第2章 年〜年

TOPPAN(凸版印刷):福崎・新潟工場の新設と受注産業からの脱却

澤村嘉一の重点施策5項目から藤田弘道の超印刷へ

1975年〜重点施策5項目と関係会社分離による収益構造の組み替え

1975年10月、取締役会は営業・生産・技術・研究開発を軸とする重点施策5項目を決め、各事業部へ通達した。1970年から1974年までの5年間で年平均22.3%だった売上高の伸びは、1975年からの5年間で12.1%へ後退し、1976年5月期にいたっては8.3%にとどまる。5項目の第3に置かれたのが新しい価格体系の確立で、原材料費と諸経費の高騰が続く前提に立ち、製品個別の原価を把握して見合う価格を設定する仕組みを求めた。残る4項目は営業活動と生産効率、新製品開発、省資源、公害・廃棄物対策で、いずれも澤村嘉一社長がかねて示してきた方針を総括したものだった。1977年12月には包装関係の各事業部を統合し、東京と関西に包材事業部を置いている。売上高は1975年5月期の2,094億円から翌期の2,268億円となった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [1]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [2]売上高の単純平均伸び率は1970〜74年の22.3%から1975〜79年の12.1%へ後退。1976年5月期の伸び率は8.3%
    • [3]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [4]重点施策5項目は澤村嘉一社長がかねて指示してきた基本方針を総括したもので、営業・生産・技術・研究開発部門を中心に推進することが要望された
    • [5]1977年12月1日 第2本社事業部を精密機器事業部とし、包装関係の各事業部を統合して東京と関西支社に包材事業部を新設
  • 会社年鑑
    • [6]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1976年5月期2,268億円

各事業部は作業工程の一部を切り出し、独立した子会社へ移した。1976年10月の凸版佐賀容器、1980年12月の凸版グラビア製版がそれで、紙カップの成形やグラビアシリンダーの製版といった労働集約的な工程が本体を離れた。1974年5月に1万323名だった従業員は、1980年5月には8,357名まで減っている。資金の側では、多くの企業が設備投資を控えて借入金の返済へ走った局面で、凸版印刷は投資を続けながら間接金融を抑える組み方を選ぶ。1975年12月と1980年6月に公募増資を行い、1978年12月には転換社債70億円を発行した。借入金は263億円から67億円余へ減り、自己資本比率は36.1%から43.8%へ上がった。投資そのものは止めず、1975年には特殊印刷とチューブ・カップの福崎工場を建てている。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [7]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [8]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [9]従業員数は1974年5月の1万323名から1980年5月の8,357名へ減少
    • [10]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [11]1975年12月に2,200万株、1980年6月に2,500万株の公募増資。1978年12月に満期割増償還金付無担保転換社債70億円を発行。資本金は1974年12月の143億円から1980年6月の181億円へ
    • [12]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
  • 有価証券報告書
    • [13]1975年 福崎工場(特殊印刷・チューブ・カップ・プラスチック)新設

