大正製薬ホールディングス:上原正吉の社長就任とリポビタンDによる大衆薬首位
1946年〜特約株主の支持で決まった三代目社長の交代
1946年6月、石井輝司社長の辞任にともない、事実上の経営責任者だった上原正吉氏が第3代社長に選任された。特約株主とみられる50株未満の株主は3,953名で、その持株は合わせて1万1,654株と株式総数の5割近くに及んだ。第35回株主総会を控えた同年3月31日現在の株主名簿を見ると、株主総数は4,005名で、筆頭株主の上原正吉氏でさえ持株は1,787株と、全2万3,800株の1割に届かなかった。この交代を支えたのは株主の大半を占める特約株主であり、制度をつくった人物に小売店が寄せた期待が、社長就任を後押しした。株主総会の数日前には、進駐軍の兵士と警官が工場に踏み込み、貯蔵中のカフェインが麻薬に当たるとして押収し、上原正吉氏を連れ去る事件もあった。悪質な密告によるものとわかり、3日で釈放されている。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- [1]1946年6月に石井輝司社長の辞任により上原正吉が第3代社長となった
- [2]50株未満の特約株主は3,953名、持株合計1万1,654株で総数の5割近くを占めた
- [3]1946年3月31日現在の株主総数は4,005名だった
- [4]筆頭株主の上原正吉の持株は1,787株で全2万3,800株の1割未満だった
- [5]特約株主制度の生みの親である上原に寄せる期待が社長就任への大きな原動力となった
- [6]株主総会の数日前に進駐軍と警官が工場のカフェインを麻薬として押収した
- [7]悪質な密告と判明し留置3日間で釈放され株主総会に出席した
協同組合主義、つまり加入者の総意で運営を決める形での再建を、上原正吉社長は選んだ。戦時中に機能を止めていた共成会を、戦前の特約株主制度のまま戻すことはしなかったのである。1946年9月18日に開いた協同組合共成会の創立総会で上原正吉社長自身が理事長に就いたが、このとき加入した会員は都内199店、都外を合わせても204店にすぎなかった。従来のチェーンがメーカーに従属していたのと違い、新しい共成会は人格と経済の両面でメーカーから独立した薬局・薬店と製造業者とで組織され、加盟メーカーの製品を共同で仕入れて、会員だけが売れる専売品を指定した。会社は1948年5月29日、商号を大正製薬株式会社へ改めた。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- [8]上原正吉は協同組合主義によって共成会を再建すべきと決断した
- [9]共成会は戦時経済の進展に伴い中断していた
- [10]1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会が開かれ上原正吉が理事長に就いた
- [11]創立総会時の加入会員は都内199店、都外を含め204店だった
- [12]新共成会はメーカーから人格的・経済的に独立した薬局薬店と製造業者で組織された
- [13]加盟メーカーの製品を共同仕入れし会員のみの専売品を指定した
- [14]1948年5月29日付で商号を大正製薬株式会社に改めた
協同組合として出した共成会の再建案は、法制の側から二度はねられた。1946年12月に商工協同組合法が施行されると、地区ごとに1組合を認める同法と、特定のメーカーと結んだ全国組織である共成会とは趣旨が合わず、設立認可は困難との内示を受けた。そこで1947年4月に共成チェーン株式会社へ改組し、加盟金を2,000円から5,000円へ引き上げて営業を始め、同年7月末には全国1,246店を数えた。ところが同年7月に施行された独占禁止法は一手販売の子会社や競争会社の役員兼任を禁じており、共成チェーンは4点で抵触するとされて業務を休止した。残された道は会社が自ら連鎖を持つことで、1947年10月1日に直営の大正チェーンが発足し、従来の専売品は特選品と呼ばれることになった。加盟店は発足直後の2,500店余から1951年3月には4,500店余へ増えている。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- [15]商工協同組合法は地区ごとに1組合を認める趣旨で、特定メーカーと結んだ全国組織の共成会は設立認可が困難と内示された
- [16]1947年4月に共成チェーン株式会社へ改組し、加盟金を2,000円から5,000円へ増額、同年7月30日現在の加盟店は全国1,246店だった
- [17]1947年7月施行の独占禁止法に4点で抵触するとされ、共成チェーンは業務を休止した
- [18]1947年10月1日に直営の大正チェーンが発足し、従来の専売品は特選品と呼ばれることになった
- [19]大正チェーン加盟店は発足直後の1947年度下期に2,500店余、1951年3月には4,500店余となった
参考文献[1]-[19]
- [1]1946年6月に石井輝司社長の辞任により上原正吉が第3代社長となった
- [2]50株未満の特約株主は3,953名、持株合計1万1,654株で総数の5割近くを占めた
- [3]1946年3月31日現在の株主総数は4,005名だった
- [4]筆頭株主の上原正吉の持株は1,787株で全2万3,800株の1割未満だった
- [5]特約株主制度の生みの親である上原に寄せる期待が社長就任への大きな原動力となった
- [6]株主総会の数日前に進駐軍と警官が工場のカフェインを麻薬として押収した
