ブラザー工業:三証券取引所上場と情報機器への主力交代
1958年〜事務機・工作機械への進出と、三証券取引所への株式公開
1961年前半、日本ミシン製造は欧文ポータブルタイプライターと学校教育用精密小型旋盤で、事務用機器と工作機械の2分野へ同時に進出した。事務機では高い精度を要する活字のプレス技術だけを持っておらず、ヨーロッパの活字専門メーカーから買えばただちに生産へ入れたが、その最短距離を取らずに活字の製造技術へ自ら取り組んだ。ミシン製造に要る工作機械を買う金がなく、製造した第一号がその工作機械だった。この出発点から、必要な技術は回り道をしてでも社内に取り込むという判断が、以後も繰り返されることになる。1958年に米国の雑誌に載った自動加工ラインの記事を頼りに、同じ設備を手探りで自前で組み上げたのも、その一例である。回り道を重ねた末、世界全体で作られる欧文タイプライターの10分の1が同社製となった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1961年 事務用機器の分野に進出し欧文ポータブルタイプライターの製造を開始
- [2]1961年 工作機械の分野に進出し学校教育用精密小型旋盤の製造を開始
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [3]タイプライター進出時、活字のプレス技術だけを欠いていたがヨーロッパの活字専門メーカーから買わず自社で技術開発した
- [4]ミシンを作る工作機械を買う資金がなかったため工作機械から作り始め、製造第一号は工作機械であった
- [5]1958年 米国の雑誌に掲載された自動加工ラインの情報をもとに見よう見まねで同じ設備を作り上げた
- [6]欧文タイプライターの生産量は全世界の10分の1を占めるまでになった
1961年7月、名古屋市瑞穂区堀田通に新しい本社ビルが竣工した。1959年9月の伊勢湾台風では山崎川の決壊で本社一階と各工場が浸水し、数日間の全工場操業停止と1億7,700万円の被害を出していたため、新ビルは一階の床を路面より80センチ高くした。多角化が進むと日本ミシン製造という商号が事業の範囲を映さなくなり、管理職全員へのアンケートを経て、1962年7月に商号をブラザー工業へ改めた。株式の公開は、ミシンを本業とするメーカーとしては3番目であった。正義氏本人は公開に乗り気でなかったが、副社長を務める弟の実一氏が、同族による経営はもはや限界だとして強く推した。その結果、1963年1月に東京・大阪・名古屋の三証券取引所で第二部に上場し、翌1964年4月には第一部へ移った。
- 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
- [7]1961年7月 名古屋市瑞穂区堀田通に本社ビルが竣工し、一階を路面より80センチ高くした
- [8]1959年9月の伊勢湾台風で山崎川が決壊し本社と各工場が浸水、数日間全工場の操業を停止し被害額は1億7,700万円に達した
- [9]1962年7月 管理職全員へのアンケートを経て商号を日本ミシン製造からブラザー工業へ変更
- [10]ミシンを主業とするメーカーとしては3番目の株式公開であった
- [11]株式公開に安井正義は消極的で、副社長の安井実一が同族経営はもう限界だとして積極論を唱えた
- [12]1963年1月 東京・大阪・名古屋の三証券取引所第二部へ上場し、1964年4月に第一部へ昇格
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [13]1963年 東京・名古屋・大阪の三証券取引所へ株式を公開
正義氏は1950年に訪米した際、家庭電化製品の伸びを確信したものの、販売網が弱いことを理由に生産には踏み出していない。販売面では1955年ごろから、特約店頼みの体制を直営店と資本提携店に切り替える方針が取られた。戦前から現金での取引と保証金の差し入れを条件に一流の特約店を確保してきたので、業績は順調だった。それでも正義氏は、今の特約店網のままではこの先の競争を勝ち抜けないと見た。特約店を刺激しないよう、直営店はまず成績の振るわない地域や販売の地盤が弱い地域から出した。関係を断ちにくい特約店には出資し、実質的に直営店として機能させた。切り替えを積み重ねた結果、1965年には売上の80%を直営店と資本提携店が稼ぐ形になった。流通が自前になって初めて、ミシン以外の品目を同じ経路へ流せるようになった。
- 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
- [14]安井正義は1950年の渡米で家庭電化製品が伸びると確信したが、販売網の弱さから生産に踏み切れなかった
- [15]戦前から現金取引と保証金を条件に一流の特約店と取引し、販売成績は順調であった
