井上源之丞
経歴1908〜1950年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1908年主要役職の状況(推定含む目安)1950年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | TOPPAN(凸版印刷) | 1908 | 入社 | ||
| 1911 | 支配人 | ||||
| 1916 | 取締役 | ||||
| 1919 | 専務取締役 | ||||
| 1923 | 取締役社長 | ||||
| 1948 | 社長 退任(取締役会長へ) | ||||
| 1950 | 相談役 |
中興ストーリー
中興ストーリー
1923年6月22日、専務取締役の井上源之丞氏が満43歳で社長に就任した。1908年の内外印刷との合併で本所分工場の立て直しを任されて以来、1919年10月に専務となってからは河合・伊藤の二代の社長の下で実務の中心を担い、オフセット印刷への切り替えや米国からのHB製版特許の導入を進めてきた。就任から2か月余りの9月1日、関東大震災で同年4月に完成したばかりの下谷工場と本所の工場が焼け、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。同業の秀英舎と共同印刷は被災を免れており、生産設備をほぼ失ったのは凸版だけだった。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [1]大正12年(1923)6月22日に満43歳で社長に就任した井上源之丞は、昭和23年(1948)12月23日の株主総会後の取締役会で社長の座を山田三郎太に譲り、25年におよんだ第一線から退いて取締役会長となった。会長就任後も本社事務所2階の一室で山田社長と机を並べて重要な業務の相談に応じた。昭和25年12月27日の株主総会後の取締役会で会長を辞し相談役に推挙された
- [2]明治41年12月23日の発令で井上源之丞が副支配人に任命され、内外印刷の合併で膨張した本所分工場の改革を担った。大正8年10月9日、社長が河合から伊藤に代わり、井上は取締役から専務取締役に昇進した
- [3]河合、伊藤と二代の社長のもとに専務取締役として事実上会社の中心人物となり、凸版時代からオフセット時代に切り替える端緒をつかんで実行したこと、H・B製版の特許をアメリカから導入したことはその時代の産物であった(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
- [4]大正12年の震災で、その年の4月に新築落成したばかりの下谷工場が焼け、秀英舎(市ケ谷)と共同印刷(小石川)は助かったが凸版だけが下谷・本所の両工場を罹災し、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。内閣印刷局が焼けて困った官製ハガキの印刷を大阪の精版会社と提携して引き受け、会社復興のために社債を発行して資金とした。災害に備えて大阪分工場を淀川べりに作った。満州事変後、新京に店をもち、奉天の鉄西に工場を建設した(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
- [5]大正12年の震災で、その年の4月に新築落成したばかりの下谷工場が焼け、秀英舎(市ケ谷)と共同印刷(小石川)は助かったが凸版だけが下谷・本所の両工場を罹災し、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。内閣印刷局が焼けて困った官製ハガキの印刷を大阪の精版会社と提携して引き受け、会社復興のために社債を発行して資金とした。災害に備えて大阪分工場を淀川べりに作った。満州事変後、新京に店をもち、奉天の鉄西に工場を建設した(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
井上源之丞氏は9月2日の夜半から翌朝にかけて相談役の三輪信次郎氏と、会社を解散するか再起するかを論じ、全力で復興すると決めた。印刷局も焼けて官製はがきの供給が滞ると、大阪の精版印刷と提携してこれを引き受け、再建の資金は社債の発行でまかなった。震災の損失は106万6,919円にのぼり、積立金をすべて取り崩して2期を無配としたのち、1924年11月期に年12%の配当へ戻した。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [6]井上源之丞社長は9月2日夜半から3日にかけて相談役三輪信次郎と解散か再起かを論じ全力復興を決定
- [7]大正12年の震災で、その年の4月に新築落成したばかりの下谷工場が焼け、秀英舎(市ケ谷)と共同印刷(小石川)は助かったが凸版だけが下谷・本所の両工場を罹災し、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。内閣印刷局が焼けて困った官製ハガキの印刷を大阪の精版会社と提携して引き受け、会社復興のために社債を発行して資金とした。災害に備えて大阪分工場を淀川べりに作った。満州事変後、新京に店をもち、奉天の鉄西に工場を建設した(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
- [8]震災損失金106万6,919円。積立金を全額取り崩して2期無配としたのち1924年11月期に年12%配当へ復帰