- [7]悪質な密告と判明し留置3日間で釈放され株主総会に出席した
- [8]上原正吉は協同組合主義によって共成会を再建すべきと決断した
- [9]共成会は戦時経済の進展に伴い中断していた
- [10]1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会が開かれ上原正吉が理事長に就いた
- [11]創立総会時の加入会員は都内199店、都外を含め204店だった
- [12]新共成会はメーカーから人格的・経済的に独立した薬局薬店と製造業者で組織された
- [13]加盟メーカーの製品を共同仕入れし会員のみの専売品を指定した
- [14]1948年5月29日付で商号を大正製薬株式会社に改めた
- [15]商工協同組合法は地区ごとに1組合を認める趣旨で、特定メーカーと結んだ全国組織の共成会は設立認可が困難と内示された
- [16]1947年4月に共成チェーン株式会社へ改組し、加盟金を2,000円から5,000円へ増額、同年7月30日現在の加盟店は全国1,246店だった
- [17]1947年7月施行の独占禁止法に4点で抵触するとされ、共成チェーンは業務を休止した
- [18]1947年10月1日に直営の大正チェーンが発足し、従来の専売品は特選品と呼ばれることになった
- [19]大正チェーン加盟店は発足直後の1947年度下期に2,500店余、1951年3月には4,500店余となった
1950年〜民放の電波に投じた広告費と大量販売の体制
1950年6月4日の第2回参議院議員選挙で、上原正吉社長は埼玉地方区から立候補して初当選した。政界に進んだ理由について、上原正吉氏は戦争末期から戦後にかけて政治の力を借りなければ原料も材料も電気もガスも来ない状態だったと自著で説明した。翌1951年12月には物価政務次官に就任し、以後は経済調査政務次官、首都建設政務次官、郵政委員長を歴任した。社長の政界進出にともない、1951年1月6日付で養子の上原昭二氏が代表取締役に就任して社長代理を務めた。上原昭二氏は後に第6代社長に就任する人物である。従業員数も増え、1951年度には1,000名に達しようとしていた。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- [20]1950年6月4日の参議院議員選挙で上原正吉が埼玉地方区から初当選した
- [21]政治の力を借りなければ原料・材料・電気・ガスが来ない状態だったと述べている
- [22]1951年12月に物価政務次官に就任し以後複数の役職を歴任した
- [23]1951年1月6日付で上原昭二が代表取締役に就任し社長代理を務めた
- [24]上原昭二は後に第6代社長に就任した
- [25]1951年度の営業報告書は従業員数が1,000名に達しようとしていると記した
大正製薬が戦後に初めて本格的な広告へ出たのは、開局したばかりの民間ラジオ放送だった。1951年9月に中部日本放送と新日本放送が初の民間放送局として開局し、東京でも同年12月にラジオ東京、翌1952年3月に日本文化放送が開局している。大正製薬は1952年7月、日本文化放送で毎週火曜夜の連続ラジオドラマ「丘は花ざかり」の提供広告主となり、同年10月にはラジオ東京で日曜を除く毎朝15分の帯番組「名作アルバム」を提供した。後者は全国36局へネットされ、番組名と社名が並べて語られるほど社名が知れわたる契機になった。ラジオの広告主という役回りの利用価値がまだ定まらない時期に大型番組の提供を決めたのは上原正吉社長で、提供番組のCMコピーは自ら考案している。上原正吉氏は後年、1952年ごろに始めた大宣伝について『世間が驚くほどの大宣伝を、なんらの危険も感ずることなく、敢行しうるほどの実力を備えていた』と書き残している。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- [26]1951年9月に中部日本放送と新日本放送、同年12月にラジオ東京、1952年3月に日本文化放送が開局した
- [27]1952年7月1日から日本文化放送の連続ラジオドラマ「丘は花ざかり」の提供広告主となった
- [28]1952年10月からラジオ東京で日曜を除く毎朝15分の帯番組「名作アルバム」を提供した
- [29]「名作アルバム」は全国36局にネットされ、社名が全国的に知れわたるきっかけとなった
- [30]大型番組の提供は上原正吉社長の決断で、提供番組のCMコピーは自ら考案した
知名度が上がるほど、連鎖加盟店にだけ出荷するという仕組みは軋みを生じた。1954年に博報堂が都内の男女3,900人へ尋ねた調査では、知っている製薬会社として挙げられた社名は大正製薬が63.1%で首位に立っていたが、宣伝でなじんだ製品を求める客に応えようと、加盟店から製品を回してもらう店が現れた。会社は製品に秘密の記号を付けて流出元を突き止め、一時は加盟4,500店のうち700店近くへ出荷を停止したが、横流しは絶えなかった。加えて公正取引委員会は1955年12月、連鎖加盟店との取引約定書そのものを独占禁止法違反として廃棄すべしとする審決を下した。価格を保つ道は連鎖から契約へ移すほかなく、1953年の独占禁止法改正で設けられた再販売価格維持契約制度に会社は全面的に乗り、1955年1月に対象品目を届け出た。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第4章 事業基盤の強化を目指して
