住友銀行:株式会社への改組と金融恐慌後の預金首位
1912年〜資本金1500万円の株式会社への改組と六十一銀行の買収、総預金6億6200万円の首位
住友銀行は1912年2月23日、資本金1500万円の株式会社住友銀行として設立された。株主は住友吉左衛門とその一族・番頭の25名に限られ、開業時の払込資本金は750万円だった。社長に住友吉左衛門、常務取締役に中田錦吉が就任し、4月1日に個人銀行の営業を引き継いだ。直前の3月末には総貸金が4400万円に達し、創業年次末の20倍に膨らんでいた。個人銀行の資本主勘定777万円は700万円で新会社へ売られ、残額は無償で譲られた。株主が外へ広がったのは1917年6月の3000万円への増資で、新株15万株のうち3万株を公開した。株式会社への改組は、住友家の外から資本を募る余地を先に確保しておく措置だったとみられる。
- 住友銀行三十年史(住友銀行、1926年)
- [1]株式会社住友銀行は資本金1500万円で1912年(明治45年)2月に設立、2月23日に創立総会
- [3]取締役会で社長に住友吉左衛門、常務取締役に中田錦吉を互選し、1912年4月1日に営業を開始
- [5]個人銀行の資本主勘定777万3901円を700万円で株式会社に売却し、残額は無償譲渡
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [2]株式会社住友銀行の株主は住友吉左衛門と一族・番頭の25名で全株を引受け、開業時の払込資本金は750万円
- [6]1917年6月に資本金を3000万円へ倍額増資し、新株15万株のうち12万株を旧株主に割当て、3万株を公開
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [4]1912年3月末に総貸金4400万円(創業年次末の20倍)に達し、将来の発展の基礎を築くため同年2月に株式組織へ改めた
株式会社となった住友銀行は、1912年10月に株式会社六十一銀行を買収し、久留米支店を置いた。個人銀行の時代にすでに九州と東京へ店を出しており、この買収で九州の網を広げた。同年11月には柳井支店を新設し、1913年9月に深川、1914年2月に下関、1915年10月に名古屋へ支店を開設した。総預金は1916年6月末に1億円を超え、同年末には1億2000万円を上回った。1917年には国内の店舗数で全国第1位となり、1916年から1918年に米英や中国の主要都市へ海外支店を置いた。改組直後の買収は、株式会社の資力で店舗網を一気に広げる策の最初の一手だったと推察される。
- 住友銀行三十年史(住友銀行、1926年)
- [7]1912年(大正元年)10月に株式会社六十一銀行を買収して久留米支店を置いた
- [9]1912年11月に柳井支店を新設、1913年9月深川、1914年2月下関、1915年10月名古屋、1916年11月備後町に店舗を開設
- [10]総預金は1916年6月末に1億円を突破し、同年末に1億2000万円を超えた
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [8]個人銀行の住友銀行は創業から数年で九州と東京に店舗を開設し、大阪本店銀行の首位に立った
- [11]国内の店舗数は1917年に全国第1位、1916〜1918年に米英・中国等の主要都市へ海外支店を開設
住友銀行の預金残高は、1912年末の5200万円から1921年末には3億7000万円へ増えた。1920年と1922年の恐慌、関東大震災、1927年の金融恐慌のたびに、預金は五大銀行へ移った。住友銀行では1927年の金融恐慌を境に預金が急増し、1929年末の総預金は6億6200万円に達した。同じ時点で三井銀行は6億6000万円、安田銀行は6億5800万円にとどまり、住友銀行が普通銀行の首位に立った。1933年9月に三十四・山口・鴻池の3行が合併して三和銀行が生まれると、首位は三和へ移った。預金の首位は、店舗の数よりも恐慌の局面で預金者が寄せた信用の厚さを映していたのだろう。
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [12]住友銀行の預金残高は1912年末5200万円(普通銀行第3位)、1921年末3億7000万円
- [13]1920・1922年の恐慌、関東大震災、1927年の金融恐慌のたびに五大銀行への預金集中が進み、住友銀行への集中が顕著
- [15]1929年末の預金残高は三井6億6000万円、安田6億5800万円、第一6億2900万円、三菱6億円で、住友が首位(同書は住友を6億6300万円とする)
- [16]1933年上期末の預金8億1500万円で首位を保ったが、同年9月の三和銀行成立で首位を三和に譲った
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [14]1927年の金融恐慌の時から預金が急増し、1929年末の総預金は6億6200万円で全国銀行の首位
参考文献[1]-[16]
- 住友銀行三十年史(住友銀行、1926年)
- [1]株式会社住友銀行は資本金1500万円で1912年(明治45年)2月に設立、2月23日に創立総会
- [3]取締役会で社長に住友吉左衛門、常務取締役に中田錦吉を互選し、1912年4月1日に営業を開始
- [5]個人銀行の資本主勘定777万3901円を700万円で株式会社に売却し、残額は無償譲渡
