エア・ウォーター:北海酸素・大同酸素・共同酸素の3社の設立
1929年〜札幌商工会議所がつくった北海酸素と、需要家が資本金30万円で興した大同酸素
北海酸素は1929年9月24日、札幌で資本金15万円をもって設立された。のちのほくさんにあたる会社である。設立の先頭に立ったのは札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎氏で、地元の商工団体の長が自ら酸素事業を興した。当時の北海道で酸素を造る工場は、小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。北海酸素と相前後して日北酸素も生まれ、道内の酸素は激しい価格競争に入った。1930年1月に名古屋で結成された国産酸素製造業者連合会には、北海酸素も加盟した。新規参入と工場増設による値下げ競争で、首位の帝国酸素と日本酸素も1930年の決算で無配に陥った。工場が2つに限られた市場へ地元資本が参入した動きは、昭和初めに全国で相次いだ新規参入の一例だったのだろう。
- 株式会社年鑑 1953年版「北海酸素」
- [1]北海酸素は昭和4年9月24日設立、本社札幌(1953年版)。沿革では資本金15万円で設立(1956年版にも同記載)
- 大同酸素六十年(1993)一章「昭和八年三月三日へ」
- [2]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [3]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [4]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [5]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [6]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [7]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
大同酸素は1933年3月3日、大阪の日本綿業倶楽部で創立総会を開催した。資本金は30万円で、酸素を使う側の業者が自ら製造しようとする機運から生まれた会社である。社長には大阪実業組合連合会副会長の藤井満彦氏。大阪では1931年に帝国酸素・日本酸素など5社の共販が成立し、重要産業統制法の指定で価格と数量が固まっていた。1932年11月、大原造船鉄工所の大原松之助氏が酸素不足を訴え、藤井満彦氏に事業化を持ちかけた。不二溶工所を営む前田嘉清氏は、札幌で商工会議所が酸素会社をつくった例を挙げて需要家の自給を説いた。社名は、中小の需要家が大同団結して安定供給を得るという合言葉から採られた。
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- [8]昭和8年3月3日、日本綿業倶楽部で創立総会。社名は中小企業の酸素自給自足・安定供給のための「大同団結」から大同酸素に決定
- [14]昭和8年3月3日、日本綿業倶楽部で創立総会。社名は中小企業の酸素自給自足・安定供給のための「大同団結」から大同酸素に決定
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [9]昭和8年3月、藤井満彦・立石武三郎・仲田増一らが資本金30万円で大阪津守に創立。動機は需要急増に既存業者の能力が追いつかず、酸素使用業者に自製の機運が高まったこと
- 大同酸素六十年(1993)一章「昭和八年三月三日へ」
- [10]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [11]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [12]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [13]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
大同酸素はドイツのメッサー社製、毎時60m3の空気分離装置を据えて操業した。メッサー式は複精溜で97%以上の純度が出る方式である。営業は1933年7月頃に始まり、同年5月から10月の第2期に売上高2万8029円、当期利益1万3000円を計上した。配当は半年で1割で、出資した需要家は酸素の割引と配当の双方を受けた。株主は1934年10月末までの増資で139人に増えた。1936年頃には新設と増設が重なり、大阪の酸素価格は17銭から18銭まで下がった。需要家株主という安定販路を持つ大同酸素は、この価格競争でも黒字を保った。戦時の需要増に合わせて1943年に和歌山工場、1944年9月に堺工場を新設した。
