キッコーマン:米国販売会社の設立とマンズワイン・コカ・コーラへの多角化
1957年〜統制撤廃後の販売競争と米国販売会社の設立
統制の撤廃から数年を経て、醤油の国内市場は売り方の競争へ移っていた。1957年には、四大メーカーから家内工業的な零細業者まで、約5000の醤油会社が国内で競合していた。家庭によっては月に3本も4本も見本をもらい、その月は醤油を買わずに済む例が出るほど特売は過熱し、実際に売ってくれる小売店の機嫌を取る必要もあって、販売宣伝費は相当高くついた。野田醤油の1959年12月期の売上高は145億4857万円で、うち醤油が105億9034万円を占めた。従業員は3610人、資本金は12億円で、発行済株式数は2400万株であった。国内の増収は需要の伸びよりも販売費の積み増しに依存し始めていた。
- 読売新聞(1957年11月13日)
- [1]1957年 四大メーカーから零細業者まで約5000の醤油会社が国内で競合
- [2]月に3〜4本の見本配布で醤油を買わずに済む家庭が出るほど販売競争が激化し、小売店対策も要して販売宣伝費が高騰
- 株式会社年鑑 1960年版「野田醤油」
- [3]1959年12月期 売上高14,504,857千円 うち醤油10,590,341千円
- [4]1959年時点の従業員3,610人
- [5]1959年時点の資本金12億円・発行済株数2,400万株
海外の販路には戦前からの蓄積があった。1879年に堂本音之進氏がカリフォルニアで亀甲萬醤油の商標登録を受け、1906年4月のサンフランシスコ大震災で市場の醤油が払底した際には、亀甲萬印500樽が着荷と同時に売り切れ、追加の1000樽も同様に捌けた。日米通商条約の破棄で1941年7月に米国向け輸出は完全に途絶し、再開は1949年6月、ハワイへの初出荷は同年7月であった。十年の空白のあいだに現地のメーカーが続出し、安価なアミノ酸醤油の色沢や臭味に需要者の感覚が慣れて、天然醤油への要望は薄れていた。日系一世の減少も重なり、白人向けの開拓が新しい課題として残った。
- 野田醤油株式会社三十五年史(野田醤油株式会社社史編纂室編、1955年)第五篇 営業 第二章 輸出
- [6]明治12年 堂本音之進が加州で亀甲萬醤油の商標登録
- [7]明治39年4月 サンフランシスコ大震災で醤油が払底し亀甲萬印500樽・追加1000樽が入荷と同時に売切
- [8]昭和16年7月 日米通商条約破棄により米国向け輸出が終止
- [9]昭和24年6月 輸出開始、同年7月 ハワイへ初出荷
- [10]戦争を挟む十年の空白と土地のメーカーの続出、アミノ酸醤油の色沢・臭味に需要者が慣れ天然醤油への要望が減少
- [11]一世の減退と二世・三世の時代への移行、白人向の開拓が新しい課題
米国へ置いたのは、商社への委託とは別の売り方を担う自前の販売会社であった。KIKKOMAN INTERNATIONAL INC. は1957年6月の設立で、1961年2月の時点では『西部アメリカのほとんどの主要都市におけるスーパーマーケットの権利を野田醤油の販売機関である"キッコーマン・インターナショナル"が獲得している』。店頭で行う調理実習は人気を集め、常に黒山の人だかりを集めた。輸出の主体が商社から自社の販売機関へ移ったことで、どの棚を取り、誰に向けて使い方を見せるかを自社で決められるようになった。醤油は用途が知られなければ買われない商品であり、店頭で調理を見せることは商品説明そのものであった。この時期のキッコーマン醤油は、味の素と並ぶ国際商品として注目されるに至った。
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [12]1957年6月 KIKKOMAN INTERNATIONAL INC.(米国)を設立
- 実業の世界 1961年2月号
- [13]1961年2月時点 西部アメリカの主要都市のスーパーマーケットの権利をキッコーマン・インターナショナルが獲得
- [14]スーパーマーケットでの調理実習が人気を呼び常に黒山の人だかり
- [15]1961年 キッコーマン醤油が米国で爆発的な人気を呼び味の素と並ぶ国際商品として注目
参考文献[1]-[15]
- 読売新聞(1957年11月13日)
- [1]1957年 四大メーカーから零細業者まで約5000の醤油会社が国内で競合
- [2]月に3〜4本の見本配布で醤油を買わずに済む家庭が出るほど販売競争が激化し、小売店対策も要して販売宣伝費が高騰
- 株式会社年鑑 1960年版「野田醤油」
- [3]1959年12月期 売上高14,504,857千円 うち醤油10,590,341千円
- [4]1959年時点の従業員3,610人
- [5]1959年時点の資本金12億円・発行済株数2,400万株
- 野田醤油株式会社三十五年史(野田醤油株式会社社史編纂室編、1955年)第五篇 営業 第二章 輸出
- [6]明治12年 堂本音之進が加州で亀甲萬醤油の商標登録
