第1章 年〜年

丸井:丸井の月賦販売と中野店の不法占拠を経た店舗再建

1931年〜集金で店一番になった富山の店員と、中野で独り立ちした月賦の丸井

創業者の青井忠治氏は1931年2月、勤め先の丸二商会から中野の店をのれん分けで譲り受けて独立した。青井忠治氏は富山県の高岡工芸で木材工芸を学び、1922年に上京して新宿の月賦家具店だった丸二商会に入った。愛媛県出身者で固められた店のなかで、青井忠治氏は店員の嫌う月末の集金を進んで受け持ち、その回収率は98パーセント。働きぶりを認められた青井忠治氏は、入店1年半で大塚支店長、3年目には部員16名の本店集金部長に昇進した。昭和初めの不況で丸二商会は11店あった支店を減らし、功労のあった幹部へ譲り渡すことを決めた。青井忠治氏は郷里の田畑を売却して1万1千円の元手を用意し、建物と在庫の代金8,500円は年賦で丸二商会へ返済した。

  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [1]1931年2月、青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野区桃園町で開店創業
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [2]青井忠治は1922年に高岡工芸の木材工芸科を出て新宿の月賦家具店・丸二に勤め、1931年に独立
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [3]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [4]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [5]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [6]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済

青井忠治氏は独立から2年後の1933年に阿佐ヶ谷支店を新設し、畳敷きをやめて履物のまま入れる2階建ての店舗とした。同じ1933年4月には屋号を丸井に改め、丸二商会の「丸」と創業者の姓から取った「井」を配した社章を定めた。中央線沿線は勤め人の住宅地として発展しており、青井忠治氏は沿線に支店を連ね、1936年には中野店を325坪・3階建てに改装した。1963年の時点でも、丸井の20店のうち11店は中央線沿線の店である。丸井の商勢圏は、1964年の柏店開設まで中央線沿線を主とした東京に置かれた。月給で暮らす家庭には家具を現金でまとめて揃える余裕が乏しく、月賦の客は沿線の住宅地とともに増えたとみられる。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [7]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
    • [9]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
    • [10]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [8]1933年4月に商号を丸井に改称し、丸二の丸と青井の井を合わせた社章を制定
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [11]1964年の柏店開設まで商勢圏は中央線沿線を主とした東京中心

青井忠治氏は1937年3月、資本金5万円で個人の店を株式会社丸井に改組した。中野の店は1933年ごろには『中央線随一のデパート』を名乗るまでになり、木造と鉄筋を合わせた3階建ての本店を構えた。1937年には家具や靴に加えて呉服の月賦販売も始め、扱う品目を生活用品全般へ広げた。1939年の時点の丸井は、中野本店と支店4店、従業員150名の規模である。同じ1937年には日華戦争が始まり、物資の不足と統制の強化で月賦の商いは次第に難しくなった。改組の理由は資料に残っておらず、店と品目が増えて個人の商いでは仕入れと掛け売りの元手を支えにくくなったためと推察される。

  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [12]1937年3月、資本金5万円で株式会社丸井に改組
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [13]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [14]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [15]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [16]1937年の日華戦争以降、物資不足と統制強化で商売が難しくなる
参考文献[1]-[16]
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [1]1931年2月、青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野区桃園町で開店創業
    • [8]1933年4月に商号を丸井に改称し、丸二の丸と青井の井を合わせた社章を制定
    • [12]1937年3月、資本金5万円で株式会社丸井に改組
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [2]青井忠治は1922年に高岡工芸の木材工芸科を出て新宿の月賦家具店・丸二に勤め、1931年に独立
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [3]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [4]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [5]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [6]丸二で集金を引き受け98%回収、入店1年半で大塚支店長・3年目に本店集金部長(16名)。不況で丸二が11支店を幹部に譲渡、田畑を売り1万1千円、8,500円を年賦返済
    • [7]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
    • [9]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
    • [10]1933年に阿佐ヶ谷支店を新設(土足で入れる2階建て、初めて丸井の旗)。中央線沿線のサラリーマン住宅地に支店網を拡大、1936年に中野店を325坪3階建てに
    • [13]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [14]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [15]1933年ごろ「中央線随一のデパート」と称し本店を建設、1937年に呉服の月賦販売を開始、1939年に本店と支店4・従業員150名
    • [16]1937年の日華戦争以降、物資不足と統制強化で商売が難しくなる
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [11]1964年の柏店開設まで商勢圏は中央線沿線を主とした東京中心

