1900年1月17日、凸版印刷合資会社は東京市下谷区二長町で設立された。[1]出資4万円のうち2万円は十五銀行の副支配人を辞していた河合辰太郎、1万7,000円は銀行家の三輪信次郎が出し、大蔵省印刷局を辞した木村延吉・伊藤貴志・降矢銀次郎は各1,000円で、降矢の分は彫刻機械4点の現物出資だった。[2]資本主と技術者の結束を明確にするため、個人的企業ではなく初めから合資会社の組織を採っている。[3]狙いは、有価証券や商品の偽造を防ぐ銅凸版印刷を民間で初めて行うことにあった。[4]核となったのは印刷局が門外不出としていたエルヘート凸版法で、木村と降矢は同法を日本へ伝えたお雇い外国人エドアルド・キヨソネの門下生である。[5]
そのエルヘート凸版法は、1874年に大蔵省紙幣寮がドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン社から導入した製版法で、社名はこの技術を経営の中心に据えたことに由来する。[6]もっとも、会社を実際に動かしたのは有価証券ではなく煙草だった。岩谷商会から天狗煙草の包装紙を大量に受注する確約を得たことが河合と三輪の出資を決め、1900年7月に納めた同社の包紙が最初の製品になっている。[7]1904年3月29日に煙草専売法が成立すると営業の大部分を失う恐れが生じ、社内では工場を政府に買い上げてもらって解散する案まで出た。[8]会社は存続を先に決め、法案成立の当日に専売局長へ随意契約による受注継続を請願して、これを容れられている。[9]
念願だった有価証券印刷が社内で形になったのは1902年ごろの東京電気鉄道の株券からで、1905年には関西鉄道がロンドンで発行した英貨建外債1,000万円の債券を手がけ、その精技は現地でも推賞された。[10]株券・社債券に加えて勧業債券や政府発行の諸債券の受注が増えるにつれ、設備と技術はともに進歩している。[11]1906年の『営業案内』は資本金20万円、従業者500余名で夜を日に継いでも足りない状況だと記した。[12]1908年6月には資本金40万円の株式会社へ改組する。[13]偽造防止という参入障壁の高い分野を、官の技術者と民の資本を組み合わせて民間に開いたのが創業期の実像であり、この彫刻と腐食の技術が半世紀後に精密加工へ転用される。[14]
1908年10月、経営不振の内外印刷を合併して本所分工場とし、資本金は50万円になった。[15]社史は、不況下に資本を倍にして株式会社へ改めた理由を将来への積極策だと説くのは表向きの解釈であり、本質は内外印刷の合併を前提にした組織変更だったと裁定している。[16]設立の6日後に合併の仮契約を結び、役員が報酬を辞退して臨んだ合併だったが、その後は無配が続き、従業員は合併直後の816名から翌年末には277名まで減った。[17]井上源之丞が社内の反対を押して社外に設けたオフセット印刷合名会社は、1918年1月に買収されて神田分工場となる。[18]オフセットの将来性を見抜いた井上が、社内で通らない計画を社外の別会社で実証してから本体へ戻すという迂回路を採ったことが、のちに業界標準となる印刷方式を同社に引き寄せた。
1920年12月、資本金を一挙に3倍の300万円へ増やしたのを機に、東京株式市場へ株式を初めて上場した。[19]大戦景気で普通配当18%を続けていた矢先、1923年9月1日の関東大震災が本所分工場を全焼させ、本所区内に住む工員だけで18名が焼死し、工場長夫妻も行方不明となる。[20]社長の井上は9月2日夜半から3日にかけて相談役の三輪信次郎と解散か再起かを論じ、全力での復興を決めた。[21]提携先の東京紙器と大阪の精版印刷・中田印刷所に出張所を置いて臨機の生産体制を組み、震災切手9種14億枚を10月から12月にかけて納めている。[22]竣工からわずか5か月の新工場を失いながら、印刷局の罹災で行き場を失った公的印刷物の需要を取りに行くという判断が、再起の道筋を決めている。
震災損失金は106万6,919円に達し、積立金をすべて取り崩して2期を無配としたが、1924年11月期には年12%配当へ復した。[23]帳簿を焼失したため買掛金は業者の請求どおり利子を付けて全額支払い、それが信用になったと井上は後年述べている。[24]1926年4月には東京紙器を合併して小石川紙器工場とし、紙製容器の製造を加えた。[25]1927年1月の大阪分工場は10年近く赤字が続き、井上が「どうせつぶれる工場なら始末してこい」と山田三郎太を送り込んでようやく黒字に転じている。[26]関西に拠点を築くという所信を、10年の赤字を抱えたまま曲げなかったことが後の全国体制の土台になった。[27]震災と不況を続けて浴びながら、同社は東西二つの生産拠点を手放さなかった。
