安宅産業:安宅弥吉の安宅商会創業と戦後の総合商社化
1904年〜安宅商会の創業と第一次大戦下の株式会社化
1904年7月、安宅弥吉氏が個人経営の安宅商会を創業した。米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨の輸出入を主要業務とし、創業まもなく日露戦争後の時運に乗り、安宅弥吉氏の旺盛な貿易意欲もあって順調に立ち上がった。もっとも、貿易はすでに強大な勢力を張っていた財閥商社が押さえており、拮抗するには非常な努力と苦難を要した。財閥系商社の優位は昭和初期にいっそう固まり、三井物産と三菱商事に物産系の東洋棉花を加えた3社だけで、日本の貿易のおよそ3分の1を扱った。財閥系商社は商売だけをしていたのではなく、それ自体が一つのコンツェルンだった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [1]安宅弥吉が個人経営の安宅商会を創業したのは明治37年(1904年)7月である
- [3]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
- [4]創業まもなく日露戦争後の時運に乗じて順調に発足した
- [5]安宅弥吉の旺盛な貿易意欲と相まって順調に発足したとの記述がある
- [6]すでに強大な勢力を張っていた財閥商社との拮抗には非常な努力と苦難を余儀なくされた
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)
- [2]創業者安宅弥吉が個人経営で明治37年(1904年)7月に安宅商会を発足させた。社史の目次も「第一章 個人経営時代〔明治三十七年(西暦一九〇四年)―大正八年(西暦一九一九年)〕」と西暦を併記する
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- [7]高田商会・鈴木商店の倒産のあとも財閥系商社はたじろがず、むしろ地歩をいっそう固めた(昭和初期)
- [8]三井物産・三菱商事・物産系の東洋棉花の3社で日本貿易のほぼ3分の1を取り扱った(昭和初期)
- [9]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった
1914年11月には日本窒素肥料の硫安販売を引き受け、輸出入だけだった商いに国内メーカー製品の取扱を加えた。第一次大戦下の産業貿易の大活況に恵まれて業務は飛躍的に伸び、莫大な収益をあげた。これを機に1919年11月13日、資本金300万円の株式会社安宅商会として設立登記し、東京支店を新設して戦後の不況に備えた。しかし大戦後の不況は深刻で、取引高は戦時の3割へ減り、1920年上期からの3期の損失は資本金の半ばを超えた。木材では1921年に米国からの輸入を始め、非鉄金属と肥料の外へ扱う商品を広げた。
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [10]1914年11月に日本窒素肥料の硫安販売を開始した
- [13]1919年11月13日に資本金300万円の株式会社安宅商会として設立登記した
- [17]1921年に米国からの木材輸入を開始した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [11]欧州大戦時の産業貿易の大活況に恵まれ、業務も飛躍的発展を遂げ莫大な収益をあげた
- [14]1919年の株式組織への改組に際し東京支店を新設して戦後の不況に備えた
- [15]戦後の不況で取引高は戦時の3割に激減した
- [16]大正9年(1920年)上期から3期間の損失は資本金の半ばを越えた
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)
- [12]1919年11月に資本金300万円の株式会社組織へ改められた
「鉄鋼の安宅」として知られる以前、創業から株式会社への改組までの安宅商会は「地金の安宅」と呼ばれ、取扱金額では非鉄が七、鉄鋼が三の割合だった。非鉄金属は創業当初から主要業務の一つに数えられていた。鉛と亜鉛と錫は香港で買い付けた。当時の香港は東亜市場の中心であり、銀の相場を利用して有利に買い付けられたためである。濠洲のエレクトロリティック・ジンク社のAZ印亜鉛は、ブリティッシュ・メタル・コーポレーションを介して安宅商会がほとんど独占的に扱った。地金は国内の産出量が極めて僅少で大半を輸入に依存しており、産地相場と内外の需給、為替相場によって国内相場が激しく騰落した。販売先は陸海軍の各工廠や諸官庁、八幡製鉄所や住友電線といった一流の実需筋と有力問屋であり、第一次世界大戦中の地金暴騰で莫大な利益をあげた。