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- [15]角掛一男がメッサー製60m3/hの酸素装置を据え付け運転。メッサー式は複精溜で純度97%以上
- [16]角掛一男がメッサー製60m3/hの酸素装置を据え付け運転。メッサー式は複精溜で純度97%以上
- [17]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [18]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [19]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [20]昭和11年頃大阪の酸素価格は17〜18銭まで低下。需要家株主という安定販路を持つ強みで黒字経営を維持
- [21]昭和11年頃大阪の酸素価格は17〜18銭まで低下。需要家株主という安定販路を持つ強みで黒字経営を維持
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [22]18年に和歌山工場、19年9月に堺工場を建設し3工場・装置6基の規模に
参考文献[1]-[22]
- 株式会社年鑑 1953年版「北海酸素」
- [1]北海酸素は昭和4年9月24日設立、本社札幌(1953年版)。沿革では資本金15万円で設立(1956年版にも同記載)
- 大同酸素六十年(1993)一章「昭和八年三月三日へ」
- [2]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [3]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [4]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [5]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [6]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [7]昭和4年9月に札幌商工会議所会頭の大瀧甚太郎が自ら指揮して北海酸素(現ほくさん)を設立。当時道内の酸素工場は小樽の三省社と札幌の函館酸素の2つ。相前後して日北酸素も生まれ価格戦争に。昭和5年1月結成の国産酸素製造業者連合会に北海酸素が加盟。新規参入と工場増設の販売競争による価格瓦落で帝国酸素・日本酸素は昭和5年決算で無配
- [10]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [11]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [12]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- [13]需要家が大阪実業組合連合会副会長藤井満彦を口説く。昭和6年に大阪地区で帝酸・日酸など5社の共販成立、同年重要産業統制法の指定。昭和7年11月に大原松之助が藤井に酸素事業を慫慂。前田嘉清(不二溶工所経営)が札幌商工会議所の例を挙げ自給を説く
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- [8]昭和8年3月3日、日本綿業倶楽部で創立総会。社名は中小企業の酸素自給自足・安定供給のための「大同団結」から大同酸素に決定
- [14]昭和8年3月3日、日本綿業倶楽部で創立総会。社名は中小企業の酸素自給自足・安定供給のための「大同団結」から大同酸素に決定
- [15]角掛一男がメッサー製60m3/hの酸素装置を据え付け運転。メッサー式は複精溜で純度97%以上
- [16]角掛一男がメッサー製60m3/hの酸素装置を据え付け運転。メッサー式は複精溜で純度97%以上
- [17]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [18]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [19]昭和8年7月頃から営業開始。第2期(昭和8年5月〜10月)売上高2万8029円、当期利益1万3000円。配当は半年1割で、需要家株主は割引と好配当を受けた。増資により昭和9年10月末時点で株主数139人
