日東電工:マクセル電気工業の分離売却と偏光フィルムの製造
1950年〜茨木で始めたマクセル乾電池と、国産初のビニルテープ
1950年8月、日東電気工業はマクセルの名で乾電池の製造を始め、のちに録音機と録音テープへ品目を広げた。これで会社は、絶縁材料とマクセル製品という二つの部門を抱える体制になった。その2年前の1948年7月、日立製作所の持つ株式は持株整理委員会を通じて会社へ移り、資本のつながりは薄れていた。1959年にはトランジスタラジオの専用電池として「マクセル」乾電池が市場に出回り、売上の約30%を占めた。1957年には録音テープから一歩進めて、小型録音機の製造にも着手した。1959年の小型録音機は、北米と豪州への輸出を主な狙いとしていた。電機メーカーにしか売れない絶縁材料と異なり、一般の消費者へ売れる商品として、乾電池には独立後の収益源を増やす役が託されたとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [1]1950年(昭和25年)8月にマクセル乾電池を手始めに録音機・録音テープへ進出した
- [2]乾電池進出の後、絶縁材料とマクセル製品の両部門を持った
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [3]1948年(昭和23年)7月、日立の所有株式が持株整理委員会の手で会社に移り、従業員らが持つことになり日立との資本的つながりが薄くなった
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [4]1959年、トランジスタラジオ専用電池として「マクセル」乾電池が市場に出回り、売上内訳は各種テープ約35%・絶縁材料約35%・乾電池約30%
- [5]1957年(昭和32年)に録音テープから進んで小型録音機の製造に着手した
- [6]1959年時点で小型録音機(マクセルゼムフオン)はテストセールを終え、主に米国・カナダ・豪州への輸出を狙っていた
1946年秋に始めたブラックテープに続き、会社は1951年8月、塩化ビニルを基材とするビニルテープの製造に参入した。会社の沿革は、この年のビニルテープを初の国産化と記す。ビニルテープで業界の先頭に立ったのは、1949年に専務となった皆川利男氏だったという。1963年の経済情報は、会社が伸びた要因を絶縁テープで培った絶縁・粘着・接着の技術の応用に求めた。土方三郎副社長は1972年、テープが伸びた契機を電線の絶縁材料がプラスチックへ移ったことに置いた。電線の被覆材が変わる流れに、既存の顧客と塗工の技術をそのまま載せ替えられたことが、テープ参入の足場になったと推察される。
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [7]終戦の翌年(1946年)秋にブラックテープの製造を始めた
- [8]1951年(昭和26年)8月にビニルテープの製造に乗り出した
- [10]皆川利男はビニールテープで業界に先鞭をつけた人物と描かれる。1949年専務、1955年社長
- 日東電工公式サイト「沿革」(2026年9月時点)
- [9]1951年、ビニルテープを初めて国産化
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [11]発展の要因は絶縁テープの独自技術(絶縁・粘着・接着)の応用発展と一般事務用・包装用テープなどの新製品開拓
- 証券アナリストジャーナル 10(11) 1972年(土方三郎)
- [12]テープが大幅に伸びたきっかけは電線絶縁材料が天然材料からプラスチックに変わりだしたこと(副社長 土方三郎、1972年9月講演)
1959年の日東電気工業は、年4〜5割の売上増を続けており、以後も最低3割増を保つ方針を掲げた。談話に立ったのは、1957年に常務取締役となった土方三郎常務だった。土方三郎常務は当面の伸びを、在来製品の新しい用途と技術の進歩に見合う新製品に求めた。その談話の一節は『やはり当面は在来製品の新需要、新用途の開拓を中心に、関連技術の進歩に伴うより高度な要求に応じられる新製品を提供できるよう努めたい。(当社では三新運動と称している)』というものだった。将来は電気絶縁材料から、それに関連する化学工業製品へ進む考えも示した。1957年秋からは長期5カ年計画を進め、独立した研究機関に毎期売上の5%見当を充てた。1974年時点の三新運動の中身は、新製品の開発・新用途の開拓・新需要の創造の3つだった。1975年に数値目標を伴って掲げる三新活動は、1959年にすでにあったこの呼び名を引き継いだものと思われる。
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [13]1959年時点で年4〜5割の売上増ペース、今後は最低3割増を続けたいとの方針(土方常務の談話)
- [15]当面は在来製品の新需要・新用途の開拓と、関連技術の進歩に伴う高度な要求に応じる新製品の提供に努める(土方常務)
- [16]土方常務は談話の中で「当社では三新運動と称している」と述べた
- [17]将来は電気絶縁材料からそれに関連した化学工業製品に進む考え
