TOPPAN(凸版印刷):凸版印刷の設立と東京・大阪の工場網による全国最大手化
1900年〜印刷局の技術者と銀行家が組んだ創業
1900年1月17日、凸版印刷合資会社は東京市下谷区二長町で設立された。出資4万円のうち2万円は十五銀行の副支配人を辞していた河合辰太郎、1万7,000円は銀行家の三輪信次郎が出し、大蔵省印刷局を辞した木村延吉・伊藤貴志・降矢銀次郎は各1,000円で、降矢の分は彫刻機械4点の現物出資だった。資本主と技術者の結束を明確にするため、個人的企業ではなく初めから合資会社の組織を採っている。狙いは、有価証券や商品の偽造を防ぐ銅凸版印刷を民間で初めて行うことにあった。核となったのは印刷局が門外不出としていたエルヘート凸版法で、木村と降矢は同法を日本へ伝えたお雇い外国人エドアルド・キヨソネの門下生である。
- 有価証券報告書
- [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [2]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
- [3]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
- [4]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
- [5]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
そのエルヘート凸版法は、1874年に大蔵省紙幣寮がドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術を経営の中心に据えたことに由来する。もっとも、会社を実際に動かしたのは有価証券ではなく煙草だった。岩谷商会から天狗煙草の包装紙を大量に受注する確約を得たことが河合と三輪の出資を決め、1900年7月に納めた同社の包紙が最初の製品になっている。1904年3月29日に煙草専売法が成立すると営業の大部分を失う恐れが生じ、社内では工場を政府に買い上げてもらって解散する案まで出た。会社は存続を先に決め、法案成立の当日に専売局長へ随意契約による受注継続を請願して、これを容れられている。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [6]エルヘート凸版法は1874年に大蔵省紙幣寮がドイツのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術に由来する
- [7]岩谷商会からの天狗煙草包紙の大量受注の確約が河合・三輪の出資を決め、1900年7月納入の天狗煙草包紙が最初の製品
- [8]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
- [9]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
念願だった有価証券印刷が社内で形になったのは1902年ごろの東京電気鉄道の株券からで、1905年には関西鉄道がロンドンで発行した英貨建外債1,000万円の債券を手がけ、その精技は現地でも推賞された。株券・社債券に加えて勧業債券や政府発行の諸債券の受注が増えるにつれ、設備と技術はともに進歩している。1906年の"営業案内"は資本金20万円、従業者500余名で夜を日に継いでも足りない状況だと記した。1908年6月には資本金40万円の株式会社へ改組する。偽造防止という参入障壁の高い分野を、官の技術者と民の資本を組み合わせて民間に開いたのが創業期の実像であり、この彫刻と腐食の技術が半世紀後に精密加工へ転用される。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [10]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- [12]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- [14]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [11]株券・社債券・勧業債券・政府発行の諸債券の需要拡大で設備と技術が進歩(社史)
- 有価証券報告書
- [13]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
参考文献[1]-[14]
- 有価証券報告書
- [1]1900年1月 凸版印刷合資会社を東京市下谷区二長町で設立
- [13]1908年6月 資本金40万円の株式会社へ改組
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [2]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
- [3]出資4万円の内訳は河合辰太郎2万円・三輪信次郎1万7,000円・木村延吉/伊藤貴志/降矢銀次郎各1,000円(降矢分は彫刻機械4点の現物出資)。資本主と技術者の結束を明確にするため合資会社の組織を選んだ
- [4]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
- [5]設立趣意書は有価証券や商品の偽造防止のため民間初の銅凸版印刷を行うと記す。エルヘート凸版法は印刷局門外不出の技術で、木村・降矢はキヨソネ門下生
- [6]エルヘート凸版法は1874年に大蔵省紙幣寮がドイツのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術に由来する
- [7]岩谷商会からの天狗煙草包紙の大量受注の確約が河合・三輪の出資を決め、1900年7月納入の天狗煙草包紙が最初の製品
- [8]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
- [9]1904年3月29日の煙草専売法成立当日に専売局長へ随意契約による継続受注を請願し容れられた。事前に会社の存続を決定していた
- [10]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- [12]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- [14]有価証券印刷の最初は1902年ごろの東京電気鉄道株券。1905年に関西鉄道の英貨建外債1,000万円の債券を印刷しロンドンで推賞された。1906年『営業案内』は資本金20万円・従業者500余名と記す
