第3章 年〜年

南満洲鉄道:満洲国鉄道の受託経営と社外投資の拡大

1931年〜未曾有の苦境と、資本金八億円への増資

1929年に4,500万円を超える純益を挙げ、会社は創業以来の記録を作った。ところが翌1930年から1931年にかけて、世界的不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的な排日貨が重なり、財政は急転して創業以来未曾有の苦境に陥った。会社は社内全般にわたる極度の緊縮に入り、事業投資を繰り延べ、諸経費を節約した。1927年度から1931年度までの資本投下は、社線の輸送能力の増進と撫順炭礦の増産設備という社内事業に集中していた。二十余年かけて築いた強固な財政が、この難局を支えた。

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [1]昭和4年に純益4,500万円を超えて従来の記録を画したが、昭和5年から6年にかけて世界的不況の波及・銀貨の惨落・旧東北政権の重圧・恒常的排日貨の影響で会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った
    • [2]会社は社内全般にわたり極度の緊縮を行い、事業投資の繰延・諸経費の節約など経営の合理化に努めた
    • [3]昭和2年度以降昭和6年度までの資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等の社内事業に集中した
    • [4]過去20余年間にわたり建設された強固な財政と相俟って、よくこの難局に堪えることができた

1931年に満洲事変が起き、翌1932年に満洲国が成立すると、日満の政治的結合と経済ブロックの結成が進み、満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した。会社は大陸政策の先駆として、日満両国の経済的発展と植民事業の誘導達成に必要な施設を引き受け、これに要する資金は巨額に上った。1933年3月6日、会社は資本金を4億4,000万円から8億円へ増やし、新募集株の二分の一にあたる360万株を政府が引き受け、残る360万株を一般から募った。払込済資本金は1927年度初の3億3,715万6,000円から1931年度末に3億8,715万6,000円となり、増資を経た1935年度末には5億8,420万8,000円に達した。

  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [5]昭和6年に満洲事変が起こり、翌7年に満洲国が成立し、日満の政治的結合の進行ならびに経済ブロックの結成等により満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した
    • [6]会社は大陸政策の先駆として日満両国の経済的発展、植民事業の誘導達成に必要なる幾多の施設・貢献を為すに至り、これに要する資金も巨額に上った
    • [8]昭和2年度初の払込済資本金は337,156,000円、昭和6年度末は387,156,000円に増加し、昭和8年度の増資を経て昭和10年度末には584,208,000円となった
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [7]昭和8年3月6日、従来の資本金4億4,000万円を8億円に増資し、新募集株の2分の1すなわち360万株を限り政府が引受け、残り360万株を一般から募集することとした
参考文献[1]-[8]
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [1]昭和4年に純益4,500万円を超えて従来の記録を画したが、昭和5年から6年にかけて世界的不況の波及・銀貨の惨落・旧東北政権の重圧・恒常的排日貨の影響で会社の財政は急転し、創業以来未曾有の苦境に陥った
    • [2]会社は社内全般にわたり極度の緊縮を行い、事業投資の繰延・諸経費の節約など経営の合理化に努めた
    • [3]昭和2年度以降昭和6年度までの資本投下は主として社線輸送能力の増進、撫順炭礦の増産設備等の社内事業に集中した
    • [4]過去20余年間にわたり建設された強固な財政と相俟って、よくこの難局に堪えることができた
    • [5]昭和6年に満洲事変が起こり、翌7年に満洲国が成立し、日満の政治的結合の進行ならびに経済ブロックの結成等により満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した
    • [6]会社は大陸政策の先駆として日満両国の経済的発展、植民事業の誘導達成に必要なる幾多の施設・貢献を為すに至り、これに要する資金も巨額に上った
    • [8]昭和2年度初の払込済資本金は337,156,000円、昭和6年度末は387,156,000円に増加し、昭和8年度の増資を経て昭和10年度末には584,208,000円となった
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
    • [7]昭和8年3月6日、従来の資本金4億4,000万円を8億円に増資し、新募集株の2分の1すなわち360万株を限り政府が引受け、残り360万株を一般から募集することとした

