第4章 年〜年

南満洲鉄道:重工業持分の満州国政府への譲渡と終戦による解散

1938年〜附属地行政権と重工業部門の移管、華北への進出

1937年12月、会社は治外法権の全面撤廃と同時に、創業以来社業の基本要素の一つだった附属地行政権を満洲国へ移した。土木・衛生・道路・中国人教育にかかわる行政は満洲国政府へ、日本人の教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会へ渡り、日本臣民の神社・教育・兵事に関する行政だけが日本国政府の手に属人的に残った。移した施設は公学堂・州外公費図書館・婦人病院・保健所・上水道・消防隊・火葬場などに及び、評価額は5,500万円、投資額の28%にあたる。内訳は満洲国関係が3,238万9,546円、日本政府関係が2,282万8,985円。施設に随伴して満洲国政府へ1,495人、日本政府系統機関へ2,842人、合わせて4,319人の社員が転出した。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [1]治外法権の撤廃は昭和十二年十二月その全面的撤廃を実施するとともに、満鉄付属地の行政権委譲が行われた。『日本臣民の神社、教育及び兵事に関する行政は日本国政府が属人的に行う』ほか、他の土木、衛生、道路、中国人教育の関係行政は一切満州国政府に、また日本人教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会に一任された
    • [2]移譲の対象となった機関、施設の種目は公学堂、日語学堂、州外公費図書館、婦人病院、保健所、州外道路、下水道、火葬場、消防隊、上水道等であり、これ等施設の評価額は五五〇〇万円で、投資額の二八%に当る
    • [3]満州国関係三二、三八九、五四六円 日本政府関係二二、八二八、九八五円 計五五、二一八、五三二円
    • [4]満鉄から、満州国政府に一、四九五人、日本政府系統機関に二、八四二人、計四、三一九人の社員が上記の施設に随伴して転出した

翌1938年3月、会社は重工業部門を満洲重工業開発株式会社へ引き渡した。1916年から独力で育ててきた昭和製鋼所の株式75%を筆頭に、満洲炭鉱・日満マグネシウム・満洲鉛鉱・同和自動車・満洲石油などの持分合計1億890万円を満洲国政府へ譲り、重工業の建設と経営から手を引いた。産業部を構成していた基幹要員も大部分が新会社へ移り、残った要員は調査部として再出発し、社業は鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭礦を中心とする炭礦事業と製油、調査部を中心とする調査研究の三本立てになった。総事業費に占める鉄道投資の比重は1937年の64%から1941年には80%へ上昇。満洲事変前の鉄道投資は全投資の30〜40%にとどまるのが常態で、会社は鉄道以外の分野へ広く資金を振り向けていた。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [5]満鉄は、大正五年以来独力で育成に努めて来た昭和製鋼所の株式の七五%を初めとし、事変後の特殊会社投資の大部分に相当する満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等の持分合計一億〇八九〇万円を満州国政府に譲渡し、重工業関係の建設経営から一切手を引くこととなった
    • [6]産業部を構成していた基幹要員も大部分新設の満州重工業に移り、残部は調査部として再出発した。満鉄はこの時以来終戦に至るまで、鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭鑛を中心とする炭礦事業と製油、調査部(中央試験所を含む)を中心とする全東亜に跨る調査、研究、の三本立を社業の基礎とするに至った
    • [7]鉄道投資の総事業費中に占める比重が、昭和十二年の六四%から十六年の八〇%に上っている。満州事変前における鉄道投資は全投資の僅か三〇-四〇%の間にあったのが常態であった