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [18]創業当初から株式組織への改組までの安宅は「地金の安宅」として有名であり、取扱金額から見て非鉄七・鉄鋼三程度の割合だった
- [20]鉛・亜鉛・錫は香港で買付けて輸入した
- [21]当時の香港は東亜市場の中心で、銀の相場を利用して有利に買付けることができた
- [22]濠洲のエレクトロリティック・ジンク社のAZ印亜鉛はブリティッシュ・メタル・コーポレーション(BMC)を通じて安宅がほとんど独占的に取扱った
- [23]鉛・亜鉛・錫等の地金類は当時国内の産出量が極めて僅少であったため大半を輸入に依存していた
- [24]産地相場・内外需給・為替相場等によって国内相場の変動が激しく、その上思惑が加わり常に頻繁に騰落した
- [25]販売先は主として陸海軍各工廠・諸官庁及び八幡製鉄所・住友電線・川崎造船所・日本ペイント等の一流実需筋、及び佐渡島・横山・山中等の有力問屋だった
- [26]第一次世界大戦中には地金類の暴騰により莫大な利益をあげることができた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [19]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
北米の太平洋岸で油の荷役設備を完全に備えた港は、当時シアトルに限られていた。満洲産大豆油の輸出で安宅商会が実現したのは、罐を使わず船倉にじかに積む撒積の輸送である。大阪商船との特約によりシアトル航路の定期船のディープタンクを用いる仕組みで、運賃は大きく下がった。安宅商会がそのタンクを独占的に契約したことで、鈴木商店や三井物産も罐詰めの大豆油を送り出しにくくなり、安宅商会を経由して輸出した。麻袋では1919年5月に神戸出張所を開いたが、現物をじかに仕入れて受け渡しまで担える業者は安宅商会と鈴木商店の2社に限られた。安宅商会はほどなく阪神麻袋同業組合の幹事長に推された。ただ、こうして握った経路は品目ごとの工夫の産物であり、コンツェルンそのものだった財閥系商社の厚みとは質が違う。資本の小さい店が立てる場所は、商品の売り買いよりも、商品が流れる経路のほうにあった。
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [27]当時北米太平洋岸諸港のうちシアトル港のみが油荷役の設備を完備していた
- [28]当店創始の合理的な輸送方法として、罐入りでなく大豆油の撒積輸出に成功した
- [29]大阪商船と特約してシアトル航路定期船のディープタンクを利用した
- [30]ディープタンクの利用により大幅なコストダウンとなった
- [31]安宅が大阪商船シアトル航路のタンクを独占契約したので、鈴木商店・三井物産等の有力商社も罐入り大豆油の輸出が困難となり安宅を通じて輸出を行った
- [32]麻袋で現物を直接輸入して受渡のできる業者は安宅と鈴木商店の二社だけであり、著しく優位に立って活躍することができた
- [33]神戸出張所は大正8年5月に開業し、間もなく阪神麻袋同業組合の幹事長に推薦されるに至った
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- [34]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった
参考文献[1]-[34]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [1]安宅弥吉が個人経営の安宅商会を創業したのは明治37年(1904年)7月である
- [3]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
- [4]創業まもなく日露戦争後の時運に乗じて順調に発足した
- [5]安宅弥吉の旺盛な貿易意欲と相まって順調に発足したとの記述がある
- [6]すでに強大な勢力を張っていた財閥商社との拮抗には非常な努力と苦難を余儀なくされた
- [11]欧州大戦時の産業貿易の大活況に恵まれ、業務も飛躍的発展を遂げ莫大な収益をあげた
- [14]1919年の株式組織への改組に際し東京支店を新設して戦後の不況に備えた
- [15]戦後の不況で取引高は戦時の3割に激減した
- [16]大正9年(1920年)上期から3期間の損失は資本金の半ばを越えた