- [20]昭和11年頃大阪の酸素価格は17〜18銭まで低下。需要家株主という安定販路を持つ強みで黒字経営を維持
- [21]昭和11年頃大阪の酸素価格は17〜18銭まで低下。需要家株主という安定販路を持つ強みで黒字経営を維持
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [9]昭和8年3月、藤井満彦・立石武三郎・仲田増一らが資本金30万円で大阪津守に創立。動機は需要急増に既存業者の能力が追いつかず、酸素使用業者に自製の機運が高まったこと
- [22]18年に和歌山工場、19年9月に堺工場を建設し3工場・装置6基の規模に
1946年〜液酸機と大証上場で伸びた大同酸素と、溶解アセチレンからLPガスへ出た北海酸素
大同酸素の1945年9月期は、空襲下の停電と出勤率の低下で売上高25万6386円、損失6万8321円に終わった。1946年2月、大倉商事出身の半田忠雄氏が常務取締役として入社した。1949年までの収益の伸びは大半がインフレーションによるもので、容器不足のため酸素を放散する日も多かった。総務部長と大阪工場長を兼ねた半田忠雄氏は、営業の所管だった容器の点検を山田和郎氏に命じた。調べると土佐高圧への貸与容器1000本が、採算を度外視した賃料で滞留していた。並行して造船の切断需要を追い、1953年9月に津守で月産18トンの溶解アセチレン製造装置を竣工させた。現場でカーバイドを溶かす旧来の方式より簡便で安全な点が、需要を引き寄せた。
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- [23]昭和20年9月期(第26期)は空襲下の送電故障・出勤率低下で売上高25万6386円、損失6万8321円
- [24]昭和21年2月、半田忠雄が常務取締役として入社。慶応大学卒業後に大倉商事に勤めていた
- [25]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [26]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [27]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [28]昭和28年9月24日、津守工場内に1600万円で月産18トンのアセチレン製造装置を竣工。造船需要に応えた
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [29]28年9月津守に溶解アセチレン工場を新設。現場発生式より簡便・低コスト・安全で、溶接・溶断は漸次この方法に移った
北海酸素は1952年に溶解アセチレンの製造販売を始め、1955年3月にはプロパンガスの販売に進んだ。それ以前に1942年5月に小樽酸素を、1951年10月に北海道車輛酸素を吸収合併し、道内の酸素事業を一つにしていた。1953年版の年鑑で専務に名を連ねるのは、水島健三氏である。1956年版に載る工場は札幌・小樽・旭川・滝川・釧路・室蘭と室蘭のアセチレン工場で、従業員は168人だった。事業内容は圧縮酸素と溶解アセチレン、各種圧縮ガスの製造販売に、機械器具の製作と修理を加えたものである。溶接と切断では酸素と燃料ガスを組で使うため、2品目を揃えて道内の需要家に売る狙いがあったとみられる。
- 証券 1966年
- [30]沿革: 昭和27年溶解アセチレンの製造販売開始、昭和30年3月プロパンガスの販売開始。資本金の変遷: 昭和17年5月小樽酸素を吸収合併、昭和26年10月北海道車輌酸素を吸収合併
- [31]沿革: 昭和27年溶解アセチレンの製造販売開始、昭和30年3月プロパンガスの販売開始。資本金の変遷: 昭和17年5月小樽酸素を吸収合併、昭和26年10月北海道車輌酸素を吸収合併
- 株式会社年鑑 1953年版「北海酸素」
- [32]1953年版の役員欄に専務水島健三
- 株式会社年鑑 1956年版「北海酸素」
- [33]1956年版: 工場は札幌・小樽・旭川・滝川・釧路・室蘭・室蘭アセチレン工場、従業員168人。事業は圧縮酸素ガス・溶解アセチレンガス・各種圧縮ガスの製造販売と機械器具の製作・修理
- [34]1956年版: 工場は札幌・小樽・旭川・滝川・釧路・室蘭・室蘭アセチレン工場、従業員168人。事業は圧縮酸素ガス・溶解アセチレンガス・各種圧縮ガスの製造販売と機械器具の製作・修理