日中事変の後、会社は天津に置いていた連絡機関を総裁直轄の北支事務局へ改め、1938年9月の職制改正で正規の機関とし、1万3,500名の社員を配置して華北各鉄道の接収と運営に当たらせた。会社は30年に及ぶ大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠に中国全鉄道の経営委任を求めたが、華中は鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社が担い、会社の関与は華北にとどまった。1939年に華北交通株式会社が発足すると、派遣社員は満鉄社員の身分を保留したまま新会社へ配置され、その主力を占めた。華北交通は資本金3億円(連銀券)のうち1億2,000万円を会社が引き受け、京山・京漢・膠済など5,780粁の鉄道に加えて584粁の内河水運と1万粁を超える自動車路線を運営し、塘沽の築港工事も直轄した。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [8]満鉄は日中事変以前より天津に小規模な連絡機関を設置していたが、事変後はこれを拡張して暫定的に総裁直轄の北支事務局に改め、十三年九月の職制改正において正規の機関とし、一万三五〇〇名に上る社員をこの局に配置し、華北各鉄道の接収と運営に当った
    • [9]満鉄は早くから大陸鉄道一貫経営の主張を掲げ、三十年に亘る大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠として、中国全鉄道の経営の委任を受けることを期待したが、結局華中は、鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社がその運営に当り、満鉄は華北交通に対する資本的、人的な参加を通じて、華北鉄道五、七八〇粁にその支配を及ぼすこととなった
    • [10]昭和十四年同社の創立と同時に、派遣全社員は満鉄社員の身分を保留したまま、新会社に配置され、同社の主力を形成した
    • [11]華北交通株式会社(資本金、連銀券三億円、満鉄引受一億二千万円、引受率四〇%)の経営線は、京山、京古、京包、京漢、津浦、石太、膠済、同浦の各線合計に軍管理の委任経営を加え総計五、七八〇粁。この会社は鉄道のほか五八四粁に及ぶ内河水運、一万粁以上の自動車路線の運営をも行い、かつ白河下流の塘沽に大築港工事を直轄事業として実施した
参考文献[1]-[11]
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [1]治外法権の撤廃は昭和十二年十二月その全面的撤廃を実施するとともに、満鉄付属地の行政権委譲が行われた。『日本臣民の神社、教育及び兵事に関する行政は日本国政府が属人的に行う』ほか、他の土木、衛生、道路、中国人教育の関係行政は一切満州国政府に、また日本人教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会に一任された
    • [2]移譲の対象となった機関、施設の種目は公学堂、日語学堂、州外公費図書館、婦人病院、保健所、州外道路、下水道、火葬場、消防隊、上水道等であり、これ等施設の評価額は五五〇〇万円で、投資額の二八%に当る
    • [3]満州国関係三二、三八九、五四六円 日本政府関係二二、八二八、九八五円 計五五、二一八、五三二円
    • [4]満鉄から、満州国政府に一、四九五人、日本政府系統機関に二、八四二人、計四、三一九人の社員が上記の施設に随伴して転出した
    • [5]満鉄は、大正五年以来独力で育成に努めて来た昭和製鋼所の株式の七五%を初めとし、事変後の特殊会社投資の大部分に相当する満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等の持分合計一億〇八九〇万円を満州国政府に譲渡し、重工業関係の建設経営から一切手を引くこととなった
    • [6]産業部を構成していた基幹要員も大部分新設の満州重工業に移り、残部は調査部として再出発した。満鉄はこの時以来終戦に至るまで、鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭鑛を中心とする炭礦事業と製油、調査部(中央試験所を含む)を中心とする全東亜に跨る調査、研究、の三本立を社業の基礎とするに至った
    • [7]鉄道投資の総事業費中に占める比重が、昭和十二年の六四%から十六年の八〇%に上っている。満州事変前における鉄道投資は全投資の僅か三〇-四〇%の間にあったのが常態であった
    • [8]満鉄は日中事変以前より天津に小規模な連絡機関を設置していたが、事変後はこれを拡張して暫定的に総裁直轄の北支事務局に改め、十三年九月の職制改正において正規の機関とし、一万三五〇〇名に上る社員をこの局に配置し、華北各鉄道の接収と運営に当った
    • [9]満鉄は早くから大陸鉄道一貫経営の主張を掲げ、三十年に亘る大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠として、中国全鉄道の経営の委任を受けることを期待したが、結局華中は、鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社がその運営に当り、満鉄は華北交通に対する資本的、人的な参加を通じて、華北鉄道五、七八〇粁にその支配を及ぼすこととなった
    • [10]昭和十四年同社の創立と同時に、派遣全社員は満鉄社員の身分を保留したまま、新会社に配置され、同社の主力を形成した
    • [11]華北交通株式会社(資本金、連銀券三億円、満鉄引受一億二千万円、引受率四〇%)の経営線は、京山、京古、京包、京漢、津浦、石太、膠済、同浦の各線合計に軍管理の委任経営を加え総計五、七八〇粁。この会社は鉄道のほか五八四粁に及ぶ内河水運、一万粁以上の自動車路線の運営をも行い、かつ白河下流の塘沽に大築港工事を直轄事業として実施した

