最も近く、銀座から月島を経て埋立地の中央を貫く幅員100メートルの高速道路の計画があり、銀座から15分で行けるようになると述べた
    • [11]川崎千春は、筑波山で2万坪、館山で20万坪の用地を確保したが資金が逼迫しているため土地だけを確保して順に着手すると述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
    • [12]都心から10km、半径50km圏内に東京・千葉・埼玉・神奈川の主要都市を含む立地条件を、会社は優位の第一に挙げている
参考文献[1]-[12]
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [1]設立母体は京成電鉄・三井不動産・朝日土地興業の3社で、朝日土地興業は1970年に三井不動産へ吸収合併された
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [2]1960年、朝日土地興業の丹沢善利社長と京成電鉄の川崎千春社長が三井不動産の江戸英雄社長に対し、浦安地区200数十万坪のうち東京に近い約63万坪をレジャー施設にする条件で県の許可が下りたとして、3社で別会社を作るよう誘った
  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
    • [3]1960年7月 資本金2億5,000万円にて株式会社オリエンタルランドを設立
    • [4]設立目的は浦安沖の海面埋立、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設の建設
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号
    • [5]川崎千春は1927年東京大学経済学部卒・川崎信託入社、1939年に京成電気軌道の後藤圀彦社長に招かれて転じ、1940年に京成本社へ入社した
    • [6]川崎千春は、日本の私鉄経営は副業全般・地域開発を含めて鉄道業全体が発展してきたと述べた
    • [7]運賃は運輸省が決めるため物価変動に応じた値上げができず、赤字経営が続く局面を副業がバックアップする必要があった
    • [8]1958年11月に川崎千春が京成電鉄社長へ就任し、不動産・観光・流通事業へ事業を広げた
  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
    • [9]京成電鉄は上野駅隣接地の京成会館でホテル・結婚式場・レストラン・映画館を営み、那須温泉と房州館山にも観光施設を持っていた
    • [10]川崎千春は、浦安が千葉県で東京に最も近く、銀座から月島を経て埋立地の中央を貫く幅員100メートルの高速道路の計画があり、銀座から15分で行けるようになると述べた
    • [11]川崎千春は、筑波山で2万坪、館山で20万坪の用地を確保したが資金が逼迫しているため土地だけを確保して順に着手すると述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
    • [12]都心から10km、半径50km圏内に東京・千葉・埼玉・神奈川の主要都市を含む立地条件を、会社は優位の第一に挙げている

1962年〜埋立11年が固定した回収の時間

千葉県との合意までには2年を要した。1962年7月、会社は千葉県と浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定を締結し、1964年9月に浦安沖の海面埋立造成工事を開始している。江戸英雄氏は出資をためらったが、実際に施設ができるのは10年、20年先の話で、そのときには情勢が変わっているという朝日土地興業の丹沢善利氏の説得を受け入れた。オリエンタルランドは三井不動産が1958年3月に始めた埋立事業の延長線上に置かれた会社でもある。設立から着工までの4年間、会社に売上を生む事業は無く、施設を運営する前に用地の造成という土木事業を引き受けた組織だった。

  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
    • [13]1962年7月 千葉県と「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結
    • [14]1964年9月 浦安沖の海面埋立造成工事を開始
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [15]丹沢善利は江戸英雄に対し、実際にできるのは10年・20年先の話でそのときには情勢が変わっていると説き、出資を承諾させた
    • [16]三井不動産は1958年3月から埋め立て事業に進出していた

造成工事が完了したのは着工から11年後の1975年11月で、設立からは15年が経っていた。千葉県からオリエンタルランドへの埋立地の分譲は1970年3月に始まり、分譲を受けた住宅用地の販売は1972年12月に始まっている。同じ時期、親会社の京成電鉄は不動産と百貨店が石油危機で打撃を受け、1975年度以降は赤字に転じ、1977年度には93億6,000万円の経常損失を計上して創業以来初めて無配へ転じた。レジャー施設の収入がまだ無いオリエンタルランドを支えたのは造成地の分譲であり、用地が完成した時点で、開発資金を出す側の体力は失われていた。

  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
    • [17]1975年11月 浦安沖の海面埋立造成工事が完了
    • [18]1970年3月 千葉県からオリエンタルランドへの埋立地の分譲が開始
    • [19]1972年12月 千葉県から分譲を受けた埋立地(住宅用地)の販売を開始
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号
    • [20]京成電鉄は1975年度以降赤字に転じ、1977年度に93億6,000万円の経常損失を計上して創業70余年で初の無配となった

