ダイワボウホールディングス:大和紡績の設立と大和工業への戦時改称
1941年〜紡績ブロック案で4社が合わさった114万錘と、終戦時に残った18万錘
大和紡績は1941年5月12日、錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社合併で発足した。合併は、大日本紡績連合会が時局に応じて唱えた紡績ブロック結成案を、4社が業界の先陣を切って実行したものである。錦華紡績は金鳥票の綿糸、日出紡織は重布を得意とし、出雲製織と和歌山紡織は陸海軍の指定を受けて軍需向けの綿布を主に生産した。新会社は資本金8,666万8,450円で、設備は紡織16工場に綿紡機114万5,252錘と織機3,581台。規模の順位は全国第2位とも第4位とも伝わり、定まっていない。統制の下で設備の割当を確保するには、特色の異なる中堅4社が先に一体となるのが得策と判断したとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [1]1941年5月、大日本紡績連合会の紡績ブロック結成案に従い業界に先駆けて錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し設立(5月12日)
- [2]1941年5月、大日本紡績連合会の紡績ブロック結成案に従い業界に先駆けて錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し設立(5月12日)
- [4]設立時資本金86,668,450円、紡織16工場(綿紡機1,145,252錘・織機3,581台)・人絹スフ3工場・加工2工場、全国第2位
- [5]設立時資本金86,668,450円、紡織16工場(綿紡機1,145,252錘・織機3,581台)・人絹スフ3工場・加工2工場、全国第2位
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [3]錦華紡績は金鳥票綿糸、日出紡織は重布、出雲製織・和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布が主力
- [6]設立当初の設備規模は全国第4位
戦時体制の強化で紡績業が縮小に向かうなか、大和紡績は1941年から1944年にかけて工場の休止と閉鎖を重ねた。設立時に21あった工場は、1944年末には綿紡織4工場(34万1,400錘)・重布2工場・加工1工場・重工業2工場まで減少。重工業へ転じた工場では一時、航空機や魚雷の部品を製造し、商号も1944年1月に大和工業へ改めた。国外では大陸で重工・ゴム・繊維の傍系会社を運営し、朝鮮では現地法人の朝鮮大和紡績を設けたほか、軍の要請でフィリピンの綿花栽培にも関与した。終戦時の設備は綿紡機18万3,580錘・織機2,674台にとどまり、在外資産も失った。紡績の縮小を重工業と外地の事業で補う布陣は、敗戦で基盤ごと失われたと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [7]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [8]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [9]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [12]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- [10]1944年1月に大和工業へ商号変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [11]大陸で重工・ゴム・繊維の傍系各社を運営、朝鮮大和紡績を設立、フィリピンで綿花栽培・紡績の設営
参考文献[1]-[12]
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [1]1941年5月、大日本紡績連合会の紡績ブロック結成案に従い業界に先駆けて錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し設立(5月12日)
- [2]1941年5月、大日本紡績連合会の紡績ブロック結成案に従い業界に先駆けて錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併し設立(5月12日)
- [4]設立時資本金86,668,450円、紡織16工場(綿紡機1,145,252錘・織機3,581台)・人絹スフ3工場・加工2工場、全国第2位
- [5]設立時資本金86,668,450円、紡織16工場(綿紡機1,145,252錘・織機3,581台)・人絹スフ3工場・加工2工場、全国第2位
- [7]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [8]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [9]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- [12]1941〜1944年に工場の休止・閉鎖・重工業転換が続き、1944年末に綿紡織4工場(341,400錘)・重布2・加工1・重工業2工場に。転換工場で航空機魚雷部品を製造。終戦時は綿紡機183,580錘・織機2,674台で在外投資を喪失
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [3]錦華紡績は金鳥票綿糸、日出紡織は重布、出雲製織・和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布が主力
- [6]設立当初の設備規模は全国第4位
- [11]大陸で重工・ゴム・繊維の傍系各社を運営、朝鮮大和紡績を設立、フィリピンで綿花栽培・紡績の設営
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- [10]1944年1月に大和工業へ商号変更
1946年〜舞鶴工場の超ハイドラフト精紡機と、益田工場のスフ復元で得た化繊兼営
終戦時に操業できた工場は、出雲・佐賀の綿紡2工場と古宮の重布1工場だけである。大和紡績は1946年6月に商号を大和紡績へ戻し、同じ年に金沢・福井・松原の綿紡3工場の操業を再開した。制限会社と持株会社の指定で経営の自由は限られたものの、工場の再開と設備の修復を順に進めた。舞鶴工場は戦後の一時期に自転車製造へ転換しており、1947年にその機械を宍道工場へ移して綿紡織への復元に着手した。1948年12月には綿紡織6工場と重布1工場の計7工場が稼働し、資本金は同年10月に1億7,500万円となった。紡績本業の設備を先に戻し、戦後の衣料需要に応える体制づくりを優先したと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [13]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [15]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [16]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [17]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [19]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- [14]1946年6月に大和紡績へ商号を復旧
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [18]1948年12月に綿紡織6・重布1の7工場が操業
大和紡績は1949年5月、東京と大阪の証券取引所に株式を上場した。同じ1949年には原綿の民間払下制が実施に移された。大和紡績はこれに合わせて舞鶴工場で超ハイドラフト式の精紡機を導入し、紡績業界で同機を最初に採用した。紡機と自転車をつくっていた宍道工場を1949年7月に分離して生まれたのが、第二会社の大和機械工業(現オーエム製作所)である。8月には資本金を4億8,000万円に増額し、1948年10月の1億7,500万円から約2.7倍に広げた。分離した大和機械工業は、1968年時点でもオーエム製作の名で関係会社に名を連ねた。原綿を各社が自ら調達する局面に入り、生産費の低さが競争の焦点になるとみて設備を先に更新したのだろう。