1981年2月20日午後1時37分、澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝した。会社はその晩のうちに緊急取締役会を招集し、鈴木和夫副社長の社長就任を満場一致で決議している。澤村は1967年9月の就任から13年余で売上高を8倍にした経営者で、葬儀はグループ8社の合同葬となった。引き継いだ鈴木の自己規定は権限委譲型で、社長の椅子も委託を受けた職務として扱った。同時に、社是に掲げる誠意・熱意・創意のうち創意は落第点だと自省し、注文を待つ受注産業から、得意先との共同作業で需要そのものを掘り起こす業態へ移ることを掲げている。外国部長としてシンガポールで受注した際、見積書の計算違いに自ら気づいて申し出ながら、約束したロットは誤った値段のまま引き受けて取引を続けた経験を、後年みずから語った。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [14]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [15]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [16]澤村嘉一は1967年9月社長就任、在任13年余で売上高8倍。逝去にあたりグループ8社の合同葬
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [17]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
    • [18]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号
    • [19]シンガポールでの受注時、見積書の計算違いを自ら申し出て、約束したロットは誤った値段のまま引き受け取引を継続した(外国部長時代の鈴木和夫の回想)
参考文献[1]-[19]
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [1]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [2]売上高の単純平均伸び率は1970〜74年の22.3%から1975〜79年の12.1%へ後退。1976年5月期の伸び率は8.3%
    • [3]1975年10月 取締役会で重点施策5項目(営業活動と生産効率/新製品開発/新しい価格体系の確立/省資源/公害対策・廃棄物処理)を決定し各事業部へ通達
    • [4]重点施策5項目は澤村嘉一社長がかねて指示してきた基本方針を総括したもので、営業・生産・技術・研究開発部門を中心に推進することが要望された
    • [5]1977年12月1日 第2本社事業部を精密機器事業部とし、包装関係の各事業部を統合して東京と関西支社に包材事業部を新設
    • [7]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [8]各事業部で作業工程の一部を分離して子会社化。1976年10月 凸版佐賀容器、1979年6月 熊本凸版、1979年12月 三ケ日凸版印刷、1980年12月 凸版グラビア製版を設立
    • [9]従業員数は1974年5月の1万323名から1980年5月の8,357名へ減少
    • [10]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [11]1975年12月に2,200万株、1980年6月に2,500万株の公募増資。1978年12月に満期割増償還金付無担保転換社債70億円を発行。資本金は1974年12月の143億円から1980年6月の181億円へ
    • [12]減量経営の局面で間接金融を極力抑え内部留保・増資・社債で資金を賄う方針を採る。借入金は1975年5月の263億円から1980年5月の67億円余へ、自己資本比率は36.1%から43.8%へ
    • [14]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [15]1981年2月20日午後1時37分に澤村嘉一社長が心筋梗塞で急逝し、その日の晩の緊急取締役会で鈴木和夫副社長の社長就任が満場一致で決議された
    • [16]澤村嘉一は1967年9月社長就任、在任13年余で売上高8倍。逝去にあたりグループ8社の合同葬
  • 会社年鑑
    • [6]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1976年5月期2,268億円
  • 有価証券報告書
    • [13]1975年 福崎工場(特殊印刷・チューブ・カップ・プラスチック)新設
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [17]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
    • [18]鈴木和夫は自らを権限委譲型と規定し、社長は委託を受けた職務にすぎないと述べた。社是の誠意・熱意・創意のうち創意は落第点と自省し、受注産業から得意先との共同作業による需要発掘へ
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号
    • [19]シンガポールでの受注時、見積書の計算違いを自ら申し出て、約束したロットは誤った値段のまま引き受け取引を継続した(外国部長時代の鈴木和夫の回想)

1980年〜業際企業という自己規定とPOP・情報システムへの拡張

凸版印刷が店頭広告物のPOPへ本格的に出たのは1970年代後半である。扱う素材は紙にとどまらず木材・プラスチック・金属へ広がり、ホログラフィを使った広告板や、ICと液晶で動く店頭広告まで作った。1979年度までの5年間でこの部門の売上は3倍近くに伸び、100億円に迫っている。支えたのは設備ではなく人で、取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPのデザイナー30人を自社で育て、米国の提携先の工房へも送り出した。もっとも1980年5月期の売上高は3,634億円で、100億円の部門はその3%に満たない。印刷の注文は得意先の広告計画が固まった後に来るが、店頭で何を置くかの設計から入れば、注文の前段へ回り込める。

  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [20]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [21]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [22]1979年度までの5年間でPOP部門の売上が3倍近く伸び100億円近くに成長
    • [23]取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPデザイナー30人を自社で育成、米国の提携先工房へも派遣
  • 会社年鑑
    • [24]単体売上高は1980年5月期3,634億円

