日東電工:絶縁ワニスの国産化と日立製作所傘下からの独立
1918年〜輸入の途絶えた電気絶縁材料の国産化と、販売の難しいワニスでの伸び悩み
日東電気工業は1918年10月、東京・大崎で既存の絶縁材料メーカーの事業を引き継いで発足した。資本金は20万円で、手がけたのはワニスクロスとワニスペーパーの製造販売であった。当時、国内の電気絶縁材料は輸入に依存しており、第1次世界大戦でその輸入が途絶えたことが設立のきっかけであった。後年の有価証券報告書の沿革も、設立の目的を電気絶縁材料の国産化と記している。創業期の品目には、布や紙の絶縁材に加えて電気絶縁用の塗料も含まれていた。会社は1963年の記事で、創立の年を国内の電気産業がようやく発展に向かおうとした時期と位置づけた。絶縁材料は電気機器に欠かせない部材であり、輸入が止まれば機器の生産も滞るため、国産の供給元には買い手が見込めたと考えられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [1]1918年10月、東京・大崎の絶縁材料の会社を譲り受けて日東電気工業を設立
- [2]設立時の資本金20万円、電気絶縁布管紙類(ワニスクロス・ワニスペーパー)の製造販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年(浅田常夫 常務取締役 講演要旨、1993年11月17日)
- [3]設立前の国内の電気絶縁材料は輸入依存。第1次世界大戦で輸入が途絶し、国産化のため設立
- 日東電工 有価証券報告書 第160期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1918年10月、電気絶縁材料の国産化を目的として日東電気工業を設立(東京・大崎)
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [5]大正7年に東京で誕生し、電気絶縁用の塗料および布紙の製造から出発
- 経済情報 14(7) 1963年7月「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [6]電気産業がようやく発展に向かおうとする大正7年に創立され、以来絶縁材料メーカー一途に歩んだ
日東電気工業の資本金は、設立時の20万円のまま1941年12月まで増えなかった。1958年10月の創業40周年式典では、日立製作所の高尾直三郎氏が祝辞に立ち、苦難の続いた40年として会社の歩みを位置づけた。高尾直三郎氏はその原因を主力品に求め、『主たる取扱品目がワニスであったためでして、ワニスは良品を作るに困難で、良否の見分けがつけにくく、したがって売るにも困難であるからであります。』と述べた。一方、電気機器メーカーの日立製作所は社内に絶縁部門を持ち、横田兼吉氏がその創業者であった。戦前の日東電気工業が作っていたのは、ワニスコンパウンドやワニスクロスといった絶縁材料であった。大手の電機メーカーが絶縁材料を自前で作れる中で、品質を見極めにくい材料の納入を広げるのは難しかったと推察される。
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [7]資本の推移:大正7年11月20万円、昭和16年12月75万円
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- [8]昭和33年10月25日の日東電気工業創業40周年式典の祝辞で、40年の歴史は苦難の連続ともいえると述べた
- [9]苦難の理由は主たる取扱品目がワニスで、良品を作りにくく良否の見分けがつけにくく売りにくいため
- [10]横田兼吉は日立の絶縁部門の創業者
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [11]大正7年の設立後、ワニスコンパウンドやワニスクロスなど電気絶縁材料の製造販売を行った
参考文献[1]-[11]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [1]1918年10月、東京・大崎の絶縁材料の会社を譲り受けて日東電気工業を設立
- [2]設立時の資本金20万円、電気絶縁布管紙類(ワニスクロス・ワニスペーパー)の製造販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年(浅田常夫 常務取締役 講演要旨、1993年11月17日)
- [3]設立前の国内の電気絶縁材料は輸入依存。第1次世界大戦で輸入が途絶し、国産化のため設立
- 日東電工 有価証券報告書 第160期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1918年10月、電気絶縁材料の国産化を目的として日東電気工業を設立(東京・大崎)
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [5]大正7年に東京で誕生し、電気絶縁用の塗料および布紙の製造から出発
- [7]資本の推移:大正7年11月20万円、昭和16年12月75万円
- 経済情報 14(7) 1963年7月「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- [6]電気産業がようやく発展に向かおうとする大正7年に創立され、以来絶縁材料メーカー一途に歩んだ
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- [8]昭和33年10月25日の日東電気工業創業40周年式典の祝辞で、40年の歴史は苦難の連続ともいえると述べた
- [9]苦難の理由は主たる取扱品目がワニスで、良品を作りにくく良否の見分けがつけにくく売りにくいため
- [10]横田兼吉は日立の絶縁部門の創業者
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [11]大正7年の設立後、ワニスコンパウンドやワニスクロスなど電気絶縁材料の製造販売を行った
1937年〜日立製作所の経営下での鎌居大蔵氏、茨木への本拠移転と独立
1937年、日東電気工業は日立製作所の経営下に入った。両社の関係は、日立の平井政一氏の骨折りで始まったという。経営を引き受けたのは、1914年に日立へ入社し、試験・検査の部門を担ってきた鎌居大蔵氏であった。鎌居大蔵氏は絶縁物の製造を経験していなかったが、日立の検査で貫いた考え方をこの会社にも当てはめようとし、高尾直三郎氏の家で一日かけて話し合った。鎌居大蔵氏が日東電気についてたびたび口にした言葉は、『これは神の思召しにかなうような工場にするから、見ていてくれ』というものだった。良否の見分けにくいワニスの作り手に、買い手側の検査の担い手を送り込んだ人選には、品質の管理から立て直す狙いがあったと思われる。
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [12]昭和12年に日立製作所の経営下に入った
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- [13]日東電気工業が日立と関係を持ったのは平井政一の骨折りによる
- [15]鎌居の日立での経験は検査で絶縁物の製造ではないが、日東電気を引き受ける際に従来の信念を適用したいと考え、高尾の家で一日話し合った
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「鎌居大蔵君の思い出」