- [31]1954年の博報堂調査(都内男女3,900人)で順序を問わず挙げられた製薬会社名は大正63.1%、武田50.8%、三井50.7%だった
- [32]チェーン店以外の薬局・薬店が加盟店から製品の横流しを受けて店頭に置くようになった
- [33]製品に秘密の記号を付けて流出元を突き止め、ひところはチェーン加盟4,500店のうち700店近くに出荷停止を行なった
- [34]公正取引委員会は1955年12月1日に取引約定書自体を独占禁止法第19条違反として廃棄すべしとする審決を下した
- [35]1953年9月の独占禁止法緩和で再販売価格維持契約制度が導入され、1954年9月に一定の薬品が指定された
- [36]大正製薬は再販制度の全面的な活用を決し、1955年1月に対象品目を届け出た
この時期の大正製薬は電波媒体へ集中的に投資し、1955年秋に売り出した総合保健剤サモンの広告は、論語の一節を下敷きに『40才にして惑わず、惑わずサモンをのむ』と謳い、テレビで繰り返し流された。広告宣伝費は1952年度の4,438万円から1961年度には13億6,593万円へと、9年間で約30倍に増えた。1955年度と1960年度の広告量上位10社を見ると、大正製薬は1955年度は新聞とラジオ、1960年度はテレビでも上位に入っていた。販売の現場では、1963年5月に薬局・薬店向けの販促ツールとしてスライド"サウンド・リポート"が導入され、担当外商員がプロジェクターとテープレコーダーを持参して陳列やPOP照明の方法を説明して回った。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第4章 事業基盤の強化を目指して
- [37]1955年秋に総合保健剤サモンを発売した
- [38]サモンの広告コピーは論語を下敷きにした生活感覚広告の代表例とされた
- [39]広告宣伝費は1952年度4,438万円から1961年度13億6,593万円へ約30倍に増えた
- [40]新聞・ラジオ・テレビの広告量上位10社に大正製薬が入っていた
- [41]1963年5月に販促ツールのスライド「サウンド・リポート」を導入した
- [42]外商員がプロジェクターと録音機を持参し陳列やPOP照明を説明した
参考文献[20]-[42]
- [20]1950年6月4日の参議院議員選挙で上原正吉が埼玉地方区から初当選した
- [21]政治の力を借りなければ原料・材料・電気・ガスが来ない状態だったと述べている
- [22]1951年12月に物価政務次官に就任し以後複数の役職を歴任した
- [23]1951年1月6日付で上原昭二が代表取締役に就任し社長代理を務めた
- [24]上原昭二は後に第6代社長に就任した
- [25]1951年度の営業報告書は従業員数が1,000名に達しようとしていると記した
- [26]1951年9月に中部日本放送と新日本放送、同年12月にラジオ東京、1952年3月に日本文化放送が開局した
- [27]1952年7月1日から日本文化放送の連続ラジオドラマ「丘は花ざかり」の提供広告主となった
- [28]1952年10月からラジオ東京で日曜を除く毎朝15分の帯番組「名作アルバム」を提供した
- [29]「名作アルバム」は全国36局にネットされ、社名が全国的に知れわたるきっかけとなった
- [30]大型番組の提供は上原正吉社長の決断で、提供番組のCMコピーは自ら考案した
- [31]1954年の博報堂調査(都内男女3,900人)で順序を問わず挙げられた製薬会社名は大正63.1%、武田50.8%、三井50.7%だった
- [32]チェーン店以外の薬局・薬店が加盟店から製品の横流しを受けて店頭に置くようになった
- [33]製品に秘密の記号を付けて流出元を突き止め、ひところはチェーン加盟4,500店のうち700店近くに出荷停止を行なった
- [34]公正取引委員会は1955年12月1日に取引約定書自体を独占禁止法第19条違反として廃棄すべしとする審決を下した
- [35]1953年9月の独占禁止法緩和で再販売価格維持契約制度が導入され、1954年9月に一定の薬品が指定された
- [36]大正製薬は再販制度の全面的な活用を決し、1955年1月に対象品目を届け出た
- [37]1955年秋に総合保健剤サモンを発売した
- [38]サモンの広告コピーは論語を下敷きにした生活感覚広告の代表例とされた
- [39]広告宣伝費は1952年度4,438万円から1961年度13億6,593万円へ約30倍に増えた
- [40]新聞・ラジオ・テレビの広告量上位10社に大正製薬が入っていた
- [41]1963年5月に販促ツールのスライド「サウンド・リポート」を導入した
- [42]外商員がプロジェクターと録音機を持参し陳列やPOP照明を説明した
1958年〜リポビタンDの発売と、上場の年に起きた薬害
健康保険制度が広まったことを踏まえ、大正製薬は医療用医薬品の分野に参入しなければならないと判断し、1950年代の後半からその研究開発に本腰を入れた。社内の多くは経験のない領域に踏み出すことを不安視し、反対意見さえ出たものの、上原昭二副社長が業界の現状と先行きを説明して役員会を説き伏せた。医家向け医薬品の製造開始は1958年8月である。大衆薬の側では、剤形を改めた商品が出た。1962年3月発売のリポビタンDがそれで、20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に替えたものであり、着想は上原正吉社長自身による。容量100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、アンプルに代えて瓶とポンキャップを採用し、味付けにはパインの風味を加えた。
