第1章 年〜年

リコー:理研感光紙部門の独立と「リコピー101」による複写機への転換

1941年〜理研コンツェルンからの分離独立という特異な起点

分離独立した感光紙部門が扱っていたのは、理化学研究所が発明し当時は日・独・米・カナダで特許化されていた理研陽画感光紙で、その製造販売権は理研コンツェルンの中核会社・理化学興業(1941年8月解散)が持っていた。市村清氏は佐賀県出身で、富国生命の保険セールスマンとしての実績をもって理研コンツェルンの感光紙部門長に抜擢された異色の経歴の経営者だった。外部から招かれた人材に対する古参社員の反発は激しく、両者の対立は感光紙製造装置を市村氏自らハンマーで破壊するという極端な形にまで発展する。理研コンツェルン総帥の大河内正敏博士は市村氏を処分せず、1936年2月に感光紙部門を分離して資本金35万円・従業員33名の理研感光紙株式会社を設立し、大河内博士自ら会長に就任して経営の一切を市村氏に一任した。この分離独立は大河内博士の慧眼を示すエピソードとして語り継がれている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
    • [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
  • 有価証券報告書
    • [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
    • [3]設立時 資本金35万円・従業員33名

理研光学工業へ商号を改めたのは1938年で、これを機にカメラの製造へ進出した。市村氏が独立したのち、感光紙の事業を軌道に乗せてからのことである。戦争中は光学部門が軍用双眼鏡の生産へ移り、カメラはほぼ作られなくなった。戦後、外地の事業場は失われたが、国内の主な設備は大半が戦災に遭わず、感光紙は統制の撤廃を追い風に順調に伸びた。朝鮮戦争の特需を受けて、1950年発売のリコーフレックスは月産1万台を海外へ送り出すまでになり、ソニー・本田技研と並ぶ戦後日本の"花形三羽烏"と称されるに至る。1955年発売の卓上型複写機"リコピー101"は感光紙技術を応用した製品で、事務機市場への本格参入を象徴する一台だった。当時の業界観察誌は『カメラ重点から総合事務機メーカーへの転身で発展。リコピーを中心に新製品への期待は無限大』と評し、一つの製品カテゴリに固執せず次の成長領域へ経営資源を機動的に付け替える市村氏の経営スタイルが会社の性格を形成した。

  • 有価証券報告書
    • [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
参考文献[1]-[6]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]分離前の製品は理化学研究所発明の理研陽画感光紙で、製造販売権は理化学興業(1941年8月解散)が保有し、特許は日・独・米・カナダで取得
    • [4]理研コンツェルン総帥は大河内正敏で、設立時の理研感光紙では自ら会長に就いた
    • [6]戦時下はカメラ製造をほぼ中止し光学部門を軍用双眼鏡の生産へ転換、戦後は外地事業場を失うも国内主要設備は戦災を免れ、感光紙は統制撤廃を機に成長した
  • 有価証券報告書
    • [2]1936年2月 感光紙部門を分離し理研感光紙株式会社を設立
    • [3]設立時 資本金35万円・従業員33名
    • [5]1938年 理研光学工業へ商号変更しカメラ製造へ進出

1960年〜経営の神様の泰平ムードと無配転落からの再建

1960年代前半、"経営の神様"と称された市村清氏のもとでリコーは成長したが、社内には成功企業に生じがちな泰平ムードが蔓延した。1962年の"実業の世界"は『理研光学の経営ぶりにはいろいろな特色があるが、そのうちの一つは多角化だ。しかも時流に先鞭をつけたものであり、異例の大成功を収めているモデルケース』と書いた。しかし1964年の東京五輪後の不況で経営は悪化し、1965年3月期には不良資産8億4000万円を一括処理して無配転落となり、戦後初の本格的な経営危機に直面した。"経済展望"は翌年の時計事業再建をめぐり『かつて"経営の神様"とまでうたわれた市村清氏は、とうとう金利の全面タナ上げの要請という"泣き"を銀行にいれた』(経済展望 1967/10)と伝えた。4000人中800人を関連会社へ出向させる合理化で再建の道筋を描き、以後繰り返される過去の負担の一括処理パターンを作った。

  • 実業の世界(1962年9月)
    • [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
  • 有価証券報告書
    • [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落

再建の起死回生となったのは1965年発売の静電複写機"電子リコピーBS2"だった。事務合理化を求める社会の需要と製品投入のタイミングが合致し、わずか2年半で復配を果たす。複写機が会社の顔へと入れ替わる過程を"ダイヤモンド"は『リコピーの成功は、リコーフレックスのそれをはるかにしのぐものであった。かくてリコーのなはあまねく知れわたった』と記録している。市村氏は1968年に68歳で急逝するが、感光紙からカメラへ、カメラから複写機へという連続的な事業転換を主導した手法は、既存技術を新しい応用領域で商品化し販売力でシェアを取るやり方として社内に刻み込まれた。保険セールスマン時代に培われた市場感覚と営業規律が経営の底流に一貫して流れ、以後の"販売のリコー"の基礎になった。

参考文献[7]-[8]
  • 実業の世界(1962年9月)
    • [7]1962年『実業の世界』が理研光学の多角化を成功モデルケースと評した
  • 有価証券報告書
    • [8]1964年の東京五輪後の不況、1965年3月期に不良資産8億4000万円を一括処理し無配転落

1936年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 32 n/a n/a 1 4.9% n/a
1960年03月期 単体 59 +82.5% n/a 5 9.9% n/a
1961年03月期 単体 73 +23.0% n/a 7 10.7% n/a
1962年03月期 単体 105 +43.9% n/a 11 10.5% n/a
1963年03月期 単体 116 +11.0% n/a 11 9.8% n/a
1964年03月期 単体 134 +15.1% n/a 9 7.0% n/a
1965年03月期 単体 141 +5.2% n/a ▲5 ▲3.9% n/a
1966年03月期 単体 124 ▲12.0% n/a ▲7 ▲5.9% n/a
1967年03月期 単体 141 +13.6% n/a 0 0.5% n/a
1968年03月期 単体 216 +53.2% n/a 5 2.6% n/a
1969年03月期 単体 338 +55.8% n/a 24 7.4% n/a
1970年03月期 単体 475 +40.5% n/a 34 7.2% n/a
1971年03月期 単体 653 +37.5% 67 39 6.0% n/a
1972年03月期 単体 674 +3.2% 54 27 4.0% n/a
1973年03月期 単体 752 +11.6% 58 29 3.9% n/a
1974年03月期 単体 1,059 +40.8% 62 34 3.2% n/a
1975年03月期 単体 1,217 +14.9% 47 25 2.1% n/a
1976年03月期 単体 1,114 ▲8.5% 48 22 2.0% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

3件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 実業の世界(1962年9月)

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