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [11]株券・社債券・勧業債券・政府発行の諸債券の需要拡大で設備と技術が進歩(社史)
1908年〜内外印刷の合併と関東大震災を越えた工場網
1908年10月、経営不振の内外印刷を合併して本所分工場とし、資本金は50万円になった。社史は、不況下に資本を倍にして株式会社へ改めた理由を将来への積極策だと説くのは表向きの解釈であり、本質は内外印刷の合併を前提にした組織変更だったと裁定している。設立の6日後に合併の仮契約を締結し、役員が報酬を辞退して臨んだ合併だったが、その後は無配が続き、従業員は合併直後の816名から翌年末には277名まで減った。井上源之丞が社内の反対を押して社外に設けたオフセット印刷合名会社は、1918年1月に買収されて神田分工場となる。オフセットの将来性を見抜いた井上が、社内で通らない計画を社外の別会社で実証してから本体へ戻すという迂回路を採ったことが、のちに業界標準となる印刷方式を同社に引き寄せた。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [15]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
- [16]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
- [17]合併後は無配が続き役員は報酬を辞退。従業員は1908年12月の816名から翌年12月には277名へ減少
- [18]井上源之丞が社外に設立したオフセット印刷合名会社を1918年1月4日に買収し神田分工場とした(清算結了は2月7日)
資本金を一度に3倍へ増やして300万円としたのは1920年12月で、これを機に東京株式市場で初めて株式が上場された。大戦景気のもとで普通配当は18%が続いていた。そこへ1923年9月1日の関東大震災が襲い、本所分工場は焼け落ちた。本所区内に住む工員のうち18名が命を落とし、工場長夫妻の行方もわからなくなった。解散か、立て直しか。社長の井上と相談役の三輪信次郎がこれを話し合ったのは9月2日の夜更けから翌3日にかけてで、出た結論は総力を挙げた復興だった。生産は、提携先の東京紙器と、大阪の精版印刷・中田印刷所に出張所を設けて急場をしのぐ形に組み直し、10月から12月にかけて震災切手9種14億枚を納入した。竣工して5か月しかたっていない新工場を失いながらも、印刷局が罹災して行き先のなくなった公的印刷物の需要を取り込みにいくという判断が、再起の道筋を定めた。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [19]1920年12月22日の株主総会で資本金を300万円とする決議を行い、これを機に東京株式市場へ株式を初上場
- [20]1923年9月1日の関東大震災で本所分工場が全焼、本所区内在住の工員18名が焼死、工場長岩田常三郎夫妻が行方不明
- [21]井上源之丞社長は9月2日夜半から3日にかけて相談役三輪信次郎と解散か再起かを論じ全力復興を決定
- [22]東京紙器・精版印刷・中田印刷所に出張所を開いて臨機の生産体制を組み、震災切手9種14億枚を1923年10月から12月に納入
震災損失金は106万6,919円に達し、積立金をすべて取り崩して2期を無配としたが、1924年11月期には年12%配当へ復した。帳簿を焼失したため買掛金は業者の請求どおり利子を付けて全額支払い、それが信用になったと井上は後年述べている。1926年4月には東京紙器を合併して小石川紙器工場とし、紙製容器の製造を加えた。1927年1月の大阪分工場は10年近く赤字が続き、井上が「どうせつぶれる工場なら始末してこい」と山田三郎太を送り込んでようやく黒字に転じている。関西に拠点を築くという所信を、10年の赤字を抱えたまま曲げなかったことが後の全国体制の土台になった。震災と不況を続けて浴びながら、同社は東西二つの生産拠点を手放さなかった。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [23]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
- [24]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
- [26]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
- [27]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [25]1926年4月8日 東京紙器を合併して小石川紙器工場とし紙製容器の製造を加えた(合併後の払込済資本金275万円)
参考文献[15]-[27]
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [15]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
- [16]1908年 内外印刷を合併して本所分工場とし資本金50万円に。株式会社化の本質は合併を前提とした組織変更だったと社史が裁定
- [17]合併後は無配が続き役員は報酬を辞退。従業員は1908年12月の816名から翌年12月には277名へ減少
- [18]井上源之丞が社外に設立したオフセット印刷合名会社を1918年1月4日に買収し神田分工場とした(清算結了は2月7日)
- [19]1920年12月22日の株主総会で資本金を300万円とする決議を行い、これを機に東京株式市場へ株式を初上場
- [20]1923年9月1日の関東大震災で本所分工場が全焼、本所区内在住の工員18名が焼死、工場長岩田常三郎夫妻が行方不明
- [21]井上源之丞社長は9月2日夜半から3日にかけて相談役三輪信次郎と解散か再起かを論じ全力復興を決定
- [22]東京紙器・精版印刷・中田印刷所に出張所を開いて臨機の生産体制を組み、震災切手9種14億枚を1923年10月から12月に納入
- [23]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
- [24]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰。帳簿焼失のため買掛金は請求どおり利子を付けて全額支払った