三井不動産の江戸英雄氏は、面積が60万坪を上回る規模のレジャー施設を日本で実現するのはまず無理だと見ていた。それでも、レジャー施設を手がけた経験があるので任せてほしいという川崎千春氏の説得を受け、気の進まないまま同意していた。その後、出資3社の一角だった朝日土地興業が抜け、1970年に三井不動産に吸収合併されている。持株比率は京成電鉄が52%、三井不動産が48%に落ち着いた。つまり造成を終えた段階で、株式のほぼ半分を握る株主が、計画の成否に疑いを抱いたままだった。

  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [21]江戸英雄は60万坪以上のレジャー施設は日本では実現不可能と考えたが、川崎千春からレジャー施設の経験があるから任せてほしいと説かれ、しぶしぶ承諾した
    • [23]朝日土地興業が1969年に脱落し、株式は京成電鉄52%・三井不動産48%となった
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [22]朝日土地興業は1970年に三井不動産へ吸収合併された
参考文献[13]-[23]
  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
    • [13]1962年7月 千葉県と「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結
    • [14]1964年9月 浦安沖の海面埋立造成工事を開始
    • [17]1975年11月 浦安沖の海面埋立造成工事が完了
    • [18]1970年3月 千葉県からオリエンタルランドへの埋立地の分譲が開始
    • [19]1972年12月 千葉県から分譲を受けた埋立地(住宅用地)の販売を開始
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [15]丹沢善利は江戸英雄に対し、実際にできるのは10年・20年先の話でそのときには情勢が変わっていると説き、出資を承諾させた
    • [16]三井不動産は1958年3月から埋め立て事業に進出していた
    • [21]江戸英雄は60万坪以上のレジャー施設は日本では実現不可能と考えたが、川崎千春からレジャー施設の経験があるから任せてほしいと説かれ、しぶしぶ承諾した
    • [23]朝日土地興業が1969年に脱落し、株式は京成電鉄52%・三井不動産48%となった
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号
    • [20]京成電鉄は1975年度以降赤字に転じ、1977年度に93億6,000万円の経常損失を計上して創業70余年で初の無配となった
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [22]朝日土地興業は1970年に三井不動産へ吸収合併された

1973年〜レジャー施設の選定からディズニーとの業務提携、開業へ

埋立工事と並行して、会社は海外にレジャー施設の調査団を派遣し、具体的な施設の検討作業を行った。会社を設立した目的としては、埋立地の造成と商業地・住宅地の開発に加え、大規模なレジャー施設をつくって国民の福祉・厚生・文化の向上に役立てることが定められていた。もっとも、その施設の中身は早くから固まっていたわけではない。川崎千春氏が1963年時点で描いていたのは、ゴルフ場に熱帯植物園、ロープウェイを組み合わせた、当時よくある観光地の姿だった。のちに世代を問わず家族で楽しめる娯楽を理念の柱に据えると、それを最もよく体現するのはディズニーランドだと判断し、誘致に動き出している。10年余りの検討のあいだに、構想は遊戯設備を寄せ集める形から、一つのテーマで全体をまとめる形へ変わった。

  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [24]埋立と並行して海外にレジャー施設の調査団を派遣し、具体的なレジャー施設の検討作業を行った
    • [25]1960年に千葉県浦安沖の埋立を行い、商業地・住宅地の開発と大レジャー施設の建設によって国民の文化・厚生・福祉に寄与することを目的として設立された
    • [27]ファミリーエンターテインメントを基本理念とし、世代を超えて楽しめるディズニーランドが構想に一番近いとの結論に達して誘致活動を開始した
  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
    • [26]川崎千春は1963年時点で、館山にゴルフ場・熱帯植物園・観光ホテル、筑波山にゴルフ場・レストハウス・ロープウェイを設ける構想を語っていた

1973年12月、三井不動産はディズニー・プロダクションのテイタム会長とウォーカー社長ら首脳7人を招き、まず現地を見てもらうことを説得の第一歩とした。当時、三菱グループが富士山麓の富士スピードウェイの土地を開発するにあたってディズニーの知恵を借りようとしていたが、浦安の現地を視察した一行はこちらに乗り気になり、浦安の計画へ協力することになった。米国以外の土地でディズニーランドの建設を許可してもらえるかどうかは、三井不動産側の当初からの懸念だった。1979年、会社は米国法人ウォルト・ディズニー・プロダクションズとの間で、東京ディズニーランドのライセンス、設計、建設及び運営に関する業務提携の契約を締結した。