- [16]1955年ごろに予約販売を考案し、従来どおりの特約店だけでは今後の競争に耐えられないと判断した
- [17]成績の悪い地域や販売地盤の弱い地域に直営店を出し、断れない特約店には資本を投入して直営店と同じ働きをさせた
- [18]1965年時点で売上の80%が直営店および資本提携店によるものへ変わっていた
参考文献[1]-[18]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1961年 事務用機器の分野に進出し欧文ポータブルタイプライターの製造を開始
- [2]1961年 工作機械の分野に進出し学校教育用精密小型旋盤の製造を開始
- [13]1963年 東京・名古屋・大阪の三証券取引所へ株式を公開
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [3]タイプライター進出時、活字のプレス技術だけを欠いていたがヨーロッパの活字専門メーカーから買わず自社で技術開発した
- [4]ミシンを作る工作機械を買う資金がなかったため工作機械から作り始め、製造第一号は工作機械であった
- [5]1958年 米国の雑誌に掲載された自動加工ラインの情報をもとに見よう見まねで同じ設備を作り上げた
- [6]欧文タイプライターの生産量は全世界の10分の1を占めるまでになった
- 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
- [7]1961年7月 名古屋市瑞穂区堀田通に本社ビルが竣工し、一階を路面より80センチ高くした
- [8]1959年9月の伊勢湾台風で山崎川が決壊し本社と各工場が浸水、数日間全工場の操業を停止し被害額は1億7,700万円に達した
- [9]1962年7月 管理職全員へのアンケートを経て商号を日本ミシン製造からブラザー工業へ変更
- [10]ミシンを主業とするメーカーとしては3番目の株式公開であった
- [11]株式公開に安井正義は消極的で、副社長の安井実一が同族経営はもう限界だとして積極論を唱えた
- [12]1963年1月 東京・大阪・名古屋の三証券取引所第二部へ上場し、1964年4月に第一部へ昇格
- 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
- [14]安井正義は1950年の渡米で家庭電化製品が伸びると確信したが、販売網の弱さから生産に踏み切れなかった
- [15]戦前から現金取引と保証金を条件に一流の特約店と取引し、販売成績は順調であった
- [16]1955年ごろに予約販売を考案し、従来どおりの特約店だけでは今後の競争に耐えられないと判断した
- [17]成績の悪い地域や販売地盤の弱い地域に直営店を出し、断れない特約店には資本を投入して直営店と同じ働きをさせた
- [18]1965年時点で売上の80%が直営店および資本提携店によるものへ変わっていた
1965年〜技術と販路の重なりで品目を増やした「余力」の多角化
多角化の品目は、技術と販売の両面で既存の事業と共通するものに限られた。家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から出発し、ミシンと編機の技術を総合して欧文タイプライターが開発された。電動オルガンでは、ミシンのモーターと、ミシンテーブルの生産設備と、音を出す笛のプレス技術がそのまま転用でき、買い手もミシンと同じ家庭の主婦で販路を使い回せた。この広げ方は、本業ではなく余力でやるという基本思想に立つもので、本業に余裕が出たときへ空いた畔に大豆を播く形に近かった。編機・タイプライター・電卓・洗濯機・扇風機まで、品目の広がりはすべてこの発想から出ていた。既存の設備と販路の隙間を探して種を播く手順が、装置として反復された。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [19]事業は多岐にわたるが「技術と販売の両面で共通のものにかぎる」という基本方針が通っていた
- [20]家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から出発し、ミシンと編機の技術を総合して欧文タイプライターが開発された
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [21]電動オルガンはミシンのモーター・ミシンテーブルの生産設備・プレス技術が使え、買い手も同じ家庭の主婦で販路を流用できた
- [22]安井信之常務は多角化を、本業に余裕が出たときに空いた畔へ大豆を播くようなものだと説明した
- [23]編機・タイプライター・電卓・洗たく機・扇風機など多角化はすべて同じ発想から出ている