- [7]1912年(大正元年)10月に株式会社六十一銀行を買収して久留米支店を置いた
- [9]1912年11月に柳井支店を新設、1913年9月深川、1914年2月下関、1915年10月名古屋、1916年11月備後町に店舗を開設
- [10]総預金は1916年6月末に1億円を突破し、同年末に1億2000万円を超えた
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [2]株式会社住友銀行の株主は住友吉左衛門と一族・番頭の25名で全株を引受け、開業時の払込資本金は750万円
- [6]1917年6月に資本金を3000万円へ倍額増資し、新株15万株のうち12万株を旧株主に割当て、3万株を公開
- [12]住友銀行の預金残高は1912年末5200万円(普通銀行第3位)、1921年末3億7000万円
- [13]1920・1922年の恐慌、関東大震災、1927年の金融恐慌のたびに五大銀行への預金集中が進み、住友銀行への集中が顕著
- [15]1929年末の預金残高は三井6億6000万円、安田6億5800万円、第一6億2900万円、三菱6億円で、住友が首位(同書は住友を6億6300万円とする)
- [16]1933年上期末の預金8億1500万円で首位を保ったが、同年9月の三和銀行成立で首位を三和に譲った
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [4]1912年3月末に総貸金4400万円(創業年次末の20倍)に達し、将来の発展の基礎を築くため同年2月に株式組織へ改めた
- [8]個人銀行の住友銀行は創業から数年で九州と東京に店舗を開設し、大阪本店銀行の首位に立った
- [11]国内の店舗数は1917年に全国第1位、1916〜1918年に米英・中国等の主要都市へ海外支店を開設
- [14]1927年の金融恐慌の時から預金が急増し、1929年末の総預金は6億6200万円で全国銀行の首位
1937年〜株式会社住友本社の下の戦時金融と、鈴木剛が率いた大阪銀行
住友合資会社は1937年3月に株式会社へ改組し、株式会社住友本社となった。資本金1億5000万円の株は家長と三分家が全て持ち、総理事の小倉正恒が代表取締役に就任した。本社と連系会社の借入はほとんどを住友銀行と住友信託に依存し、銀行はその総額に枠を設けて守っていた。軍需融資指定金融機関制度の下で、住友銀行は住友金属など25社の指定銀行となり、枠の自主的な調整はできなくなった。統制下で大銀行の合併が進むなか、住友銀行が吸収したのは1945年の阪南銀行と池田実業銀行の2行にとどまった。終戦時、住友本社の借入金2億4550万円余のうち94.2%は住友銀行からの借入だった。統制の強まりにつれ、銀行の資金は本社と連系会社の軍需生産へ引き寄せられていったと考えられる。
- 私の住友昭和史(1988年) 3章 本社の改組と戦時体制
- [17]1937年3月に住友合資会社が株式会社に改組し、株式会社住友本社となった
- [18]住友本社の資本金は1億5000万円(30万株)で家長27万株・三分家3万株を保有し非公開、総理事小倉正恒が代表取締役
- [19]本社と連系各社の借入資金はほとんど住友銀行・信託からで、銀行は合算した資金総額に枠を設けて守った
- [20]軍需融資指定金融機関制度で住友銀行は住友金属など25社の指定銀行となり、連系会社への貸金枠の自主調整は不可能になった
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [21]戦時の統制方策で大銀行間の合併が盛んだったが、住友銀行は阪南銀行・池田実業銀行(1945年7月)の吸収合併にとどめた
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [22]住友本社の終戦時借入金2億4550余万円のうち2億3110余万円(94.2%)が住友銀行からの借入
住友銀行は1948年10月1日に大阪銀行と改称し、11億4000万円の新資本金で再出発した。軍需補償の打切りで痛手を受け、同年3月に未払込の2000万円を徴収したうえで旧資本金7000万円を全額切り捨てた。整理債務の切捨率は77%で、五大銀行の中で最も高かった。金融機関は集排法による分割を免れたものの、財閥名の呼称を改めるよう迫られ、これが改称につながった。社長の鈴木剛は上位の役員の追放を受けて1947年8月に就任し、改称にあたり『今後は財閥色を全く払拭し、民主化された銀行として、深く大衆のなかに地盤を築いて行かねばなりません』と挨拶した。行名の変更は、財閥の機関銀行から預金者を基盤とする銀行へ軸足を移す表明でもあったとうかがえる。
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [23]1948年10月1日に住友銀行は大阪銀行と改称し、11億4000万円の新資本金で発足
- [24]軍需補償の打切りが打撃となり、1948年3月に未払込資本金2000万円を徴収したのち資本金7000万円全額を切り捨てた
- 金融界 1(8)(1949年)「銀行評判記――大阪銀行の卷」
- [25]大阪銀行の整理債務の切捨ては77%で五大銀行中最高
- 私の履歴書 鈴木剛
- [26]金融機関は過度経済力集中排除法の適用を免れたが財閥名の呼称変更を余儀なくされ、1948年10月に大阪銀行と改めた