1939年〜輸送量八千三百万瓲の頂点と、七割四分へ落ちた収支比率

1938年10月、会社は運賃を全面的に改めた。社線と国線で異なっていた賃率を最低率の社線賃率に合わせて単一運賃率とし、遠距離逓減を強めたうえ、穀類・家畜・木材・石炭・鉄鉱の5品目には別建ての品目運賃率を設けた。この5品目は1935年の実績で営業貨物の79%、収入の75%を占めており、改正で会社が負う減収は1939年度で約1,800万円と見込まれた。1939年3月に大村卓一総裁が就任すると、会社は運賃に続いて資本と勘定にも手を入れ、1940年1月20日に資本金を8億円から14億円へ引き上げた。同年4月からは委託国有鉄道の営業収支を固有の収支と区分せず一本の勘定で扱い、満洲国が会社に負う借款の利子は契約の当初に遡って全額免除となり、代わりに会社は毎年1,500万円の報償金を満洲国政府へ納めた。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [12]満鉄は、昭和十三年十月画期的な運賃改正を行った。社線、国線各運賃率を異にする不合理を是正するため、各線中最低率の社線賃率を基準とし、遠距離逓減を強化した単一運賃率を設定した。穀類、家畜、木材、石炭、鉄鉱の五品目に別個の品目運賃率を設定し、遠距離逓減の率を強化した
    • [13]右にあげた五品目は鉄道貨物の大宗をなすもので、昭和十年(一九三五年)の実績で見ると全営業貨物の七九%に当り、また収入においては七五%を占めている。従ってこの時の改正による満鉄の負担は昭和十四年度に於て約一千八百万円と推算された
    • [14]一五 大村卓一 昭和一四、三 昭和一八、七
    • [15]昭和十五年一月二十日満鉄は従来の資本金八億円を一挙に六億円の増資を行い、公称資本金一四億とした
    • [16]昭和十五年四月一日よりいわゆる経理の社線一元化の実現を見た。委託満州国々有鉄道等の営業収支は、満鉄固有の営業収支と区分せざることとし、満鉄自体の計算に於て之を行う。満鉄に対する満州国政府の諸借款は新旧とも無利子とし、既往未整理の借款利息は契約の当初に遡り之を免除す。満鉄は満州国政府に対し毎年報償金一、五〇〇万円を納付す

