第2章 年〜年

ダイエー:ダイエーローソン設立と南海ホークス買収による多角化

1973年〜上場後初の減益、3年で41店の出店と小売業初の売上高1兆円

首位に立った直後のダイエーを揺らしたのは、需要の側の変化だった。1970年代半ばの不況は、個人消費が伸びないという前例の少ない形をとった。1975年2月期の売上高は3,323億4,600万円と前年同期を595億円上回った一方、経常利益は47億5,900万円と4億3,800万円減り、上場後で初めての減益となった。落ち込みは百貨店や他のチェーンストアより浅かった。弱みは組織にあり、10万円以上の決裁にはすべて社長の印が要った。1974年9月に米国のコンサルタント会社の診断を受けて権限を下ろす新組織を発表しながら、8カ月後には中内㓛氏が商品統括本部長を兼ね、自ら売り場の指揮へ戻った。それでも出店は緩めず、1973年からの3年間に41店を開いて売り場を9万7,000坪広げ、1,100億円を投じた。

  • 日経ビジネス 1975年6月23日号
    • [1]1970年代半ばの不況は個人消費の停滞という従来にないパターンで進行
    • [2]1975年2月期 売上高3,323億4,600万円(前年同期比595億円増)・経常利益47億5,900万円(同4億3,800万円減)で上場後初の減益
    • [3]ダイエーの受けた打撃は百貨店・他チェーンストアに比べ最も軽い部類
    • [4]10万円以上の決裁はすべて社長の押印が必要(1973年までは5万円以上)
    • [5]1974年9月 米コンサルタント会社の診断で権限委譲を組み込んだ新組織を発表、8カ月後に社長が商品統括本部長を兼務
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [6]1973〜1975年の3年間に41店を出店・売場面積9万7,000坪を拡大・1,100億円を投資

1980年2月、ダイエーは年間売上高1兆円に達した。小売業で年商1兆円を超えたのは、これが最初である。1976年7月の講演で中内㓛氏は『1兆円の売上げに意味があるのではなく、1兆円の売上げを支える仕組みに意味があるのだ』と語っていた。1兆円の売上高は一部の単品で市場の1割を押さえることを意味し、その1割が価格の決定権を小売の手元へ移すというのが中内㓛氏の筋道だった。ただ1976年2月期の全国シェアはマヨネーズ5.5%、インスタントコーヒー4.1%、ラーメン2.2%にとどまった。業態の順位のほうは先に入れ替わっており、1974年度の小売販売額に占めるスーパーの比率は12.7%と、百貨店の11.0%を上回っていた。売上高の総額は単品の交渉力より早く伸び、目標の数字だけが先に届いたとみられる。

  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 通史「創造的革新に挑む」(年表 昭和55年)
    • [7]昭和55年(1980年)2月 ダイエーが年商1兆円を達成
    • [8]小売業で初めて年商1兆円を達成
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [9]中内功 1兆円の売上げではなくそれを支える仕組みに意味があるとの認識
    • [10]売上高1兆円は一部の単品で10%のシェア確保を意味し、単品シェアを10%に近づけて価格決定権を確立する方針
    • [11]1976年2月期 全国販売数量に対するシェア マヨネーズ5.5%・インスタントコーヒー4.1%・ラーメン2.2%
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [12]1974年度の小売販売額シェア スーパー12.7%・百貨店11.0%
参考文献[1]-[12]
  • 日経ビジネス 1975年6月23日号
    • [1]1970年代半ばの不況は個人消費の停滞という従来にないパターンで進行
    • [2]1975年2月期 売上高3,323億4,600万円(前年同期比595億円増)・経常利益47億5,900万円(同4億3,800万円減)で上場後初の減益
    • [3]ダイエーの受けた打撃は百貨店・他チェーンストアに比べ最も軽い部類
    • [4]10万円以上の決裁はすべて社長の押印が必要(1973年までは5万円以上)
    • [5]1974年9月 米コンサルタント会社の診断で権限委譲を組み込んだ新組織を発表、8カ月後に社長が商品統括本部長を兼務
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [6]1973〜1975年の3年間に41店を出店・売場面積9万7,000坪を拡大・1,100億円を投資
    • [9]中内功 1兆円の売上げではなくそれを支える仕組みに意味があるとの認識
    • [10]売上高1兆円は一部の単品で10%のシェア確保を意味し、単品シェアを10%に近づけて価格決定権を確立する方針
    • [11]1976年2月期 全国販売数量に対するシェア マヨネーズ5.5%・インスタントコーヒー4.1%・ラーメン2.2%
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 通史「創造的革新に挑む」(年表 昭和55年)
    • [7]昭和55年(1980年)2月 ダイエーが年商1兆円を達成
    • [8]小売業で初めて年商1兆円を達成
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [12]1974年度の小売販売額シェア スーパー12.7%・百貨店11.0%