- [26]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
- [27]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [25]1926年4月8日 東京紙器を合併して小石川紙器工場とし紙製容器の製造を加えた(合併後の払込済資本金275万円)
1936年〜戦時下の合併から戦後復興・事業部制・精密印刷へ
1936年、井上は欧米133か所の工場を回って機械を仮発注し、翌年の増資では王子製紙の藤原銀次郎と講談社の野間清治が各1万株を引き受けた。こうして1938年5月に板橋工場が操業に入る。1943年の富士工場は新設ではなく、大昭和製紙の富士工場を下谷工場の疎開先として継承したもので、始業式は同年8月1日だった。1944年7月には、資材と労働力の途絶で経営が極端に悪化していた精版印刷を合併して大阪支社を開設し、資本金を2,250万円とした。井上が大正期から温めた構想が、統制下の窮境を機に実現した合併であった。戦時統制下の拡張は自前の新設ではなく他社の設備と人員を引き取る形をとらざるを得ず、結果として東京の偽造防止印刷と関西の出版系印刷という性格の異なる二つの基盤を併せ持つことになった。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [28]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [30]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [32]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- 有価証券報告書
- [29]1938年5月 板橋工場を新設
- [31]1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働、資本金を2,250万円に増額
1945年3月10日の空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼き、家庭で罹災死した社員工員は50名、住宅を焼かれた者は1,146名を数えた。大牟田の兵器部品工場は熊本県玉名へ移る途中で終戦を迎え、九州工場と名を変えて1946年6月に印刷工場としての操業を開始する。1949年には民間会社の紙幣印刷が全面的に廃止され、営業収入の36%を占めていた仕事が消えた。前年には過度経済力集中排除法による3分割の指令も受けたが、山田三郎太専務が総合印刷工場の必要を説いて同年12月に解除させている。同じ1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場した。紙幣という最大の収益源を制度によって失い、集中排除法で分割されかけたところから、印刷の総合性そのものを存立の根拠として説き直した時期である。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [33]1945年3月10日の空襲で本社・下谷工場・本所工場が罹災。家庭で罹災死した社員工員50名、住宅罹災者1,146名
- [34]大牟田兵器部品製造工場が熊本県玉名へ移転準備中に終戦を迎え九州工場に転換、1946年6月17日に印刷工場としての事業許可を得て操業開始
- [35]1949年に民間会社の紙幣印刷が全面廃止され、営業収入の36%を占めていた紙幣印刷を失った
- [36]1948年に過度経済力集中排除法の3分割指令を受けたが、山田三郎太専務の折衝により同年12月17日に指定解除
- 有価証券報告書
- [37]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
1951年に山田が渡米して結んだミルプリント社との技術提携が、アニリン印刷やポリエチレン印刷の入口となった。1960年3月、山田社長は5年で規模を倍にすると新聞で語り、政府の所得倍増計画に半年先んじる。計画は1961年12月の事業部制導入で組織に落とし込まれた。海外では1963年に香港で折半出資の合弁を興し、1965年にはアジア・ビジネスフォームの商号を変更してムーア社の資本を受け入れて出資比率55対45の合弁とする。精密加工は1959年、製糖会社に頼まれたメタルプレートフィルターを株券の彩紋製版の技術で作ったのが最初で、同年7月に富士通信機製造がトランジスタ用マスクの試作を依頼した。1973年12月には朝霞精密工場を新設している。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [38]1951年9月の山田三郎太社長の渡米を経て1952年4月16日にミルプリント社と技術提携契約を締結、アニリン印刷・ポリエチレン印刷などの技術を導入
- [39]1960年3月14日の社長談話で5年間の規模倍増を表明。政府の国民所得倍増計画決定に6か月先立つ
- [42]トッパン・ムーアはアジア・ビジネスフォームの商号を1965年5月31日に変更しムーア社が資本参加したもので、出資比率は当社55%・ムーア社45%。1968年のシンガポール現地法人も出資35%の合弁
- [43]1959年 製糖会社向けメタルプレートフィルターの国産化が精密部品製造の起点。同年7月に富士通信機製造からメサ型トランジスタマスクの試作依頼
- 有価証券報告書
- [40]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
- [44]1973年12月 朝霞精密工場を新設(フォトマスク、シャドウマスク)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
- [41]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設、1968年10月時点で資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)
参考文献[28]-[44]