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第4章 事業基盤の強化を目指して
- [43]健康保険制度の普及を踏まえ医療用医薬品への進出が不可欠と判断した
- [44]昭和30年代の初頭に医療用医薬品の研究・開発への本格的な取組みを開始した
- [45]社内に反対がある中で上原昭二副社長が役員会を説得した
- 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
- [46]医家向け医薬品の製造は1958年8月に開始した
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第5章 大衆薬の覇者に
- [47]リポビタンDはアンプル剤を大型化してドリンク剤へ剤形を変えた製品だった
- [48]リポビタンDの発売は1962年3月である
- [49]20ml入りアンプル剤のリポビタン液を100ml入りドリンク剤にしたものだった
- [50]リポビタンDの発想は上原正吉社長自身によるものと本人が記している
- [51]100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、瓶とポンキャップを採用した
1963年9月16日、大正製薬は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。額面50円の株の公開価格は2,000円で、当時としては史上最高だと連日話題になった。上原正吉社長は記者団に『実力からいって高いとは思わない』(現代の眼 1965年)と答えた。上場時点の資本金は4億円、従業員は3,536名、取引店は約28,000店を数えた。1963年3月期の売上構成は品目別にパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%、ワイパア7.2%と続き、上位5〜6品目で売上高のおよそ半分を占めた。販売はチェーンシステムによる直売方式で、全国の取引店にパトロールセールスマンを派遣し、新製品の発売や業界状況に応じた販売方法を徹底させる体制だった。
- 証券 1963年10月号
- [52]1963年9月16日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
- [55]上場時の資本金4億円、従業員3,536名、取引店約28,000店だった
- [56]1963年3月期の品目別売上構成はパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%だった
- [57]上位5〜6品目で全売上高の約半分を占めた
- [58]チェーンシステムによる直売方式でパトロールセールスマンを派遣していた
- 現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」(柳田邦夫)
- [53]額面50円の株を2,000円で公開し史上最高と話題になった
- [54]上原正吉は公開株価について実力からいって高いとは思わないと答えた
上場の2年後、アンプル入りの風邪薬を飲んだ人が急性薬物中毒で死亡する事例が続き、1965年に社会問題となった。メーカーの損失総額は62億8,228万円にのぼり、薬局の売上げは平均で3割減った。当事者の一社であった大正製薬の上原正吉氏が死者への責任にふれることはなかった——『もし本当に毒だったらあの程度の事故では済まなかったはず』(現代の眼 1965年)。同じ1965年、上原正吉氏は年間所得5億4,872万円で個人所得の日本一となり、6月に科学技術庁長官へ就任して社長を一時退任した。後任には妻の上原小枝氏が第4代社長として就任している。1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉氏が社長へ復帰した。
- 現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」(柳田邦夫)
- [59]1965年にアンプル入り風邪薬による急性薬物中毒死が社会問題となった
- [60]メーカーの損失総額62億8,228万円、薬局の売上げ平均3割減と報じられた
- [61]上原正吉は事故について毒であればこの程度では済まないはずだと述べた
- [62]1965年の上原正吉の年間所得は5億4,872万円で個人所得日本一だった
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「大正製薬」
- [63]1965年6月に国務大臣就任にともない社長を一時辞任した
- [65]1966年8月に東証一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉が社長へ復帰した
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第5章 大衆薬の覇者に
- [64]1965年6月3日に上原正吉が社長を辞し、上原小枝副社長が第4代社長に就任した
参考文献[43]-[65]
- [43]健康保険制度の普及を踏まえ医療用医薬品への進出が不可欠と判断した