- [18]1957年(昭和32年)秋より長期5カ年計画を推進中、独立した研究機関を設け研究費として毎期売上の5%見当を計上
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [14]土方三郎は1945年入社、1949年取締役、1957年(昭和32年)常務取締役、1961年専務取締役
- 日本企業要覧 1974年版「日東電工」
- [19]三新運動(新製品の開発・新用途の開拓・新需要の創造)を強力に展開
参考文献[1]-[19]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [1]1950年(昭和25年)8月にマクセル乾電池を手始めに録音機・録音テープへ進出した
- [2]乾電池進出の後、絶縁材料とマクセル製品の両部門を持った
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [3]1948年(昭和23年)7月、日立の所有株式が持株整理委員会の手で会社に移り、従業員らが持つことになり日立との資本的つながりが薄くなった
- [7]終戦の翌年(1946年)秋にブラックテープの製造を始めた
- [8]1951年(昭和26年)8月にビニルテープの製造に乗り出した
- [10]皆川利男はビニールテープで業界に先鞭をつけた人物と描かれる。1949年専務、1955年社長
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [4]1959年、トランジスタラジオ専用電池として「マクセル」乾電池が市場に出回り、売上内訳は各種テープ約35%・絶縁材料約35%・乾電池約30%
- [5]1957年(昭和32年)に録音テープから進んで小型録音機の製造に着手した
- [6]1959年時点で小型録音機(マクセルゼムフオン)はテストセールを終え、主に米国・カナダ・豪州への輸出を狙っていた
- [13]1959年時点で年4〜5割の売上増ペース、今後は最低3割増を続けたいとの方針(土方常務の談話)
- [15]当面は在来製品の新需要・新用途の開拓と、関連技術の進歩に伴う高度な要求に応じる新製品の提供に努める(土方常務)
- [16]土方常務は談話の中で「当社では三新運動と称している」と述べた
- [17]将来は電気絶縁材料からそれに関連した化学工業製品に進む考え
- [18]1957年(昭和32年)秋より長期5カ年計画を推進中、独立した研究機関を設け研究費として毎期売上の5%見当を計上
- [9]1951年、ビニルテープを初めて国産化
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [11]発展の要因は絶縁テープの独自技術(絶縁・粘着・接着)の応用発展と一般事務用・包装用テープなどの新製品開拓
- 証券アナリストジャーナル 10(11) 1972年(土方三郎)
- [12]テープが大幅に伸びたきっかけは電線絶縁材料が天然材料からプラスチックに変わりだしたこと(副社長 土方三郎、1972年9月講演)
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [14]土方三郎は1945年入社、1949年取締役、1957年(昭和32年)常務取締役、1961年専務取締役
- 日本企業要覧 1974年版「日東電工」
- [19]三新運動(新製品の開発・新用途の開拓・新需要の創造)を強力に展開
1959年〜マクセル電気工業の日立への売却と、豊橋工場・東証大証への上場
1961年2月、日東電気工業はマクセル部門を切り出し、事業を絶縁材料とテープの二つに絞り込んだ。分離した乾電池・録音テープ・小型録音機の部門には日立製作所の資本が入り、日立マクセルとなった。1973年時点でも会社は一部の株を持っていたが、資本のほとんどは日立が握っていた。1959年6月に吹田工場を建てて絶縁塗料部門を移し、1960年8月には千里丘工場へマクセル部門を移した。千里丘の乾電池工場に要る約1億5,000万円は、1960年1月払込みの倍額増資で賄った。1963年の経済情報は、分離後の会社が電気絶縁材料と化学工業材料を主力に据えて出発したと記した。家電の販売網を持つかつての親会社へ消費者向けの部門を渡すほうが、双方の事業の筋に合ったのだろう。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [20]1961年(昭和36年)2月にマクセル部門を分離独立させ、絶縁材料とテープの専門メーカーとして新しいスタートを切った
- [23]1959年6月に吹田工場を建設して絶縁塗料部門を、1960年8月に千里丘工場を建設してマクセル部門をそれぞれ移した
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [21]日立マクセルは日東電工の乾電池・録音テープ・小型録音機などの部門が分離し、日立の資本が入った会社(土方三郎、1973年10月講演の質疑)
- [22]1973年時点で日立マクセルのごく一部の資本は日東が持つが、ほとんどは日立の資本