1941年〜統制で閉じた月賦の店と、占拠された中野店からの出直し

青井忠治氏は1941年5月、周囲の制止を退けて在庫品をすべて処分し、株式会社への改組から4年で月賦の商いを止めた。処分した在庫は金額にして500万円、当時の従業員は150名。閉鎖の対象は中野・阿佐ケ谷・吉祥寺・深川・下北沢の5店舗で、丸井は営業を中止した。後年の記録が挙げる全店閉鎖の理由は、戦時体制下の商業活動の規制である。1937年の日華戦争以降、物資の不足と統制の強化が進み、商品を仕入れて掛けで売る商いは続けにくくなっていた。月賦は品物を先に渡して代金を後から回収する商いであり、仕入れの見通しが立たない以上、新たな掛け売りは続けられなかったのだろう。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [17]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
    • [18]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
    • [21]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [19]1941年に中野・阿佐ケ谷・吉祥寺・深川・下北沢の5店舗を閉鎖し営業を中止
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [20]戦時体制下の商業活動規制のため1941年5月以降全店を閉鎖

青井忠治氏は1946年8月、中野の旧本店から50メートルほど離れた駅前通りに60坪の仮店舗を設けて商いを再開した。本店の改装を終えて営業を始めたのは翌1947年で、本拠の店への復帰は仮店舗の開設から1年近く後にあたる。製造元も焼けて新しい家具は出回らず、青井忠治氏は焼け残った戦前の品を探しては前金で仕入れた。仕入れが前金である以上、客からも前金で代金を受け取り、再開当初は月賦を扱えなかった。青井忠治氏は再開直後の店を、物資交換所に近いものだったと振り返った。本店の改装に時間を要した事情は資料に記されておらず、資材の乏しい終戦直後には仮店舗で先に売り場を確保するほかなかったと思われる。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [22]終戦後、中野本店から約50m離れた場所に60坪の家具店を開く
    • [23]1946年8月に中野駅前通りの60坪の仮店舗で家具の現金販売を開始、翌1947年に本店改装を終えて営業開始
    • [24]戦後は焼け残った戦前の家具を前金で仕入れ、客からも前金を受けた(青井忠治の談)
    • [25]戦後は焼け残った戦前の家具を前金で仕入れ、客からも前金を受けた(青井忠治の談)
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [26]戦後は中野店を中心に再開したが、最初は物資交換所程度だった(青井忠治の談)

青井忠治氏は月賦の再開に先立ち、家具の広告で店の名を広めた。材木が乏しいなかでジュラルミン製の駅掛け看板65枚を総武線から山手線にかけて掲げ、新聞広告も家具一本に絞った。1948年からは西荻窪店・新宿駅前店・下北沢店・新宿三光町店を順に開設し、支店網を組み直した。1950年までに資本金は500万円、従業員は60名となったものの、販売はすべて現金のままである。インフレが続く間は月賦を見送り、朝鮮戦争で景気が持ち直した1950年に、青井忠治氏は『米国式簡易分割払い』を掲げて月賦を再開した。青井忠治氏自身も、戦前並みの月賦販売に戻れたのは1950年の暮れごろだったと述べた。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [27]戦後の再出発で駅掛け看板65枚(ジュラルミン製)を総武線・山手線に掲げ、家具に絞った新聞広告を出した(青井忠治の談)
    • [28]戦後の再出発で駅掛け看板65枚(ジュラルミン製)を総武線・山手線に掲げ、家具に絞った新聞広告を出した(青井忠治の談)
    • [30]1950年までに西荻窪・新宿駅前・下北沢・新宿三光町に支店、資本金500万円・従業員60名、販売は全て現金。1950年の朝鮮動乱後に「米国式簡易分割払い」で月賦を再開
    • [31]1950年までに西荻窪・新宿駅前・下北沢・新宿三光町に支店、資本金500万円・従業員60名、販売は全て現金。1950年の朝鮮動乱後に「米国式簡易分割払い」で月賦を再開
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [29]1946年8月に家具小売店として営業を再開し、西荻窪店・新宿駅前店などを順次開設
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [32]戦前のような月賦販売を再開できたのは1950年暮ごろから(青井忠治の談)
参考文献[17]-[32]
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [17]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
    • [18]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
    • [21]1941年5月に在庫品すべてを処分し廃業(500万円、従業員150名)。1937年以降の物資不足と統制強化が背景
    • [22]終戦後、中野本店から約50m離れた場所に60坪の家具店を開く
    • [23]1946年8月に中野駅前通りの60坪の仮店舗で家具の現金販売を開始、翌1947年に本店改装を終えて営業開始
    • [24]戦後は焼け残った戦前の家具を前金で仕入れ、客からも前金を受けた(青井忠治の談)
    • [25]戦後は焼け残った戦前の家具を前金で仕入れ、客からも前金を受けた(青井忠治の談)
    • [27]戦後の再出発で駅掛け看板65枚(ジュラルミン製)を総武線・山手線に掲げ、家具に絞った新聞広告を出した(青井忠治の談)
    • [28]戦後の再出発で駅掛け看板65枚(ジュラルミン製)を総武線・山手線に掲げ、家具に絞った新聞広告を出した(青井忠治の談)
    • [30]1950年までに西荻窪・新宿駅前・下北沢・新宿三光町に支店、資本金500万円・従業員60名、販売は全て現金。1950年の朝鮮動乱後に「米国式簡易分割払い」で月賦を再開
    • [31]1950年までに西荻窪・新宿駅前・下北沢・新宿三光町に支店、資本金500万円・従業員60名、販売は全て現金。1950年の朝鮮動乱後に「米国式簡易分割払い」で月賦を再開
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [19]1941年に中野・阿佐ケ谷・吉祥寺・深川・下北沢の5店舗を閉鎖し営業を中止
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [20]戦時体制下の商業活動規制のため1941年5月以降全店を閉鎖
    • [29]1946年8月に家具小売店として営業を再開し、西荻窪店・新宿駅前店などを順次開設
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [26]戦後は中野店を中心に再開したが、最初は物資交換所程度だった(青井忠治の談)
    • [32]戦前のような月賦販売を再開できたのは1950年暮ごろから(青井忠治の談)