業際とは、専門分化で縦方向に深まった業種どうしを横につなぐ立ち位置のことで、異業種の企業が抱える課題を解いてみせる仲人の役を自社が引き受けるという意味を込めた言葉だった。鈴木和夫社長は1982年1月の年頭挨拶で、この業際人であることを貫くよう求めた。同年11月の対談で鈴木が業際的な活動として挙げたのは、あらゆる業種の得意先から寄せられるソフトウェアを自社の技術と組み合わせることである。競争の主戦場はこれから同業どうしから異業種どうしへ移る、と鈴木は見ていた。1982年5月には印刷業界で初めて欧州預託証券による海外公募増資を実施し、資本金は205億7,436万円余となった。1982年5月期の売上高は4,476億円で、1975年5月期の2,094億円から7年で2.1倍になっている。業際という言葉は、同業他社との比較では説明のつかない事業をこれから作るという宣言でもあった。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [25]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [26]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [27]1982年11月の対談で、全業種の得意先から集まるソフトウェアと自社技術の複合を「業際的な活動」と定義し、今後は同業種間より異業種間の競争が起きると述べた
    • [28]1982年5月 印刷業界で初めて欧州預託証券(EDR)による海外公募増資を実施し資本金205億7,436万円余に
  • 会社年鑑
    • [29]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1982年5月期4,476億円

新しい情報市場へ参入するための戦略部門として位置づけられたのが、1983年6月1日に本社で発足した情報システム開発本部で、拡印刷や総合印刷企業という従来の路線を越える一歩とされた。研究の体制は1986年7月に改まり、それまで事業所ごとに散らばっていた研究の機能と人材が埼玉県杉戸の総合研究所に集められ、同研究所は3つの命題を掲げた。印刷技術をいっそう深く掘り下げること、印刷の原理を中核に据えて隣の分野へ広げる拡印刷、次に来る需要の波に応える先端技術の開発である。工場の新設も紙から離れていき、1984年の新潟工場はプリント配線板、1988年の滝野工場は液体用紙容器、1990年の幸手工場は機能性材料を作るために建てられている。印刷機を増やす投資から、印刷の技術を別の製品へ移し替える投資へ、資金の投入先が入れ替わった時期である。

  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [30]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
    • [31]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
    • [32]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
    • [33]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
  • 有価証券報告書
    • [34]1984年 新潟工場(プリント配線板)、1988年 滝野工場(液体用紙容器)、1990年 幸手工場(機能性材料)新設
参考文献[20]-[34]
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [20]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [21]POP分野へ多角化。素材は木材・プラスチック・金属と多様で、ホログラフィ広告板やIC・液晶応用の動く店頭広告を開発
    • [22]1979年度までの5年間でPOP部門の売上が3倍近く伸び100億円近くに成長
    • [23]取締役アイデアセンター本部長の渡辺廣はPOPデザイナー30人を自社で育成、米国の提携先工房へも派遣
  • 会社年鑑
    • [24]単体売上高は1980年5月期3,634億円
    • [29]単体売上高は1975年5月期2,094億円、1982年5月期4,476億円
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [25]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [26]1982年1月の年頭挨拶で「業際人に徹しよう」を掲げ、異業種企業の問題を解決する仲人役、縦に深くなる専門化の横をつなぐ位置と説明
    • [27]1982年11月の対談で、全業種の得意先から集まるソフトウェアと自社技術の複合を「業際的な活動」と定義し、今後は同業種間より異業種間の競争が起きると述べた
    • [28]1982年5月 印刷業界で初めて欧州預託証券(EDR)による海外公募増資を実施し資本金205億7,436万円余に
    • [30]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
    • [31]1983年6月1日 本社に情報システム開発本部を新設。これまでの拡印刷・総合印刷企業路線からさらに一歩踏み出し新しい情報市場へ参入する戦略部門と位置づけた
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
    • [32]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
    • [33]1986年7月 埼玉県杉戸に総合研究所を開設し、各事業所に分散していた研究機能と人材を集約。従来印刷技術の深化・拡印刷の追求・未来志向の先端技術開発の3命題を掲げた
  • 有価証券報告書
    • [34]1984年 新潟工場(プリント配線板)、1988年 滝野工場(液体用紙容器)、1990年 幸手工場(機能性材料)新設

1990年〜拡印刷から超印刷への路線転換と電子メディア

1990年9月、企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制が入った。1日1時間の勤務で出勤とみなす仕組みで、対象は560人、全社員約1万人の5%ほどにすぎない。それでも踏み切ったのは、労働時間の長さが人材の確保に響き始めていたからである。導入前の営業部門は月の残業が50時間から65時間、年間総労働時間は2,500時間を超え、出版や商業印刷を担当する社員では残業が月100時間に達した。印刷の現場に付きまとう3Kの印象への危機感は強く、鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会の会長として業界全体のイメージ改善を掲げている。労働時間に手を付けたのは初めてではなく、1974年1月には隔週週休2日制を実施していた。