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [24]乾電池工場を千里丘に移転新築中で、その資金約1億5,000万円を1960年1月16日払込みの倍額増資で調達し資本金3億円とする
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [25]乾電池・録音機・録音テープは分離独立させ、1961年に電気絶縁材料・化学工業材料を主力とする新しい会社が出発した
1962年5月、豊橋市に建てた3万坪の新工場が第一期工事を終えて動き出した。豊橋工場はテープ部門を広げるための主力工場となった。同じ1962年8月、株式を東京・大阪両証券取引所の第2部に上場した。上場の年には公募40万株を含む増資を行い、資本金を3億円から5億円に増やした。皆川利男社長は、吹田・豊橋の新工場に続いてニューヨークに駐在所を設け、販路を海外にも求めた。この時期、電線・重電機業界の在庫調整でワニスとクロスは伸び悩んだが、粘着テープ類が工業用・家庭用・事務用に伸びた。売上に占める一般化工材料の比率は、1963年には30%まで高まっていた。電機向けの絶縁材料が足踏みするなかで、伸びるテープへ量産の設備と上場で得た資金を寄せた構図と考えられる。
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [26]豊橋新工場(3万坪)の第一期工事は1962年(昭和37年)5月、第二期工事は1963年3月完成
- [29]資本金は1960年1月に3億円、1962年8月に5億円(1対0.6、公募40万株)
- [31]前期は電線・重電機業界の在庫調整でワニス・クロスが伸び悩んだが、粘着テープ類が工業用・一般家庭・事務用に伸びた
- [32]1963年時点で絶縁材料70%に対し一般化工材料が30%に高まった
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [27]1962年5月に現在の主力工場である豊橋工場を建設してテープ部門を拡充した
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [28]1962年(昭和37年)8月に東京・大阪両証券市場第2部に上場
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [30]皆川社長は吹田・豊橋に新工場を建設し、ニューヨークに駐在所をつくり、1962年8月に東西両市場に株式を公開した
1967年9月、日東電気工業は埼玉県に関東工場を建て、関東にも生産の拠点を持った。関東工場は、絶縁材料・テープに続く第三の柱として樹脂成形品部門を担った。成形品の核は、1966年3月に米国のアライドプロダクツ社と結んだEP製品の技術提携だった。このEパックシステムはエポキシ樹脂でシリコンダイオードなどを密封する方法で、1966年3月に専用機を輸入して本格生産に入った。関東工場は、弱電・通信機メーカーから急増したEパックの需要に応える場とされた。1966年9月期には一般化工材の比率が53.3%となり、初めて絶縁材を上回った。1968年の社長は皆川利男氏で、従業員は1,500名に増えていた。重電・電線に偏った顧客を、成長の早い弱電・電子部品の側へ広げる狙いがあったと推測される。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [33]1967年(昭和42年)9月に埼玉県に関東工場を建設し、関東地区に生産の拠点を持った
- [34]関東工場の建設とともに、絶縁材料・テープに続く第三の柱として樹脂成形品部門に進出した
- [39]1968年時点の社長は皆川利男、従業員1,500名
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [35]1966年(昭和41年)3月に米国アライドプロダクツ社とEP製品に関する技術提携
- 週刊日本経済 20(13) 1967年3月30日号
- [36]Eパックシステムはエポキシ樹脂によるシリコンダイオードなどの密封方法で、1966年3月に専門機を輸入して本格生産に入った
- [37]関東新工場(埼玉県深谷市)の主目的は弱電・通信機メーカーから需要が急増しているEパックシステムの強化
- [38]1966年9月期は絶縁材46.7%・一般化工材53.3%で、初めて化工材が絶縁材を上回った
参考文献[20]-[39]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [20]1961年(昭和36年)2月にマクセル部門を分離独立させ、絶縁材料とテープの専門メーカーとして新しいスタートを切った
- [23]1959年6月に吹田工場を建設して絶縁塗料部門を、1960年8月に千里丘工場を建設してマクセル部門をそれぞれ移した
- [27]1962年5月に現在の主力工場である豊橋工場を建設してテープ部門を拡充した
- [33]1967年(昭和42年)9月に埼玉県に関東工場を建設し、関東地区に生産の拠点を持った
- [34]関東工場の建設とともに、絶縁材料・テープに続く第三の柱として樹脂成形品部門に進出した