本業のミシンが売上の4割を切っても収益が崩れなかったのは、非本業の各部門がそれぞれ収益源になっていたからである。1968年5月期に193億円だった売上高の内訳は、ミシン39%、家庭電器24%、編機19%、事務機11%、工作機械ほか7%だった。1977年11月期には売上高が1,018億2,600万円へ伸び、ミシン37.1%、事務機18.6%、家庭電器18.1%、工作機械ほか16.2%、編機10.0%と、事務機と工作機械の比重が上がった。国内シェアは編機56%、家庭用ミシン33%、欧文タイプライター31%がいずれも首位、電動オルガンは22%で第二位を争った。ブラザー工業とブラザーミシン販売を合わせた1977年度の経常利益147億1,700万円は、蛇の目ミシン工業の54億8,200万円、リッカーの28億5,200万円を上回っていた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [24]1968年5月期の売上高は193億円で、ミシン39%・家庭電器24%・編機19%・事務機11%・工作機械など7%の構成だった
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [25]1977年11月期のブラザー工業の年間売上高は1,018億2,600万円、純利益45億4,200万円
- [26]1977年11月期の製品別売上構成はミシン37.1%・事務機18.6%・家庭電器18.1%・工作機械ほか16.2%・編み機10.0%
- [27]主要製品の国内推定シェアは編み機56%・家庭用ミシン33%・タイプライター31%がいずれも1位、電動オルガンは22%で第2位
- [28]1977年度の経常利益はブラザー工業とブラザーミシン販売の合計で147億1,700万円、蛇の目54億8,200万円、リッカー28億5,200万円
1976年3月、ブラザー工業はリッカーとほぼ同時期に電子式ミシンを発売しながら、販売促進の号令をかけなかった。新製品の販促に大号令をかけると新製品は売れるが既存商品の販売活動がおろそかになり、全体では差し引き損になるという体験から、新製品は余力で売るという教訓を守ったためである。1977年の電子式ミシンの国内推定シェアはリッカーが6割強、ブラザーが3割強にとどまり、家庭用ミシン全体でもブラザーのシェアは二年前より2ポイント低い33%へ下がった。安井実一社長のもとで、シェアの低下は一時的なものとみなされ、顧客の望む製品であれば売上は確実に伸びるという読みに置かれた。もうかる仕事は競争相手を呼んで長続きしないため損をしない仕事を選ぶという基準が、この消極策の下敷きにあった。
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [29]1976年3月にリッカーとブラザー工業が電子式ミシンを発売したが、ブラザーは発売当初に大号令をかけず余力で取り組んだ
- [30]新製品の販売促進に大号令をかけると既存商品の販売活動がおろそかになり全体ではマイナスになるという体験から「新製品は余力で」の教訓があった
- [31]1977年の電子式ミシンの国内推定シェアはブラザー3割強・リッカー6割強、家庭用ミシンのシェアはブラザーが2ポイント減の33%
- [32]安井実一社長はシェアを食われても一時的なことで、顧客の望むものなら売上は確実に伸びると述べた
- 日経ビジネス 1975年3月3日号
- [33]もうかる仕事は競争相手が現れて長続きしないため、損をしない仕事を選ぶことを常に意識してきた
参考文献[19]-[33]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [19]事業は多岐にわたるが「技術と販売の両面で共通のものにかぎる」という基本方針が通っていた
- [20]家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から出発し、ミシンと編機の技術を総合して欧文タイプライターが開発された
- [24]1968年5月期の売上高は193億円で、ミシン39%・家庭電器24%・編機19%・事務機11%・工作機械など7%の構成だった
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [21]電動オルガンはミシンのモーター・ミシンテーブルの生産設備・プレス技術が使え、買い手も同じ家庭の主婦で販路を流用できた
- [22]安井信之常務は多角化を、本業に余裕が出たときに空いた畔へ大豆を播くようなものだと説明した
- [23]編機・タイプライター・電卓・洗たく機・扇風機など多角化はすべて同じ発想から出ている
- [25]1977年11月期のブラザー工業の年間売上高は1,018億2,600万円、純利益45億4,200万円
- [26]1977年11月期の製品別売上構成はミシン37.1%・事務機18.6%・家庭電器18.1%・工作機械ほか16.2%・編み機10.0%
