第2章 年〜年

安宅産業:最下位脱出を掲げた安宅産業の多角化と役員会を通らない大型取引

1957年〜社内株主主義の終わりと借入に依存した資本構成

株式会社へ改組した当時の安宅商会の株主は、創業者の家族と親近者を除けば全員が社内に勤務する者であり、内規で株主となりうる資格まで定めていた。太平洋戦争の終結後まもなく初の社外株主が生まれたが、それは1社のみで総株数の3.2%にすぎず、その後も社外株主の持株合計は10%程度にとどまった。この社内株主主義を崩したのは資本構成の変化である。戦前の企業は自己資本6に対し他人資本4の割合だったが、戦後は4対6へ逆転した。とりわけ商社は生産者と消費者の間で金融機関的な立場に立ち巨額の資金を必要としたため、他人資本の割合は一段と増え、安宅産業も例外ではなかった。資本金は1953年10月の3億円から1961年10月の60億円まで、5度の有償増資を重ねて8年で20倍になった。

  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [1]株式組織へ改組した当時の株主は創業者の家族及び親近者のほかは全員が当社に勤務する者であり、内規をもって株主となり得る資格を規定するなど社内株主主義を採っていた
    • [2]太平洋戦争終結後間もなく初めて社外株主ができたがただ一社のみで総株数の3.2%に過ぎず、その後も社外株主の持株数合計は10%程度だった
    • [3]戦前の企業は自己資本6に対し他人資本4の割合であったが、戦後は4対6と逆転した
    • [4]戦後の商社は生産者と消費者との間における金融機関的な立場に立って巨額の資金を必要としたので他人資本の割合は一段と増加し、当社もその例外ではなかった
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [5]資本変動欄は昭和28年10月に3億円、31年4月に6億円、32年1月に15億円、34年12月に30億円、36年10月に60億円と、いずれも有償で増資したことを記す