営業粁は1937年度末の9,655粁から1943年5月末の1万1,205粁へ約1,550粁延び、ほかに仮営業線360粁を抱えた。多年の懸案だった1万粁は、1939年11月1日に浜綏線から東寧へ至る新線91.1粁が本営業を開始して突破した。鉄道従業員は1937年の9万8,000人から1943年5月の21万人へ倍以上に増え、貨物輸送量は1937年以来毎年記録を更新して1942年には8,316万6,000瓲と1937年実績の2倍となった。旅客も輸送人員1億3,000万人、140億人粁、収入3億770万円を数え、1937年比でそれぞれ3.5倍、3.4倍、4.5倍へ伸びた。1941年の関東軍特別演習では7月24日から9月10日にかけて約30万の兵力を移送し、旅客と貨物の受付を広く止めたため、7・8月の輸送は5月比で旅客が約4割、営業貨物が2割6分減った。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [17]営業粁においては昭和十二年度末の九、六五五粁が、十八年五月末に一一、二〇五粁へと、約一、五五〇粁約一三%の延伸をみた。このほかにも三六〇粁の仮営業線を持っていた
    • [18]多年の懸案であった鉄路一万粁突破は、昭和十四年十一月一日浜綏線より東寧に至る新線九一・一粁の本営業開始によって達成した
    • [19]鉄道従業員は営業粁の延伸と輸送量の激増に対応して、昭和十二年の九万八千人より十八年五月の二一万人へと二倍以上の増加を示した
    • [20]輸送屯数は、昭和十二年以来毎年記録を更新し、十七年には八千三百万屯と倍以上の増加を示した。昭和十七年には、貨物輸送量は八三一六万六千瓲の記録を樹立したが、これは昭和十二年の実績の二倍に相当する
    • [21]輸送人員一億三千万人、一四〇億人粁、収入三億七七〇万円という成績は、昭和十二年の実績に比し、それぞれ三・五倍、三・四倍、四・五倍に当る
    • [22]関特演とは一九四一年(昭和十六年)独ソ開戦に伴い、その七月二十四日から九月十日にかけて行われた動員輸送の秘匿名であった。約三十万の兵力の急速対満移送が行われ、満鉄はこのため広汎に旅客貨物の制限、受付停止を行った。そのため七、八月の輸送は五月に比べて、旅客人員において約四割減、営業貨物において二割六分の減少を示した