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [28]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [30]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [32]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資(王子製紙・藤原銀次郎と講談社・野間清治が各1万株引受)。1943年の富士工場は大昭和製紙富士工場の継承で始業式は8月1日。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [33]1945年3月10日の空襲で本社・下谷工場・本所工場が罹災。家庭で罹災死した社員工員50名、住宅罹災者1,146名
- [34]大牟田兵器部品製造工場が熊本県玉名へ移転準備中に終戦を迎え九州工場に転換、1946年6月17日に印刷工場としての事業許可を得て操業開始
- [35]1949年に民間会社の紙幣印刷が全面廃止され、営業収入の36%を占めていた紙幣印刷を失った
- [36]1948年に過度経済力集中排除法の3分割指令を受けたが、山田三郎太専務の折衝により同年12月17日に指定解除
- [38]1951年9月の山田三郎太社長の渡米を経て1952年4月16日にミルプリント社と技術提携契約を締結、アニリン印刷・ポリエチレン印刷などの技術を導入
- [39]1960年3月14日の社長談話で5年間の規模倍増を表明。政府の国民所得倍増計画決定に6か月先立つ
- [42]トッパン・ムーアはアジア・ビジネスフォームの商号を1965年5月31日に変更しムーア社が資本参加したもので、出資比率は当社55%・ムーア社45%。1968年のシンガポール現地法人も出資35%の合弁
- [43]1959年 製糖会社向けメタルプレートフィルターの国産化が精密部品製造の起点。同年7月に富士通信機製造からメサ型トランジスタマスクの試作依頼
- 有価証券報告書
- [29]1938年5月 板橋工場を新設
- [31]1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働、資本金を2,250万円に増額
- [37]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- [40]1961年12月 事業部制を導入(本社・板橋・下谷・小石川・関西・西日本)
- [44]1973年12月 朝霞精密工場を新設(フォトマスク、シャドウマスク)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)
- [41]1963年5月 香港で合弁会社設立、1964年6月 ニューヨーク駐在員事務所開設、1968年10月時点で資本金60億円・六事業所・九工場・十二営業所(社史)
1900年〜1974年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年05月期 | 単体 | 36 | n/a | 2 | n/a | 2 | 5.6% | n/a |
| 1954年05月期 | 単体 | 40 | +11.1% | 2 | n/a | 2 | 5.0% | n/a |
| 1955年05月期 | 単体 | 40 | 0.0% | 3 | n/a | 2 | 5.0% | n/a |
| 1956年05月期 | 単体 | 48 | +20.0% | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年05月期 | 単体 | 58 | +20.8% | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年05月期 | 単体 | 69 | +19.0% | 4 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年05月期 | 単体 | 87 | +26.1% | n/a | n/a | 2 | 2.3% | n/a |
| 1960年05月期 | 単体 | 116 | +33.3% | n/a | n/a | 2 | 1.7% | n/a |
| 1961年05月期 | 単体 | 154 | +32.8% | n/a | n/a | 4 | 2.6% | n/a |
| 1962年05月期 | 単体 | 201 | +30.5% | n/a | n/a | 7 | 3.5% | n/a |
| 1963年05月期 | 単体 | 253 | +25.9% | n/a | n/a | 8 | 3.2% | n/a |
| 1964年05月期 | 単体 | 330 | +30.4% | n/a | n/a | 10 | 3.0% | n/a |
| 1965年05月期 | 単体 | 373 | +13.0% | n/a | n/a | 11 | 2.9% | n/a |
| 1966年05月期 | 単体 | 390 | +4.6% | n/a | n/a | 13 | 3.3% | n/a |
| 1967年05月期 | 単体 | 459 | +17.7% | n/a | n/a | 17 | 3.7% | n/a |
| 1968年05月期 | 単体 | 557 | +21.4% | n/a | n/a | 21 | 3.8% | n/a |
| 1969年05月期 | 単体 | 666 | +19.6% | n/a | n/a | 27 | 4.1% | n/a |
| 1970年05月期 | 単体 | 828 | +24.3% | n/a | n/a | 33 | 4.0% | n/a |
| 1971年05月期 | 単体 | 1,011 | +22.1% | n/a | 63 | 39 | 3.9% | n/a |
| 1972年05月期 | 単体 | 1,151 | +13.8% | n/a | 69 | 42 | 3.6% | n/a |
| 1973年05月期 | 単体 | 1,325 | +15.1% | n/a | 75 | 45 | 3.4% | n/a |
| 1974年05月期 | 単体 | 1,754 | +32.4% | n/a | 105 | 58 | 3.3% | n/a |
出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版、昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
4件
- 有価証券報告書
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社・1968年)