安宅英一氏が会長に就任したのは1955年5月、数次の増資で資本金が3億円となって2年後である。社長の座は、1945年10月に旧役員の大部分が退陣して神田正吉氏へ移ってから創業家に戻らなかった。1957年の役員は、会長が安宅英一氏、社長が神田氏、副社長が猪崎久太郎氏だった。猪崎久太郎氏はのちに社長を経て会長となり、1968年には越田左多男氏が社長を務めた。株主構成も入れ替わり、1955年9月の大株主名簿では、発行済6,000,000株のうち首位が創業家系の安宅共済会の417,650株、住友銀行と東京海上火災が各300,000株で、安宅英一氏個人は81,400株の9位だった。1961年3月には住友銀行8.3%を筆頭に上位10位を銀行と生損保、証券が占め、創業家の名は消えた。1975年3月も住友銀行8.54%が筆頭で、協和銀行が4.99%で3位に入った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [6]1955年5月に安宅英一が安宅産業の会長に就任した
    • [7]数次の増資を経て1953年9月に資本金3億円となった
    • [8]1945年10月に旧役員の大部分が退陣した
    • [9]1945年10月に神田正吉が社長に就任した。1942年5月には創業以来の社長だった安宅弥吉が引退し安宅重雄が社長に就いている
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [10]1957年の安宅産業の役員は会長が安宅英一、社長が神田正吉
    • [11]1957年の安宅産業の副社長は猪崎久太郎
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [12]猪崎久太郎は昭和32年(1957年)11月に取締役社長、昭和41年(1966年)11月に取締役会長へ就いた
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [13]1968年の安宅産業は取締役会長が猪崎久太郎、取締役社長が越田左多男
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [14]1955年9月の大株主上位10位のうち創業家個人は9位の安宅英一のみだった
    • [15]1955年9月時点の安宅産業の総株式は6,000,000株
    • [16]1955年9月の筆頭株主は安宅共済会の417,650株
    • [17]1955年9月の2位は住友銀行300,000株、3位は東京海上火災300,000株
    • [18]1955年9月の9位は安宅英一の81,400株
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [19]1961年3月の筆頭株主は住友銀行8.3%で、上位10位は銀行・生損保・証券が占め創業家の名は無い
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [20]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%、協和銀行4.99%で、上位10位に創業家の名は無い
    • [21]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%に次いで協和銀行が4.99%で3位
参考文献[1]-[21]
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [1]株式組織へ改組した当時の株主は創業者の家族及び親近者のほかは全員が当社に勤務する者であり、内規をもって株主となり得る資格を規定するなど社内株主主義を採っていた
    • [2]太平洋戦争終結後間もなく初めて社外株主ができたがただ一社のみで総株数の3.2%に過ぎず、その後も社外株主の持株数合計は10%程度だった
    • [3]戦前の企業は自己資本6に対し他人資本4の割合であったが、戦後は4対6と逆転した
    • [4]戦後の商社は生産者と消費者との間における金融機関的な立場に立って巨額の資金を必要としたので他人資本の割合は一段と増加し、当社もその例外ではなかった
    • [13]1968年の安宅産業は取締役会長が猪崎久太郎、取締役社長が越田左多男
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [5]資本変動欄は昭和28年10月に3億円、31年4月に6億円、32年1月に15億円、34年12月に30億円、36年10月に60億円と、いずれも有償で増資したことを記す
    • [12]猪崎久太郎は昭和32年(1957年)11月に取締役社長、昭和41年(1966年)11月に取締役会長へ就いた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [6]1955年5月に安宅英一が安宅産業の会長に就任した
    • [7]数次の増資を経て1953年9月に資本金3億円となった
    • [8]1945年10月に旧役員の大部分が退陣した
    • [9]1945年10月に神田正吉が社長に就任した。1942年5月には創業以来の社長だった安宅弥吉が引退し安宅重雄が社長に就いている
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [10]1957年の安宅産業の役員は会長が安宅英一、社長が神田正吉
    • [11]1957年の安宅産業の副社長は猪崎久太郎
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [14]1955年9月の大株主上位10位のうち創業家個人は9位の安宅英一のみだった
    • [15]1955年9月時点の安宅産業の総株式は6,000,000株
    • [16]1955年9月の筆頭株主は安宅共済会の417,650株
    • [17]1955年9月の2位は住友銀行300,000株、3位は東京海上火災300,000株
    • [18]1955年9月の9位は安宅英一の81,400株
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [19]1961年3月の筆頭株主は住友銀行8.3%で、上位10位は銀行・生損保・証券が占め創業家の名は無い
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [20]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%、協和銀行4.99%で、上位10位に創業家の名は無い
    • [21]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%に次いで協和銀行が4.99%で3位

1964年〜創業六十周年の自制と金利に食われる利益

1964年7月1日、安宅産業は創業六十周年を迎えた。この時の資本金は60億円、諸積立金は21億円、社員総数は海外店を含めて2,527人だった。店舗は国内15、海外37を数え、新旧勘定を合わせた直後の1949年3月期に比べて資本金は240倍、売上高は32倍、計上利益は112倍へ伸びていた。その到達点となる1964年3月期の売上高は1,328億円、税引前の計上利益は8億3,000万円超で、決算は3月と9月の年2回に締めていた。総務部長通達は、極めて困難苛烈な内外の情勢と会社の置かれた現実を理由に挙げ、記念式典を開かなかった。前社長の神田正吉氏が心筋梗塞症で急逝したのは同年6月15日である。

  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [22]昭和39年(1964年)7月1日に当社は創業六十周年を迎えた
    • [23]創業六十周年の時点で資本金は60億円、諸積立金は21億円、社員総数(海外店を含む)は2,527人(男1,623・女904)だった
    • [24]昭和24年(1949年)3月期に比し資本金は240倍、売上高は32倍、計上利益は112倍、社員数は3倍であり、店舗も国内15、海外37を数えた
    • [25]昭和39年(1964年)3月期の売上高は1,328億円、計上利益(税引前)は8億3,000万円を超えた
    • [27]六十周年記念式典は「極めて困難苛烈なる内外の情勢と当社の直面する現実に鑑み」行なわず、記念事業の実施を延期する旨の総務部長通達が発せられた
    • [28]昭和39年(1964年)6月15日に前社長であった神田正吉が心筋梗塞症により急逝した
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [26]安宅産業の決算期は3月31日・9月30日の年2回だった