- [39]1968年時点の社長は皆川利男、従業員1,500名
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [21]日立マクセルは日東電工の乾電池・録音テープ・小型録音機などの部門が分離し、日立の資本が入った会社(土方三郎、1973年10月講演の質疑)
- [22]1973年時点で日立マクセルのごく一部の資本は日東が持つが、ほとんどは日立の資本
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [24]乾電池工場を千里丘に移転新築中で、その資金約1億5,000万円を1960年1月16日払込みの倍額増資で調達し資本金3億円とする
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [25]乾電池・録音機・録音テープは分離独立させ、1961年に電気絶縁材料・化学工業材料を主力とする新しい会社が出発した
- [26]豊橋新工場(3万坪)の第一期工事は1962年(昭和37年)5月、第二期工事は1963年3月完成
- [29]資本金は1960年1月に3億円、1962年8月に5億円(1対0.6、公募40万株)
- [31]前期は電線・重電機業界の在庫調整でワニス・クロスが伸び悩んだが、粘着テープ類が工業用・一般家庭・事務用に伸びた
- [32]1963年時点で絶縁材料70%に対し一般化工材料が30%に高まった
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [28]1962年(昭和37年)8月に東京・大阪両証券市場第2部に上場
- [35]1966年(昭和41年)3月に米国アライドプロダクツ社とEP製品に関する技術提携
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [30]皆川社長は吹田・豊橋に新工場を建設し、ニューヨークに駐在所をつくり、1962年8月に東西両市場に株式を公開した
- 週刊日本経済 20(13) 1967年3月30日号
- [36]Eパックシステムはエポキシ樹脂によるシリコンダイオードなどの密封方法で、1966年3月に専門機を輸入して本格生産に入った
- [37]関東新工場(埼玉県深谷市)の主目的は弱電・通信機メーカーから需要が急増しているEパックシステムの強化
- [38]1966年9月期は絶縁材46.7%・一般化工材53.3%で、初めて化工材が絶縁材を上回った
1967年〜月商10億円プランとNitto Denko America、電機向け28%への低下
1968年2月、戦後12回目の増資で資本金は15億7,500万円となり、月商10億円プランを達成した。このプランは不況の1963年に打ち出したもので、不況期を通じて実現した。1966年9月期の平均月商は5億4,400万円強で、そこから2倍近くまで伸ばした計算になる。1967年度にはテープ類が売上の68%を占め、業界での比率も約50%に達した。1966年9月期の輸出は約4億4,000万円で、売上の13.5%を占めていた。1969年1月には米国に現地法人のアメリカ日東電気工業を設けた。1970年に皆川利男社長は、西ドイツにも販売会社を置き、輸出比率を9%から20%に上げる考えを示した。テープで国内の半分を押さえたことで、次の伸びしろを国外の市場に求めたものと読める。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [40]1968年(昭和43年)2月、戦後12回目の増資で資本金15億7,500万円とし「月商10億円プラン」を達成。同年10月に創立50周年
- [43]テープ類は1967年度販売高の68%、業界に占める比率も約50%
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [41]不況の1963年(昭和38年)に月商10億円プランを打ち出し、不況期を通じて実現した(土方三郎、1973年)
- 週刊日本経済 20(13) 1967年3月30日号
- [42]1966年9月期の平均月間売上は5億4,400万円強(前々期4億200万円)。創立50周年を目標に「十億円プラン」を推進
- [44]1966年9月期の輸出は約4億4,000万円で売上の13.5%、主にカナダ・北米向け
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [45]1969年(昭和44年)1月にアメリカ日東電気工業(株)を設立
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [46]1970年時点で輸出は9%。米国の現地法人に続き西ドイツ・デュッセルドルフに販売会社を設け、輸出比率を20%にしたい考え(皆川社長)