- [7]明治39年4月 サンフランシスコ大震災で醤油が払底し亀甲萬印500樽・追加1000樽が入荷と同時に売切
- [8]昭和16年7月 日米通商条約破棄により米国向け輸出が終止
- [9]昭和24年6月 輸出開始、同年7月 ハワイへ初出荷
- [10]戦争を挟む十年の空白と土地のメーカーの続出、アミノ酸醤油の色沢・臭味に需要者が慣れ天然醤油への要望が減少
- [11]一世の減退と二世・三世の時代への移行、白人向の開拓が新しい課題
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [12]1957年6月 KIKKOMAN INTERNATIONAL INC.(米国)を設立
- 実業の世界 1961年2月号
- [13]1961年2月時点 西部アメリカの主要都市のスーパーマーケットの権利をキッコーマン・インターナショナルが獲得
- [14]スーパーマーケットでの調理実習が人気を呼び常に黒山の人だかり
- [15]1961年 キッコーマン醤油が米国で爆発的な人気を呼び味の素と並ぶ国際商品として注目
1961年〜大阪証券取引所への上場と食品・酒類・飲料への多角化
米国での足場づくりと並行して、国内では醤油以外の事業が相次いで立った。1961年7月に吉幸食品工業を設立し、1963年1月にキッコー食品工業へ商号を改めた。1962年2月には利根飲料を設立して翌1963年2月に利根コカ・コーラボトリングとし、同じ1962年10月に設立した勝沼洋酒は1964年3月にマンズワインへ改めた。資本の調達口も広げ、1961年10月に大阪証券取引所へ株式を上場した。1961年12月期の売上高は169億882万円、うち醤油が85.4%を占め、従業員は3841人であった。
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1961年7月 吉幸食品工業株式会社を設立、1963年1月 キッコー食品工業株式会社に商号変更
- [17]1962年2月 利根飲料株式会社を設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリング株式会社に商号変更
- [18]1962年10月 勝沼洋酒株式会社を設立、1964年3月 マンズワイン株式会社に商号変更
- [19]1961年10月 大阪証券取引所に株式を上場
- 株式会社年鑑 1963年版「野田醤油」
- [20]1961年12月期 売上高16,908,828千円 うち醤油の構成比85.4%
- [21]1961年時点の従業員3,841人
多角化の相手は、醤油の製造と販売から遠くない範囲で選ばれた。ワインは、めんみやめんつゆといった複合調味料にワインを使っていた関係から手がけたものであった。トマトは、食生活の変化のなかで最も手堅い農産物加工に取り組むという判断から選ばれ、三井物産とデルモンテが合弁で始めていたトマト加工会社について、物産の持ち株の半分を譲り受けて参入した。競争は激しく、ハインツもリビーも市場から退出し、茂木啓三郎氏自身も一度は撤退を考えたという。1960年代の後半にはデルモンテ側が問屋を通さない直接販売への切り替えを求めたが、全国750の特約店との関係を理由に即座に断った。
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [22]ワインはめんみ・めんつゆなど複合調味料にワインを使っていた関係で着手
- [23]食生活の変化のなかで手堅い農産物加工としてトマトに着目し、三井物産とデルモンテの合弁トマト加工会社の物産持株を半分譲受
- [24]トマト加工は競争が激しくハインツもリビーも撤退、茂木啓三郎も一度は中止を考えた
- [25]昭和40年代初頭 デルモンテ側の問屋を通さない直接販売方式の提案を全国750の特約店との関係を理由に拒否
1964年10月19日、野田醤油はキッコーマン醤油株式会社へ商号を変更した。新しい時代にふさわしい社名へ改めるというのが理由であった。合同のとき八家の銘柄を最も品質の良いキッコーマンへ統一した判断が、47年を経て社名そのものを商標へ合わせるところまで届いた。1967年12月期の売上高は333億1800万円、税引利益は9億3800万円で、1割8分の配当を据え置いた。醤油の売上比率は82%で、ソース・焼酎・味醂・合成清酒を兼ねた。事業の安定した向上がこの会社の特色であったが、トマト製品やぶどう酒への進出を経て、1968年ごろには安定のうえに積極性が目立つと評されるようになった。地名を冠した社名を捨てたことは、野田の醸造家の集まりから全国商標を持つ食品企業へ立つ位置を移したことを意味した。
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [26]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社に商号変更