大同酸素は1953年3月3日、日本銀行から5200万円の外貨融資の決定を得て、液酸とアルゴンの製造装置を輸入する資金を確保した。常務取締役の水上清二氏は、非鉄金属の溶接に要るアルゴンがほぼ米国からの輸入だった点を導入の理由に挙げた。同年6月30日の取締役会は資本金を9000万円へ3倍にする増資を決め、同年のうちに大阪の株式市場へ上場した。1954年9月、堺工場で西ドイツのリンデ社製装置が液体酸素・窒素・高純度アルゴンの製造を始めた。同年5月1日には総務・営業・工務の三部制へ組織を改めた。1955年3月期はアルゴン設備の稼働率が2%にとどまり、1945年9月期以来の無配となった。
- 大同酸素六十年(1993)四章「液酸時代」
- [35]昭和28年3月3日に日銀の別口外貨融資5200万円が決定(富士銀行保証)。同年6月30日の取締役会で新株120万株発行・資本金3倍の9000万円を決議、同年大阪市場に上場
- [36]常務の水上清二は大型液酸装置導入にアルゴン需要が関係したと記す。非鉄金属溶接用のアルゴンはほとんど米国からの輸入で国産化が必要だった
- [37]昭和28年3月3日に日銀の別口外貨融資5200万円が決定(富士銀行保証)。同年6月30日の取締役会で新株120万株発行・資本金3倍の9000万円を決議、同年大阪市場に上場
- [39]昭和29年5月1日付で総務・営業・工務の三部制に組織改革
- [40]昭和30年3月期は昭和20年9月期以来の無配。アルゴン製造能力月1万m3に対し実績は月208m3で稼働率2%
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [38]29年9月堺工場に西ドイツ・リンデ社の装置で高純度アルゴン・液体酸素・窒素の製造工場を建設、わが国最初
参考文献[23]-[40]
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- [23]昭和20年9月期(第26期)は空襲下の送電故障・出勤率低下で売上高25万6386円、損失6万8321円
- [24]昭和21年2月、半田忠雄が常務取締役として入社。慶応大学卒業後に大倉商事に勤めていた
- [25]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [26]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [27]昭和24年までの収益上昇の大半はインフレによる。容器不足で酸素を放散。総務部長兼大阪工場長の半田が営業所管の容器を山田に点検させ、土佐高圧への1000本の貸与容器が採算度外視の賃料と判明
- [28]昭和28年9月24日、津守工場内に1600万円で月産18トンのアセチレン製造装置を竣工。造船需要に応えた
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- [29]28年9月津守に溶解アセチレン工場を新設。現場発生式より簡便・低コスト・安全で、溶接・溶断は漸次この方法に移った
- [38]29年9月堺工場に西ドイツ・リンデ社の装置で高純度アルゴン・液体酸素・窒素の製造工場を建設、わが国最初
- 証券 1966年
- [30]沿革: 昭和27年溶解アセチレンの製造販売開始、昭和30年3月プロパンガスの販売開始。資本金の変遷: 昭和17年5月小樽酸素を吸収合併、昭和26年10月北海道車輌酸素を吸収合併
- [31]沿革: 昭和27年溶解アセチレンの製造販売開始、昭和30年3月プロパンガスの販売開始。資本金の変遷: 昭和17年5月小樽酸素を吸収合併、昭和26年10月北海道車輌酸素を吸収合併
- 株式会社年鑑 1953年版「北海酸素」
- [32]1953年版の役員欄に専務水島健三
- 株式会社年鑑 1956年版「北海酸素」
- [33]1956年版: 工場は札幌・小樽・旭川・滝川・釧路・室蘭・室蘭アセチレン工場、従業員168人。事業は圧縮酸素ガス・溶解アセチレンガス・各種圧縮ガスの製造販売と機械器具の製作・修理
- [34]1956年版: 工場は札幌・小樽・旭川・滝川・釧路・室蘭・室蘭アセチレン工場、従業員168人。事業は圧縮酸素ガス・溶解アセチレンガス・各種圧縮ガスの製造販売と機械器具の製作・修理
- 大同酸素六十年(1993)四章「液酸時代」
- [35]昭和28年3月3日に日銀の別口外貨融資5200万円が決定(富士銀行保証)。同年6月30日の取締役会で新株120万株発行・資本金3倍の9000万円を決議、同年大阪市場に上場
- [36]常務の水上清二は大型液酸装置導入にアルゴン需要が関係したと記す。非鉄金属溶接用のアルゴンはほとんど米国からの輸入で国産化が必要だった
- [37]昭和28年3月3日に日銀の別口外貨融資5200万円が決定(富士銀行保証)。同年6月30日の取締役会で新株120万株発行・資本金3倍の9000万円を決議、同年大阪市場に上場