1967年3月期の売上高は1,830億5,239万円、営業利益は20億2,304万円だった。これに対し支払利息および割引料は29億4,911万円に達し、受取利息と配当金を加えても経常利益は9億6,114万円にとどまった。同じ期末の資本合計は97億6,271万円、負債合計は1,187億5,213万円であり、受取手形割引高は356億1,261万円に上った。大株主は住友銀行の8.36%を筆頭に、金融機関が43.06%を握った。当時の評は、金融系列は住友が主力で、金属と機械のほか木材とパルプに専門分野を持ち、堅実経営に定評はあるが前年の首脳陣の若返りから積極性を増してきた、というものだった。増資は自己資本を厚くするより借入枠の拡大に役立つ面が大きく、自己資本の増加と借入金の増大が反復されていた。

  • 日本企業要覧 1967年版
    • [29]昭和42年(1967年)3月期の売上高は183,052,393千円、営業利益は2,023,044千円
    • [30]同期の支払利息及割引料は2,949,111千円、営業外収益は2,045,701千円、経常利益は961,147千円
    • [31]昭和42年(1967年)3月31日現在の資本合計は9,762,712千円、負債合計は118,752,132千円
    • [32]昭和42年(1967年)3月31日現在の受取手形割引高は35,612,619千円
    • [33]昭和42年3月31日現在の筆頭株主は住友銀行8.36%で、金融機関29名が43.06%を保有した
    • [34]会社概況欄は「金融系列は住友が主力。金属、機械のほか木材、パルプを中心とする強力な専門分野を有する特色ある総合商社。堅実経営には定評があるが昨年の首脳陣の若返りから最近特に積極性を増してきた」と記す
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [35]度々の増資も結果的には借入枠拡大に役立つことの方が大きく、自己資本の増加と借入金の増大という動きが反復された

