NRC製油所への傾斜投資と戦後最大級の商社破綻
商社の仲介の枠を超えた石油与信に、市川政夫社長はなぜ全社の命運を賭けたのか
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- 概要
- 1973年、安宅産業がカナダの石油精製会社NRCと総代理店契約を結び、BPから中東原油を10年買い切る義務まで引き受けて石油事業へ傾斜した経営判断。市川政夫社長の借入依存の拡大路線の象徴で、1973年10月のオイルショックを機に損失が膨らみ、1977年10月の伊藤忠商事への吸収合併という戦後最大級の商社破綻につながった。
- 背景
- 生え抜きの市川政夫社長は半期の売上高1兆円を掲げ、鉄鋼・パルプ・木材の本業に海外資源開発を上乗せする積極投資へ転じた。投資資金は住友銀行・協和銀行からの借入で賄い、1975年9月末の借入総額は5248億円に達した。持株2%余で人事を握った安宅英一会長のもとで、借入依存の財務構造が牽制を欠いたまま深まっていた。
- 内容
- 子会社の安宅アメリカを通じ、BPから買った中東原油をNRC精製所で航空機燃料に加工し、ニューヨークのケネディ空港へ売る三国間貿易を計画した。手数料を取る仲介にとどまらず、原油を10年買い切る価格変動リスクを自ら引き受けた点が、商社本来の与信の枠を踏み越えていた。
- 含意
- オイルショックで固定価格販売の精製所が採算を失うと、出口を失った原油の購入義務だけが残った。一案件の頓挫が全社の存続を脅かし、住友銀行など16行の協調融資団による処理を経て伊藤忠へ吸収され、1909年以来の歴史が消えた。総合商社の与信管理とメインバンク制の限界を問う事例として残った。
与信の枠を超えた商社と、牽制なき拡大
この判断の核心は、商社が本来引き受けない価格変動リスクを、一案件で全社の体力に見合わぬ規模まで抱え込んだ点にある。鉄鋼や木材の仲介で堅実に稼いできた会社が、石油では原油を10年買い切る当事者の立場へ踏み込んだ。原油価格が安定するという一つの前提の上に、子会社が純利益の約100倍とされる借入を積み上げていく——その構図は、好況が続く限りは回るが、前提が崩れれば一度に瓦解する脆さを内に抱えていたとみることができる。オイルショックは引き金ではあっても、破綻の芯は契約の設計そのものにあった。
あわせて問われるのは、その与信に歯止めがかからなかった経営の構造である。売上高1兆円という規模の目標が先に立ち、借入と投資の均衡をはかる審査は後景に退いていた。牽制すべきメインバンクは、危機が露呈するまで貸し込みを続けた側でもあった。破綻処理で住友銀行など16行が史上最大級の貸し倒れを負ったことは、メインバンク制が危機の受け皿を用意する一方で、暴走の抑止には働きにくい面を持つことを示している。総合商社の与信管理と、それを外から律する仕組みをどう設計するか——安宅産業の消滅は、その問いを戦後最大級の規模で残したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売上高1兆円を掲げた借入依存の拡大路線
1969年、安宅産業の社長に市川政夫社長が就いた。木材部で輸入材の取扱高を伸ばした生え抜きの登用で、直前には前任の越田左多男社長が、創業家の安宅英一会長の意向で解かれていた。市川社長は半期の売上高1兆円を掲げ、鉄鋼・パルプ・木材という従来の主力に海外資源開発を上乗せする積極投資へと方針を転じた。投資に充てる資金は住友銀行・協和銀行からの借入で賄う計画で、自己資本に比して借入の重い財務構造がこのとき据えられた[1]。
拡大路線のもとで売上高は急伸した。1969年3月期に4467億円だった売上高は、1973年3月期には1兆421億円へと4年で倍を超え、1974年3月期には1兆6164億円に達した。もっとも本業の利幅は薄く、同じ1973年3月期の経常利益は52億円にとどまる。規模を追う経営は、鉄鋼や木材の堅実な商いが生む利益では支えきれない借入を積み上げていった。その借入を牽制すべきメインバンクや取締役会は、持株2%余で人事を握った安宅英一会長のもとで介入を控え、拡大路線に歯止めはかからなかった[2]。