1950年〜新価格方式で売上3億円に達した月賦と、店舗専用のクレジットカード

丸井が5ヵ月払いの月賦販売制度を確立したのは1950年である。同じ1950年から全商品に現金正価と月賦価格を並べて示し、月賦の値段は一律で現金正価の5パーセント増しとした。集金の経費や金利、貸し倒れを考えれば同業者には無謀な水準であり、青井忠治氏は一括仕入れと集金の合理化で採算を見込んだ。新価格方式の最初の商品には、三越でも高額のため売れ行きの鈍かった英国製のフーバー洗濯機を選び、知識層を中心に多くの台数を売った。1950年は衣料切符制が解けたばかりで、エンゲル係数は57.4と高く、文化的な商品を現金で揃えられる家庭は少なかった。丸井の1951年度の売上高は3億円に達した。

  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [33]1950年に5カ月払い方式の月賦販売制度を確立
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [34]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円
    • [35]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円
    • [36]1950年のフーバー洗濯機は三越では売れなかったが丸井では知識層中心に売れた。衣料切符制解除直後でエンゲル係数57.4
    • [37]1950年のフーバー洗濯機は三越では売れなかったが丸井では知識層中心に売れた。衣料切符制解除直後でエンゲル係数57.4
    • [38]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円

丸井は1955年2月、5ヵ月払いを10ヵ月払いに改め、『千円で1万円のお買い物』という売り文句を掲げた。新価格方式は同業者に広く模倣され、青井忠治氏は『皆がまねれば、そのまた一歩先をゆけばよい』と考えて次の方式を打ち出した。前年の1954年5月には中野本店の2階にテレビ観戦の客が押し寄せて床が抜け、重軽傷者は27名。青井忠治氏は事故の直後に本店の全面改築を決め、改築後の中野本店は業界で初めての鉄筋4階建てとなった。10ヵ月払いへの移行後、丸井は自由が丘店・新宿西口店・渋谷店を開設した。一方で1955年に労働争議が起こり、青井忠治氏はその後の5年間を伸び悩みの時期と振り返った。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [39]1955年2月に新しい売り文句を掲げて10ヵ月払いを採用、亜流を生む。青井忠治は「皆がまねれば、そのまた一歩先をゆけばよい」との考え
    • [40]1955年2月に新しい売り文句を掲げて10ヵ月払いを採用、亜流を生む。青井忠治は「皆がまねれば、そのまた一歩先をゆけばよい」との考え
    • [41]1954年5月、テレビ観戦客で中野本店2階の床が落ち27名重軽傷。直後に本店の大改築を決定
    • [42]1954年5月、テレビ観戦客で中野本店2階の床が落ち27名重軽傷。直後に本店の大改築を決定
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [43]1955年に中野本店を業界初の鉄筋4階建とした
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [44]1955年に10カ月払いへ改め、自由が丘店・新宿西口店・渋谷店などを開設
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [45]1955年に労働争議が起こり、その後5年間は伸び悩んだ(青井忠治の談)