1969年、市川政夫氏が社長に就任した。1933年に安宅商会へ入り木材畑を歩んだ経歴を持ち、木材部門を稼ぎ頭へ育てた実績が就任の裏づけとなった。56歳での就任は10大商社の中で最年少だった。安宅家の影響力が増し、組織全体に停滞感が広がりつつあった時期の就任でもあった。市川政夫社長は、鉄鋼・化学・木材に偏った体質を改めるため多角化を進め、その一環として石油精製事業への進出を計画した。総合商社の最下位から抜け出すことが社内の合言葉になった。1968年時点での収益性の高さは各商社の中でも抜きん出ており、半期ごとの売上高は、市川氏が社長に就いた1969年の3月期が2,708億705万円、1973年3月期は6,467億198万円だった。1981年になっても、市川氏の口から出たのは、安宅家という存在をめぐって苦労した点は否めないという一言だけで、それ以上は語らなかった。多角化を急ぎ過ぎた点は認めたうえで、無謀なことをしたつもりはないと振り返った。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [36]1969年に市川政夫が安宅産業の社長に就任した
    • [37]市川政夫は1933年4月に安宅商会へ入社し、木材畑一筋で働いた
    • [38]市川政夫は木材部門を安宅産業の稼ぎ頭に育て、その実績を背景に社長へ就任した
    • [39]社長就任時の市川政夫は56歳で、十大商社のなかで最年少の社長だった
    • [40]「安宅一族の支配が強まり、社内が沈滞し始めていた時の社長就任だけに、若い社長にかける社内の期待は大きく」(1981年の記事)
    • [41]市川政夫は鉄鋼、化学、木材などに偏っていた体質を改めるため多角化を進めた
    • [42]多角化の一環として石油精製事業に乗り出す計画を立てた
    • [43]総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉となり士気が高まった
    • [47]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
    • [48]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [44]1968年時点の安宅産業の高収益性は各商社中で抜群だった
  • 日本企業要覧 1970年版
    • [45]昭和44年(1969年)3月期の売上高は270,800,705千円
  • 日本企業要覧 1973年版
    • [46]昭和48年(1973年)3月期の売上高は646,700,198千円
参考文献[22]-[48]
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [22]昭和39年(1964年)7月1日に当社は創業六十周年を迎えた
    • [23]創業六十周年の時点で資本金は60億円、諸積立金は21億円、社員総数(海外店を含む)は2,527人(男1,623・女904)だった
    • [24]昭和24年(1949年)3月期に比し資本金は240倍、売上高は32倍、計上利益は112倍、社員数は3倍であり、店舗も国内15、海外37を数えた
    • [25]昭和39年(1964年)3月期の売上高は1,328億円、計上利益(税引前)は8億3,000万円を超えた
    • [27]六十周年記念式典は「極めて困難苛烈なる内外の情勢と当社の直面する現実に鑑み」行なわず、記念事業の実施を延期する旨の総務部長通達が発せられた
    • [28]昭和39年(1964年)6月15日に前社長であった神田正吉が心筋梗塞症により急逝した
    • [35]度々の増資も結果的には借入枠拡大に役立つことの方が大きく、自己資本の増加と借入金の増大という動きが反復された
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [26]安宅産業の決算期は3月31日・9月30日の年2回だった
    • [29]昭和42年(1967年)3月期の売上高は183,052,393千円、営業利益は2,023,044千円
    • [30]同期の支払利息及割引料は2,949,111千円、営業外収益は2,045,701千円、経常利益は961,147千円
    • [31]昭和42年(1967年)3月31日現在の資本合計は9,762,712千円、負債合計は118,752,132千円
    • [32]昭和42年(1967年)3月31日現在の受取手形割引高は35,612,619千円
    • [33]昭和42年3月31日現在の筆頭株主は住友銀行8.36%で、金融機関29名が43.06%を保有した
    • [34]会社概況欄は「金融系列は住友が主力。金属、機械のほか木材、パルプを中心とする強力な専門分野を有する特色ある総合商社。堅実経営には定評があるが昨年の首脳陣の若返りから最近特に積極性を増してきた」と記す
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [36]1969年に市川政夫が安宅産業の社長に就任した
    • [37]市川政夫は1933年4月に安宅商会へ入社し、木材畑一筋で働いた
    • [38]市川政夫は木材部門を安宅産業の稼ぎ頭に育て、その実績を背景に社長へ就任した
    • [39]社長就任時の市川政夫は56歳で、十大商社のなかで最年少の社長だった
    • [40]「安宅一族の支配が強まり、社内が沈滞し始めていた時の社長就任だけに、若い社長にかける社内の期待は大きく」(1981年の記事)
    • [41]市川政夫は鉄鋼、化学、木材などに偏っていた体質を改めるため多角化を進めた
    • [42]多角化の一環として石油精製事業に乗り出す計画を立てた
    • [43]総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉となり士気が高まった
    • [47]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
    • [48]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [44]1968年時点の安宅産業の高収益性は各商社中で抜群だった
  • 日本企業要覧 1970年版
    • [45]昭和44年(1969年)3月期の売上高は270,800,705千円
  • 日本企業要覧 1973年版
    • [46]昭和48年(1973年)3月期の売上高は646,700,198千円

1971年〜3人で決めたNRC契約と商社共通の投融資膨張

1971年3月末、子会社の安宅アメリカが住友銀行の保証で期間90日・年利4.75%のコマーシャルペーパー300万ドルを米国内で発行し、米国三井物産に次ぐ2例目となった。安宅産業はカナダの石油精製会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)と総代理店契約を締結し、その窓口には安宅アメリカが立った。取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われ、役員会での実質的な討議はなかった。NRCのジョン・シャヒーン社長がいかがわしい人物であることは、少し調べればわかったはずだった。役員に経営者としての自覚があり、自由に物を言える雰囲気だったら、危険な取引は未然に防げたに違いない。重役会が形骸化した例としては、経営多角化に失敗して会社更生法の適用を受けた興人が、安宅産業と並べて挙げられた。