1936年、井上は欧米133か所の工場を回って機械を仮発注し、翌年の増資では王子製紙の藤原銀次郎と講談社の野間清治が各1万株を引き受けた。[28]こうして1938年5月に板橋工場が操業に入る。[29]1943年の富士工場は新設ではなく、大昭和製紙の富士工場を下谷工場の疎開先として継承したもので、始業式は同年8月1日だった。[30]1944年7月には、資材と労働力の途絶で経営が極端に悪化していた精版印刷を合併して大阪支社を置き、資本金を2,250万円とした。[31]井上が大正期から温めた構想が、統制下の窮境を機に実現した合併であった。[32]戦時統制下の拡張は自前の新設ではなく他社の設備と人員を引き取る形をとらざるを得ず、結果として東京の偽造防止印刷と関西の出版系印刷という性格の異なる二つの基盤を併せ持つことになった。
1945年3月10日の空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼き、家庭で罹災死した社員工員は50名、住宅を焼かれた者は1,146名を数えた。[33]大牟田の兵器部品工場は熊本県玉名へ移る途中で終戦を迎え、九州工場と名を変えて1946年6月に印刷工場としての操業を始める。[34]1949年には民間会社の紙幣印刷が全面的に廃止され、営業収入の36%を占めていた仕事が消えた。[35]前年には過度経済力集中排除法による3分割の指令も受けたが、山田三郎太専務が総合印刷工場の必要を説いて同年12月に解除させている。[36]同じ1949年5月、東京証券取引所へ株式を上場した。[37]紙幣という最大の柱を制度によって失い、集中排除法で分割されかけたところから、印刷の総合性そのものを存立の根拠として説き直した時期である。
1951年に山田が渡米して結んだミルプリント社との技術提携が、アニリン印刷やポリエチレン印刷の入口となった。[38]1960年3月、山田社長は5年で規模を倍にすると新聞で語り、政府の所得倍増計画に半年先んじる。[39]計画は1961年12月の事業部制導入で組織に落とし込まれた。[40]海外では1963年に香港で折半出資の合弁を興し[41]、1965年にはアジア・ビジネスフォームの商号を改めてムーア社の資本を受け入れて出資比率55対45の合弁とする。[42]精密加工は1959年、製糖会社に頼まれたメタルプレートフィルターを株券の彩紋製版の技術で作ったのが最初で、同年7月に富士通信機製造がトランジスタ用マスクの試作を依頼した。[43]1973年12月には朝霞精密工場を設けている。[44]
高度成長期の勢いは石油危機で断ち切られた。1974年1月、澤村嘉一社長は石油と電力の節減、原材料の節約、収率向上と資材の有効活用、技術の開発と刷新、一致団結の5項目を年頭に掲げ、同月から印刷業界では画期的な隔週週休2日制に踏み切っている。[45]1970年から1974年にかけて年平均22.3%で伸びていた売上高は、1975年から1979年の5年間で平均12.1%まで落ち込んだ。[46]1975年10月の取締役会では、営業活動と生産効率、新製品開発、新しい価格体系、省資源、公害対策からなる重点施策5項目を決めた。[47]澤村が折々に指示してきた方針を総括したものである。[48]量の拡大を当然としてきた受注産業の身構えを、質と節約の側へ切り替える宣言だった。
1977年12月、第2本社事業部を精密機器事業部とし、包装関係の各事業部を統合して東京と関西に包材事業部を置いた。[49]石油危機以降の需要停滞に加え、過剰包装批判と廃棄物対策から包装製品そのものが見直しを迫られていたことが背景にある。[50]生産拠点の新設も続き、1975年に福崎工場[51]、1984年に新潟工場[52]、1988年に滝野工場、1990年に幸手工場が加わる。[53]不況下でも投資を続けるため、資金は借入ではなく増資と社債で賄った。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月に67億円へ減り、自己資本比率は36.1%から43.8%へ上がっている。[54]紙への印刷からプラスチック・金属・半導体への転写加工へと基材が広がり、投資の重心も紙から離れていった時期である。
1981年2月20日、澤村嘉一社長が外出先で急逝した。午後1時37分の訃報を受け、その日の晩に開かれた緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決まっている。[55]澤村は1967年9月の就任から13年余で売上高を8倍に伸ばし、葬儀は凸版印刷と東洋インキ製造、東京書籍、トッパン・ムーアなどグループ8社の合同葬となった。[56]鈴木は自らをワンマン型ではなく組織を徹底して使う権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと語る。[57]社是の誠意・熱意・創意のうち創意はどう贔屓目に見ても落第点だと自社を評した。[58]創業家の系譜でも技術系でもない営業出身の社長が、組織を使い切ることと創意の不足を同時に語ったことが、次の10年の課題設定になった。外国部長時代には、見積の計算違いを自ら申し出て誤った値段のまま引き受け、取引をつないだこともある。[59]