- [14]鎌居大蔵は大正3年に日立へ入社し、入社後はずっと試験を担当
- [16]鎌居は日東電気について「神の思召しにかなうような工場にする」と高尾にたびたび言った
1941年12月、日東電気工業はワニスペイント会社の茨木工場を買収し、西日本に生産の足場を得た。同じ月に資本金を20万円から75万円へ増やした。1944年には日立の社員だった皆川利男氏が、この茨木工場の工場長として移ってきた。1945年5月、大崎の本社工場が戦火で焼け、跡地はのちに売却された。1946年7月に本社を茨木へ移し、生産は茨木工場だけで続けた。同じ年の10月にはブラックテープの製造を始め、テープ事業に踏み出した。これで従来の絶縁布管紙と絶縁塗料にテープ類が加わり、絶縁材料をまとめて供給する体制が整った。東京の拠点を失ったあとも生産を続けられたのは、戦前に西日本の工場を取得していたためとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [17]昭和16年12月、ワニスペイント会社の茨木工場を買収して西日本に進出
- [20]昭和20年5月、大崎の本社工場を戦火で焼失し、のちに売却
- [21]昭和21年7月に本社を茨木へ移し、生産を茨木工場のみで続行
- [23]戦後、従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に加えて絶縁テープ類に進出し、絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整えた
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [18]資本の推移:大正7年11月20万円、昭和16年12月75万円
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [19]皆川利男は大正14年から日立の社員で、昭和19年に茨木工場長として日東電気工業に移った
- 日東電工 有価証券報告書 第160期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1946年10月、ブラックテープの製造を開始しテープ事業に進出
1948年7月、日立製作所が持っていた日東電気工業の株式は、持株整理委員会の手で会社へ移された。移った株式は従業員などが持つことになり、日立との資本のつながりは薄れた。資本金は1948年12月に225万円、1949年8月に500万円へと続けて増やした。それでも1970年の時点で、重役のほとんどは日立出身者が占めていた。日立の高尾直三郎氏も、終戦後の苦しい時期の会社の様子を書類や報告で聞き続けていた。1940年代後半から1950年代にかけての経営も、日立の後ろ盾に依存していたという。資本の上での独立は会社の選択ではなく、財閥解体に伴う持株整理が外からもたらしたものだったのだろう。
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [24]昭和23年7月、日立の所有株式が持株整理委員会の手で同社に移った
- [25]移った株式は従業員などで持つことになり、日立との資本的つながりが薄くなった
- [27]1970年時点でも重役のほとんどが日立出身
- [29]昭和20年代は日立に頼らなければ成り立たず、子会社的な色合いが強かった
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [26]資本の推移:昭和23年12月225万円、昭和24年8月500万円
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- [28]高尾は終戦後の苦悩の時もその後の発展の時も、書類または報告で日東電気の様子を聞いていた
参考文献[12]-[29]
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」
- [12]昭和12年に日立製作所の経営下に入った
- [19]皆川利男は大正14年から日立の社員で、昭和19年に茨木工場長として日東電気工業に移った
- [24]昭和23年7月、日立の所有株式が持株整理委員会の手で同社に移った
- [25]移った株式は従業員などで持つことになり、日立との資本的つながりが薄くなった
- [27]1970年時点でも重役のほとんどが日立出身
- [29]昭和20年代は日立に頼らなければ成り立たず、子会社的な色合いが強かった
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- [13]日東電気工業が日立と関係を持ったのは平井政一の骨折りによる
- [15]鎌居の日立での経験は検査で絶縁物の製造ではないが、日東電気を引き受ける際に従来の信念を適用したいと考え、高尾の家で一日話し合った
- [28]高尾は終戦後の苦悩の時もその後の発展の時も、書類または報告で日東電気の様子を聞いていた
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「鎌居大蔵君の思い出」
- [14]鎌居大蔵は大正3年に日立へ入社し、入社後はずっと試験を担当
- [16]鎌居は日東電気について「神の思召しにかなうような工場にする」と高尾にたびたび言った
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- [17]昭和16年12月、ワニスペイント会社の茨木工場を買収して西日本に進出
- [20]昭和20年5月、大崎の本社工場を戦火で焼失し、のちに売却
- [21]昭和21年7月に本社を茨木へ移し、生産を茨木工場のみで続行
- [23]戦後、従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に加えて絶縁テープ類に進出し、絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整えた
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- [18]資本の推移:大正7年11月20万円、昭和16年12月75万円
- [26]資本の推移:昭和23年12月225万円、昭和24年8月500万円
- 日東電工 有価証券報告書 第160期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1946年10月、ブラックテープの製造を開始しテープ事業に進出
出典・参考
8件
- 日東電工 有価証券報告書 第160期(2025年3月期)【沿革】
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日東電気工業」(1968年)
- 証券アナリストジャーナル 31(12) 1993年(浅田常夫 常務取締役 講演要旨、1993年11月17日)
- 野田経済 (690) 1959年12月28日号
- 経済情報 14(7) 1963年7月「絶縁材料の総合メーカー 日東電気工業」
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「日東電気工業株式会社四十周年式典および鎌居君胸像除幕式祝辞」
- 高尾直三郎『日立とその人々』(1965年)「鎌居大蔵君の思い出」
- オール大衆 23(19) 1970年10月「≪シリーズ・現代の成功者≫材料革命の推進者――日東電工」