市村清
リコー・元理研光学工業 取締役社長
経歴1918〜1968年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1918年主要役職の状況(推定含む目安)1968年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 共栄貯蓄銀行・大東銀行 | 1918 | 共栄貯蓄銀行 本店勤務(書記補) | ||
| 1922 | 大東銀行(北京)会計係 | ||||
| 1923 | 大東銀行 上海分行 会計主任 | ||||
| 理研感光紙九州総代理店 | 1929 | 開業 | |||
| リコー(旧・理研感光紙) | 1936 | 設立 | |||
| 1945 | 社長 | ||||
| 1968 | 社長 退任 |
社長就任までの出自
出自
1900年に佐賀県の農家に生まれた。佐賀中学を中退して共栄貯蓄銀行に入行し、1918年に東京の本店へ移って中央大学専門部の夜間に通ったが、1922年9月に北京の大東銀行へ赴くため3年の途中で退いた。上海分行で支店長代理まで進んだものの、1927年の金融恐慌で同行は閉鎖された。帰国後は富国生命の保険外交員を経て、1929年に理研陽画感光紙の九州総代理店を福岡に開いた。技術ではなく販売の側から理研の事業に参画した、リコーの創業者である。
社長に選ばれた経緯
抜擢
満鉄の全28課に理研の陽画感光紙を採用させた代理店の実績が、理研コンツェルン総帥の大河内正敏氏の目に留まり、本社の感光紙部長に招かれた。古参社員との軋轢が続くなかで、大河内正敏氏は感光紙部門を独立の会社にして市村清氏を専務とし、経営を一任すると決めた。1936年2月に理研感光紙が発足し、市村清氏は36歳で経営の責任者となった。社長に就任したのは1945年7月で、社名は理研光学工業に変わっていた。
在任中の主な施策
施策
戦後は二眼レフのリコーフレックスを、構造を簡単にして故障を減らし、安い値段で売り出した。1954年4月には王子工場と銀座の本社を大森へ移し、宴会の原則禁止や役員の早朝出勤とあわせて冗費を削減した。1955年5月に小型卓上複写機の製造販売を始め、感光紙を使う機器へ事業を広げた。1962年の時点で売上高の構成は事務機械45%、感光紙40%、カメラ15%となり、事務機械が首位に立った。1963年4月に商号を株式会社リコーへ改めた。
創業ストーリー
創業ストーリー
業績貢献
市村清氏:在任中の業績貢献
売上高:1959年3月期〜1973年3月期
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| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1959年3月期 | 33億円 | — | — | — | 国産初の電子複写機「リコーファックス」開発 | |
| 1960年3月期 | 60億円 | +82.5% | — | — | ||
| 1961年3月期 | 73億円 | +23.0% | — | — | ||
| 1962年3月期 | 105億円 | +43.9% | — | — | 感光紙工場を新設(現・池田事業所)東京・大阪証券取引所市場第一部に上場 | |
| 1963年3月期 | 117億円 | +11.0% | — | — | 沼津で製紙工場の操業を開始、原紙から感光紙の一貫生産を実施RICOH OF AMERICAを設立 | |
| 1964年3月期 | 135億円 | +15.1% | — | — | 商号をリコーに変更 | |
| 1965年3月期 | 142億円 | +5.2% | — | — | 無配転落と不良資産の一括処理 | |
| 1966年3月期 | 125億円 | ▲12.0% | — | — | ||
| 1967年3月期 | 142億円 | +13.6% | — | — | ||
| 1968年3月期 | 217億円 | +53.2% | — | — | 東北リコーを設立 | |
| 1969年3月期 | 338億円 | +55.8% | — | — | ||
| 1970年3月期 | 475億円 | +40.5% | — | — | ||
| 1971年3月期 | 653億円 | +37.5% | — | — | ||
| 1972年3月期 | 674億円 | +3.2% | — | — | ||
| 1973年3月期 | 752億円 | +11.6% | — | — |
参考文献4件
事実根拠:出所(リコー)