輸送量の記録と裏腹に、収益力は低下した。鉄道の収支比率は1908年から1938年まで50%を超えず、会社がつぶれると騒がれた1931年でさえ支出は収入の44%にとどまっていたが、74%へ跳ね上がった。港湾部門は初めて赤字に転じ、会社が経営する8港湾の輸出貨物は1938年の742万瓲から1942年の441万瓲へ減った。1942年度の利息負担7,000万円は、鉄道部門の利益約2億円の35%にあたる。撫順炭礦は1938年に出炭1,000万瓲を記録したものの、増産を急いで炭層を覆う頁岩層の剥離が遅れ、この年を頂点に生産は900万瓲台から600万瓲台まで減少した。使用総資本は1937年の21億1,940万2,000円から1943年の42億3,188万6,000円へ倍増し、増加額21億1,200万円の8割は株金の徴収と12億800万円の社債募集で賄われた。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [23]満鉄の鉄道収益力は、明治四十一年以来昭和十三年に至るまで、その収支比率は五〇%を超すことはなかった。満鉄がつぶれると騒がれた昭和六年においてさえ、鉄道支出は鉄道収入の四四%を占めているに過ぎなかった。それが七四%に激落したのである
    • [24]港湾部門が初めて赤字にてん落したことも見逃し難い。満鉄経営の八港湾(大連、旅順、安東、営口、羅津、雄基、河北、壺芦島)における輸出貨物の量は、昭和十三年の七四二万瓲より十七年の四四一万瓲までに激減した
    • [25]十七年度における利息負担七千万円は、鉄道部門の利益約二億の三五%にも当る大きさであって、これが全体としての収益力に大きな圧迫となった
    • [26]昭和十三年にはこれらの増産計画が功を奏して出炭一千万瓲の記録をうちたてることが出来た。しかしこの年をピークとして、撫順炭の生産は低下の一途をたどり、九百万瓲台から六百万瓲台にまで落ちたが、その最大の原因は増産を強行するの余り炭層を被覆している頁岩層の剥離が遅れたことにあった
    • [27]昭和十二年 二、一一九、四〇二千円、昭和十八年 四、二三一、八八六千円。この六カ年間の増加額は二一億一二〇〇万円で、その八〇%迄が株金の徴収と社債の募集(一二億八百万円)によって賄われた
参考文献[12]-[27]
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [12]満鉄は、昭和十三年十月画期的な運賃改正を行った。社線、国線各運賃率を異にする不合理を是正するため、各線中最低率の社線賃率を基準とし、遠距離逓減を強化した単一運賃率を設定した。穀類、家畜、木材、石炭、鉄鉱の五品目に別個の品目運賃率を設定し、遠距離逓減の率を強化した
    • [13]右にあげた五品目は鉄道貨物の大宗をなすもので、昭和十年(一九三五年)の実績で見ると全営業貨物の七九%に当り、また収入においては七五%を占めている。従ってこの時の改正による満鉄の負担は昭和十四年度に於て約一千八百万円と推算された
    • [14]一五 大村卓一 昭和一四、三 昭和一八、七
    • [15]昭和十五年一月二十日満鉄は従来の資本金八億円を一挙に六億円の増資を行い、公称資本金一四億とした
    • [16]昭和十五年四月一日よりいわゆる経理の社線一元化の実現を見た。委託満州国々有鉄道等の営業収支は、満鉄固有の営業収支と区分せざることとし、満鉄自体の計算に於て之を行う。満鉄に対する満州国政府の諸借款は新旧とも無利子とし、既往未整理の借款利息は契約の当初に遡り之を免除す。満鉄は満州国政府に対し毎年報償金一、五〇〇万円を納付す
    • [17]営業粁においては昭和十二年度末の九、六五五粁が、十八年五月末に一一、二〇五粁へと、約一、五五〇粁約一三%の延伸をみた。このほかにも三六〇粁の仮営業線を持っていた
    • [18]多年の懸案であった鉄路一万粁突破は、昭和十四年十一月一日浜綏線より東寧に至る新線九一・一粁の本営業開始によって達成した
    • [19]鉄道従業員は営業粁の延伸と輸送量の激増に対応して、昭和十二年の九万八千人より十八年五月の二一万人へと二倍以上の増加を示した
    • [20]輸送屯数は、昭和十二年以来毎年記録を更新し、十七年には八千三百万屯と倍以上の増加を示した。昭和十七年には、貨物輸送量は八三一六万六千瓲の記録を樹立したが、これは昭和十二年の実績の二倍に相当する
    • [21]輸送人員一億三千万人、一四〇億人粁、収入三億七七〇万円という成績は、昭和十二年の実績に比し、それぞれ三・五倍、三・四倍、四・五倍に当る
    • [22]関特演とは一九四一年(昭和十六年)独ソ開戦に伴い、その七月二十四日から九月十日にかけて行われた動員輸送の秘匿名であった。約三十万の兵力の急速対満移送が行われ、満鉄はこのため広汎に旅客貨物の制限、受付停止を行った。そのため七、八月の輸送は五月に比べて、旅客人員において約四割減、営業貨物において二割六分の減少を示した
    • [23]満鉄の鉄道収益力は、明治四十一年以来昭和十三年に至るまで、その収支比率は五〇%を超すことはなかった。満鉄がつぶれると騒がれた昭和六年においてさえ、鉄道支出は鉄道収入の四四%を占めているに過ぎなかった。それが七四%に激落したのである
    • [24]港湾部門が初めて赤字にてん落したことも見逃し難い。満鉄経営の八港湾(大連、旅順、安東、営口、羅津、雄基、河北、壺芦島)における輸出貨物の量は、昭和十三年の七四二万瓲より十七年の四四一万瓲までに激減した
    • [25]十七年度における利息負担七千万円は、鉄道部門の利益約二億の三五%にも当る大きさであって、これが全体としての収益力に大きな圧迫となった
    • [26]昭和十三年にはこれらの増産計画が功を奏して出炭一千万瓲の記録をうちたてることが出来た。しかしこの年をピークとして、撫順炭の生産は低下の一途をたどり、九百万瓲台から六百万瓲台にまで落ちたが、その最大の原因は増産を強行するの余り炭層を被覆している頁岩層の剥離が遅れたことにあった
    • [27]昭和十二年 二、一一九、四〇二千円、昭和十八年 四、二三一、八八六千円。この六カ年間の増加額は二一億一二〇〇万円で、その八〇%迄が株金の徴収と社債の募集(一二億八百万円)によって賄われた