  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
    • [35]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [36]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [37]フレックス制導入前の営業部門は月間残業50〜65時間・年間総労働時間2,500時間超、出版や商業印刷担当は月100時間
    • [38]3Kの印象が人材確保に響く危機感。鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会会長として業界のイメージ改善を掲げていた
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [39]1974年1月の年頭挨拶で5項目(石油電力の節減/原材料の節約/収率向上と資材の有効活用/技術の開発と刷新/一致団結)を提唱し、同月から隔週週休2日制を実施

1991年6月、藤田弘道が社長に就任した。1953年入社、1980年に取締役、1989年に副社長を経ての就任で、電子メディアへ事業を広げる前の最大の課題は人材育成に置かれた。藤田が新たに掲げたのは超印刷だった。隣接する分野へ事業の範囲を広げる拡印刷に対し、超印刷は印刷そのものを質的に変えるという意味で、その担い手には電子メディアを据えている。もっとも拡印刷という語は自社の造語ではなく、1972年に凸版印刷を論評した新聞記事のなかで担当記者が用いた表現だった。路線の裏には、印刷に最も近い複写機の市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返すまいという強い警戒があった。

  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [40]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
    • [41]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [42]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [43]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [45]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [44]「拡印刷路線」は1972年7月9日の日本経済新聞が当社を論評した記事で担当記者が用いた新しい表現だった

超印刷を担う人材は社内で育てられた。メディア塾と名づけた教育組織は1期3か月・40人規模で回り、7期で300人が修了している。1990年の国際花と緑の博覧会では、ハイビジョン番組の映像から写真新聞を仕立てて183日間毎日1万部を発行した。費用は約5億円に上り、小手先の対応ならやめよ、ノウハウの蓄積が目的ならやれというトップの判断で150人態勢が組まれている。それでも1991年時点の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円で、年間120億円の研究開発投資の20%から30%を吸い込む段階にとどまった。連結売上高は1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、7年でほぼ動いていない。超印刷は1990年代のうちに収益源へは育たず、次の時代へ渡す種として残った。

  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [46]社内教育組織メディア塾は1期3か月・40人規模で7期300人が修了
    • [47]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [48]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [49]電子メディアの売上は総売上の1%弱(60〜80億円)だが年間120億円の研究開発投資の20〜30%を占めた。1991年時点で出版印刷は売上の20%、シャドーマスクや液晶カラーフィルターなど精密部品が10%
  • 会社年鑑
    • [50]連結売上高は1992年3月期1兆1,749億円、1999年3月期1兆2,234億円
参考文献[35]-[50]
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
    • [35]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [36]1990年9月 企画・販売促進・研究開発・システム開発の4部門にスーパー・フレックスタイム制を導入(560人・全社員約1万人の約5%、1日1時間の勤務で出勤とみなす)
    • [37]フレックス制導入前の営業部門は月間残業50〜65時間・年間総労働時間2,500時間超、出版や商業印刷担当は月100時間
    • [38]3Kの印象が人材確保に響く危機感。鈴木和夫社長は日本印刷産業連合会会長として業界のイメージ改善を掲げていた
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
    • [39]1974年1月の年頭挨拶で5項目(石油電力の節減/原材料の節約/収率向上と資材の有効活用/技術の開発と刷新/一致団結)を提唱し、同月から隔週週休2日制を実施
    • [44]「拡印刷路線」は1972年7月9日の日本経済新聞が当社を論評した記事で担当記者が用いた新しい表現だった
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [40]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
    • [41]1991年6月 藤田弘道が社長就任(1953年入社、1980年取締役、1989年副社長)。電子メディアへの拡大を前に最大の課題は人材育成と語った
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
    • [42]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [43]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [45]隣接分野へ広げる拡印刷から、質的に変える超印刷へ転換し電子メディアをその担い手に据えた。印刷に最も近い複写機市場をゼロックスなどに奪われた経験を繰り返さないという警戒
    • [46]社内教育組織メディア塾は1期3か月・40人規模で7期300人が修了
    • [47]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [48]1990年 国際花と緑の博覧会でハイビジョン番組から写真新聞を仕立て183日間毎日1万部を発行。費用は約5億円で、小手先の対応ならやめよ・ノウハウ蓄積が目的ならやれというトップ判断により150人態勢とした
    • [49]電子メディアの売上は総売上の1%弱(60〜80億円)だが年間120億円の研究開発投資の20〜30%を占めた。1991年時点で出版印刷は売上の20%、シャドーマスクや液晶カラーフィルターなど精密部品が10%
  • 会社年鑑
    • [50]連結売上高は1992年3月期1兆1,749億円、1999年3月期1兆2,234億円