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [27]昭和39年10月19日 キッコーマン醤油へ社名変更
- [28]新しい時代にふさわしい社名として改称
- [30]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円・1割8分配当据置
- [31]醤油の売上比率82%
- [32]醤油のほかソース・焼酎・味醂・合成清酒を兼業
- [33]事業の安定的向上が特色だったがトマト製品・ぶどう酒など新分野へ進出し、この2〜3年は安定のうえに積極性が目立つ
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [29]合同の際に最も品質の良いキッコーマン・ブランドへ統一
参考文献[16]-[33]
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1961年7月 吉幸食品工業株式会社を設立、1963年1月 キッコー食品工業株式会社に商号変更
- [17]1962年2月 利根飲料株式会社を設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリング株式会社に商号変更
- [18]1962年10月 勝沼洋酒株式会社を設立、1964年3月 マンズワイン株式会社に商号変更
- [19]1961年10月 大阪証券取引所に株式を上場
- [26]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社に商号変更
- 株式会社年鑑 1963年版「野田醤油」
- [20]1961年12月期 売上高16,908,828千円 うち醤油の構成比85.4%
- [21]1961年時点の従業員3,841人
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [22]ワインはめんみ・めんつゆなど複合調味料にワインを使っていた関係で着手
- [23]食生活の変化のなかで手堅い農産物加工としてトマトに着目し、三井物産とデルモンテの合弁トマト加工会社の物産持株を半分譲受
- [24]トマト加工は競争が激しくハインツもリビーも撤退、茂木啓三郎も一度は中止を考えた
- [25]昭和40年代初頭 デルモンテ側の問屋を通さない直接販売方式の提案を全国750の特約店との関係を理由に拒否
- [29]合同の際に最も品質の良いキッコーマン・ブランドへ統一
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- [27]昭和39年10月19日 キッコーマン醤油へ社名変更
- [28]新しい時代にふさわしい社名として改称
- [30]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円・1割8分配当据置
- [31]醤油の売上比率82%
- [32]醤油のほかソース・焼酎・味醂・合成清酒を兼業
- [33]事業の安定的向上が特色だったがトマト製品・ぶどう酒など新分野へ進出し、この2〜3年は安定のうえに積極性が目立つ
1965年〜バルク輸出への切り替えと輸送条件の限界
米国での販売が伸びるほど、日本から運ぶ費用が重くなった。瓶詰の完成品には運賃に加えて12%の従価税がかかり、これを避けるため、原液をバルクで輸出して現地で瓶詰する方式へ切り替えた。切り替えは1968年ごろで、この方式は成功した。ところが船会社から輸送を断られる事態が生じた。醤油を運んだ船に日本へ向かう帰り荷がなく、大豆や小麦、ときには劇薬を積ませてほしいと求められたためで、食品を扱う以上これは受け入れられなかった。洗えばよいと言われても、いくら洗ったところで製品の印象を損なうことは避けられなかった。海上運賃も年々上昇しており、輸送の条件そのものが輸出の上限を決める構造になっていた。
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [34]運賃に加え12%の従価税を課されたためバルクで輸出し現地でボトリングを開始
- [35]バルク輸出と現地ボトリングへの切り替えは1978年の約10年前で成功した
- [36]船会社から帰り荷がないとして断られ、大豆・小麦・劇薬の積載を求められた
- [37]洗えばよいと言われてもいくら洗ってもイメージダウンになる
- 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号
- [38]海上運賃は年々上昇しており工場建設で製品運賃を節減できる