1944年〜終戦による事業の停止と、中国長春鉄路への移管

1944年に入ると戦火が満洲へ及んだ。夏に鞍山が、冬に奉天が爆撃を受け、海上交通が途絶えて貨客の陸路転換は避けられなくなった。会社は京義・安奉・奉山各線の複線工事を進め、資材を回すために大石橋・二十里台間193粁の軌条と橋梁を撤去して単線に戻し、安奉線の複線化は終戦の直前に終わった。大陸中継輸送の激増で貨車が朝鮮と華北へ流出し、この年の末には使用可能な車輛が2,000両を割った。炭質の悪化、給水の困難、小運送機能の低下、稀有の酷寒が重なるなかで1944年の輸送は7,900万瓲を成し遂げたが、計画の8,800万瓲には届かなかった。1934年から大連・新京間を走っていた特別急行アジア号も、この年に運転を休止した。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [28]昭和十九年に入って戦局は急激に悪化した。この夏には鞍山が、次いで冬には奉天が爆撃を受け、開戦以来初めて戦火が満州に波及した。海上交通は杜絶し、貨客の陸路転換は不可避となった
    • [29]京義、安奉、奉山各線の複線工事が進められ、資材転用のため本線の一部さえ軌条を撤去して単線化された。一九四四年安奉線及京義線複線工事用として五十磅軌条獲得を目的として大石橋、二十里台間一九三粁の軌条橋梁を撤去し単線とした。安奉線の複線化は終戦の直前に完成した
    • [30]大陸中継輸送の激増は貨車の対鮮、対華流出を伴い、車輛不足が激化し、この年の末には使用可能の車輛が二千両を割るに至った
    • [31]炭質の悪化、給水の困難、小運送(馬車、自動車)機能の低下、更にこの年の冬満州を襲った稀有の酷寒等の悪条件が累積して、輸送の困難は言語に絶した。それでも十九年には七、九〇〇万瓲の輸送を成就し得た。計画の八、八〇〇万瓲には達しなかった
    • [32]一九三四年(昭和九年)三月一日から大連―新京間に特別急行列車「アジア」号が運転を開始した。その後太平洋戦争の進展に伴い、一九四四年にはこの「アジア」号の運転も休止せざるをえなくなったのであった

1943年7月に小日山直登総裁が、1945年5月には山崎元幹総裁が就任した。1945年1月20日の臨時株主総会で会社は10億円の増資を決議し、閉鎖指定日までに7,017万689円が払い込まれたが、終戦と閉鎖機関の指定を受けてこの払込金は出資株主へ返された。1945年度に入ると本土決戦方針に応じる関東軍の兵力転用輸送が続き、一般物資の国内輸送は月300万瓲へ減少した。作戦方針が満洲内の自戦自活体制の確立へ切り替わると社員にも根こそぎ動員がかかり、数万の社員が北辺へ配置された。6月に東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部の通化移駐に満洲国と会社の首脳部が随行した。8月9日午前3時のソ連軍による新京爆撃を経て、15日に終戦の詔勅が発せられた。工事の終わらなかった建設線は9線を数える。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [33]一六 小日山直登 昭和一八、七 昭和二〇、四/一七 山崎元幹 昭和二〇、五 昭和二〇、九
    • [34]満鉄は昭和二十年一月二十日の臨時株主総会に於て二万株、十億円の増資を決議し、内地側一般株主の申込証拠金八一二五万円の払込取扱を日本興業銀行に委託し、閉鎖指定日までに払込まれた金額は七、〇一七万六八九円にのぼっていたが、終戦と閉鎖機関指定のため、これらの払込金は夫々出資株主に返済した
    • [35]二十年に入ると年度初めから、本土決戦方針に対応する関東軍の兵力転用輸送が行われ、これが民生、産業方面に与えた影響は深刻なものがあった。一般物資の国内輸送は月三〇〇万瓲に低下した
    • [36]策戦方針は満州内における自戦自活体制の確立に切りかえられ、従来戦力として温存されていた満鉄社員にも根こそぎ動員が実施され、数万の社員が銃も持たず北辺に配置された
    • [37]昭和二十年六月には東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部が通化に移駐したために、満州国、満鉄の中心首脳部はすべてこれに随行した
    • [38]同年八月九日午前三時ソ連の新京爆撃があり、同時に数カ地点から地上軍の進攻を見た。かくて八月十五日には終戦の詔勅が発せられた。終戦のとき工事未了に終った建設線は九線であった