1933年〜奉天の鉄路総局と、社線の三倍に及ぶ国線の受託

1933年2月9日に満洲国政府が国有既成鉄道の経営を会社に委託し、会社は同年3月1日に受託の旨を発表して、あわせて奉天に鉄路総局を設けて委託経営鉄道の直接経営に当たらせた。契約の対象は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道である。満洲国政府が会社に負担する約1億3,000万金円の債務には、これら諸鉄道に属する一切の財産と収入を借款の担保に充てた。会社は総局の設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用という二原則を掲げた。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [9]昭和8年2月9日、満洲国政府は其の国有既成鉄道の経営を満鉄に委託し、満鉄は同年3月1日に受託の旨を発表すると同時に奉天に鉄路総局を設置、委託経営鉄道の直接経営に当たらせることとした
    • [10]満洲国政府は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道に関し満鉄に対し負担する債務合計約1億3,000万金円を、これら諸鉄道に属する一切の財産及び収入をもって本借款の担保とし、これら諸鉄道の経営を満鉄に委託した
    • [11]満鉄は総局設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用の二原則に基き経営の衝に当たることとなった

総局の所管は、1933年12月末で約3,635.5粁に達し、社線の約3倍にあたった。うち約813粁は事変後に会社が新たに敷いた線が占め、鉄道のほかに港湾と水路も総局が抱えた。営口の河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道の貨物を一手に集めた埠頭で、桟橋3、倉庫8棟を持ち、10万瓲の収貨能力があった。松花江の水運では、旧東北政権の船舶財産を運用していた東北江運処・東北航務局と、その付属機関である東北造船所・広信航業所の事務を引き継いだ。満洲国の大同元年度は収入約4,700万円に対し支出3,650万円で、収入対支出比率77%を第一段として、総局はこれを50%まで下げる目標に据えた。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [12]鉄路総局事業の大綱は約3,635粁(満鉄線の約3倍)に亘る満洲国鉄の経営のほか港湾・水路・附帯事業の経営にある。昭和8年12月末日現在の所管営業粁程は計3,635.5KM
    • [13]事変後、満鉄の手によって新設された約813粁(昭和8年12月現在)の新線を加えた
    • [14]河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道による貨物を一手に本埠頭に集貨したもので、現在、埠頭一、桟橋三、倉庫棟数八、其他野積場及び貯炭場等もあり、収貨能力十万瓲を有する
    • [15]鉄路総局は満鉄の委託経営契約により、旧東北政府の船舶財産の運用機関であった東北江運処・東北航務局ならびにその附属機関たる東北造船所・広信航業所の事務を引継ぎ経営に任じている
    • [16]大同元年度における収入対支出比率77%(収入合計約4,700万円、支出3,650万円)を第一段として、収支比率50%にまで到達せしむべく努力している