  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [28]1973年12月、ディズニー・プロダクションのテイタム会長・ウォーカー社長ら首脳7人を招き、浦安の現地を視察させた
    • [29]当時三菱グループが富士スピードウェイの土地開発でディズニーの知恵を借りようとしていたが、浦安を視察した一行が乗り気になり浦安の計画に協力することになった
    • [30]江戸英雄は、米国以外の土地でディズニーランドの建設を許可してもらえるかどうかを心配していた
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [31]1979年、米国法人ウォルト・ディズニー・プロダクションズと東京ディズニーランドのライセンス・設計・建設・運営に関する業務提携契約を締結した

1980年12月に建設へ着工し、1983年4月、日本初のテーマパークである東京ディズニーランドが開園した。設立から23年、埋立の着工からは19年が経っている。開園初年度から入園者は1,000万人を超え、営業は順調に立ち上がった。これに先立つ1979年、会社は千葉県浦安町にショッピングセンターのユニモールとパークスクエアを開設し、商業施設の賃貸事業を始めていた。埋立地を抱えた会社は、造成地を分譲して数年で回収することもできたが、その上で客を集めて数十年かけて回収するほうを選んだ。回収の時間は設立時よりさらに遠くへ延びた。

  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [32]1983年4月 日本初のテーマパーク「東京ディズニーランド」を開園(1980年12月着工)
    • [33]東京ディズニーランドは開園初年度から1,000万人を超える入園者を記録した
    • [34]1979年に千葉県浦安町でショッピングセンター「ユニモール」「パークスクエア」を開設し、商業施設の賃貸事業を開始した
参考文献[24]-[34]
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
    • [24]埋立と並行して海外にレジャー施設の調査団を派遣し、具体的なレジャー施設の検討作業を行った
    • [25]1960年に千葉県浦安沖の埋立を行い、商業地・住宅地の開発と大レジャー施設の建設によって国民の文化・厚生・福祉に寄与することを目的として設立された
    • [27]ファミリーエンターテインメントを基本理念とし、世代を超えて楽しめるディズニーランドが構想に一番近いとの結論に達して誘致活動を開始した
    • [31]1979年、米国法人ウォルト・ディズニー・プロダクションズと東京ディズニーランドのライセンス・設計・建設・運営に関する業務提携契約を締結した
    • [32]1983年4月 日本初のテーマパーク「東京ディズニーランド」を開園(1980年12月着工)
    • [33]東京ディズニーランドは開園初年度から1,000万人を超える入園者を記録した
    • [34]1979年に千葉県浦安町でショッピングセンター「ユニモール」「パークスクエア」を開設し、商業施設の賃貸事業を開始した
  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
    • [26]川崎千春は1963年時点で、館山にゴルフ場・熱帯植物園・観光ホテル、筑波山にゴルフ場・レストハウス・ロープウェイを設ける構想を語っていた
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」
    • [28]1973年12月、ディズニー・プロダクションのテイタム会長・ウォーカー社長ら首脳7人を招き、浦安の現地を視察させた
    • [29]当時三菱グループが富士スピードウェイの土地開発でディズニーの知恵を借りようとしていたが、浦安を視察した一行が乗り気になり浦安の計画に協力することになった
    • [30]江戸英雄は、米国以外の土地でディズニーランドの建設を許可してもらえるかどうかを心配していた

筆者考察

オリエンタルランドの最初の23年は、事業を始めるための準備期間ではなく、事業の中身を決めないまま土地を確保し続けた時間だった。1960年の設立時、定款は浦安沖の海面埋立と商業地・住宅地の開発、大規模レジャー施設の建設を掲げたが、どのレジャー施設かは書かれていない。川崎千春氏が同じ時期に筑波山や館山で進めていたのはゴルフ場と熱帯植物園であり、浦安の63万坪もその列に並ぶ一区画だった。用途が決まる前に用地を握るというこの順序が、のちに単一テーマの施設という、当時の日本に前例のない選択を可能にした。

三井不動産の江戸英雄氏が60万坪を超えるレジャー施設は日本では実現できないと考え、それでも48%の株式を持ち続けたことは、この計画の性格をよく示している。埋立が終わった1975年、親会社の京成電鉄は石油危機で不動産と百貨店が傾き、1977年度には93億6,000万円の経常損失を出して創業以来初めて無配へ転じた。資金の出し手が双方とも弱っていた局面で、会社は造成地を分譲して数年で現金に換えず、その上に施設を建てて数十年かけて取り戻すほうを選んだ。時間を延ばすことでしか正当化できない投資を、11年の埋立に耐えた組織が引き受けた。

出典・参考

6件
出典・参考
  • 株式会社オリエンタルランド 有価証券報告書(2024年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号
  • 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
  • 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
  • 実業之世界 1963年新年号「兎男大いに語る 川崎千春氏と記者」
  • 江戸英雄『私の三井昭和史』(1986年)「東京ディズニーランドの成功」

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