- [39]昭和29年5月1日付で総務・営業・工務の三部制に組織改革
- [40]昭和30年3月期は昭和20年9月期以来の無配。アルゴン製造能力月1万m3に対し実績は月208m3で稼働率2%
1960年〜半田忠雄氏が入れたライアンの低温技術と、住友金属が和歌山に興した共同酸素
大同酸素は1958年10月期に売上高4億2951万円、税前利益315万円まで収益を下げ、再び無配に転じた。兵庫工場の液酸機2基が稼働した直後に鍋底不況が重なり、期末の銀行借入金は7億264万円に達していた。1960年6月、創業社長の藤井満彦氏は半田忠雄氏に社長を譲った。社内には、米国で実用化された真空式の低温容器の技術を導入すれば国内の液酸供給を主導できるとの情報が届いていた。1961年6月、大同酸素は米オハイオ州のライアンインダストリズ社と技術援助契約を結び、低温容器の国内独占の製作販売権を得た。同年9月1日には東京証券取引所第一部へ上場。1962年からはライアン社の技術で液体ガス自動気化装置の製作に進んだ。
- 大同酸素六十年(1993)五章「成長の季節」
- [41]昭和33年10月期は売上高4億2951万円、税前利益315万円で無配。兵庫工場の新鋭機2基稼働直後の鍋底不況。期末銀行借入金7億264万円
- [42]昭和33年10月期は売上高4億2951万円、税前利益315万円で無配。兵庫工場の新鋭機2基稼働直後の鍋底不況。期末銀行借入金7億264万円
- [43]昭和35年6月、藤井が半田に社長を譲る
- [44]大道邦雄の情報: 米国で真空式のCE・低温容器が実用化され、リンデ・ホフマン・ライアンのいずれかの技術を導入すれば国内の液酸供給をリードできる
- [45]昭和36年6月、米オハイオ州ライアンインダストリズ社と技術援助契約、日本での低温科学容器・機器の製作販売の独占権を取得(期間10年、4万ドル+7%)
- [46]昭和36年9月1日に東京証券取引所第一部に上場、10月2日に名古屋証券取引所第一部に上場
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大同酸素」
- [47]昭和37年から米ライアン社と技術提携した液体ガス自動気化装置の製作に進出
住友金属工業は1962年2月、和歌山工場に自家用のオンサイト酸素プラントを新設するのに伴い、市販も兼ねる供給会社として共同酸素を設立した。社長の半田忠雄氏は住友金属工業の日向方齋氏に会い、大同酸素も加わってオンサイトで供給したいと申し出た。申し出は、前年の八幡製鉄堺製鉄所と同じく、繁閑の差が大きい製鉄では別会社の設備は扱いにくいという理由で断られた。大同酸素の関与は、1962年9月29日の共同酸素への10%の出資にとどまる。同年11月に共同酸素が稼働すると、深かった住友金属工業との取引関係は弱まった。1962年度の酸素生産量に占める専業工場の比率は16%にすぎない。鉄鋼会社が酸素を自給する流れの中で、専業の大同酸素は最大の需要家の足元で供給者の座を得られなかったと思われる。
- 大同酸素六十年(1993)五章「成長の季節」
- [48]昭和37年2月、住友金属工業が和歌山工場に自家用オンサイトプラントを新設するのに伴い、市販を兼ねた酸素供給会社共同酸素を設立
- [49]半田は日向方齋に住金和歌山へのオンサイト供給参加を申し出たが、八幡製鉄堺と同様の理由(製鉄業は繁閑の波が大きく別会社のオンサイトでは処置が難しい)で断られた
- [50]半田は日向方齋に住金和歌山へのオンサイト供給参加を申し出たが、八幡製鉄堺と同様の理由(製鉄業は繁閑の波が大きく別会社のオンサイトでは処置が難しい)で断られた
- [51]昭和37年9月29日、大同酸素は共同酸素に10%を出資
- [53]37年度の全酸素生産量16億3千万m3のうち専業工場は2億6千万m3、比率16%(日本経済新聞の分析として引用)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大同酸素」
- [52]従来住友金属工業とのつながりが深かったが、昭和37年11月から共同酸素が稼働し住友金属とのつながりは弱まった
北海酸素の従業員は、1956年版年鑑の168人から1964年版では414人に増えていた。1964年版の事業内容は、酸素とアセチレンの製造販売に、LPGの製造、機械器具設置工事の請負、管工事を加えた構成である。酸素とアセチレンの主な納入先には日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプが挙がり、プロパンは帝国石油や三菱液化瓦斯などから仕入れていた。拠点は札幌・旭川・釧路・室蘭の事業所に、東京・小樽・函館・苫小牧などの営業所にわたる。1963年には強化プラスチック製の簡易風呂バスオールの製造販売を始めた。道内の酸素とガスの販売だけでは伸びに限りがあり、器具・工事・新製品へ収益源を広げる狙いがあったと推察される。