1945年8月27日、中ソ両国は中ソ友好条約と中国長春鉄道および大連湾に関する協定を締結し、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路へ移った。浜綏・浜州の両線はソ連軍が直接管轄し、長春の本社にはワシリエフ少将が、奉天と哈爾賓には鉄道監が駐在した。日本人社員は約8万人と推算され、このうち5万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された。会社の重役会は9月22日をもって解散したものと扱われた。1946年2月末には中長鉄路の陣容が整い、理事長に張嘉璈、副理事長にカルギン中将が就任し、山崎元幹総裁はソ連側顧問の最高顧問となった。社員は在留邦人の都市集中輸送に当たり、送還者は1946年度の101万4,394人を含めて104万6,954人に上る。1947年7月、山崎元幹総裁が新京から奉山線経由で帰国した。

  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [39]八月二十七日には中ソ両国の間に、中ソ友好条約と中国長春鉄道及び大連湾に関する協定が締結され、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路となって転身した
    • [40]当初は浜綏浜州線は直接ソ連軍の管轄、他は哈鉄局が運行に当り、南満地区は奉天のパルホメンコ少将が指導に当った。長春の満鉄本社にはワシリエフ少将が駐在、奉天と哈爾賓に鉄道監が駐在した
    • [41]この時の日本人満鉄社員は総数約八万人と推算されたが、この間五万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された
    • [42]満鉄は、昭和二十年九月二十二日をもって重役会は解散したものと看做され
    • [43]翌二十一年二月末には中長鉄路幹部の陣容も次の如く整った。理事長 張嘉璈、副理事長 カルギン中将。この時日本側のソ連側顧問も左の如く発表された。最高顧問 山崎元幹
    • [44]このとき以降社員は、邦人の内地送還のための都市集中輸送に全力を尽した。満蒙同胞援護会の資料によれば、昭和二一年度 一、〇一四、三九四人、同二二年度 二九、一八八人、同二三年度 三、三七二人、計 一、〇四六、九五四人
    • [45]二十二年七月満鉄最後の総裁山崎元幹が、新京より奉天経由の奉山線経由で帰国の途についた
参考文献[28]-[45]
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
    • [28]昭和十九年に入って戦局は急激に悪化した。この夏には鞍山が、次いで冬には奉天が爆撃を受け、開戦以来初めて戦火が満州に波及した。海上交通は杜絶し、貨客の陸路転換は不可避となった
    • [29]京義、安奉、奉山各線の複線工事が進められ、資材転用のため本線の一部さえ軌条を撤去して単線化された。一九四四年安奉線及京義線複線工事用として五十磅軌条獲得を目的として大石橋、二十里台間一九三粁の軌条橋梁を撤去し単線とした。安奉線の複線化は終戦の直前に完成した
    • [30]大陸中継輸送の激増は貨車の対鮮、対華流出を伴い、車輛不足が激化し、この年の末には使用可能の車輛が二千両を割るに至った
    • [31]炭質の悪化、給水の困難、小運送(馬車、自動車)機能の低下、更にこの年の冬満州を襲った稀有の酷寒等の悪条件が累積して、輸送の困難は言語に絶した。それでも十九年には七、九〇〇万瓲の輸送を成就し得た。計画の八、八〇〇万瓲には達しなかった
    • [32]一九三四年(昭和九年)三月一日から大連―新京間に特別急行列車「アジア」号が運転を開始した。その後太平洋戦争の進展に伴い、一九四四年にはこの「アジア」号の運転も休止せざるをえなくなったのであった
    • [33]一六 小日山直登 昭和一八、七 昭和二〇、四/一七 山崎元幹 昭和二〇、五 昭和二〇、九