新しい収益源として1970年代後半に力を入れたのが、小売店の店頭で消費者に直接訴えるPOP(購買時点広告)だった。カウンターディスプレーや販売台そのものに印刷を施して広告物に仕立てる分野で、素材は木材・プラスチック・金属と多岐にわたり、紙への印刷とは別の技術が要る。ホログラフィを使った広告板や、ICと液晶を応用した動く店頭広告も自社で開発した。[60]1979年度までの5年間でPOP部門の売上は3倍近く伸び、100億円近くに達している。[61]アイデアセンター本部長の渡辺廣は、日本にPOPデザイナーと呼べる職種はまだないが自社には30人が育っていると述べ、デザイナーと技術者を本場である米国の提携先の工房へ送り込んでいた。[62]
鈴木和夫が掲げた言葉が「業際人」だった。1982年の年頭挨拶で、異業種企業の抱える問題を解決する仲人役になろうと呼びかけている。[63]専門化が進むほど企業は縦に深くなるが横がつながらない、その横をつなぐ位置に自分たちはいるという理屈である。[64]出版・食品・金融・鉄鋼・自動車と全業種を得意先に持つがゆえに各業種のソフトウェアが積み上がる、これからは同業種より異業種間の競争が起きる、とも語った。[65]1982年5月には印刷業界で初めて欧州預託証券による海外公募増資を行い[66]、1983年6月には情報システム開発本部を新設して、拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出すと宣言した。[67]拡印刷という自己規定を、業際という別の言葉で置き換えにかかった時期である。
印刷業の受注産業としての宿命は労働時間に表れていた。1985年12月のフレックスタイム制導入前、営業部門の月間残業は50〜65時間、年間総労働時間は2,500時間を超え、出版や商業印刷の担当者は月100時間に達していた。[68]危険・汚い・きついという印象が人材確保に響くという危機感があり、日本印刷産業連合会の会長として業界のイメージ改善を掲げていた鈴木和夫社長にとって避けて通れない課題だった。[69]1990年9月、企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門を対象にスーパー・フレックスタイム制を導入する。コアタイムを置かず、1日1時間働けば出勤とみなす制度で、対象は560人と全社員約1万人の約5%にあたった。[70]
1991年6月、藤田弘道が社長に就任した。[71]営業一筋で新規顧客開拓が長く、6勝4敗を目指せが口癖、人の評価は3年見ると決めていた人物で、座右の銘は川底で泰然と構える様を指す深沈厚重。[72]この年、出版印刷は売上の20%に落ち、シャドーマスクや液晶カラーフィルターなどの精密部品が10%を占めるまでに育っている。[73]電子メディアの売上は総売上の1%弱、60〜80億円にすぎなかったが、年間120億円の研究開発投資の20〜30%を吸収していた。[74]売上の1%に満たない事業が研究開発費の4分の1を吸う構図を、藤田は設備ではなく人材の問題として引き受けた。
事業の裾野を隣接分野へ伸ばす姿勢を指す拡印刷という語は、社内で生まれたものではない。1972年7月に同社を論評した記事のなかで担当記者が付けた表現であり、経営方針の一面を巧みに伝えるものだとして社内に定着していった。[75]だが各事業が川上から川下まで手を伸ばすようになると、周辺へ広げるだけでなく質的に変える必要が出る。そこで掲げたのが超印刷というキーワードで、電子メディアをその主要な担い手に据えた。[76]複写機という印刷に最も近い市場をゼロックスなどに持って行かれた経験を二度と繰り返さない、という警戒がその背景にある。[77]感性を持つ人材を育てるため社内にメディア塾を設け、1期3か月で40人を教える講座は7期300人の修了者を出していた。[78]
1990年の国際花と緑の博覧会では、NHKが会場で実験放映するハイビジョン番組から毎日1枚を選んで写真新聞に仕立て、183日間ハイビジョン・グラフを1万部ずつ発行し続けた。[79]費用は約5億円。小手先の対応ならやめた方がよい、ノウハウを蓄積する目的ならやれ、というのが経営側の返答だった。[80]電子化の実務は1994年の企業集合型モール創設から動き出し、1996年にマルチメディア事業部を設けて組織的に取り組む。同年10月には印刷博物館を開設している。[81]
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|---|---|---|---|---|