新京と鮮満国境の図們・開山屯を結ぶ京図線によって、満洲の鉄道は日本海側へ抜けた。京図線は1933年10月1日に朝鮮総督府から会社へ委管された北鮮鉄道につながり、雄基・清津の両港に通じた。会社は同じ日に清津へ北鮮鉄道管理局を置き、即日業務を開始した。北鮮鉄道は延長330粁のC字形で、咸鏡線のうち輸城会寧間、清津線、会寧炭礦線、図們線から成っていた。10月15日には新京・清津間の直通列車が走り出し、二十年来の懸案だった吉会鉄道が実現した。終端港に選ばれた羅津では会社が築港を進め、1935年7月に雄基から雄羅隧道を通って羅津港まで延ばす予定を立てた。1935年3月23日にはソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託し、全国線と社線の経営が一本にまとまった。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [17]新京を鮮満国境の図們・開山屯につなぐ京図線は、昭和8年10月1日に朝鮮総督府より満鉄に委管された北鮮鉄道に連絡し、北鮮日本海岸の雄基・清津の両港に通ずることとなった
    • [19]二十年来の懸案であり日満連絡の最短交通路として待望された吉会鉄道が実現し、昭和8年10月15日から新京・清津間に直通列車が運転されている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
    • [18]満鉄は朝鮮総督の委託を受け朝鮮国有鉄道咸鏡線中の輸城会寧間・清津線・会寧炭礦線及図們線ならびに附帯業務の経営に当たることとなり、昭和8年10月1日、北鮮鉄道管理局を清津に設置、即日業務を開始した。本鉄道は延長330粁のC字形の鉄道である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
    • [20]本鉄道の終端港として選定された羅津は目下満鉄の手によって盛んに築造中であり、昭和10年7月には現在の終点雄基より更に雄羅隧道を通じ羅津港に至る予定である
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [21]昭和10年3月23日、ソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託するに及んで、全国線と社線との経営が完全に合理化された
参考文献[9]-[21]
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
    • [9]昭和8年2月9日、満洲国政府は其の国有既成鉄道の経営を満鉄に委託し、満鉄は同年3月1日に受託の旨を発表すると同時に奉天に鉄路総局を設置、委託経営鉄道の直接経営に当たらせることとした
    • [10]満洲国政府は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道に関し満鉄に対し負担する債務合計約1億3,000万金円を、これら諸鉄道に属する一切の財産及び収入をもって本借款の担保とし、これら諸鉄道の経営を満鉄に委託した
    • [11]満鉄は総局設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用の二原則に基き経営の衝に当たることとなった
    • [12]鉄路総局事業の大綱は約3,635粁(満鉄線の約3倍)に亘る満洲国鉄の経営のほか港湾・水路・附帯事業の経営にある。昭和8年12月末日現在の所管営業粁程は計3,635.5KM
    • [13]事変後、満鉄の手によって新設された約813粁(昭和8年12月現在)の新線を加えた
    • [14]河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道による貨物を一手に本埠頭に集貨したもので、現在、埠頭一、桟橋三、倉庫棟数八、其他野積場及び貯炭場等もあり、収貨能力十万瓲を有する
    • [15]鉄路総局は満鉄の委託経営契約により、旧東北政府の船舶財産の運用機関であった東北江運処・東北航務局ならびにその附属機関たる東北造船所・広信航業所の事務を引継ぎ経営に任じている
    • [16]大同元年度における収入対支出比率77%(収入合計約4,700万円、支出3,650万円)を第一段として、収支比率50%にまで到達せしむべく努力している
    • [17]新京を鮮満国境の図們・開山屯につなぐ京図線は、昭和8年10月1日に朝鮮総督府より満鉄に委管された北鮮鉄道に連絡し、北鮮日本海岸の雄基・清津の両港に通ずることとなった
    • [19]二十年来の懸案であり日満連絡の最短交通路として待望された吉会鉄道が実現し、昭和8年10月15日から新京・清津間に直通列車が運転されている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
    • [18]満鉄は朝鮮総督の委託を受け朝鮮国有鉄道咸鏡線中の輸城会寧間・清津線・会寧炭礦線及図們線ならびに附帯業務の経営に当たることとなり、昭和8年10月1日、北鮮鉄道管理局を清津に設置、即日業務を開始した。本鉄道は延長330粁のC字形の鉄道である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
    • [20]本鉄道の終端港として選定された羅津は目下満鉄の手によって盛んに築造中であり、昭和10年7月には現在の終点雄基より更に雄羅隧道を通じ羅津港に至る予定である
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [21]昭和10年3月23日、ソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託するに及んで、全国線と社線との経営が完全に合理化された

1935年〜満鉄王国と呼ばれた附属地行政と六十一社の関係会社

会社は政府命令書により、鉄道沿線の附属地で土木・教育・衛生に必要な施設を設ける責任を負い、あわせて居住者から手数料を徴収し費用を分賦する権能を与えられた。営利事業に止まらず行政まで担ったことから、会社は満鉄王国と称された。附属地の行政は14か所の地方事務所が管轄し、うち1か所は撫順の炭礦庶務課が兼ねた。関東州を除く附属地の戸数は6万8,000、人口は36万3,000に達し、1932年度の一戸当たり平均負担額は14円34銭だった。1933年3月末に会社が擁した施設は小学校37、中等学校10、専門学校2、大学1、図書館23。沿線各地の小学校では1万7,000余の日本人児童を教えた。医院は大連から哈爾濱まで17か所に置き、1932年5月には結核療養所として南満洲保養院を開設した。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
    • [22]会社は政府命令書により鉄道沿線附属地における土木・教育・衛生等に関し必要なる施設を為す責任を有すると同時に、附属地内の居住者に対し手数料を徴収し其他必要なる費用の分賦をなし得る権能を付与された
    • [23]会社が由来「満鉄王国」と称せられる所以は、営利的諸事業を営むに止まらず、満鉄附属地経営の行政的事業をも担当し宛然一独立国家の如き観を呈しているためである
    • [24]現在では十四ケ所(内一は炭礦庶務課)の地方事務所で各管轄区域の行政を司っている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
    • [25]附属地(州外)の戸数は六万八千、人口三十六万三千(内外人共)を算する。昭和7年度における一戸当平均負担額は十四円三十四銭である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
    • [26]昭和8年3月末日現在の満鉄経営の教育施設は大学一、専門学校二、中等学校一〇、小学校三七、図書館二三等である
    • [27]会社は沿線の各地(関東州を除く)に小学校を設置し、一万七千余の日本人児童を教育している
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
    • [28]医院の所在地は大連・瓦房店・大石橋・営口・鞍山・遼陽・奉天・鉄嶺・開原・四平街・公主嶺・本渓湖・新京・安東・撫順・吉林及び哈爾濱の十七箇所。結核療養所は昭和5年11月起工、昭和7年5月に南満洲保養院(患者収容力百六名)を開設した