- [19]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)
- [2]創業者安宅弥吉が個人経営で明治37年(1904年)7月に安宅商会を発足させた。社史の目次も「第一章 個人経営時代〔明治三十七年(西暦一九〇四年)―大正八年(西暦一九一九年)〕」と西暦を併記する
- [12]1919年11月に資本金300万円の株式会社組織へ改められた
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- [7]高田商会・鈴木商店の倒産のあとも財閥系商社はたじろがず、むしろ地歩をいっそう固めた(昭和初期)
- [8]三井物産・三菱商事・物産系の東洋棉花の3社で日本貿易のほぼ3分の1を取り扱った(昭和初期)
- [9]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった
- [34]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [10]1914年11月に日本窒素肥料の硫安販売を開始した
- [13]1919年11月13日に資本金300万円の株式会社安宅商会として設立登記した
- [17]1921年に米国からの木材輸入を開始した
- [18]創業当初から株式組織への改組までの安宅は「地金の安宅」として有名であり、取扱金額から見て非鉄七・鉄鋼三程度の割合だった
- [20]鉛・亜鉛・錫は香港で買付けて輸入した
- [21]当時の香港は東亜市場の中心で、銀の相場を利用して有利に買付けることができた
- [22]濠洲のエレクトロリティック・ジンク社のAZ印亜鉛はブリティッシュ・メタル・コーポレーション(BMC)を通じて安宅がほとんど独占的に取扱った
- [23]鉛・亜鉛・錫等の地金類は当時国内の産出量が極めて僅少であったため大半を輸入に依存していた
- [24]産地相場・内外需給・為替相場等によって国内相場の変動が激しく、その上思惑が加わり常に頻繁に騰落した
- [25]販売先は主として陸海軍各工廠・諸官庁及び八幡製鉄所・住友電線・川崎造船所・日本ペイント等の一流実需筋、及び佐渡島・横山・山中等の有力問屋だった
- [26]第一次世界大戦中には地金類の暴騰により莫大な利益をあげることができた
- [27]当時北米太平洋岸諸港のうちシアトル港のみが油荷役の設備を完備していた
- [28]当店創始の合理的な輸送方法として、罐入りでなく大豆油の撒積輸出に成功した
- [29]大阪商船と特約してシアトル航路定期船のディープタンクを利用した
- [30]ディープタンクの利用により大幅なコストダウンとなった
- [31]安宅が大阪商船シアトル航路のタンクを独占契約したので、鈴木商店・三井物産等の有力商社も罐入り大豆油の輸出が困難となり安宅を通じて輸出を行った
- [32]麻袋で現物を直接輸入して受渡のできる業者は安宅と鈴木商店の二社だけであり、著しく優位に立って活躍することができた
- [33]神戸出張所は大正8年5月に開業し、間もなく阪神麻袋同業組合の幹事長に推薦されるに至った
1921年〜八幡製鐵所の四社指定商と戦時統制下の商権
大戦後の不況に対処するため、官営八幡製鐵所は四社指定商制度と呼ぶカルテルを作り、鉄鋼界での実力を認められた安宅商会を三井、三菱、岩井とともに指定した。指定商にはおおむね1%の口銭が与えられ、東京、大阪、名古屋の市中問屋がその下に系列化されていた。製鉄所と問屋は毎月1回、指定商の立ち会いの下で先物協議会を開き、緊急の引き合いに応じる臨時売りの注文も指定商を経由して需要家と契約された。当時の日本の鉄鋼は品質もコストも外国品に及ばず、需要の3割から4割を輸入品が占めており、販売のもう一つの使命は外国品の流入を抑えることにあったと稲山氏はふり返った。1921年と1926年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正で鉄鋼業の保護が強まり、指定商の商権は固まった。4社の独占的な取扱は八幡製鐵所が1934年に日本製鐵として発足するまで続いた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [35]官営八幡製鉄所は戦後恐慌に対処するため四社指定商制度と呼ぶカルテルを作った
- [36]安宅商会は鉄鋼界における実力を認められ、三井・三菱・岩井とともに指定商に指定された