1970年時点の売上構成は、絶縁材料13%、テープ類69%、成形品18%だった。皆川利男社長はテープの比重を認めつつ、総合的な多角経営を方針に掲げた。今後の製品について皆川利男社長は、『あらゆる成型品をくみ合わせて加工度の高いものを中心に手がけていく』と語った。1972年には、電機業界向けの販売の比率が35%まで下がっていた。1973年には電機向けは28%となり、7割強が包装・自動車・住宅・医療などの一般産業資材に広がった。技術者は全従業員の13〜14%を占め、材料開発から加工まで一貫して手がける体制を取った。社名について問われた土方三郎氏は、『当社の出発が電気絶縁材料なので「日東電気工業」となっているが、中身は化学工業である。』と答えた。電機業界の設備投資の波をそのまま受けない顧客構成が、この数年で形になったとうかがえる。
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [47]1970年時点で絶縁材料13%・テープ類69%・第三の柱の成型品部門18%、輸出は全体の9%
- [48]皆川は総合的多角経営を目指すことを経営方針とし、テープの比重はまだ重いとした
- [49]皆川は、あらゆる成型品を組み合わせ加工度の高いものを中心に手がけていくと述べた(1970年)
- 証券アナリストジャーナル 10(11) 1972年(土方三郎)
- [50]かつて主力製品の全量を電機業界へ販売していたが、1972年時点で電機業界への販売は35%に低下(副社長 土方三郎)
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [51]1973年時点で電機業界向けの売上は28%、70%強は包装・ステンレス・自動車・住宅・医療・消費財など一般産業資材(土方三郎)
- [52]研究開発分野の技術者が全従業員の13〜14%を占め、材料開発から加工・システム開発まで一貫した体制(1973年)
- [53]社名変更の考えを問われ、出発が電気絶縁材料なので日東電気工業だが中身は化学工業だと答えた(1973年10月講演の質疑)
1973年、日東電気工業は耐熱性に優れた安価な基板用フィルムを得て、フレキシブルなプリント基板に取り組んだ。土方三郎副社長は、基板を単体で売れば、先に参入した各社と価格で競り合うことになるとみていた。そこで米国のサンダース社から技術を入れ、顧客ごとの仕様に応じて仕上げ工程まで自社で請け負う方針を取った。三重県の亀山地区には4万坪ほどを買い増し、電子材料の専門工場にする構想も示した。1973年10月の土方三郎副社長は、1974年9月期の景気の減速に備え、新製品の開発などで補う対策を急いでいた。1974年3月期の売上高は234億3,300万円と前期比32.7%増えた。原材料の高騰が響き、税引後利益の伸びは4.9%にとどまった。1974年6月、副社長の土方三郎氏が取締役社長に就任した。
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [54]耐熱性にすぐれ安価で性能のいい基板用フィルムができ、銅板と張り合わせるとフレキシブルなプリント基板ができる(1973年)
- [55]基板だけでは先発メーカーとの値段競争になるだけで妙味がないと土方三郎は述べた
- [56]米国サンダース社から技術を入れ、粉末樹脂・成形品・注形品・基板など顧客の要望に合わせて最後の加工まで行う
- [57]三重県亀山地区に土地4万坪ほどを買い増し、電子材料専門工場にしようと考えている
- [58]1974年9月期の不況に備え、新需要の創造・新用途の開拓・新製品の開発に努力していると述べた(1973年10月1日講演)
- 日本企業要覧 1974年版「日東電工」
- [59]1974年3月期の売上高は234億3,300万円で前期比32.7%増
- [60]原材料の高騰が強い圧迫となり、1974年3月期の税引後利益は前期比4.9%増の約14億7,700万円。9月期も利益率はやや低下の見込み
- [61]土方三郎は1971年11月取締役副社長、1974年6月取締役社長
参考文献[40]-[61]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [40]1968年(昭和43年)2月、戦後12回目の増資で資本金15億7,500万円とし「月商10億円プラン」を達成。同年10月に創立50周年
- [43]テープ類は1967年度販売高の68%、業界に占める比率も約50%
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- [41]不況の1963年(昭和38年)に月商10億円プランを打ち出し、不況期を通じて実現した(土方三郎、1973年)
- [51]1973年時点で電機業界向けの売上は28%、70%強は包装・ステンレス・自動車・住宅・医療・消費財など一般産業資材(土方三郎)
- [52]研究開発分野の技術者が全従業員の13〜14%を占め、材料開発から加工・システム開発まで一貫した体制(1973年)
- [53]社名変更の考えを問われ、出発が電気絶縁材料なので日東電気工業だが中身は化学工業だと答えた(1973年10月講演の質疑)
- [54]耐熱性にすぐれ安価で性能のいい基板用フィルムができ、銅板と張り合わせるとフレキシブルなプリント基板ができる(1973年)
- [55]基板だけでは先発メーカーとの値段競争になるだけで妙味がないと土方三郎は述べた
