第1章 年〜年

住友銀行:泉屋の両替商開業と個人経営の住友銀行の開業

1670年〜銅吹きの泉屋が大坂で開いた両替店と、幕末に広瀬宰平が預かった別子銅山

寛文10年(1670年)に大坂で十人両替が置かれたとき、住友家からは泉屋平兵衛友貞が名を連ねた。友貞は3代友信の実弟で、父友以の没後に分家して両替店を営んだ。延宝2年(1674年)までは本家と分家の収益を合算して6分を本家に残したため、両替は実質的に本家の兼業だった。住友家はもともと京都で銅の製錬と交易を営み、元和の末から大坂へ進み、淡路町に本店、内淡路町に吹所を構えていた。両替は貞享元年(1684年)にいったん中絶したが、住友家は大名の蔵元・掛屋として資金を融通する役を幕末まで続けた。両替を持った動機は資料に記されず、銅の売買で動く代金を家の内で回す狙いがあったとみられる。

  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [1]寛文10年(1670年)大坂の十人両替創設時に泉屋平兵衛が名を連ねた
    • [2]平兵衛は3代友信の実弟友貞で、父の死後分家して両替店を営んだ
    • [3]延宝2年(1674年)まで本家分家の収益を合算し6分を本家・4分を分家に配分、両替は本家の兼業に等しかった
    • [4]友以は京都で銅の採鉱・製錬・交易を営み、元和末から大坂に進出、淡路町に本店・内淡路町に吹所
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [5]住友家は寛文10年以来十人両替に列し、一時中絶を挟み幕末まで諸大名の蔵元・掛屋・用達として資金を融通

元禄4年(1691年)、住友家は幕府の認可を得て伊予の別子銅山を開坑した。4代友芳の代に、備中吉岡銅山の経営が縁となって前年に鉱脈を見出し、代官を通じて出願した。先に鉱脈を知っていた三島村の祇太夫らも出願して競願になったが、認可は住友に下りた。最初の願書は運上が少ないとして翌年2月に増額を求められ、住友は4月に出し直した。住友家は数代にわたり諸国の鉱山を稼行し、当時は吉岡・幸生の二つの幕領銅山を請け負っていた。別子は吉岡と同じ代官の支配地でもあった。以後、別子は大名相手の金融業と並ぶ住友家の事業の中心になった。鉱山の経験と幕府との取引の実績が、後から出願した住友に認可を引き寄せたのだろう。

  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [6]元禄3年(1690年)別子発見、翌年幕府の許可を得て閏八月朔日に開坑
    • [7]4代友芳の代、吉岡銅山経営が因縁となり別子銅山を発見し幕府に開発を出願
  • 泉屋叢考 第13輯(住友修史室、1967年)「別子銅山の発見と開発」
    • [8]貞享4年から試掘していたらしい三島村の祇太夫らも出願し競願となったが、住友に認可が下った
    • [9]元禄3年の願書は運上が少ないとして翌4年2月9日に増額再願を指示され、4月に代官を通じ再提出した
    • [10]住友は数代数十年にわたり諸国の鉱山を稼行し、当時は吉岡・幸生の二幕領銅山を稼行中だった
    • [11]別子山は住友が稼行中の吉岡銅山と同一代官後藤覚右衛門の支配地だった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属鉱山」
    • [12]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった

幕末の別子は坑道が深くなった老山となり、弘化2年(1845年)ごろの年産は50万斤台に減少した。日本の産銅が世界最大と目された元禄11年ごろには250万斤を超えていたから、ほぼ5分の1に縮んだことになる。坑内の湧水の排水に多額の費用がかかる一方、産銅はすべて御用銅として幕府が低い値で買い上げた。金融の側でも、幕府や諸大名への御用金と貸金が滞り、累増していた。こうしたなか、11歳で別子の勘定場に丁稚として入った広瀬宰平氏が、慶応元年(1865年)に39歳で別子銅山の総支配人に就任した。現場の帳場から上がった人物に銅山を委ねた人事が、維新の混乱で交渉役を立てられた下地になったと推察される。