- [27]鈴木剛は上位の役員が追放対象となったため1947年8月に51歳で住友銀行社長に就任
大阪銀行の1949年3月末の預金は372億円で、富士銀行や千代田銀行の400億〜500億円台に離され、三和銀行も下回った。同年5月、大阪銀行は抽せん付きの定期預金「ラッキー定期」を他行に先がけて売り出した。1口2000円で、総額52億8000万円の第1回売出しに申込みが集中し、他行も新種預金を相次いで出した。1950年4月には資産再評価で資本を整え、1951年末の預金は1000億円を超えた。この間、副社長の堀田庄三は東京で対外折衝を担い、社長の鈴木剛は大阪で経営に専念したという。社長の職名は1951年11月に頭取へ改められ、鈴木剛は講和後の行名復帰までその職にあった。財閥の後ろ盾を失った銀行にとって、小口の預金を広く集めることが再建の近道だったようだ。
- 金融界 1(8)(1949年)「銀行評判記――大阪銀行の卷」
- [28]1949年3月末の預金は372億円で、富士・千代田の400〜500億円台に離され、三和の下位
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [29]1949年5月、抽せんつき定期預金「ラッキー定期」を他行に先がけて売り出した
- [30]一口2000円、第1回売出し総額52億8000万円に申込みが殺到し、他行も新種預金を案出した
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [31]1950年4月に資産再評価で資本を適正化し、大衆層の資金吸収に努め1951年末の預金は1000億円を突破
- 金融界 2(10)(1950年)「人物評論 大阪銀行社長 鈴木剛論」
- [32]副社長堀田庄三は東京に駐在して対外折衝に動き、社長鈴木剛は大阪で経営に専念していた
- 私の履歴書 鈴木剛
- [33]社長の職名は1951年11月に頭取へ変更、鈴木剛は1952年の住友の名の回復まで頭取を務め、後任は副頭取の堀田庄三
参考文献[17]-[33]
- 私の住友昭和史(1988年) 3章 本社の改組と戦時体制
- [17]1937年3月に住友合資会社が株式会社に改組し、株式会社住友本社となった
- [18]住友本社の資本金は1億5000万円(30万株)で家長27万株・三分家3万株を保有し非公開、総理事小倉正恒が代表取締役
- [19]本社と連系各社の借入資金はほとんど住友銀行・信託からで、銀行は合算した資金総額に枠を設けて守った
- [20]軍需融資指定金融機関制度で住友銀行は住友金属など25社の指定銀行となり、連系会社への貸金枠の自主調整は不可能になった
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- [21]戦時の統制方策で大銀行間の合併が盛んだったが、住友銀行は阪南銀行・池田実業銀行(1945年7月)の吸収合併にとどめた
- [31]1950年4月に資産再評価で資本を適正化し、大衆層の資金吸収に努め1951年末の預金は1000億円を突破
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- [22]住友本社の終戦時借入金2億4550余万円のうち2億3110余万円(94.2%)が住友銀行からの借入
- [23]1948年10月1日に住友銀行は大阪銀行と改称し、11億4000万円の新資本金で発足
- [24]軍需補償の打切りが打撃となり、1948年3月に未払込資本金2000万円を徴収したのち資本金7000万円全額を切り捨てた
- [29]1949年5月、抽せんつき定期預金「ラッキー定期」を他行に先がけて売り出した
- [30]一口2000円、第1回売出し総額52億8000万円に申込みが殺到し、他行も新種預金を案出した
- 金融界 1(8)(1949年)「銀行評判記――大阪銀行の卷」
- [25]大阪銀行の整理債務の切捨ては77%で五大銀行中最高
- [28]1949年3月末の預金は372億円で、富士・千代田の400〜500億円台に離され、三和の下位
- 私の履歴書 鈴木剛
- [26]金融機関は過度経済力集中排除法の適用を免れたが財閥名の呼称変更を余儀なくされ、1948年10月に大阪銀行と改めた
- [27]鈴木剛は上位の役員が追放対象となったため1947年8月に51歳で住友銀行社長に就任
- [33]社長の職名は1951年11月に頭取へ変更、鈴木剛は1952年の住友の名の回復まで頭取を務め、後任は副頭取の堀田庄三
- 金融界 2(10)(1950年)「人物評論 大阪銀行社長 鈴木剛論」
- [32]副社長堀田庄三は東京に駐在して対外折衝に動き、社長鈴木剛は大阪で経営に専念していた
出典・参考
7件
- 住友銀行三十年史(住友銀行、1926年)
- 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
- 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
- 私の履歴書 鈴木剛
- 金融界 1(8)(1949年)「銀行評判記――大阪銀行の卷」
- 金融界 2(10)(1950年)「人物評論 大阪銀行社長 鈴木剛論」
- 私の住友昭和史(1988年) 3章 本社の改組と戦時体制