- [27]主要製品の国内推定シェアは編み機56%・家庭用ミシン33%・タイプライター31%がいずれも1位、電動オルガンは22%で第2位
- [28]1977年度の経常利益はブラザー工業とブラザーミシン販売の合計で147億1,700万円、蛇の目54億8,200万円、リッカー28億5,200万円
- [29]1976年3月にリッカーとブラザー工業が電子式ミシンを発売したが、ブラザーは発売当初に大号令をかけず余力で取り組んだ
- [30]新製品の販売促進に大号令をかけると既存商品の販売活動がおろそかになり全体ではマイナスになるという体験から「新製品は余力で」の教訓があった
- [31]1977年の電子式ミシンの国内推定シェアはブラザー3割強・リッカー6割強、家庭用ミシンのシェアはブラザーが2ポイント減の33%
- [32]安井実一社長はシェアを食われても一時的なことで、顧客の望むものなら売上は確実に伸びると述べた
- 日経ビジネス 1975年3月3日号
- [33]もうかる仕事は競争相手が現れて長続きしないため、損をしない仕事を選ぶことを常に意識してきた
1982年〜創立50周年の5カ年計画と、情報機器への主力交代
1982年度、ブラザー工業は創立50周年を機に5カ年計画を策定した。立案の時点では為替相場の変動、金利の大幅な上下動、物価の変動が予想を超えて連続し、電子技術の革新と流通の細分化が同時に進む局面にあったため、前半の2年半を助走期間とし後半に加速する設計とした。4〜5年前まで輸出は不安定だから総売上高の3分の1でよいとしていた考え方を改め、輸出と国内販売の比率を50対50へ引き上げることを掲げた。商品構成はミシン3分の1、事務機器3分の1、その他3分の1とし、その他には約250億円の新製品を織り込んだ。最終年度の目標は売上高2,200億円、税引後利益100億円である。その前の1980年には平田源一社長が需要開拓を主眼とする新三カ年計画を掲げ、製品の電子化を当面の課題としていた。
- 証券アナリストジャーナル 1984年8月号(河嶋勝二)
- [34]創立50周年を迎えるにあたり昭和57〜61年度の5カ年計画を策定した
- [35]為替相場・金利・物価の変動が連続し技術革新と流通の細分化が進む情勢のため、計画前半の2年半を助走期間とし後半に加速する設計とした
- [36]輸出は不安定なので総売上高の3分の1でよいという考え方を改め、輸出と国内販売の比率を50対50にすることへ転換した
- [37]商品構成はミシン3分の1・事務機器3分の1・その他3分の1とし、その他に約250億円の新製品を織り込んだ
- [38]5カ年計画の最終年度に売上高2,200億円、税引後利益100億円を目指した
- 80年代わが社の戦略「ブラザー工業」(平田源一, 1980)
- [39]1980年に平田源一社長は需要開拓を主眼とする新三カ年計画を策定し、製品の電子化を当面の課題とした
18年続いた無借金経営は、この計画の資金需要の前で崩れた。1965年に長短借入金を貸借対照表から消して以来、ブラザー工業は完全な無借金を保ってきたが、技術革新で製品のライフサイクルが短くなり、新製品が一つできた時点で第二弾・第三弾を用意しなければ立ち遅れる状況となって、製品開発費は従来の2〜3倍を要するようになった。設備投資を減価償却と留保利益の範囲に収める従来の原則では足りず、1983年に無借金の基本方針を転換して銀行借入を実行し、続いて国内150億円とスイスフラン建て50億円相当の転換社債200億円を発行した。組織も同時に組み替え、事業部制を敷き、大卒者の採用を年25〜50人から年150人へ増やして技術陣を厚くした。設備投資額は1983年度の90億円弱から1984年度・1985年度は各140〜150億円へ引き上げ、その約4割を情報機器の生産設備へ充てる計画とした。
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [40]1965年に長短借入金を貸借対照表から消し、以来完全無借金経営を実現していた
- 証券アナリストジャーナル 1984年8月号(河嶋勝二)
- [41]技術革新で製品のライフサイクルが短くなり、製品開発費が従来の2〜3倍を要するようになった
- [42]1983年に無借金経営の基本方針を18年ぶりに転換して銀行借入を実施し、国内150億円とスイス・フラン50億円相当の転換社債200億円を発行した
- [43]事業部制を採用して組織を整え、大卒者の採用を年25〜50人から年150人へ増やし技術陣の拡充に注力した
- [44]設備投資額は1983年度90億円弱、1984年度・1985年度は各140〜150億円を予定し、約4割を情報機器関係の生産設備に投入する