- [44]大正10年・15年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正による鉄鋼業保護政策の強化が安宅商会の地位を強固にした
- [45]四社の独占的扱いは昭和9年(1934年)に八幡製鉄所が日本製鉄として新発足するまで続いた
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
- [37]指定商には口銭としておおむね1%が与えられたとする八幡製鉄所東京出張所勤務時の稲山嘉寛氏による記述
- [38]指定商のもとに東京・大阪・名古屋の三都の市中問屋が系列化されていた
- [39]稲山嘉寛は昭和3年(1928年)5月に官営八幡製鉄所の東京出張所へ赴任し鉄鋼販売の実務に就いた。四社指定商制度の説明はその当時の実務にもとづく回想で、制度発足(1921年前後)の同時代証言ではない
- [40]指定商立ち会いの下に製鉄所と問屋とで毎月一回先物協議会を開いた
- [41]先物協議会とは別に余力を残して臨時売りと称し大口需要や緊急引き合いに応じ、「これらの注文はすべて指定商経由で直接需要家と契約されるのである」。「これらの注文」が指すのは臨時売りの注文
- [42]当時の日本の製鉄業は品質・コストで外国に劣り、需要の3割から4割近くを輸入品でまかなった
- [43]当時の販売のもう一つの重大な使命は外注防遏だったとする稲山嘉寛氏による記述
1928年3月にロンドン支店を開設し、米国、英国、ドイツの一流メーカーと各種商品にわたる代理店契約を結んだ。1933年には王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となり、1935年2月に東洋曹達工業の設立へ資金を援助して苛性曹達の一手販売権を握り、以後5年余にわたって供給を続けた。満洲事変以後の戦時経済体制への移行で金属の取扱は伸び、1940年までに大連やニューヨークなど8支店を設けた。1942年5月に創業以来の社長だった安宅弥吉氏が退き、翌1943年1月に商号を安宅産業へ改めた。同じ1943年に貿易業務は交易営団の所管へ移り、6,000社あった商社は600社へ整理されてその下請け機関となった。指定商として築いた商権は、ここで国家の配分機構に吸収された。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [46]昭和3年(1928年)3月にロンドン支店を開設した
- [47]米国・英国・ドイツ等の一流メーカーと各種商品にわたって代理店契約を結んだ
- [50]満洲事変以後の戦時経済体制への移行とともに金属取扱を主力とする業務が進展した
- [51]昭和15年(1940年)までに名古屋・大連・奉天・ニューヨーク・京城・八幡・天津・上海の8支店を設置した
- [52]昭和17年(1942年)5月に創業以来の社長安宅弥吉が引退した
- [53]昭和18年(1943年)1月に商号を安宅産業へ改めた
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [48]1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となった
- [49]『安宅産業六十年史』第二章は「昭和十年二月には…東洋曹達工業株式会社を創立した。当社はこの時資金援助を行ない、苛性曹達の一手販売権を握って爾後五年余にわたり…供給を行なった」と記す
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- [54]昭和18年(1943年)に貿易業務は交易営団が行うことになった
- [55]6000の商社は600に整理され、交易営団の下請け機関になった
参考文献[35]-[55]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [35]官営八幡製鉄所は戦後恐慌に対処するため四社指定商制度と呼ぶカルテルを作った
- [36]安宅商会は鉄鋼界における実力を認められ、三井・三菱・岩井とともに指定商に指定された
- [44]大正10年・15年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正による鉄鋼業保護政策の強化が安宅商会の地位を強固にした
- [45]四社の独占的扱いは昭和9年(1934年)に八幡製鉄所が日本製鉄として新発足するまで続いた
- [46]昭和3年(1928年)3月にロンドン支店を開設した
- [47]米国・英国・ドイツ等の一流メーカーと各種商品にわたって代理店契約を結んだ