1974年〜ストア・ブランド20.5%、価格調査60品目とサッカリンの使用中止

価格の決定権へ近づく実際の手段は、自社で企画するストア・ブランドだった。1976年2月期の構成比は衣料品で40%・4,840品目、日用雑貨で25.4%・2,730品目、食料品で8.5%・213品目に及び、全体では20.5%を占めた。売値はナショナル・ブランドより1割から3割低く置いた。一方、製造にまで踏み込んだブブは販売が続かず、1976年に店頭から退いた。1983年にはクラウンの株式を売却し、以後は工場を持たないメーカーを掲げて、生産の現場へ直接関わることを控えた。安さを作る場所として、ダイエーが手元に残したのは工場ではなく仕入れと売り場だったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [13]1976年2月期のストア・ブランド比率 衣料品40%・4,840品目、日用雑貨25.4%・2,730品目、食料品8.5%・213品目、平均20.5%
    • [14]ストア・ブランドはナショナル・ブランドより1割〜3割安い価格で提供
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [15]「ブブ」商品は1976年に店頭から姿を消した
    • [16]1983年 クラウンの株式を売却
    • [17]以降ダイエーは「工場を持たないメーカー」を標榜し生産段階への直接介入に消極的

1975年度のダイエーは、売上高の42%を食料品部門で上げていた。その売価が他店より本当に低いかを社内で点検する部署として、1974年に消費者サービス室が発足した。販売促進部の担っていた価格調べを引き取り、阪神の6地域で食品50・日用品10の計60品目を毎月調べ、結果を店と商品部へ返し、委員会を経て経営会議へ上げた。1977年3月からは全国15地域・53店へ対象を広げ、品目も65に増やした。1980年2月の調べでは、ダイエーの売価を100とした他社の水準は101.8から107.2、平均102.9で、ダイエーを下回る地域はなかった。1976年に同志社大学の研究室が神戸市内で比べた結果では、ダイエーで食料をそろえる家計の支出は一般の小売店を使う場合より約10%、ストア・ブランドを使えば12%少なかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [18]1975年度 食料品部門が売上高の42%を占める
  • ダイエー消費者サービス室5年の歩み(ダイエー、1980年)第1章「消費者サービス室の組織と業務」
    • [19]1974年(昭和49年) 消費者サービス室が発足
    • [20]販売促進部から生活必需品の価格調査を引き継ぎ、阪神6地域で60品目(食品50・日用品10)を毎月調査し、店・商品部と経営会議へ報告
    • [21]1977年3月 調査対象を全国主要15地域・53店舗・65品目に拡大
    • [22]1980年2月の調査 ダイエー売価100に対し他社は最安101.8・最高107.2・平均102.9、ダイエーより安い競合店はどの地域にもなし
    • [23]1976年7月・11月 同志社大学小嶋研究室の生計費調査 ダイエー利用で1カ月の食料費が約10%、ストア・ブランド利用で12%安い

品質の側でも、売り手が自前の基準を持つ体制が組まれた。新たに扱う商品は品質管理センターの検査に合格しなければ店に並ばず、基準の一部は法定より厳しく、合成着色料の赤色104号・105号などを使用禁止とした。資生堂やカネボウ、大正製薬とは共同で商品を開発し、1976年7月には男性化粧品のアドミナールとバンガード5を発売した。同じ1976年、消費者団体の反発を受けてサッカリンの使用をやめ、砂糖に替えた沢庵の売上高が大きく落ちる代償を引き受けた。1975年9月からの1年間に寄せられた食品の苦情6,849件のうち1,894件が異物の混入で、ダイエーは取引先への改善要請と工場の立ち入り検査を強めた。