販売の側では、米国内の日本食品の流通そのものを押さえにいった。1969年6月にJAPAN FOOD CORPORATIONへ経営参加し、翌1970年3月には太平洋貿易へ経営参加した。太平洋貿易は、戦前の亀甲萬醤油の輸出に力があり、戦後の輸出再開でも新納古太郎氏らが折衝に尽力した商社であった。1948年11月には、貿易庁と太平洋貿易、野田醤油常務の高梨小一郎氏らが協議し、米国から原料を一手に入手したうえで農林省が各業者へ割り付ける方法を決めていた。輸出を担ってきた取引先を資本で取り込むことで、製造から現地の卸までが一つの系列に収まった。
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [39]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加
- [40]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
- 野田醤油株式会社三十五年史(野田醤油株式会社社史編纂室編、1955年)第五篇 営業 第二章 輸出
- [41]太平洋貿易は戦前の亀甲萬醤油輸出に力があり、戦後再開で新納古太郎らが尽力
- [42]昭和23年11月 貿易庁・太平洋貿易・野田醤油常務高梨小一郎らが協議し米国から原料を一手入手して農林省が各業者へ割付ける方法を決定
日本人の人件費は年ごとに急速に上がって米国との開きが縮み、海外に工場を置くことの不利は薄れつつあった。醤油の売れ行きも順調に伸び、経済的に成り立つ最も小さな規模の工場なら持てるだけの量に近づいていた。現地で造れば製品を運ぶ費用が大幅に減り、原料の運賃も間接的に抑えられる。こうして、米国での生産が残された道となった。それでも役員の間には慎重な空気があった。醤油の蔵ごとに固有の菌がすみついているとされ、遠い国で繊細な味を出せるのかが案じられたのである。茂木啓三郎氏は自身の不安を製造本部長と中央研究所長の二人にだけ打ち明け、役員会では大丈夫だと言い切って踏み切った。
- 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号
- [43]日本人の人件費が急上昇し米国との差が縮小、海外工場のデメリットが小さくなりつつある
- [44]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつあった
- [45]工場建設で製品運賃を節減でき間接的に原料の運賃も節減できる
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [46]蔵ごとに独自の菌が棲むと信じられ異国で微妙な味が出せるか役員が不安を抱いた
- [47]茂木啓三郎は不安を製造本部長と中央研究所長の2人にだけ打ち明け役員会では大丈夫だと言って踏み切った
参考文献[34]-[47]
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- [34]運賃に加え12%の従価税を課されたためバルクで輸出し現地でボトリングを開始
- [35]バルク輸出と現地ボトリングへの切り替えは1978年の約10年前で成功した
- [36]船会社から帰り荷がないとして断られ、大豆・小麦・劇薬の積載を求められた
- [37]洗えばよいと言われてもいくら洗ってもイメージダウンになる
- [46]蔵ごとに独自の菌が棲むと信じられ異国で微妙な味が出せるか役員が不安を抱いた
- [47]茂木啓三郎は不安を製造本部長と中央研究所長の2人にだけ打ち明け役員会では大丈夫だと言って踏み切った
- 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号
- [38]海上運賃は年々上昇しており工場建設で製品運賃を節減できる
- [43]日本人の人件費が急上昇し米国との差が縮小、海外工場のデメリットが小さくなりつつある
- [44]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつあった
- [45]工場建設で製品運賃を節減でき間接的に原料の運賃も節減できる
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- [39]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加
- [40]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
- 野田醤油株式会社三十五年史(野田醤油株式会社社史編纂室編、1955年)第五篇 営業 第二章 輸出
- [41]太平洋貿易は戦前の亀甲萬醤油輸出に力があり、戦後再開で新納古太郎らが尽力
- [42]昭和23年11月 貿易庁・太平洋貿易・野田醤油常務高梨小一郎らが協議し米国から原料を一手入手して農林省が各業者へ割付ける方法を決定
筆者考察