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- [20]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ上場
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [21]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- [22]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- [26]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [23]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- [25]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- [27]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [24]1949年7月に機械部門を大和機械工業として分離独立
朝鮮戦争を機に綿紡績設備の400万錘制限が撤廃され、大和紡績は各工場の整備と拡充を進めた。1950年には金沢・福井・舞鶴の3工場を拡張し、10月には化繊事業の準備として化学繊維研究所を大阪で開設した。1951年に綿紡織設備の復元がおおむね終わり、操業を止めていた益田工場をスフ製造に戻すことを決めた。同じ時期に繊維の全面統制が撤廃されて好況が訪れ、1951年下期の利益は23億円である。1951年に舞鶴第二工場が完成し、1952年には益田工場の第1期復元工事も完成して、事業は紡績専業から化繊との兼営に移った。綿紡の復元で得た利益を、統制の外れた化繊の設備に充当した判断と考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [28]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- [31]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- [32]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [29]1952年に益田工場第1期復元工事が完成し紡績一本から化繊兼営へ。1950年に金沢・福井・舞鶴工場を拡張、1951年に舞鶴第二工場が完成
- [33]1952年に益田工場第1期復元工事が完成し紡績一本から化繊兼営へ。1950年に金沢・福井・舞鶴工場を拡張、1951年に舞鶴第二工場が完成
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [30]1950年10月に化学繊維研究所を開設
参考文献[13]-[33]
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [13]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [15]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [16]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [17]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [19]終戦時の操業可能工場は綿紡2(出雲・佐賀)・重布1(古宮)。1946年に金沢・福井・松原の綿紡3工場を再開。1947年に舞鶴の自転車製造設備を宍道工場へ移し舞鶴を綿紡織に復元。1948年10月資本金1億7,500万円
- [21]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- [22]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- [26]1949年の原綿民間払下制実施に伴い舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を据付け業界初採用。宍道工場を大和機械工業として分離。同年8月資本金4億8,000万円
- [28]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- [31]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- [32]朝鮮動乱を契機に綿紡績設備400万錘制限が撤廃され工場を整備拡充、大阪に化学繊維研究所を開設。1951年に綿紡織設備の復元が一応達成し休止中の益田工場をスフ工場に復元。繊維統制撤廃の好況で同年下期に23億円の利益
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- [14]1946年6月に大和紡績へ商号を復旧
- [20]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ上場
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [18]1948年12月に綿紡織6・重布1の7工場が操業
- [24]1949年7月に機械部門を大和機械工業として分離独立
- [30]1950年10月に化学繊維研究所を開設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [23]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- [25]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- [27]1949年に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置、宍道工場を大和機械工業(現オーエム製作所)として分離独立。1968年の関係会社にオーエム製作
- [29]1952年に益田工場第1期復元工事が完成し紡績一本から化繊兼営へ。1950年に金沢・福井・舞鶴工場を拡張、1951年に舞鶴第二工場が完成
- [33]1952年に益田工場第1期復元工事が完成し紡績一本から化繊兼営へ。1950年に金沢・福井・舞鶴工場を拡張、1951年に舞鶴第二工場が完成
1953年〜福井工場の梳毛設備で整えた繊維総合経営と、金沢工場の空気精紡機
益田工場のスフ設備が動き出すと、大和紡績は福井工場にスフ糸の紡績部門を新設し、超ハイドラフト式の紡機を充てた。関係会社の高瀬染工場の加工で発売したエバーグレーズ加工品「ミラクル」は、国内で最初の製品である。1953年8月には福井工場に自社初の梳毛設備を完成させ、並行して織機の自動化も推進した。1954年には輸出向け高級綿糸布の設備を拡充し、関係会社の大和川染工所で連続漂白機とサンフォライズ加工の設備を本格稼働させた。1955年4月期の販売高は84億9,000万円。ただし内訳は綿部門が78.6%を占め、化繊は18.3%、梳毛は1.0%にとどまった。綿の景気変動を複数の繊維で均す狙いは、この時点ではまだ売上構成に表れていなかったと読める。
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [34]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [35]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [36]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [38]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [39]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [40]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [37]1953年に福井工場へ梳毛設備を併設し、織布部門の織機自動化を推進、繊維総合経営体制が整う