- [50]満洲事変以後の戦時経済体制への移行とともに金属取扱を主力とする業務が進展した
- [51]昭和15年(1940年)までに名古屋・大連・奉天・ニューヨーク・京城・八幡・天津・上海の8支店を設置した
- [52]昭和17年(1942年)5月に創業以来の社長安宅弥吉が引退した
- [53]昭和18年(1943年)1月に商号を安宅産業へ改めた
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
- [37]指定商には口銭としておおむね1%が与えられたとする八幡製鉄所東京出張所勤務時の稲山嘉寛氏による記述
- [38]指定商のもとに東京・大阪・名古屋の三都の市中問屋が系列化されていた
- [39]稲山嘉寛は昭和3年(1928年)5月に官営八幡製鉄所の東京出張所へ赴任し鉄鋼販売の実務に就いた。四社指定商制度の説明はその当時の実務にもとづく回想で、制度発足(1921年前後)の同時代証言ではない
- [40]指定商立ち会いの下に製鉄所と問屋とで毎月一回先物協議会を開いた
- [41]先物協議会とは別に余力を残して臨時売りと称し大口需要や緊急引き合いに応じ、「これらの注文はすべて指定商経由で直接需要家と契約されるのである」。「これらの注文」が指すのは臨時売りの注文
- [42]当時の日本の製鉄業は品質・コストで外国に劣り、需要の3割から4割近くを輸入品でまかなった
- [43]当時の販売のもう一つの重大な使命は外注防遏だったとする稲山嘉寛氏による記述
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [48]1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となった
- [49]『安宅産業六十年史』第二章は「昭和十年二月には…東洋曹達工業株式会社を創立した。当社はこの時資金援助を行ない、苛性曹達の一手販売権を握って爾後五年余にわたり…供給を行なった」と記す
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- [54]昭和18年(1943年)に貿易業務は交易営団が行うことになった
- [55]6000の商社は600に整理され、交易営団の下請け機関になった
1945年〜在外資産の喪失から朝鮮戦争特需と株式公開まで
1945年10月、旧役員の大半が退き、神田正吉氏が社長に就いた。この時点で安宅産業は終戦により3,000万円を上回る在外資産と広く張った販売網を一つ残らず失っており、天津、北京、上海、ハノイ、サイゴン、バンコク、昭南、パダンの各店も事業を閉じ、社員は残務整理を終えた者から順に1946年までに引き揚げた。1948年2月に過度経済力集中排除法の指定を受けたが同年5月に解除され、続いて企業再建整備案の認可を得て、同年末に新旧勘定を合併し増資を行った。海外の店舗と在外資産を前提に組み立てられていた戦前の商いは、この時点で国内に残った商権と人員だけを元手とする商いへ置き換わっていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [56]1945年10月に旧役員の大部分が退陣し、神田正吉が社長に就任した
- [57]終戦とともに3000万円を越える在外資産と膨大な販売網のすべてを失った
- [59]昭和23年(1948年)2月に集中排除法の指定を受け、同年5月に解除された
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [58]天津・北京・上海・漢口・ハノイ・サイゴン・バンコク・昭南・パダン等の各店は事業を閉鎖し、社員は昭和21年(1946年)までにそれぞれ帰国した
- [60]昭和23年(1948年)5月に過度経済力集中排除法の指定を解除され、次いで企業再建整備案の認可を得て同年末に新旧勘定を合併し増資を行なった
1949年2月5日、創業者の安宅弥吉氏が京都の自邸で77歳の生涯を閉じた。1904年の創業から1942年の社長退任まで39年にわたり会社を主宰し、大阪商工会議所の会頭と副会頭を18年務めた人物である。会社は同じ1949年、ドッジ・ラインとシャウプ勧告による深刻な不況のなかで、取扱高の上昇と収益の増大を示した。ただし債権の回収は次第に鈍り、1950年2月に本社と東京支店へ債権特別回収班を設け、5月にこれを解散するまで回収に当たった。同年6月の朝鮮戦争で全部門の業績は躍進し、計上利益は1950年3月期に比べて同年9月期が約6倍、1951年3月期が約17倍となって、4割5分の配当を行った。特需を追って増資も続き、資本金は1951年1月に6,000万円、同年6月に1億5,000万円、1953年10月に3億円となった。