約5000社がひしめく国内市場で、野田醤油が持てなかったのは価格の決定権である。見本を配って棚を取る競争が販売宣伝費を押し上げても、卸と小売の値段に手を触れることは1955年の審決で禁じられていた。1957年6月にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を米国へ置いたのは、輸出量を増やすためというより、値決めと棚の取り方を自分で決められる市場を一つ持つためだったのだろう。1961年には西部アメリカの主要都市のスーパーマーケットの権利を自社の販売機関が握り、店頭の調理実習で使い方そのものを教えていた。国内では配れなかった商品の説明を、米国では棚ごと設計できた。
1961年から1964年までの三年間に、吉幸食品工業・利根飲料・勝沼洋酒が続けて立ち、社名は野田醤油からキッコーマン醤油へ変わった。ワインはめんつゆの原料として、トマトは手堅い農産物加工として選ばれており、どちらも醤油の製造と販売の延長にある。多角化と改称は別々の出来事ではなく、野田という地名で括られた醸造家の集まりを、キッコーマンという商標で括られた食品企業へ組み替える一つの作業だった。1967年12月期でも醤油は売上の82%を占めており、看板を替えたのは実態が先に変わったからではない。多角化の各社はまだ数字の上では小さい。実態を変えるために、先に看板のほうを替えたのである。
- 単体・年1回決算。1959年と1961年は株式会社年鑑、1967年は『企業の歴史 : 明治百年』による。
1957年〜1971年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1957年12月期 | 単体 | 131 | n/a | 6 | 5.3% | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 139 | +6.1% | 7 | 5.3% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 145 | +4.3% | 7 | 5.4% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 155 | +6.9% | 8 | 5.3% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 169 | +9.0% | 8 | 4.7% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 185 | +9.5% | 8 | 4.8% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 209 | +13.0% | 9 | 4.7% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 237 | +13.4% | 6 | 2.6% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 259 | +9.3% | 7 | 2.7% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 292 | +12.7% | 8 | 2.7% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 333 | +14.0% | 9 | 2.8% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 359 | +7.8% | 10 | 3.0% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 395 | +10.0% | 11 | 3.0% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 458 | +15.9% | 13 | 2.9% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 520 | +13.5% | 16 | 3.2% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
- 野田醤油株式会社三十五年史(野田醤油株式会社社史編纂室編、1955年)第五篇 営業 第二章 輸出
- 株式会社年鑑 1960年版「野田醤油」
- 株式会社年鑑 1963年版「野田醤油」
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- 実業の世界 1961年2月号
- 日経ビジネス 1978年4月24日号
- 読売新聞(1957年11月13日)
- 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号