  • ダイエー消費者サービス室5年の歩み(ダイエー、1980年)第1章「消費者サービス室の組織と業務」
    • [24]新規採用商品は品質管理センターの検査に合格しなければ販売不可、「ダイエー品質管理基準」は一部法定より厳しく赤色104号・105号などを使用禁止
    • [26]1976年 サッカリンの使用中止を決定、砂糖へ切り替えたタクワンの売上が激減
    • [27]1975年9月〜1976年8月の食品クレーム6,849件のうち異物混入1,894件、メーカーへの改善要請と工場立入検査を強化
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [25]1976年7月 男性化粧品「アドミナール」(カネボウ)「バンガード5」(資生堂)を共同開発で発売、資生堂・カネボウ・大正製薬と共同開発
参考文献[13]-[27]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
    • [13]1976年2月期のストア・ブランド比率 衣料品40%・4,840品目、日用雑貨25.4%・2,730品目、食料品8.5%・213品目、平均20.5%
    • [14]ストア・ブランドはナショナル・ブランドより1割〜3割安い価格で提供
    • [18]1975年度 食料品部門が売上高の42%を占める
    • [25]1976年7月 男性化粧品「アドミナール」(カネボウ)「バンガード5」(資生堂)を共同開発で発売、資生堂・カネボウ・大正製薬と共同開発
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [15]「ブブ」商品は1976年に店頭から姿を消した
    • [16]1983年 クラウンの株式を売却
    • [17]以降ダイエーは「工場を持たないメーカー」を標榜し生産段階への直接介入に消極的
  • ダイエー消費者サービス室5年の歩み(ダイエー、1980年)第1章「消費者サービス室の組織と業務」
    • [19]1974年(昭和49年) 消費者サービス室が発足
    • [20]販売促進部から生活必需品の価格調査を引き継ぎ、阪神6地域で60品目(食品50・日用品10)を毎月調査し、店・商品部と経営会議へ報告
    • [21]1977年3月 調査対象を全国主要15地域・53店舗・65品目に拡大
    • [22]1980年2月の調査 ダイエー売価100に対し他社は最安101.8・最高107.2・平均102.9、ダイエーより安い競合店はどの地域にもなし
    • [23]1976年7月・11月 同志社大学小嶋研究室の生計費調査 ダイエー利用で1カ月の食料費が約10%、ストア・ブランド利用で12%安い
    • [24]新規採用商品は品質管理センターの検査に合格しなければ販売不可、「ダイエー品質管理基準」は一部法定より厳しく赤色104号・105号などを使用禁止
    • [26]1976年 サッカリンの使用中止を決定、砂糖へ切り替えたタクワンの売上が激減
    • [27]1975年9月〜1976年8月の食品クレーム6,849件のうち異物混入1,894件、メーカーへの改善要請と工場立入検査を強化

1980年〜4兆円目標、南海ホークス買収と1994年の忠実屋合併

1兆円の次に中内㓛氏が置いたのは、1985年にグループで売上高4兆円という目標だった。流通業界が優劣のはっきり分かれる競争期へ入ったとの判断に立ち、新型の安売り店を含む新業態の開発と外資との提携を1980年代の柱に据えた。出店の空白として残ったのは首都圏である。1972年に碑文谷店を開いた後、西武流通グループをはじめ東京の同業の抵抗で要所への出店が進まなかった。1981年11月に開いた埼玉の所沢店では、西武が予定地の中央の数十坪を最後まで譲らず、ダイエーはそこへの進入路を残したコの字形の建物を建てるほかなかった。

  • 80年代わが社の戦略 1980年「ダイエー 世界的ビッグビジネスへスタート」(社長 中内功)
    • [28]1980年 中内功が5年後の1985年にダイエーグループで売上高4兆円の実現を掲げる
    • [29]流通業界が優劣のはっきり決まる本格的な競争の時代に入ったとの認識、新型安売り店を含む新業態開発と外資との提携
  • Decide 1988年6巻8号
    • [30]1972年の碑文谷店開店後、西武流通グループなど東京勢の抵抗で首都圏の要衝への出店が進まず
    • [31]1981年11月 所沢店開店、西武が出店予定地の中央に数十坪の土地を確保しダイエーへ譲渡しなかった
    • [32]ダイエーは社宅への進入路を設けコの字形の店舗ビルを建てた