輸出の拡大は摩擦を招いた。米国へ輸出していた電動タイプライターは1979年ごろからダンピングの対象とされ、相手が十分満足する水準まで値上げして応じたが、その後も数量・金額とも伸び続けた。1984年度上期は輸出60%、国内販売40%となり、計画の50対50とは逆の側へ開いたうえ、商品の構成でも情報機器が約半分を占め、3分の1ずつという形は崩れていた。同じ1984年にはヨーロッパで電子タイプライターをめぐるダンピング問題が新たに持ち上がり、年末ごろに判定が出る見込みで、河嶋勝二社長のもとでは、貿易摩擦を和らげることと海外の生産拠点を広げることの両方をにらみ、どの機種をどこの国でどんな作り方によって生産するかを詰めて、年内に結論を出すところまで来ていた。ミシンの会社から情報機器の会社への移り変わりは、経営陣の計画が見込んだより速く進んだ。
- 証券アナリストジャーナル 1984年8月号(河嶋勝二)
- [45]5年ほど前から米国向けの電動タイプライターがダンピングの対象とされ、値上げで対応したがその後も数量・金額とも伸びた
- [46]1984年度上期の実績は輸出60%・国内販売40%となり、商品構成でも情報機器が約半分を占めて3分の1ずつの形は崩れた
- [47]ヨーロッパで電子タイプライターについて新たにダンピング問題が起き、年末ごろに判定が出される見通しであった
- [48]貿易摩擦の緩和と海外生産拠点拡充の両面から、どの機種をどういう生産方式でどこの国で作るかを検討していた
参考文献[34]-[48]
- 証券アナリストジャーナル 1984年8月号(河嶋勝二)
- [34]創立50周年を迎えるにあたり昭和57〜61年度の5カ年計画を策定した
- [35]為替相場・金利・物価の変動が連続し技術革新と流通の細分化が進む情勢のため、計画前半の2年半を助走期間とし後半に加速する設計とした
- [36]輸出は不安定なので総売上高の3分の1でよいという考え方を改め、輸出と国内販売の比率を50対50にすることへ転換した
- [37]商品構成はミシン3分の1・事務機器3分の1・その他3分の1とし、その他に約250億円の新製品を織り込んだ
- [38]5カ年計画の最終年度に売上高2,200億円、税引後利益100億円を目指した
- [41]技術革新で製品のライフサイクルが短くなり、製品開発費が従来の2〜3倍を要するようになった
- [42]1983年に無借金経営の基本方針を18年ぶりに転換して銀行借入を実施し、国内150億円とスイス・フラン50億円相当の転換社債200億円を発行した
- [43]事業部制を採用して組織を整え、大卒者の採用を年25〜50人から年150人へ増やし技術陣の拡充に注力した
- [44]設備投資額は1983年度90億円弱、1984年度・1985年度は各140〜150億円を予定し、約4割を情報機器関係の生産設備に投入する
- [45]5年ほど前から米国向けの電動タイプライターがダンピングの対象とされ、値上げで対応したがその後も数量・金額とも伸びた
- [46]1984年度上期の実績は輸出60%・国内販売40%となり、商品構成でも情報機器が約半分を占めて3分の1ずつの形は崩れた
- [47]ヨーロッパで電子タイプライターについて新たにダンピング問題が起き、年末ごろに判定が出される見通しであった
- [48]貿易摩擦の緩和と海外生産拠点拡充の両面から、どの機種をどういう生産方式でどこの国で作るかを検討していた
- 80年代わが社の戦略「ブラザー工業」(平田源一, 1980)
- [39]1980年に平田源一社長は需要開拓を主眼とする新三カ年計画を策定し、製品の電子化を当面の課題とした
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- [40]1965年に長短借入金を貸借対照表から消し、以来完全無借金経営を実現していた
筆者考察
ブラザー工業の多角化は、新しい市場を探して始まったのではなく、既にある設備と販路の空きを埋める形で進んだ。家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から、欧文タイプライターはミシンと編機の技術の合流から出ている。電動オルガンに至っては、モーターも生産設備もプレス技術も買い手の主婦もミシンと同じだった。本業に余裕が出たときへ空いた畔に大豆を播くようなこの広げ方は、1955年ごろから直営店と資本提携店へ置き換えていった販売網があって初めて成り立つ。1965年に売上の8割を自前の店から上げる流通を握ったことが、ミシン以外の品目を流す条件だった。
余力で広げるという原則は、1976年の電子式ミシンで販売促進の号令をかけず、リッカーに国内シェアの6割強を渡す消極策にまで及んだ。損をしない仕事を選ぶ基準は、1977年11月期に売上高1,018億2,600万円、5部門すべてが収益源という構成を作っている。だがこの原則は1982年度の5カ年計画で反転した。輸出を総売上高の3分の1に抑える考えを捨てて50対50を掲げたところ、1984年度上期には輸出が60%、情報機器が商品構成の約半分を占めた。計画より速い転換に開発費が追いつかず、1983年には1965年以来18年続いた無借金を解いて転換社債200億円を発行している。自給自足の最後の条件を外させたのは、競争相手ではなく自社の成長速度だった。