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [61]安宅弥吉は昭和24年(1949年)2月5日に京都の自邸において77年の生涯を閉じた
- [62]安宅弥吉は明治37年の創業以来、社長退任の昭和17年まで39年にわたり当社を主宰し、18年間大阪商工会議所の会頭・副会頭の要職に就き、昭和14年から戦後貴族院の解散まで勅選議員として国政に参与した
- [63]昭和24年はドッジ・ラインによる超均衡予算とシャウプ勧告による徴税旋風で深刻な不況の年だったが、当社はなお取扱高の上昇と収益の増大を示した
- [64]昭和25年(1950年)2月に本社及び東京支店にそれぞれ債権特別回収班を設け、同年5月に解散した
- [65]朝鮮戦争により全部門で業績が躍進し、計上利益は昭和25年3月期に比して9月期は約6倍、翌年3月期には約17倍となって4割5分の株主配当を行なった
- 株式会社年鑑 昭和30年版
- [66]株式会社年鑑の沿革欄は昭和26年1月に資本金6千万円、同年6月に1億5千万円、昭和28年10月に3億円へ増資したと記す
安宅産業が掲げていたのは、景気のよい局面でこそ用心を重ねるという堅実な方針である。好況が1951年2月の新三品暴落でいったん途切れ、1952年に入るとすぐ本格的な反動不況が来た。損を被った商社は2、3社では済まなかったが、同社は値下りと貸倒れによる損失を小さく抑えた。配当は2割5分を保ち、倍額増資の負担から5分の減配に踏み切ったのは1954年3月期になってからで、不況に強いという世間の見方を裏切らなかった。1952年以降はニューヨークやバンコクへ、不況末期の1955年にもサンパウロやマニラへ人員を配して取引網を広げた。1956年1月に大阪の証券市場で店頭銘柄として株式を公開し、同年8月には大阪の上場銘柄となり、翌1957年8月には東京と名古屋の両市場にも上場した。1957年3月期は売上の36.0%を金属部門が占め、従業員は1,054名だった。
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [67]この好況は昭和26年(1951年)2月の新三品暴落によって一時挫折し、昭和27年には年初から本格的な反動不況に陥った
- [68]この時大きな痛手を蒙って回復に長年月を要した商社も二、三に止まらなかった
- [69]当社は「好況時にこそ特に細心の注意を怠らぬ」という伝統の堅実方針によって適切機敏な処置を採り、値下り・貸倒れ等による損失も少なかった
- [70]昭和29年(1954年)3月期に倍額増資負担による5分減配を行なうまでは2割5分の配当を継続し、「不況期に強い会社」という長年の世評に応えた
- [71]昭和27年(1952年)以来ニューヨーク・ブエノスアイレス・バンコク・台北をはじめ海外主要都市に店舗を設け、昭和30年にはサンパウロ・ハンブルグ・マニラ・サイゴン等にも人員を配して取引網を拡大した
- [72]当社は昭和31年(1956年)1月、大阪の証券市場において店頭銘柄として株式を公開した
- [73]『安宅産業六十年史』第三章は「同年八月には早くも大阪の上場銘柄となった」と記す=1956年8月に大証上場
- [74]『安宅産業六十年史』第三章は「また翌年八月には東京・名古屋の両市場にも上場され、ここに三大市場における取引態勢が確立された」と記す
- 証券 1957年(9)(100)
- [75]1957年3月期の部門別売上高で金属部門の構成比は36.0%だった
- [76]従業員は1,054名(男703名・女351名)だった
参考文献[56]-[76]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [56]1945年10月に旧役員の大部分が退陣し、神田正吉が社長に就任した
- [57]終戦とともに3000万円を越える在外資産と膨大な販売網のすべてを失った
- [59]昭和23年(1948年)2月に集中排除法の指定を受け、同年5月に解除された
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- [58]天津・北京・上海・漢口・ハノイ・サイゴン・バンコク・昭南・パダン等の各店は事業を閉鎖し、社員は昭和21年(1946年)までにそれぞれ帰国した