大和紡績は1958年、創立以来初めての新設工場として梳毛紡績の稲沢工場を完成させた。1960年8月には徳山曹達とポリプロピレンの国産技術で提携し、同じ年に大和ポリグラス工業と大洋化成を設立した。スフの日産能力は1954年の35.96トンから1961年の82トンへと2倍を超え、合繊紡機は2万5,480錘である。1962年にポリプロピレン繊維へ参入し、同年9月には三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテルの開発会社を設けた。それでも1964年時点で綿部門が全体の約6割を占め、1968年時点のポリプロピレン設備は日産20トンだった。綿の比重が高いまま、合繊の技術を他社との提携で補う選択だったとみてよい。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [41]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [44]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [46]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [47]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [50]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [42]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [43]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [48]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [49]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [45]1954年のスフ日産能力は35.96トン
社長の瀬戸直一氏は副社長を経て1963年に就任した。1968年時点の大和紡績は10工場に精紡機(第一区分)47万1,462錘と軽布織機3,655台を持ち、年間総売上高は383億円である。紡績の技術革新として、業界に先がけて豊田自動織機と提携し、空気精紡機の実用化を金沢工場で進めた。狙いは、途上国の低賃金を背景にした安価な製品の流入と、国内の人手不足・人件費の上昇への対応だった。1960年代の不況期には海外での販路開拓と、子会社を通じたボウリング場の経営で収益を補い、1967年4月期から2分の増配に移った。人手に依存する精紡工程そのものを変えることが、低価格品との競争の焦点になると見たのではないか。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [51]瀬戸直一は1962年副社長、1963年社長に就任
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [52]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [53]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [54]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [55]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
参考文献[34]-[55]
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- [34]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [35]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [36]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [38]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [39]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [40]益田のスフ稼働に伴い福井工場に超ハイドラフト紡機のスフ糸紡績部門を新設、高瀬染工場の加工で国内初のエバーグレーズ「ミラクル」を発売。1953年8月福井工場に初の梳毛設備。1954年輸出用高級綿糸布設備を拡充。1955年4月期販売高84億9,000万円(綿78.6%・化繊18.3%・梳毛1.0%)。1954年に大和川染工所の連続漂白機・サンフォライズ加工設備が本格稼働、設備は綿紡機433,880錘・スフ紡機40,480錘・梳毛紡機16,800錘
- [45]1954年のスフ日産能力は35.96トン
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- [37]1953年に福井工場へ梳毛設備を併設し、織布部門の織機自動化を推進、繊維総合経営体制が整う
- [41]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [44]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [46]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [47]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [50]1958年に創立以来初の新設工場として梳毛の稲沢工場が完成。1960年に大洋化成・大和ポリグラス工業を設立。1961年の設備は綿紡機434,108錘・合繊紡機25,480錘・スフ日産82トン。1962年ポリプロピレン繊維に進出。1968年のポリプロピレン設備は日産20トン
- [52]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [53]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [54]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- [55]1968年時点で10工場・精紡機第一区分471,462錘・軽布織機3,655台・年間総売上高383億円。業界に先駆け豊田自動織機と提携し空気精紡機を導入、金沢工場で実用化を推進。目的は後進国の低廉製品の進出と人手不足・人件費高騰への対処。不況期を海外市場開拓や子会社のボーリング進出で乗り切り1967年4月期から2分増配
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」
- [42]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [43]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [48]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [49]1958年5月に新設梳毛工場が生産開始。1960年8月に徳山曹達とポリプロピレン国産技術で提携。1962年9月に三菱化成・興国人絹とポリエステルエーテル開発会社を新設。綿部門が全体の約6割
- [51]瀬戸直一は1962年副社長、1963年社長に就任
出典・参考
4件
- ダイワボウホールディングス 有価証券報告書「沿革」
- 会社銀行八十年史(1955)「大和紡績」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「大和紡績」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大和紡績」