決断
商社の与信の枠を超えたNRC総代理店契約
1973年、安宅産業はカナダ・ニューファウンドランド島の石油精製会社NRCと総代理店契約を結んだ。子会社の安宅アメリカを通じ、石油メジャーのBPから中東原油を買い付けてタンカーで運び、NRCの精製所で航空機燃料に加工したうえで、ニューヨークのケネディ空港へ売る三国間貿易を描いた。中東の原油を北米で精製して売り捌く構想は、鉄鋼や木材を扱ってきた金へん商社が石油取扱高の拡大へ踏み出す、市川社長の資源戦略の中核に据えられていた[3]。
通常の商社取引であれば、売買を仲介して手数料を得る立場にとどまる。ところが安宅産業は、BPから原油を10年にわたり買い切る義務を負い、価格の変動リスクを自ら引き受ける条件をのんだ。原油価格が安定する限りは航空燃料の販売で収益を計上できるが、価格が動けば損失を丸ごと被る構えで、商社本来の仲介の枠を踏み越えていた。NRCを率いるシャヒーン氏は業界での評判が芳しくなく、節税の手法にも疑問が指摘されていたが、市川社長は提携に踏み切った。子会社の安宅アメリカが抱えた借入は、その純利益の約100倍にのぼったとされる[4]。
結果
オイルショックと損失の膨張
契約の翌年を待たず、前提は崩れた。1973年10月に第1次オイルショックが起きて中東原油が暴騰すると、固定した価格で航空燃料を売る計画のNRC精製所は採算を失い、やがて経営破綻に至った。精製・販売の出口を失ってなお、安宅産業には原油を10年買い切る義務だけが残った。行き場のない原油を安値で投げ売るほかなく、損失の確定と追加の負担が積み上がっていった。海外の一案件で生じた綻びが、鉄鋼や木材の堅実な本業とは無関係に、全社の資金繰りを侵し始めた[5]。
綻びはやがて表面化する。1975年12月7日、毎日新聞朝刊が安宅産業の経営危機をスクープし、事態は社会の耳目を集めた。1975年9月末の借入総額はすでに5248億円に達し、1976年3月期の経常損益は151億円の赤字へ転落していた。従業員3681名の大半はNRCと無縁の国内業務に従事しており、自社の危機は現場にとって寝耳に水であった。信用不安が広がるなかで取引先や金融機関の警戒は強まり、資金繰りの余地はいっそう狭まった[6][7][8]。
伊藤忠への吸収と「赤字不倒産」の破綻
救済の枠組みづくりが動き出した。1976年12月に経営危機が表面化し、1977年1月には協調融資団を組む6銀行の頭取が対策会議を開き、住友銀行を軸に処理の道筋が探られた。1977年10月1日、安宅産業は伊藤忠商事に吸収合併され、1909年の創業から数えて68年の歴史を閉じた。当時の日経ビジネスは、この合併の実態を営業権の一部譲渡と見て、十大商社に食い込んだ安宅の商権の多くが切り刻まれて消えていくと伝えている。鉄鋼・化学の商権を選んで引き取り、社員も一部にとどめた合併の設計は、受け皿となった伊藤忠側の判断に属する[9][10]。
日経ビジネスは、安宅の破綻を「赤字不倒産」の構図が限界に達した象徴とみた。危ない企業に商社がリスク承知で金融をつけ、その商社に銀行がためらいなく貸し込む——高度成長を当て込んだこの仕組みが、低成長期に入って魔力を失ったという見立てである。住友銀行の樋口廣太郎常務は、破綻の引き金こそ海外の不良債権だが、国内の不良投融資が表面化するのも時間の問題で、海外の躓きがなくても危うい状態だったと語っている。NRCへの傾斜は、借入依存の拡大路線がすでに抱えていた脆さを、外から一気に露呈させた出来事であった[11][12]。
- 安宅産業60年史
- 銀行時評 11(3)(1977年3月)
- 毎日新聞(1975年12月7日)
- 読売新聞(1977年10月24日)
- 日経ビジネス 1977年5月9日号「商社、銀行“吐き出し”時代——信用機構を蝕む漂流経済。安宅で矛盾露呈、“赤字不倒産の構図”」
- 松本清張『空の城』(文藝春秋, 1978)
- 日本経済新聞社特別取材班『崩壊——ドキュメント・安宅産業』(日本経済新聞社, 1977)
- 安宅産業 有価証券報告書(1977年3月期・単体)