  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
    • [49]1971年3月末に安宅アメリカがコマーシャルペーパーを発行した
    • [50]発行条件は期間90日、年利4.75%だった
    • [51]安宅アメリカは住友銀行の保証で300万ドルのコマーシャルペーパーを米国内で発行した
    • [52]日本企業の米国内コマーシャルペーパー発行は米国三井物産に次ぐ2例目
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [53]日経ビジネスは「この計画の窓口となっていた同社の子会社、安宅アメリカが、カナダの石油会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)へ多額の債権をこげつかせた」と記す。NRCとの総代理店契約を1973年締結とする記録は社内資料(decisions/nrc-oil-collapse-1977.yaml)だけで原典を特定できないため、本文から契約年を外した
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
    • [54]NRCとの取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われた
    • [55]NRCとの取引について役員会での実質的討議はなかった
    • [56]ある事情通による発言
    • [57]ある事情通による発言
    • [58]経営多角化の失敗で会社更生法の適用を受けた興人が、重役会の機能を論じた記事で安宅産業と並べて挙げられた

鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発で、10大商社の地位に固執して無理に商権を広げたきらいがあると、1977年になって指摘された。ただし投融資の膨張は安宅産業に限らず、三菱商事と三井物産の2社だけで、1968年3月末から1969年3月末までに718億円の固定資産投資を行い、長期借入金は961億円増えた。住友商事も1969年9月期からの3カ年計画で1972年3月期の半期売上1兆300億円を掲げ、借入金は3,000億円以上に達すると見込んだ。安宅産業の投資先はチリと米国へ伸び、1968年に共同開発を呼びかけたチリのサンタクララ鉄鉱山では、1969年4月に三菱鉱業と基本協定を締結し、1970年4月に折半出資の現地法人を設立した。1973年1月には米国ニューヨーク州オーバン市に、安宅産業と共英製鋼の出資で年産15万トンのオーバン・スチールを設立した。

  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [59]安宅産業の鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発だった
    • [60]10大商社の地位に固執して無理に商権を拡大していったきらいがある、と1977年に指摘された
  • 日経ビジネス 1969年11月号
    • [61]1960年代末は大手総合商社でビッグ・プロジェクトが相次ぎ、三菱商事と三井物産の投融資が膨らんだ
    • [62]比較の対象期間は1968年3月末から1969年3月末まで
    • [63]三菱商事と三井物産の2社で718億円の固定資産投資を行った
    • [64]同じ期間に2社の長期借入金は961億円増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
    • [65]住友商事の3カ年計画は「44年9月期から47年3月期に至る3カ年計画」で、1969年9月期が起点。1972年3月期の売上1兆300億円を目標に掲げた。月間売上1,700億円との併記から半期の数字と読める
    • [66]3カ年計画の最終期には住友商事の借入金が3,000億円以上に達すると見込まれた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
    • [67]1968年に安宅産業から三菱鉱業へチリの鉄鉱山の共同開発の呼掛けがあった
    • [68]1969年4月に安宅産業と三菱鉱業の基本協定が成立した
    • [69]1970年4月に折半出資で現地法人サンタクララ鉱業有限会社を設立した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [70]1973年1月に米国ニューヨーク州オーバン市でオーバン・スチールを設立した
    • [71]1977年10月時点のオーバン・スチールの出資比率は安宅産業80%、共英製鋼20%。1973年1月の設立時の比率は資料に無いため、本文からは比率を外した
    • [72]オーバン・スチールは年間生産能力15万トンを計画した

1969年6月、安宅産業は3対2の有償増資で資本金を60億円から100億円へ引き上げた。事業の構成も動き、1973年時点では金属および鉱産物が33.7%、木材・建材およびパルプが21.7%、繊維が15.8%、化学品および農水産物が15.8%、機械および建設が13.0%となった。1967年に40.7%を占めていた金属の比重は下がっている。店舗は国内の出張所20店に対し海外店が61店を数え、1964年の海外37店から9年で1.6倍に増えた。従業員は3,160名だった。この頃の評は、鉄鋼と機械と木材を主力とする大手商社で、ゴルフ場建設など多角化に意欲を燃やし、海外の資源開発事業にも積極的である、というものだった。最下位脱出の合言葉が指した方向は、既存の商権を深めることではなく、事業そのものを持つ側へ移ることだった。