- [56]米国サンダース社から技術を入れ、粉末樹脂・成形品・注形品・基板など顧客の要望に合わせて最後の加工まで行う
- [57]三重県亀山地区に土地4万坪ほどを買い増し、電子材料専門工場にしようと考えている
- [58]1974年9月期の不況に備え、新需要の創造・新用途の開拓・新製品の開発に努力していると述べた(1973年10月1日講演)
- 週刊日本経済 20(13) 1967年3月30日号
- [42]1966年9月期の平均月間売上は5億4,400万円強(前々期4億200万円)。創立50周年を目標に「十億円プラン」を推進
- [44]1966年9月期の輸出は約4億4,000万円で売上の13.5%、主にカナダ・北米向け
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- [45]1969年(昭和44年)1月にアメリカ日東電気工業(株)を設立
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [46]1970年時点で輸出は9%。米国の現地法人に続き西ドイツ・デュッセルドルフに販売会社を設け、輸出比率を20%にしたい考え(皆川社長)
- [47]1970年時点で絶縁材料13%・テープ類69%・第三の柱の成型品部門18%、輸出は全体の9%
- [48]皆川は総合的多角経営を目指すことを経営方針とし、テープの比重はまだ重いとした
- [49]皆川は、あらゆる成型品を組み合わせ加工度の高いものを中心に手がけていくと述べた(1970年)
- 証券アナリストジャーナル 10(11) 1972年(土方三郎)
- [50]かつて主力製品の全量を電機業界へ販売していたが、1972年時点で電機業界への販売は35%に低下(副社長 土方三郎)
- 日本企業要覧 1974年版「日東電工」
- [59]1974年3月期の売上高は234億3,300万円で前期比32.7%増
- [60]原材料の高騰が強い圧迫となり、1974年3月期の税引後利益は前期比4.9%増の約14億7,700万円。9月期も利益率はやや低下の見込み
- [61]土方三郎は1971年11月取締役副社長、1974年6月取締役社長
1950年〜1974年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 吹田工場を建設して絶縁塗料部門を移す(1959/06) |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 豊橋新工場の第二期工事が完成(1963/03) |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 71 | n/a | n/a | 4 | 5.6% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 98 | +38.0% | n/a | 6 | 6.1% | 関東事業所操業(1967/09) |
| 1969年03月期 | 単体 | 135 | +37.8% | n/a | 10 | 7.4% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 174 | +28.9% | n/a | 14 | 8.0% | 亀山事業所操業(1969/10)Nitto Denko (Taiwan) Corporationを設立(1969/12) |
| 1971年03月期 | 単体 | 207 | +19.0% | 29 | 17 | 8.2% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 216 | +4.3% | 29 | 17 | 7.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 262 | +21.3% | 37 | 20 | 7.6% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 411 | +56.9% | 64 | 29 | 7.1% | Nitto Europe NV(現 Nitto Belgium NV)を設立(1974/02) |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- 経済情報 14(7) 1963年7月号「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- 週刊日本経済 20(13) 1967年3月30日号
- オール大衆 23(19) 1970年10月号「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- 証券アナリストジャーナル 10(11) 1972年(土方三郎)
- 証券アナリストジャーナル 11(11) 1973年(土方三郎)
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- 日本企業要覧 1970年版「日東電工」
- 日本企業要覧 1974年版「日東電工」
- 日東電工公式サイト「沿革」(2026年9月時点)