復興と並行して、印刷の品目と拠点を広げた。1926年4月に東京紙器を合併して紙製容器の製造を加え、1927年1月には災害に備えて大阪分工場を設けた。この分工場は10年近く赤字が続いたが、閉鎖せずに山田三郎太氏を送って立て直させた。満州事変ののちは新京に店を、奉天に工場を構えた。1936年には欧米の133か所の工場を回って機械を仮発注し、翌1937年の増資を経て1938年5月に板橋工場を操業させた。1944年7月には、大正期から構想していた精版印刷との合併を果たして大阪支社を開設した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
- [9]1926年4月8日 東京紙器を合併して小石川紙器工場とし紙製容器の製造を加えた
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [10]大正12年の震災で、その年の4月に新築落成したばかりの下谷工場が焼け、秀英舎(市ケ谷)と共同印刷(小石川)は助かったが凸版だけが下谷・本所の両工場を罹災し、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。内閣印刷局が焼けて困った官製ハガキの印刷を大阪の精版会社と提携して引き受け、会社復興のために社債を発行して資金とした。災害に備えて大阪分工場を淀川べりに作った。満州事変後、新京に店をもち、奉天の鉄西に工場を建設した(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
- [11]1927年1月 大阪分工場を新設(後の大淀工場)。受注競争と単価低落で長く赤字が続き、井上は山田三郎太に「どうせつぶれる工場なら、お前行って始末してこい」と告げて送った。黒字化まで約10年
- [12]大正12年の震災で、その年の4月に新築落成したばかりの下谷工場が焼け、秀英舎(市ケ谷)と共同印刷(小石川)は助かったが凸版だけが下谷・本所の両工場を罹災し、残ったのは和泉町の本社事務所だけだった。内閣印刷局が焼けて困った官製ハガキの印刷を大阪の精版会社と提携して引き受け、会社復興のために社債を発行して資金とした。災害に備えて大阪分工場を淀川べりに作った。満州事変後、新京に店をもち、奉天の鉄西に工場を建設した(山田三郎太「凸版印刷を舞台とした井上翁」)
- [13]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- [15]1936年の井上源之丞の欧米視察(133か所歴訪と機械の仮発注)と1937年3月の増資。精版印刷の合併は井上が大正期から温めた構想の実現
- TOPPAN(凸版印刷) 有価証券報告書【沿革】
- [14]1938年5月 板橋工場を新設/1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働
- [16]1938年5月 板橋工場を新設/1944年7月 精版印刷を合併し大阪支社工場として稼働
社史は、同氏が一代で有価証券・紙器・出版印刷・商業印刷を併せ持つ総合印刷会社を築いたとして、同社の中興の祖と位置づけている。大日本印刷の社長だった佐久間長吉郎氏は追悼文で、凸版の歩みを、共同印刷・秀英舎との競争に挑んだ大正期、外国の新技術と設備の近代化に取り組んだ昭和初期、他社との差を広げた戦時期の三段階に分けた。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [17]一代のうちに、当社を盛りあげ、そのころでは前例のない有価証券、紙器、出版印刷、商業印刷を包含する一大総合印刷会社に育て、業界に覇を唱えるまでにした井上の功績は、まさに当社の中興の祖と言うべきであろう
- [18]大日本印刷の社長佐久間長吉郎が『井上源之丞』に寄せた追悼文。凸版印刷の発展は、共同印刷・秀英舎を仮想敵国とした大正時代、諸外国からの新技術の導入と設備の近代化を計った昭和時代、他社を引き離して躍進した戦争時代の三段階に分けられる
1945年3月の空襲で本社と下谷・本所の両工場を再び焼かれ、1948年には過度経済力集中排除法による3分割の指令を受けたが、専務の山田三郎太氏の折衝で同年12月17日に指定が解かれた。その6日後の12月23日、株主総会後の取締役会で同氏は25年務めた社長の座を山田三郎太氏に譲り、取締役会長に就任した。会長となってからも本社の一室で山田三郎太社長と机を並べて重要な案件の相談に応じ、1950年12月に会長を辞して相談役に移った。
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- [19]1945年3月10日の空襲で本社・下谷工場・本所工場が罹災。1948年に過度経済力集中排除法の3分割指令を受けたが、山田三郎太専務の折衝により同年12月17日に指定解除
- [20]大正12年(1923)6月22日に満43歳で社長に就任した井上源之丞は、昭和23年(1948)12月23日の株主総会後の取締役会で社長の座を山田三郎太に譲り、25年におよんだ第一線から退いて取締役会長となった。会長就任後も本社事務所2階の一室で山田社長と机を並べて重要な業務の相談に応じた。昭和25年12月27日の株主総会後の取締役会で会長を辞し相談役に推挙された
- [21]大正12年(1923)6月22日に満43歳で社長に就任した井上源之丞は、昭和23年(1948)12月23日の株主総会後の取締役会で社長の座を山田三郎太に譲り、25年におよんだ第一線から退いて取締役会長となった。会長就任後も本社事務所2階の一室で山田社長と机を並べて重要な業務の相談に応じた。昭和25年12月27日の株主総会後の取締役会で会長を辞し相談役に推挙された
参考文献3件
参考文献
- 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
- 国立国会図書館サーチ『井上源之丞』(佐藤文四郎編, 1954年)書誌の読み
- TOPPAN(凸版印刷) 有価証券報告書【沿革】
事実根拠:出所(TOPPAN(凸版印刷))