- 株式会社年鑑 1956年版「北海酸素」
- [54]1956年版の従業員168人
- 株式会社年鑑 1964年版「北海酸素」
- [55]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- [56]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- [57]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- 証券 1966年
- [58]沿革: 昭和38年強化プラスチック製品「バスオール」(簡易風呂)の製造販売を開始
参考文献[41]-[58]
- 大同酸素六十年(1993)五章「成長の季節」
- [41]昭和33年10月期は売上高4億2951万円、税前利益315万円で無配。兵庫工場の新鋭機2基稼働直後の鍋底不況。期末銀行借入金7億264万円
- [42]昭和33年10月期は売上高4億2951万円、税前利益315万円で無配。兵庫工場の新鋭機2基稼働直後の鍋底不況。期末銀行借入金7億264万円
- [43]昭和35年6月、藤井が半田に社長を譲る
- [44]大道邦雄の情報: 米国で真空式のCE・低温容器が実用化され、リンデ・ホフマン・ライアンのいずれかの技術を導入すれば国内の液酸供給をリードできる
- [45]昭和36年6月、米オハイオ州ライアンインダストリズ社と技術援助契約、日本での低温科学容器・機器の製作販売の独占権を取得(期間10年、4万ドル+7%)
- [46]昭和36年9月1日に東京証券取引所第一部に上場、10月2日に名古屋証券取引所第一部に上場
- [48]昭和37年2月、住友金属工業が和歌山工場に自家用オンサイトプラントを新設するのに伴い、市販を兼ねた酸素供給会社共同酸素を設立
- [49]半田は日向方齋に住金和歌山へのオンサイト供給参加を申し出たが、八幡製鉄堺と同様の理由(製鉄業は繁閑の波が大きく別会社のオンサイトでは処置が難しい)で断られた
- [50]半田は日向方齋に住金和歌山へのオンサイト供給参加を申し出たが、八幡製鉄堺と同様の理由(製鉄業は繁閑の波が大きく別会社のオンサイトでは処置が難しい)で断られた
- [51]昭和37年9月29日、大同酸素は共同酸素に10%を出資
- [53]37年度の全酸素生産量16億3千万m3のうち専業工場は2億6千万m3、比率16%(日本経済新聞の分析として引用)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大同酸素」
- [47]昭和37年から米ライアン社と技術提携した液体ガス自動気化装置の製作に進出
- [52]従来住友金属工業とのつながりが深かったが、昭和37年11月から共同酸素が稼働し住友金属とのつながりは弱まった
- 株式会社年鑑 1956年版「北海酸素」
- [54]1956年版の従業員168人
- 株式会社年鑑 1964年版「北海酸素」
- [55]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- [56]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- [57]1964年版: 従業員414人。事業はアセチレンガス等の製造販売、L.P.G.の製造、機械器具設置工事の請負、管工事。酸素・アセチレンの主な取引先に日本製鋼所・富士製鉄・国策パルプ、プロパン仕入に帝国石油・三菱液化瓦斯ほか。事業所は札幌・旭川・釧路・室蘭、営業所は東京・小樽・函館・琴似・苫小牧
- 証券 1966年
- [58]沿革: 昭和38年強化プラスチック製品「バスオール」(簡易風呂)の製造販売を開始
出典・参考
10件
- 株式会社年鑑 1953年版「北海酸素」
- 会社銀行八十年史(1955)「大同酸素」
- 株式会社年鑑 1956年版「北海酸素」
- 株式会社年鑑 1964年版「北海酸素」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大同酸素」
- 証券 1966年
- 大同酸素六十年(1993)一章「昭和八年三月三日へ」
- 大同酸素六十年(1993)二章「創業の日々」(三章「復活」を含む)
- 大同酸素六十年(1993)四章「液酸時代」
- 大同酸素六十年(1993)五章「成長の季節」