会社は満蒙の資源と産業を調べる機関を各地に構えた。地質調査所は撫順炭田の地質調査から始めて事務所を大連へ移し、鞍山ほか7鉄鉱の発見、蓋平・海城両県での菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査に当たった。中央試験所は1931年12月に理学試験所を合併して無機化学・有機化学・燃料・農産化学・機械研究・電気研究・土木研究の7科に分かれ、1933年3月末で外国の特許8件、日本の特許67件を保有した。1932年1月には鄭家屯に産業調査所を設け、会社が出資した生畜の預託事業を監督させた。公主嶺の農事試験場では農芸化学・畜産・種芸の試験と調査研究を行い、熊岳城の分場に園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いた。商工業と農牧林業に対する産業助成費は年額約150万円内外に上った。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
    • [29]地質調査所は当初撫順炭田の地質調査を主とし明治40年4月事務所を撫順炭礦に置いたが後大連に移した。従来の事業中主なるものは鞍山外七鉄鉱の発見、蓋平及び海城両県下における菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査及び地形測量等である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
    • [30]中央試験所は昭和6年12月に理学試験所を合併し、現在無機化学科・有機化学科・燃料科・農産化学科・機械研究科・電気研究科・土木研究科の各部門に分かれている。特許権は現在(昭和8年3月末日)外国のもの八、日本のもの六十七件に上る
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
    • [31]昭和7年1月、鄭家屯に産業調査所を置き会社投資に係る生畜の預託事業の監督指導をなさしめつつある
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
    • [32]農事試験場は公主嶺に本場、熊岳城に分場がある。公主嶺本場は専ら農芸化学・畜産・種芸に関する試験及び調査研究を行い、熊岳城分場は園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
    • [33]満鉄が支出している商工業及農牧林業其他に対する産業助成費は年額約百五十万円内外である

会社は早くから直営事業を独立の株式会社に改め、新興の企業にも出資してきた。事変後に設立された満洲化学工業、満洲航空、満洲電信電話にも出資し、1933年12月末の関係会社は61社に及んだ。この出資と国線の建設が、会社の資金の向かう先を変えた。満洲事変以後、社内事業費の増加額は4,426万7,000円にとどまったのに対し、社外投資は6億4,700万円余の激増を示し、創業以来の累計でも社外投資が社内事業費を上回った。社債も同じ動きを示し、1927年度から1931年度までの5か年では4,760万円しか増えなかったが、1932年度以降の4か年では3億3,634万8,000円増えた。発行限度も資本総額から払込資本金の2倍へ広げた。1935年度は4,962万円の利益金を挙げたが、配当は一般株主8分、政府4分4厘3毛に止め、残りを社内資本に留保した。