青井忠治氏は1952年、月賦業界で最初に単身で渡米し、米国の信用調査機関やクレジット・カードの仕組みを調べた。青井忠治氏の子で、のちに副社長となる青井忠雄氏も1957年4月に渡米し、帰国後に信用調査の組織を整えた。丸井は1957年8月に営業部へ得意先課を置き、顧客ごとの信用状況を把握し始めた。2度の世論調査と欧米の月賦事情の調査を踏まえ、丸井は1960年1月に呼称を月賦からクレジットへ改めた。同じ1960年3月に上顧客向けに5万枚を発行した国内初のクレジット・カードは、固定客を育てる手段である。貧しさを連想させた月賦の印象を改め、顧客の信用を記録して囲い込む仕組みが、大型店への集約と株式公開に進む前提となったとみられる。

  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [46]1952年に青井忠治が業界トップを切って単身渡米し信用調査機関・クレジットカードを調査。青井忠雄は1957年4月に渡米し帰国後クレジット・センターを作る
    • [47]1952年に青井忠治が業界トップを切って単身渡米し信用調査機関・クレジットカードを調査。青井忠雄は1957年4月に渡米し帰国後クレジット・センターを作る
    • [48]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
    • [49]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
    • [51]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [50]欧米諸国の月賦販売事情調査を基に1960年にクレジットの呼称を採用
参考文献[33]-[51]
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
    • [33]1950年に5カ月払い方式の月賦販売制度を確立
    • [44]1955年に10カ月払いへ改め、自由が丘店・新宿西口店・渋谷店などを開設
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
    • [34]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円
    • [35]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円
    • [36]1950年のフーバー洗濯機は三越では売れなかったが丸井では知識層中心に売れた。衣料切符制解除直後でエンゲル係数57.4
    • [37]1950年のフーバー洗濯機は三越では売れなかったが丸井では知識層中心に売れた。衣料切符制解除直後でエンゲル係数57.4
    • [38]1950年に全商品へ現金正価と月賦価格を明示し月賦は一律5%増し。同業者には無謀とみられたが丸井システムに自信。1951年度の売上高3億円
    • [39]1955年2月に新しい売り文句を掲げて10ヵ月払いを採用、亜流を生む。青井忠治は「皆がまねれば、そのまた一歩先をゆけばよい」との考え
    • [40]1955年2月に新しい売り文句を掲げて10ヵ月払いを採用、亜流を生む。青井忠治は「皆がまねれば、そのまた一歩先をゆけばよい」との考え
    • [41]1954年5月、テレビ観戦客で中野本店2階の床が落ち27名重軽傷。直後に本店の大改築を決定
    • [42]1954年5月、テレビ観戦客で中野本店2階の床が落ち27名重軽傷。直後に本店の大改築を決定
    • [46]1952年に青井忠治が業界トップを切って単身渡米し信用調査機関・クレジットカードを調査。青井忠雄は1957年4月に渡米し帰国後クレジット・センターを作る
    • [47]1952年に青井忠治が業界トップを切って単身渡米し信用調査機関・クレジットカードを調査。青井忠雄は1957年4月に渡米し帰国後クレジット・センターを作る
    • [48]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
    • [49]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
    • [51]1957年8月に得意先課で信用調査機関を設置、2回の世論調査を基に1960年1月に月賦をクレジットに改称、1960年3月に国内初のクレジット・カードを上顧客に5万枚発行
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)
    • [43]1955年に中野本店を業界初の鉄筋4階建とした
    • [50]欧米諸国の月賦販売事情調査を基に1960年にクレジットの呼称を採用
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
    • [45]1955年に労働争議が起こり、その後5年間は伸び悩んだ(青井忠治の談)

1931年〜1961年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1960年01月期 単体 35 n/a 2 7.3% n/a
1961年01月期 単体 45 +26.7% 1 4.3% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

4件
出典・参考
  • 企業の現代史 1963「クレジット時代をひらく(丸井)」
  • 企業の歴史 明治百年 1968「丸井」
  • 週刊日本経済 1963年9月12日号
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻5号(青井忠雄)

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