  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [13]幕末に別子は老山深鋪となり弘化2年(1845年)頃には年産50万斤台に落ちた
    • [14]当時日本の銅産量は世界最大と目され、別子の年産は元禄11年頃すでに250万斤(1500トン)を超えていた
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [15]幕末の別子は産銅高が減り涌水の排水費が嵩み、産銅は御用銅として幕府に低値で買い上げられた
    • [16]幕府・諸大名は住友家に御用金・借金を命じ、滞り貸しが累増した
    • [17]広瀬宰平は11歳で別子銅山勘定場に丁稚として入り、慶応元年に39歳で別子銅山総支配人となった
参考文献[1]-[17]
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [1]寛文10年(1670年)大坂の十人両替創設時に泉屋平兵衛が名を連ねた
    • [2]平兵衛は3代友信の実弟友貞で、父の死後分家して両替店を営んだ
    • [3]延宝2年(1674年)まで本家分家の収益を合算し6分を本家・4分を分家に配分、両替は本家の兼業に等しかった
    • [4]友以は京都で銅の採鉱・製錬・交易を営み、元和末から大坂に進出、淡路町に本店・内淡路町に吹所
    • [6]元禄3年(1690年)別子発見、翌年幕府の許可を得て閏八月朔日に開坑
    • [7]4代友芳の代、吉岡銅山経営が因縁となり別子銅山を発見し幕府に開発を出願
    • [13]幕末に別子は老山深鋪となり弘化2年(1845年)頃には年産50万斤台に落ちた
    • [14]当時日本の銅産量は世界最大と目され、別子の年産は元禄11年頃すでに250万斤(1500トン)を超えていた
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [5]住友家は寛文10年以来十人両替に列し、一時中絶を挟み幕末まで諸大名の蔵元・掛屋・用達として資金を融通
    • [15]幕末の別子は産銅高が減り涌水の排水費が嵩み、産銅は御用銅として幕府に低値で買い上げられた
    • [16]幕府・諸大名は住友家に御用金・借金を命じ、滞り貸しが累増した
    • [17]広瀬宰平は11歳で別子銅山勘定場に丁稚として入り、慶応元年に39歳で別子銅山総支配人となった
  • 泉屋叢考 第13輯(住友修史室、1967年)「別子銅山の発見と開発」
    • [8]貞享4年から試掘していたらしい三島村の祇太夫らも出願し競願となったが、住友に認可が下った
    • [9]元禄3年の願書は運上が少ないとして翌4年2月9日に増額再願を指示され、4月に代官を通じ再提出した
    • [10]住友は数代数十年にわたり諸国の鉱山を稼行し、当時は吉岡・幸生の二幕領銅山を稼行中だった
    • [11]別子山は住友が稼行中の吉岡銅山と同一代官後藤覚右衛門の支配地だった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属鉱山」
    • [12]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった

1868年〜土佐藩の接収を退けた別子銅山と、並合業から資本金100万円の個人銀行へ

慶応4年(1868年)、幕領だった別子・立川の両銅山は討幕側の土佐藩に差し押さえられ、大坂本店の銅蔵も薩摩藩に封印された。支配人の広瀬宰平氏は土佐藩の隊長川田元右衛門と談判し、住友の請負稼行を続けられるよう嘆願した。川田は住友に請け負わせるよう太政官に上申し、広瀬氏は岩倉具視にも願い出て、稼行の継続が認められた。一方で銅座の廃止により前年に納めた銅の代金は払われず、諸大名への用立金も回収できなくなった。4000人の稼人を抱えて銅山の売却論まで起きたが、別子は売られずに残った。当主の友親が自ら経営に当たり、別子では木製の歩役札を出して山内の資金繰りをつないだ。住友家は大阪・江戸の金融業を廃し、銅山と家計の立て直しに力を集めた。

  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [18]慶応4年、別子・立川両銅山は土佐藩に差し押さえられ、大阪本店の銅蔵は薩摩藩に封印された
    • [19]支配人広瀬義右衛門(宰平)が土佐藩兵隊長川田元右衛門と談判し、住友家の請負稼行継続を嘆願した
    • [20]川田は住友家に請け負わせるよう太政官に上申し、広瀬は岩倉具視にも願い出て、稼行が認められた
    • [21]銅座廃止で前年納入の銅代金が不払いとなり、諸大名への用立金も回収不能となった
    • [23]窮状打開のため当主友親自ら経営に当たり、木製の歩役札を発行して別子銅山内部の金繰りを解決した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属鉱山」
    • [22]4000の稼人を抱えた別子銅山の維持は難しく一時売却の議が起きたが、売らずに明治を迎えた
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [24]維新後、住友家は別子経営と財政建直しに全力を注ぎ、金融業は大阪・江戸とも廃止した

住友家の金融業は、明治8年(1875年)に雑穀を担保とする貸付として再開した。明治2年に新政府が銅の専売をやめ、住友家は自ら銅を売ることになり、明治5年に汽船を買って大阪と伊予を結んだ。その発着を扱うため明治6年に川口の富島町に開いた店は倉庫を3棟持ち、近くの穀物問屋から商品を預かった。この寄託品を担保に資金を貸したのが並合業である。国立銀行の設立は勧められても、住友家は鉱山業の外へ事業を拡大する余裕がないとして断っていた。明治17年(1884年)に商務課長となった岡素男氏が公債・株式担保の貸出しへ広げ、明治26〜27年ごろの月末貸出残高は平均80万円に達した。

  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [25]住友家の並合業は明治8年に雑穀担保の貸付から始まった
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [26]明治2年に新政府が銅の専売制を廃し住友家が自ら販売、明治5年に汽船を購入し大阪・伊予間の輸送に用いた
    • [27]明治6年に大阪川口富島町に開いた店は汽船の発着事務を扱い、三戸前の倉庫で近所の穀物問屋から米・雑穀を預かった
    • [30]明治17年に岡素男が商務課長となり証券担保の貸出しなど並合業を拡張、明治26〜27年頃の月末貸出残高は平均80万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [28]住友は明治8年にいわゆる並合業という本格的な貸付・金融業に進んだ
  • 日本産業史 第1巻「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [29]住友家は国立銀行条例制定のころ銀行設立の勧誘を受けたが、鉱山業以外に拡げる余裕がないとして固辞し、金融は倉庫業の付帯業務として行った