- [44]昭和30年代の初頭に医療用医薬品の研究・開発への本格的な取組みを開始した
- [45]社内に反対がある中で上原昭二副社長が役員会を説得した
- 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
- [46]医家向け医薬品の製造は1958年8月に開始した
- [47]リポビタンDはアンプル剤を大型化してドリンク剤へ剤形を変えた製品だった
- [48]リポビタンDの発売は1962年3月である
- [49]20ml入りアンプル剤のリポビタン液を100ml入りドリンク剤にしたものだった
- [50]リポビタンDの発想は上原正吉社長自身によるものと本人が記している
- [51]100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、瓶とポンキャップを採用した
- [64]1965年6月3日に上原正吉が社長を辞し、上原小枝副社長が第4代社長に就任した
- [52]1963年9月16日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
- [55]上場時の資本金4億円、従業員3,536名、取引店約28,000店だった
- [56]1963年3月期の品目別売上構成はパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%だった
- [57]上位5〜6品目で全売上高の約半分を占めた
- [58]チェーンシステムによる直売方式でパトロールセールスマンを派遣していた
- [53]額面50円の株を2,000円で公開し史上最高と話題になった
- [54]上原正吉は公開株価について実力からいって高いとは思わないと答えた
- [59]1965年にアンプル入り風邪薬による急性薬物中毒死が社会問題となった
- [60]メーカーの損失総額62億8,228万円、薬局の売上げ平均3割減と報じられた
- [61]上原正吉は事故について毒であればこの程度では済まないはずだと述べた
- [62]1965年の上原正吉の年間所得は5億4,872万円で個人所得日本一だった
- [63]1965年6月に国務大臣就任にともない社長を一時辞任した
- [65]1966年8月に東証一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉が社長へ復帰した
筆者考察
1946年の社長交代は、持株の多さではなく取引先の数で決まった。上原正吉氏の持株は全2万3,800株のうち1,787株にすぎず、4,005名の株主の大半は50株未満しか持たない小売店である。特約株主という制度を作った人物を、制度に加わった店の側が選んだ形だった。会社の意思決定が小売店へ開かれていたことは、戦後の再建が薬を作り直すことからではなく、販売組織を作り直すことから始まった理由でもある。上原正吉氏は共成会を協同組合として建て直し、加盟204店から出直した。会社が製品を押し込む連鎖ではなく、独立した薬局と製造業者が共同で仕入れる組合として作り直した点に、この時期の構えが表れている。
だが、小売店を囲い込む仕組みは戦後の法制とは相容れなかった。協同組合共成会は商工協同組合法の趣旨に合わず、株式会社へ改めた共成チェーンは独占禁止法に抵触し、残ったのは会社が自ら持つ大正チェーンだけである。公正取引委員会が取引約定書の廃棄まで命じると、会社は店を縛る手段を連鎖から再販売価格維持契約へ移した。店を縛る力が弱まったぶん、客を呼ぶ役は電波が引き受ける。広告宣伝費が1952年度の4,438万円から1961年度の13億6,593万円へ膨らんだのは、客の指名を広告で作る方へ販促の力が移った結果だった。1962年のリポビタンDは、その広告の力を前提に出した製品である。
- 1946年は協同組合共成会、1947年は共成チェーン株式会社、1948年以降は直営の大正チェーンの加盟店数。
- 出所は大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート。
1946年〜1965年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 117 | n/a | 28 | 24.3% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 171 | +45.7% | 44 | 25.8% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 192 | +12.5% | 15 | 8.1% | n/a |
出所:会社年鑑 1967年版
出典・参考
7件
- 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第3章 戦後の新スタート
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第4章 事業基盤の強化を目指して
- 大正製薬80年史(大正製薬、1993年)第5章 大衆薬の覇者に
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「大正製薬」
- 証券 1963年10月号
- 現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」(柳田邦夫)