- [60]昭和23年(1948年)5月に過度経済力集中排除法の指定を解除され、次いで企業再建整備案の認可を得て同年末に新旧勘定を合併し増資を行なった
- [61]安宅弥吉は昭和24年(1949年)2月5日に京都の自邸において77年の生涯を閉じた
- [62]安宅弥吉は明治37年の創業以来、社長退任の昭和17年まで39年にわたり当社を主宰し、18年間大阪商工会議所の会頭・副会頭の要職に就き、昭和14年から戦後貴族院の解散まで勅選議員として国政に参与した
- [63]昭和24年はドッジ・ラインによる超均衡予算とシャウプ勧告による徴税旋風で深刻な不況の年だったが、当社はなお取扱高の上昇と収益の増大を示した
- [64]昭和25年(1950年)2月に本社及び東京支店にそれぞれ債権特別回収班を設け、同年5月に解散した
- [65]朝鮮戦争により全部門で業績が躍進し、計上利益は昭和25年3月期に比して9月期は約6倍、翌年3月期には約17倍となって4割5分の株主配当を行なった
- [67]この好況は昭和26年(1951年)2月の新三品暴落によって一時挫折し、昭和27年には年初から本格的な反動不況に陥った
- [68]この時大きな痛手を蒙って回復に長年月を要した商社も二、三に止まらなかった
- [69]当社は「好況時にこそ特に細心の注意を怠らぬ」という伝統の堅実方針によって適切機敏な処置を採り、値下り・貸倒れ等による損失も少なかった
- [70]昭和29年(1954年)3月期に倍額増資負担による5分減配を行なうまでは2割5分の配当を継続し、「不況期に強い会社」という長年の世評に応えた
- [71]昭和27年(1952年)以来ニューヨーク・ブエノスアイレス・バンコク・台北をはじめ海外主要都市に店舗を設け、昭和30年にはサンパウロ・ハンブルグ・マニラ・サイゴン等にも人員を配して取引網を拡大した
- [72]当社は昭和31年(1956年)1月、大阪の証券市場において店頭銘柄として株式を公開した
- [73]『安宅産業六十年史』第三章は「同年八月には早くも大阪の上場銘柄となった」と記す=1956年8月に大証上場
- [74]『安宅産業六十年史』第三章は「また翌年八月には東京・名古屋の両市場にも上場され、ここに三大市場における取引態勢が確立された」と記す
- 株式会社年鑑 昭和30年版
- [66]株式会社年鑑の沿革欄は昭和26年1月に資本金6千万円、同年6月に1億5千万円、昭和28年10月に3億円へ増資したと記す
- 証券 1957年(9)(100)
- [75]1957年3月期の部門別売上高で金属部門の構成比は36.0%だった
- [76]従業員は1,054名(男703名・女351名)だった
筆者考察
安宅商会は、商品そのものではなく商品が動く経路を押さえることで、資本で勝る財閥商社と同じ市場に立った会社である。鉛と亜鉛と錫を香港で買い付けたのは、そこが東亜市場の中心で銀相場を使えたからであり、大阪商船シアトル航路のタンクを独占契約したのは、罐に詰めるより安く大豆油を運べたからだった。鈴木商店も三井物産もその経路を使わなければ輸出できず、安宅商会を通した。八幡製鐵所の四社指定商に三井や三菱と並んで選ばれたのも、鉄鋼の取扱量そのものより、需要家まで届く経路を持っていたことの評価である。経路を押さえるのに巨額の自己資本は要らない。地金の相場が動くたびに在庫を抱える苦労はあっても、財閥の資本力と正面から張り合わずに済んだ。
この強みは、取引の相手を自分で選べる間だけ成り立つものだった。1943年に貿易業務が交易営団の所管へ移り、6,000社あった商社が600社へ整理されると、安宅産業が築いた経路も国家の配分機構に吸収された。終戦では3,000万円を超える在外資産と販売網のすべてを失い、残ったのは国内の商権と引き揚げてきた人員だけである。朝鮮戦争の特需で計上利益が1年半で約17倍になったのは、失うものを持たない会社が身軽に動けたからでもあった。1956年の株式公開は、社員だけで株を持つ体制ではもう資金が足りないという宣言である。創業から半世紀かけて築いた経路の優位は、ここで資本の大きさが物を言う競争へ置き換わっていた。
出典・参考
7件
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)
- 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
- 株式会社年鑑 昭和30年版
- 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
- 証券 1957年(9)(100)