  • 日本企業要覧 1973年版
    • [73]昭和44年(1969年)6月に3対2の有償増資で資本金を4,000百万円増やし10,000百万円とした
    • [74]事業内容は金属及び鉱産物33.7%、機械及び建設13.0%、木材・建材及びパルプ21.7%、繊維15.8%、化学品及び農水産物15.8%
    • [76]事業所欄は出張所20店、海外店61店と記す
    • [78]在籍人員は男2,150名・女1,010名の計3,160名
    • [79]会社概況欄は「鉄鋼、機械、木材主力の大手商社。ゴルフ場建設など多角化に意欲をもやす。……海外の資源開発事業にも積極的である」と記す
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [75]昭和42年(1967年)時点の事業内容は金属及び鉱産物40.7%、機械及び工事9.9%、木材及びパルプ22.8%、繊維及び雑貨12.7%、食糧及び化学品13.9%
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [77]創業六十周年(1964年)時点の店舗は国内15、海外37だった
参考文献[49]-[79]
  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
    • [49]1971年3月末に安宅アメリカがコマーシャルペーパーを発行した
    • [50]発行条件は期間90日、年利4.75%だった
    • [51]安宅アメリカは住友銀行の保証で300万ドルのコマーシャルペーパーを米国内で発行した
    • [52]日本企業の米国内コマーシャルペーパー発行は米国三井物産に次ぐ2例目
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [53]日経ビジネスは「この計画の窓口となっていた同社の子会社、安宅アメリカが、カナダの石油会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)へ多額の債権をこげつかせた」と記す。NRCとの総代理店契約を1973年締結とする記録は社内資料(decisions/nrc-oil-collapse-1977.yaml)だけで原典を特定できないため、本文から契約年を外した
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
    • [54]NRCとの取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われた
    • [55]NRCとの取引について役員会での実質的討議はなかった
    • [56]ある事情通による発言
    • [57]ある事情通による発言
    • [58]経営多角化の失敗で会社更生法の適用を受けた興人が、重役会の機能を論じた記事で安宅産業と並べて挙げられた
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [59]安宅産業の鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発だった
    • [60]10大商社の地位に固執して無理に商権を拡大していったきらいがある、と1977年に指摘された
  • 日経ビジネス 1969年11月号
    • [61]1960年代末は大手総合商社でビッグ・プロジェクトが相次ぎ、三菱商事と三井物産の投融資が膨らんだ
    • [62]比較の対象期間は1968年3月末から1969年3月末まで
    • [63]三菱商事と三井物産の2社で718億円の固定資産投資を行った
    • [64]同じ期間に2社の長期借入金は961億円増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
    • [65]住友商事の3カ年計画は「44年9月期から47年3月期に至る3カ年計画」で、1969年9月期が起点。1972年3月期の売上1兆300億円を目標に掲げた。月間売上1,700億円との併記から半期の数字と読める
    • [66]3カ年計画の最終期には住友商事の借入金が3,000億円以上に達すると見込まれた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
    • [67]1968年に安宅産業から三菱鉱業へチリの鉄鉱山の共同開発の呼掛けがあった
    • [68]1969年4月に安宅産業と三菱鉱業の基本協定が成立した
    • [69]1970年4月に折半出資で現地法人サンタクララ鉱業有限会社を設立した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [70]1973年1月に米国ニューヨーク州オーバン市でオーバン・スチールを設立した
    • [71]1977年10月時点のオーバン・スチールの出資比率は安宅産業80%、共英製鋼20%。1973年1月の設立時の比率は資料に無いため、本文からは比率を外した
    • [72]オーバン・スチールは年間生産能力15万トンを計画した
  • 日本企業要覧 1973年版
    • [73]昭和44年(1969年)6月に3対2の有償増資で資本金を4,000百万円増やし10,000百万円とした
    • [74]事業内容は金属及び鉱産物33.7%、機械及び建設13.0%、木材・建材及びパルプ21.7%、繊維15.8%、化学品及び農水産物15.8%
    • [76]事業所欄は出張所20店、海外店61店と記す
    • [78]在籍人員は男2,150名・女1,010名の計3,160名
    • [79]会社概況欄は「鉄鋼、機械、木材主力の大手商社。ゴルフ場建設など多角化に意欲をもやす。……海外の資源開発事業にも積極的である」と記す
  • 日本企業要覧 1967年版
    • [75]昭和42年(1967年)時点の事業内容は金属及び鉱産物40.7%、機械及び工事9.9%、木材及びパルプ22.8%、繊維及び雑貨12.7%、食糧及び化学品13.9%
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [77]創業六十周年(1964年)時点の店舗は国内15、海外37だった