住友銀行は明治28年(1895年)11月1日、家長の住友吉左衛門氏を行主とする個人銀行として大阪・中之島で開業した。支配人の伊庭貞剛氏が主宰する重役会は、同年5月に創立を決めた。これに先立つ4月には、上村喜平氏と岡素男氏がそれぞれ意見書を提出していた。重役会が根拠に挙げたのは二点で、一つは貸金の膨張、もう一つは政府の監督を受ける銀行の形にすれば規律を保て、他行との為替や割引でも便利になることだった。別子の産銅は開坑200年目にあたる明治23年(1890年)に337万斤まで増えており、これが創立の背景にあった。資本金100万円の裏付けには、住友本店が持つ質貸しの債権から田地貸しの分を外した115万余円を充てた。明治39年(1906年)の時点で貸出残高は2000万円、預金残高は3000万円となり、国内では3位の規模になった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
    • [31]明治28年11月、家長住友吉左衛門を行主とする個人銀行として創設、資本金100万円
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第二章「住友銀行の創業と成長」
    • [32]明治28年4月に上村喜平・岡素男が銀行創立意見書を提出、5月4日の伊庭貞剛主宰の第1回重役会が銀行設立を可決
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [33]重役会は貸金事業の盛大、政府の保護監督下での規律、諸銀行との為替・割引の便などを設立理由に挙げた
    • [35]資本金100万円は本店の質貸しのうち田地貸しを除く債権115万余円を移管し、100万円を資本金・15万余円を別段預金とした
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [34]別子の産銅は明治18年に200万斤を超え、開坑200年目の明治23年に337万斤に達した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [36]明治39年に貸出残高2000万円・預金残高3000万円でわが国第3位となった
参考文献[18]-[36]
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
    • [18]慶応4年、別子・立川両銅山は土佐藩に差し押さえられ、大阪本店の銅蔵は薩摩藩に封印された
    • [19]支配人広瀬義右衛門(宰平)が土佐藩兵隊長川田元右衛門と談判し、住友家の請負稼行継続を嘆願した
    • [20]川田は住友家に請け負わせるよう太政官に上申し、広瀬は岩倉具視にも願い出て、稼行が認められた
    • [21]銅座廃止で前年納入の銅代金が不払いとなり、諸大名への用立金も回収不能となった
    • [23]窮状打開のため当主友親自ら経営に当たり、木製の歩役札を発行して別子銅山内部の金繰りを解決した
    • [25]住友家の並合業は明治8年に雑穀担保の貸付から始まった
    • [34]別子の産銅は明治18年に200万斤を超え、開坑200年目の明治23年に337万斤に達した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属鉱山」
    • [22]4000の稼人を抱えた別子銅山の維持は難しく一時売却の議が起きたが、売らずに明治を迎えた
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
    • [24]維新後、住友家は別子経営と財政建直しに全力を注ぎ、金融業は大阪・江戸とも廃止した
    • [26]明治2年に新政府が銅の専売制を廃し住友家が自ら販売、明治5年に汽船を購入し大阪・伊予間の輸送に用いた
    • [27]明治6年に大阪川口富島町に開いた店は汽船の発着事務を扱い、三戸前の倉庫で近所の穀物問屋から米・雑穀を預かった
    • [30]明治17年に岡素男が商務課長となり証券担保の貸出しなど並合業を拡張、明治26〜27年頃の月末貸出残高は平均80万円
    • [33]重役会は貸金事業の盛大、政府の保護監督下での規律、諸銀行との為替・割引の便などを設立理由に挙げた
    • [35]資本金100万円は本店の質貸しのうち田地貸しを除く債権115万余円を移管し、100万円を資本金・15万余円を別段預金とした
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [28]住友は明治8年にいわゆる並合業という本格的な貸付・金融業に進んだ
    • [36]明治39年に貸出残高2000万円・預金残高3000万円でわが国第3位となった
  • 日本産業史 第1巻「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [29]住友家は国立銀行条例制定のころ銀行設立の勧誘を受けたが、鉱山業以外に拡げる余裕がないとして固辞し、金融は倉庫業の付帯業務として行った
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
    • [31]明治28年11月、家長住友吉左衛門を行主とする個人銀行として創設、資本金100万円
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第二章「住友銀行の創業と成長」
    • [32]明治28年4月に上村喜平・岡素男が銀行創立意見書を提出、5月4日の伊庭貞剛主宰の第1回重役会が銀行設立を可決

出典・参考

8件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友金属鉱山」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「住友銀行」
  • 企業の現代史 第14「街かどに…明るい窓口 住友銀行」(1962年)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
  • 日本産業史 第1巻「銀行-財閥銀行から近代化」
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第一章「住友家の事業と金融業」
  • 住友銀行史(住友銀行、1955年)第二章「住友銀行の創業と成長」
  • 泉屋叢考 第13輯(住友修史室、1967年)「別子銅山の発見と開発」

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