筆者考察

印刷会社の収入は、得意先が広告や出版の計画を決めた後にしか立たない商売である。凸版印刷の1975年からの四半世紀は、その順番のほうを動かそうとした期間だった。1970年から1974年まで年平均22.3%で伸びた売上高は、1975年からの5年間で12.1%まで低下している。需要が自然に膨らむ前提が消えたとき、澤村嘉一が打ったのは値上げでも一律の人減らしでもなく、製品ごとの原価を掴んで見合う価格を作る仕組みの整備であり、労働集約的な工程を子会社へ移して本体を軽くする作業だった。従業員は6年で1万323名から8,357名へ減り、借入金は263億円から67億円余まで減った。

そこから先に起きたのは、事業の中身より先に自己規定を書き換える動きである。鈴木和夫は1982年の年頭に業際人という言葉を掲げ、専門化して縦に深くなった各業種の横をつなぐ位置に自社を置いた。藤田弘道は1991年に超印刷を掲げ、印刷を隣接分野へ広げる拡印刷から、印刷そのものを質的に変える方向へ言い直した。どちらも、印刷会社同士の比較では説明できない場所へ出ようとする言葉である。ただし1991年の電子メディアの売上は総売上の1%弱にあたる60億円から80億円にすぎず、年間120億円の研究開発投資の2割から3割を吸い込む段階にとどまった。1992年3月期の1兆1,749億円から1999年3月期の1兆2,234億円まで、連結売上高はほぼ横ばいだった。

売上高(単体) 1975年5月期〜1984年5月期(億円)

2,094 75.5 2,268 76.5 2,504 77.5 2,768 78.5 3,101 79.5 3,634 80.5 4,121 81.5 4,476 82.5 4,876 83.5 5,310 84.5
  • 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
  • 1985年5月期以降の単体売上高は手元に無い。

1975年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1975年05月期 単体 2,094 n/a 155 72 3.4% n/a
1976年05月期 単体 2,268 +8.3% 165 75 3.3% n/a
1977年05月期 単体 2,504 +10.4% 170 81 3.2% n/a
1978年05月期 単体 2,768 +10.5% 176 89 3.2% n/a
1979年05月期 単体 3,101 +12.0% 200 105 3.4% n/a
1980年05月期 単体 3,634 +17.2% 254 131 3.6% n/a
1981年05月期 単体 4,121 +13.4% 278 136 3.3% n/a
1982年05月期 単体 4,476 +8.6% 287 142 3.2% n/a
1983年05月期 単体 4,876 +8.9% 303 150 3.1% n/a
1984年05月期 単体 5,310 +8.9% 342 160 3.0% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 11,749 n/a n/a 373 3.2% n/a
1993年03月期 連結 10,985 ▲6.5% n/a 295 2.7% n/a
1994年03月期 連結 10,899 ▲0.8% n/a 318 2.9% n/a
1995年03月期 連結 11,305 +3.7% n/a 158 1.4% n/a
1996年03月期 連結 11,865 +5.0% n/a 397 3.3% n/a
1997年03月期 連結 12,743 +7.4% n/a 216 1.7% n/a
1998年03月期 連結 12,841 +0.8% n/a 473 3.7% n/a
1999年03月期 連結 12,234 ▲4.7% n/a 266 2.2% n/a

出所:会社年鑑(1976年版、1986年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 『凸版印刷株式会社史』(凸版印刷株式会社, 1985年)
  • ポケット社史 文化に根ざした情報・生活産業(凸版印刷, 1990年)
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
  • 日経ビジネス 1991年10月21日号
  • 日経ビジネス 1992年2月17日号

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