筆者考察

安宅産業が総合商社の最下位から抜け出そうとしたとき、使えた資源は自己資本ではなく借入だった。1957年1月に15億円だった資本金は1961年10月に60億円、1969年6月には100億円へ増えるが、社史が自ら認めるとおり、増資は自己資本を厚くするよりも借入枠を広げることに役立った。1967年3月期の営業利益20億2,304万円に対し、支払利息および割引料は29億4,911万円である。本業の利益を金利が上回る構造は、市川政夫氏が社長に就く2年前には既に出来上がっていた。資本合計97億円で負債合計1,187億円を回す商いでは、取扱高を増やせば金利負担も一緒に増える。

創業六十周年の1964年に記念式典を開かなかった会社が、5年後には石油精製への進出を決めた。この転回を説明するのは、商社の順位が取扱高で決まるという事実である。鉄鋼や木材の商権をいくら深めても順位は動かないが、事業そのものを持てば取扱高は跳ねる。チリのサンタクララ鉄鉱山、米国のオーバン・スチール、そしてカナダのNRCは、いずれもその理屈の産物だった。問題は、決定の重さに対して手続きが軽かったことにある。NRCとの取引を決めたのは担当常務と副社長と社長の3人であり、役員会での実質的な討議は無かった。金利に食われる損益計算書と、3人で完結する意思決定が重なれば、会社の余力は一度の誤りで尽きる。

資本金 1957年1月〜1969年6月(百万円)

1,500 57.1 3,000 59.12 6,000 61.10 10,000 69.6

1957年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1957年03月期 単体 792 n/a 5 0.7% n/a
1958年03月期 単体 908 +14.6% 7 0.8% n/a
1959年03月期 単体 805 ▲11.3% 6 0.8% n/a
1960年03月期 単体 1,076 +33.6% 8 0.8% n/a
1961年03月期 n/a 1,339 +24.3% 9 0.7% n/a
1962年03月期 n/a 1,738 +29.8% 12 0.7% n/a
1963年03月期 n/a 1,716 ▲1.3% 10 0.6% n/a
1964年03月期 n/a 2,126 +23.9% 16 0.8% n/a
1965年03月期 n/a 2,486 +16.9% 17 0.7% n/a
1966年03月期 n/a 2,590 +4.2% 16 0.6% n/a
1967年03月期 n/a 3,104 +19.8% 19 0.6% n/a
1968年03月期 n/a 3,834 +23.5% 21 0.5% n/a
1969年03月期 n/a 4,467 +16.5% 21 0.5% n/a
1970年03月期 n/a 5,786 +29.5% 23 0.4% n/a
1971年03月期 n/a 7,325 +26.6% 32 0.4% n/a
1972年03月期 n/a 8,101 +10.6% 27 0.3% n/a
1973年03月期 n/a 10,421 +28.6% 52 0.5% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

18件
出典・参考
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 日経ビジネス 1969年11月号
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
  • 証券 1957年(9)(100)
  • 日本企業要覧 1967年版
  • 日本企業要覧 1970年版
  • 日本企業要覧 1973年版
  • 日本企業要覧 1975年版

免責事項およびポリシー