  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
    • [34]会社は大正4年に大連汽船会社を分離し、瓦斯作業所・窯業工場・電気作業所等を独立の株式会社組織に改めた。満鉄本来の事業と不即不離の関係に立つ新企業にも出資し、事変の後新情勢に応じ設立された満洲化学工業・満洲航空・満洲電信電話等にもそれぞれ出資している。昭和8年12月末日現在における関係会社は実に六十一社に及んでいる
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [35]満洲事変以後における社内事業費の増加額は44,267,000円に過ぎないが、国線建設はじめその他の社外投資においては647,000,000円余の激増を示し、創業以来の累計投資でも社内事業投資に比し社外投資が多額である
    • [36]社債は昭和2年度初め現在額268,450,200円で、昭和6年度までの5箇年間には僅かに4,760万円の増加であるが、昭和7年度以降の4箇年間における増加額は実に336,348,000円に上っている
    • [37]将来の資金需要に備えるため、従来社債発行限度は資本総額を超過することができなかったのを、払込資本金の二倍まで拡大発行し得ることに改正せられた
    • [38]昭和10年度は巨額の募債による利息負担の加重にもかかわらず4,962万円の利益金を挙げ、償却除却額を加算すればその額7,654万円となり、払込資本金に対して13.1%の利回率となるが、配当率を一般株主八分・政府四分四厘三毛に止め、他はすべて社内資本に留保した
参考文献[22]-[38]
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
    • [22]会社は政府命令書により鉄道沿線附属地における土木・教育・衛生等に関し必要なる施設を為す責任を有すると同時に、附属地内の居住者に対し手数料を徴収し其他必要なる費用の分賦をなし得る権能を付与された
    • [23]会社が由来「満鉄王国」と称せられる所以は、営利的諸事業を営むに止まらず、満鉄附属地経営の行政的事業をも担当し宛然一独立国家の如き観を呈しているためである
    • [24]現在では十四ケ所(内一は炭礦庶務課)の地方事務所で各管轄区域の行政を司っている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
    • [25]附属地(州外)の戸数は六万八千、人口三十六万三千(内外人共)を算する。昭和7年度における一戸当平均負担額は十四円三十四銭である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
    • [26]昭和8年3月末日現在の満鉄経営の教育施設は大学一、専門学校二、中等学校一〇、小学校三七、図書館二三等である
    • [27]会社は沿線の各地(関東州を除く)に小学校を設置し、一万七千余の日本人児童を教育している
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
    • [28]医院の所在地は大連・瓦房店・大石橋・営口・鞍山・遼陽・奉天・鉄嶺・開原・四平街・公主嶺・本渓湖・新京・安東・撫順・吉林及び哈爾濱の十七箇所。結核療養所は昭和5年11月起工、昭和7年5月に南満洲保養院(患者収容力百六名)を開設した
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
    • [29]地質調査所は当初撫順炭田の地質調査を主とし明治40年4月事務所を撫順炭礦に置いたが後大連に移した。従来の事業中主なるものは鞍山外七鉄鉱の発見、蓋平及び海城両県下における菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査及び地形測量等である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
    • [30]中央試験所は昭和6年12月に理学試験所を合併し、現在無機化学科・有機化学科・燃料科・農産化学科・機械研究科・電気研究科・土木研究科の各部門に分かれている。特許権は現在(昭和8年3月末日)外国のもの八、日本のもの六十七件に上る
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
    • [31]昭和7年1月、鄭家屯に産業調査所を置き会社投資に係る生畜の預託事業の監督指導をなさしめつつある
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
    • [32]農事試験場は公主嶺に本場、熊岳城に分場がある。公主嶺本場は専ら農芸化学・畜産・種芸に関する試験及び調査研究を行い、熊岳城分場は園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いている
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
    • [33]満鉄が支出している商工業及農牧林業其他に対する産業助成費は年額約百五十万円内外である
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
    • [34]会社は大正4年に大連汽船会社を分離し、瓦斯作業所・窯業工場・電気作業所等を独立の株式会社組織に改めた。満鉄本来の事業と不即不離の関係に立つ新企業にも出資し、事変の後新情勢に応じ設立された満洲化学工業・満洲航空・満洲電信電話等にもそれぞれ出資している。昭和8年12月末日現在における関係会社は実に六十一社に及んでいる
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説
    • [35]満洲事変以後における社内事業費の増加額は44,267,000円に過ぎないが、国線建設はじめその他の社外投資においては647,000,000円余の激増を示し、創業以来の累計投資でも社内事業投資に比し社外投資が多額である
    • [36]社債は昭和2年度初め現在額268,450,200円で、昭和6年度までの5箇年間には僅かに4,760万円の増加であるが、昭和7年度以降の4箇年間における増加額は実に336,348,000円に上っている
    • [37]将来の資金需要に備えるため、従来社債発行限度は資本総額を超過することができなかったのを、払込資本金の二倍まで拡大発行し得ることに改正せられた
    • [38]昭和10年度は巨額の募債による利息負担の加重にもかかわらず4,962万円の利益金を挙げ、償却除却額を加算すればその額7,654万円となり、払込資本金に対して13.1%の利回率となるが、配当率を一般株主八分・政府四分四厘三毛に止め、他はすべて社内資本に留保した

1931年〜1937年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1931年03月期 単体 188,104 n/a 21,273 11.3% 21,273 n/a
1932年03月期 単体 187,054 ▲0.6% 12,599 6.7% 12,599 n/a
1933年03月期 単体 245,941 +31.5% 61,287 24.9% 61,287 n/a
1934年03月期 単体 248,002 +0.8% 42,921 17.3% 42,921 n/a
1935年03月期 単体 270,669 +9.1% 46,467 17.2% 46,467 n/a
1936年03月期 単体 302,159 +11.6% 49,624 16.4% 49,624 n/a
1937年03月期 単体 299,044 ▲1.0% 50,174 16.8% 50,174 n/a

出所:満州開発四十年史 上巻

出典・参考

15件
出典・参考
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・北鮮鉄道管理局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(受託経営・鉄路総局/北鮮鉄道管理局)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・市街経営)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・教育施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(地方経営・衛生施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・地質調査所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・中央試験所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・産業調査所)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・農事試験場)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(産業施設・商工施設)
  • 満鉄の概要 1934年版 七、会社の事業(関係会社)
  • 南満洲鉄道株式会社三十年略史 1937年 第三編会社の会計 第一章概説

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