1988年、ダイエーは南海ホークスを買収し、プロ野球の球団を持った。中内㓛氏は10年来この構想を温めており、先例は1978年に球団を買った西武だった。西武グループを率いる堤義明氏は、膨らんだ企業集団をまとめる軸に野球を選び、鉄道・ホテル・不動産に分かれていた西武の名を一つのグループとして全国へ通した。1993年に本拠地の福岡ドームが完成すると、中内㓛氏はその規模を『戦艦大和、戦艦武蔵を作ったような気分ですな』とたとえた。本業では1992年10月、神戸に会員制の安売り店コウズ・ホールセールメンバーシップクラブを開き、品目を総合スーパーの4分の1以下の約5,000に絞り、常駐社員を店長を含め3人とした。同じ1992年にはリクルートの株式も取得したが、拡大の元手としてきた含み資産による資金調達は限界に近づいていた。

  • Decide 1988年6巻8号
    • [33]1988年 ダイエーが南海ホークスを買収
    • [34]中内功のプロ球団買収構想は10年越しのもの
    • [35]1978年 西武が西武ライオンズを買収
    • [36]堤義明は組織の求心力として野球を選択、ライオンズにより西武が統合されたグループとして全国レベルで認知される存在に変化
  • Decide 1993年11巻1号
    • [37]1993年 福岡ドームが完成
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
    • [38]1992年10月 神戸に会員制安売り店「Kou's ホールセールメンバーシップクラブ」開業、取扱品目約5,000で総合スーパーの4分の1以下、常駐社員は店長を含め3人
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [39]1992年5月 ダイエーがリクルート株の買収を発表
    • [40]拡大を支えてきた含み資産による資金調達が限界に近づく

拡大の締めくくりは同業の吸収だった。1991年、ダイエーは不動産会社の秀和と組んで忠実屋の株式を買い集め、3割を超えた段階で中内㓛氏は『約三十四%の株を買い集められては、会社として体をなしていないのではないか』と評した。忠実屋は自主独立を掲げ、1991年2月に百貨店と外食の子会社を清算し、1992年2月期中に残る赤字の子会社5社も整理するとして抵抗を続けた。ただ秀和に株式の3分の1を握られた状態では、増資による資金調達も、値上がりした自社株の買い戻しも封じられていた。1994年3月1日、忠実屋はダイエーに合併された。この合併でダイエーは忠実屋が持っていた松下電器産業との取引を引き継ぎ、同月から松下との正式な取引を始めた。ただし契約上、松下が商品を納める先は旧忠実屋の店舗に限られた。価格の決定権をめぐる四半世紀の対立は、取引先ごと相手の会社を取り込む形で区切りを迎えた。