| 1900〜1974年技術型ベンチャーから全国最大手への成長と拠点網整備 | 凸版印刷を設立 | ★ | ||
| 株式会社に改組 | ★ | |||
| 内外印刷の合併と本所分工場の開設 | ★★ | |||
| 資本金300万円への増資を機に東京株式市場へ株式を初上場 | ★★ | |||
| 関東大震災で本所分工場が全焼、本社工場も類焼 | ★★★ | |||
| 東京紙器の合併と小石川紙器工場の開設 | ★★ | |||
| 大阪分工場を新設 | ★ | |||
| 精版印刷を合併 | ★★ | |||
| 空襲で本社と下谷・本所の両工場を焼失 | ★★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 民間会社の紙幣印刷が全面廃止となり営業収入の36%を喪失 | ★★ | |||
| 事業部制を導入 | ★ | |||
| Moore社との合弁でトッパン・ムーア・ビジネスフォームを設立 | ★★ | |||
| 朝霞精密工場を新設 | ★ | |||
| 1975〜2000年重点施策5項目から超印刷へ ── 受注産業からの脱却 | 福崎工場を新設 | ★ | ||
| 澤村嘉一氏の急逝により鈴木和夫氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 新潟工場を新設 | ★ | |||
| 藤田弘道 | 幸手工場を新設 | ★ | ||
| 藤田弘道 | 嵐山工場を新設 | ★ | ||
| 藤田弘道 | トッパン・フォームズが東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 2001〜2019年首位争いと3本柱のピーク、リーマン後の長い停滞 | 足立直樹 | 図書印刷を第三者割当増資で子会社化 | ★★ | |
| 足立直樹 | 金子眞吾氏が社長に就任 | ★ | ||
| 足立直樹 | シンガポールSNP Corporationを買収 | ★★ | ||
| 足立直樹 | 初の純損失▲77億円を計上 | ★★ | ||
| 足立直樹 | 製造部門を分社化 | ★ | ||
| 金子眞吾 | 群馬センター工場を新設 | ★ | ||
| 金子眞吾 | Toppan USA, Inc.ジョージア工場を新設 | ★ | ||
| 金子眞吾 | 執行役員制度を導入 | ★ | ||
| 麿秀晴 | 図書印刷を完全子会社化 | ★★ | ||
| 麿秀晴 | INTERPRINT GmbHを買収 | ★★ | ||
| 2020〜2025年「凸版印刷」の看板を外す新体制と16年ぶりの最高売上 | 麿秀晴 | 創業123年で「凸版印刷」の看板を外す持株会社化とTOPPANホールディングスへの改称 2023年10月1日、凸版印刷が持株会社体制へ移行し、商号をTOPPANホールディングス株式会社へ変更した経営判断。同年3月9日に新商号を決め、吸収分割で印刷・情報・エレクトロニクスの各事業を子会社へ承継し、創業123年で社名から『印刷』を外した。麿秀晴社長が主導した、印刷会社からの構造転換を組織の面で区切る動きである。 詳細を読む | ★★★ | |
| 麿秀晴 | 米Sonocoの軟包装・熱成形容器事業を約1,800百万米ドルで取得し北米軟包装を面化 TOPPANは2024年12月、米SONOCO社の軟包装事業および熱成形容器事業を約1,800百万米ドル(約2,713億円)で取得する契約を結び、2025年4月に買収を完了した。従業員約4,500名・22の製造工場を擁する事業を取り込み、2008年のSNP、2016年の米ジョージア工場、2021年のInterFlexと10年以上かけて点で押さえてきた北米の供給網を、一挙に面へまとめる買収であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 麿秀晴 | 半導体フォトマスク事業の分社化とテクセンドフォトマスクの東証プライム上場 2025年10月16日、TOPPANホールディングスは半導体フォトマスク子会社のテクセンドフォトマスクを東証プライム市場に上場させた。1973年に印刷の製版技術を応用して参入したフォトマスク事業は、外販市場で世界首位(2024年度シェア38.9%)に育った最成長領域である。2022年に独立系ファンドのインテグラルを迎えて合弁化し、2025年の上場でTOPPANの持分は46.57%へ下がり、連結子会社から持分法適用関連会社へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大矢諭 | 麿秀晴が代表取締役会長CEOに退き、大矢諭が代表取締役社長COOに就任 | ★ |
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事実根拠:出所(TOPPAN(凸版印刷))