    • [34]満鉄は昭和二十年一月二十日の臨時株主総会に於て二万株、十億円の増資を決議し、内地側一般株主の申込証拠金八一二五万円の払込取扱を日本興業銀行に委託し、閉鎖指定日までに払込まれた金額は七、〇一七万六八九円にのぼっていたが、終戦と閉鎖機関指定のため、これらの払込金は夫々出資株主に返済した
    • [35]二十年に入ると年度初めから、本土決戦方針に対応する関東軍の兵力転用輸送が行われ、これが民生、産業方面に与えた影響は深刻なものがあった。一般物資の国内輸送は月三〇〇万瓲に低下した
    • [36]策戦方針は満州内における自戦自活体制の確立に切りかえられ、従来戦力として温存されていた満鉄社員にも根こそぎ動員が実施され、数万の社員が銃も持たず北辺に配置された
    • [37]昭和二十年六月には東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部が通化に移駐したために、満州国、満鉄の中心首脳部はすべてこれに随行した
    • [38]同年八月九日午前三時ソ連の新京爆撃があり、同時に数カ地点から地上軍の進攻を見た。かくて八月十五日には終戦の詔勅が発せられた。終戦のとき工事未了に終った建設線は九線であった
    • [39]八月二十七日には中ソ両国の間に、中ソ友好条約と中国長春鉄道及び大連湾に関する協定が締結され、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路となって転身した
    • [40]当初は浜綏浜州線は直接ソ連軍の管轄、他は哈鉄局が運行に当り、南満地区は奉天のパルホメンコ少将が指導に当った。長春の満鉄本社にはワシリエフ少将が駐在、奉天と哈爾賓に鉄道監が駐在した
    • [41]この時の日本人満鉄社員は総数約八万人と推算されたが、この間五万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された
    • [42]満鉄は、昭和二十年九月二十二日をもって重役会は解散したものと看做され
    • [43]翌二十一年二月末には中長鉄路幹部の陣容も次の如く整った。理事長 張嘉璈、副理事長 カルギン中将。この時日本側のソ連側顧問も左の如く発表された。最高顧問 山崎元幹
    • [44]このとき以降社員は、邦人の内地送還のための都市集中輸送に全力を尽した。満蒙同胞援護会の資料によれば、昭和二一年度 一、〇一四、三九四人、同二二年度 二九、一八八人、同二三年度 三、三七二人、計 一、〇四六、九五四人
    • [45]二十二年七月満鉄最後の総裁山崎元幹が、新京より奉天経由の奉山線経由で帰国の途についた

1938年〜1945年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1938年03月期 単体 355,048 n/a 73,929 20.8% 73,929 n/a
1939年03月期 単体 387,412 +9.1% 72,875 18.8% 72,875 n/a
1940年03月期 単体 440,907 +13.8% 77,848 17.7% 77,848 n/a
1941年03月期 単体 799,228 +81.3% 76,711 9.6% 76,711 n/a
1942年03月期 単体 937,672 +17.3% 72,131 7.7% 72,131 n/a
1943年03月期 単体 1,106,265 +18.0% 84,888 7.7% 84,888 n/a
1944年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1945年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:満州開発四十年史 上巻

出典・参考

1件
出典・参考
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)

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