  • 実業往来 1991年
    • [41]1991年 ダイエーが秀和と提携して忠実屋株を買い集める
    • [42]中内功 3割超の株を買い集められた会社は体をなしていないとの評
    • [43]忠実屋は自主独立路線を掲げ、1991年2月に百貨店運営と外食の子会社を清算、1992年2月期中に赤字子会社5社を一掃すると表明
    • [44]秀和に株式の3分の1を占められ、エクイティファイナンスによる増資も値上がりした自社株の買い戻しも不可能
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [45]1994年3月1日付で忠実屋がダイエーと合併
    • [46]1994年3月 ダイエーが松下電器産業と正式取引を開始(忠実屋の取引を継承)
    • [47]契約上の松下の商品供給先は旧忠実屋店舗に限定
参考文献[28]-[47]
  • 80年代わが社の戦略 1980年「ダイエー 世界的ビッグビジネスへスタート」(社長 中内功)
    • [28]1980年 中内功が5年後の1985年にダイエーグループで売上高4兆円の実現を掲げる
    • [29]流通業界が優劣のはっきり決まる本格的な競争の時代に入ったとの認識、新型安売り店を含む新業態開発と外資との提携
  • Decide 1988年6巻8号
    • [30]1972年の碑文谷店開店後、西武流通グループなど東京勢の抵抗で首都圏の要衝への出店が進まず
    • [31]1981年11月 所沢店開店、西武が出店予定地の中央に数十坪の土地を確保しダイエーへ譲渡しなかった
    • [32]ダイエーは社宅への進入路を設けコの字形の店舗ビルを建てた
    • [33]1988年 ダイエーが南海ホークスを買収
    • [34]中内功のプロ球団買収構想は10年越しのもの
    • [35]1978年 西武が西武ライオンズを買収
    • [36]堤義明は組織の求心力として野球を選択、ライオンズにより西武が統合されたグループとして全国レベルで認知される存在に変化
  • Decide 1993年11巻1号
    • [37]1993年 福岡ドームが完成
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
    • [38]1992年10月 神戸に会員制安売り店「Kou's ホールセールメンバーシップクラブ」開業、取扱品目約5,000で総合スーパーの4分の1以下、常駐社員は店長を含め3人
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [39]1992年5月 ダイエーがリクルート株の買収を発表
    • [40]拡大を支えてきた含み資産による資金調達が限界に近づく
  • 実業往来 1991年
    • [41]1991年 ダイエーが秀和と提携して忠実屋株を買い集める
    • [42]中内功 3割超の株を買い集められた会社は体をなしていないとの評
    • [43]忠実屋は自主独立路線を掲げ、1991年2月に百貨店運営と外食の子会社を清算、1992年2月期中に赤字子会社5社を一掃すると表明
    • [44]秀和に株式の3分の1を占められ、エクイティファイナンスによる増資も値上がりした自社株の買い戻しも不可能
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
    • [45]1994年3月1日付で忠実屋がダイエーと合併
    • [46]1994年3月 ダイエーが松下電器産業と正式取引を開始(忠実屋の取引を継承)
    • [47]契約上の松下の商品供給先は旧忠実屋店舗に限定

筆者考察

1兆円という数字は、ダイエーにとって到達点ではなく手段だった。中内㓛氏の筋道では、売上高が1兆円に届くことは一部の単品で市場シェア1割を握ることを意味し、その1割が価格の決定権を小売の側へ移す梃子になるはずだった。ところが1976年2月期の実績は、最も高いマヨネーズで5.5%、インスタントコーヒー4.1%、ラーメン2.2%にとどまり、1割へ届いた単品はない。規模の側だけが先に膨らみ、単品ごとの交渉力は後からついてこなかった。3年で41店を開き1,100億円を投じる出店が続くかぎり、金利負担が先に立ち、シェアが後から追う関係は固定される。

価格の決定権を競争で取れないとき、ダイエーは相手を買う方へ進んだ。1971年のクラウンへの資本参加は、小売が製造の側へ入り込む最初の試みだったが、ブブは1976年に店頭から消え、1983年には株式も手放して、工場を持たないメーカーという立ち位置へ退いている。それでも和解は別の経路から訪れた。1994年3月の忠実屋との合併で、ダイエーは忠実屋が持っていた松下電器産業との取引をそのまま引き継いだのである。自ら作ることでも、売り場の力で押すことでもなく、取引のある会社ごと取り込むことで、四半世紀の対立は閉じた。拡大そのものが、対立を解く手段になっていた。

1973年〜1994年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率 億円
1973年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年02月期 単体 8,566 n/a 273 115 1.3% 59 n/a
1979年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1980年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1981年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1983年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1984年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1985年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:日本企業要覧

出典・参考

11件
出典・参考
  • ダイエー消費者サービス室5年の歩み(ダイエー、1980年)第1章「消費者サービス室の組織と業務」
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 通史「創造的革新に挑む」(年表 昭和55年)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 金融・商業「流通-急成長した総合スーパー」
  • 日経ビジネス 1975年6月23日号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年14巻9号(社長 中内功)
  • Decide 1988年6巻8号
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
  • Decide 1993年11巻1号
  • 日経ビジネス 1993年1月4日号
  • 80年代わが社の戦略 1980年「ダイエー 世界的ビッグビジネスへスタート」(社長 中内功)
  • 実業往来 1991年

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