- 出所は歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)掲載の業績推移。原数値の単位を億円へ換算した。
1958年〜1988年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 352 | n/a | n/a | n/a | 23 | 6.5% | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 411 | +16.8% | n/a | n/a | 27 | 6.6% | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 477 | +16.1% | n/a | n/a | 31 | 6.5% | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 506 | +6.1% | n/a | 62 | 33 | 6.5% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 557 | +10.1% | n/a | 69 | 38 | 6.8% | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 585 | +5.0% | n/a | 71 | 41 | 7.0% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 679 | +16.1% | n/a | 81 | 47 | 6.9% | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 802 | +18.1% | n/a | 77 | 39 | 4.9% | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | 760 | ▲5.2% | n/a | 68 | 36 | 4.8% | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 938 | +23.5% | n/a | 89 | 43 | 4.7% | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 1,018 | +8.5% | n/a | 91 | 45 | 4.5% | n/a |
| 1978年11月期 | 単体 | 1,039 | +2.1% | n/a | 87 | 42 | 4.1% | n/a |
| 1979年11月期 | 単体 | 1,058 | +1.9% | 71 | 91 | 45 | 4.3% | n/a |
| 1980年11月期 | 単体 | 1,211 | +14.4% | n/a | 109 | 50 | 4.1% | n/a |
| 1981年11月期 | 単体 | 1,299 | +7.3% | n/a | 93 | 43 | 3.3% | n/a |
| 1982年11月期 | 単体 | 1,389 | +7.0% | n/a | 116 | 65 | 4.7% | n/a |
| 1983年11月期 | 単体 | 1,609 | +15.8% | n/a | 143 | 82 | 5.1% | n/a |
| 1984年11月期 | 連結 | 1,872 | +16.3% | n/a | 174 | 87 | 4.7% | n/a |
| 1985年11月期 | 連結 | 2,191 | +17.0% | n/a | n/a | 108 | 4.9% | n/a |
| 1986年11月期 | 連結 | 1,994 | ▲9.0% | n/a | n/a | 60 | 3.0% | n/a |
| 1987年11月期 | 連結 | 1,994 | 0.0% | n/a | n/a | 60 | 3.0% | n/a |
| 1988年11月期 | 連結 | 2,049 | +2.8% | n/a | n/a | 60 | 2.9% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日経ビジネス 1975年3月3日号
- 日経ビジネス 1978年7月17日号
- 証券アナリストジャーナル 1984年8月号(河嶋勝二)
- 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
- 80年代わが社の戦略「ブラザー工業」(平田源一, 1980)