ローランドDGへの対抗TOB提案と、その断念

「同意なき買収」を仕掛けながら、なぜ価格の勝負を降りたのか

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時期 2024年3月
意思決定者 佐々木一郎・石黒雅(副社長)・鈴木剛(専務) ブラザー工業 社長
論点 産業印刷機事業の増強と同意なき買収
概要
2024年3月13日、ブラザー工業が、MBOによる非公開化を進めていた産業印刷機中堅のローランド ディー.ジー.(DG)に対し、1株5200円での対抗TOBを予告した経営判断。両社に事前の合意はなく、いわゆる「同意なき買収」となったが、ブラザーは5月に価格を引き上げないと決め、提案を取り下げた。
背景
ブラザーは印刷ヘッドを供給するローランドDGへ過去2回買収を提案し、いずれも拒まれていた。そこへ米投資ファンドと組んだMBOの報が届く。4年間の共同開発を重ねた相手を手放すまいと、ブラザーは対抗TOBという手段に踏み込んだ。
内容
タイヨウ・パシフィック・パートナーズが提示した1株5035円を上回る5200円を掲げたが、ローランドDGは「ブラザー傘下ではディスシナジーが生じる」と反発。緊急記者会見やテレビ番組を通じ、ブラザー製ヘッドの不良品率などを繰り返し問題にした。
含意
価格で上乗せすれば競り勝てる公算がありながら、ブラザーは「事業上譲れない倫理観を逸脱する」として断念した。同意なき買収が増えるなかで、価格の論理と事業会社の矜持が衝突した一件であった。
筆者の見解

撤退という判断をどう読むか

この一件で問われたのは、買収の巧拙よりも、何のために買うのかという問いであった。価格を一段積めば競り勝てたとの見立ては多い。それでもブラザーは、相手の批判を「倫理観の逸脱」と断じて降りた。買った先に築くべき協業が、当の相手との信頼を欠いては成り立たない――そう見切ったのだとすれば、価格勝負を降りた選択には一貫した筋が通っているようにみえる。

とはいえ、勝てる盤面で降りたことが、産業印刷機を伸ばす貴重な機会を手放す代償を伴ったことも確かである。同意なき買収が制度の後押しで増えていく時代に、事業会社はどこまで泥くさい戦いに付き合い、どこで矜持を優先するのか。ブラザーの撤退は、その線引きを一社の判断として示した事例として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

二度断られた相手と、MBOの急報

ブラザー工業はミシンや家庭用プリンターの会社として知られるが、売り上げの過半はプリンター関連が占め、成長の軸を業務用・産業用印刷へ移していた。中核となるのが、インクを紙や素材へ吹き付けるインクジェットヘッドである。ローランドDGは看板やラベルを刷る産業印刷機の中堅で、ブラザーはそのヘッドの供給元の一つでもあった。両社は4年にわたり共同開発を続け、ブラザーは「一緒になればより成長できる」との思いを深めていた[1]

もっともブラザーは過去に2度、ローランドDGへ買収を提案し、いずれも断られていた。手詰まりの相手に動きが生じたのは2024年2月13日、米投資ファンドのタイヨウ・パシフィック・パートナーズと組んだMBO(経営陣による買収)が、1株5035円のTOBとして始まったときである。意中の相手が投資ファンドの手に渡りかねない報せは、ブラザーにとって寝耳に水であった。手にする道は、対抗TOBの提案のほかに残されていなかった[2]

「同意なきTOB」という選択

2024年3月13日、ブラザーは1株5200円でのTOBを予告し、対抗TOBを仕掛けた。ローランドDGには事前に意向を知らせておらず、実行すればいわゆる「同意なきTOB」となる。ファンドと組んだMBOに事業会社が対抗提案を投げ込む構図は珍しく、M&Aに詳しい太田洋弁護士も「ファンドと組んだMBOに対し、事業会社からこうした対抗提案が出たことは驚き」と話す[3][4]

背中を押したのは制度の追い風でもあった。経済産業省は前年に企業買収の行動指針を打ち出し、望ましい買収提案は真摯に検討するよう求めていた。同意なき買収そのものは、2023年のニデックによる工作機械大手TAKISAWAへのTOBなどで前例が積み上がり、忌避一辺倒ではなくなりつつあった。保守的で通ってきたブラザーが踏み込んだ背景には、こうした潮目の変化があったとみられる[5]

決断

価格で勝てるはずだった対抗提案

対抗TOBの勝算は価格にあった。TOBの勝敗はほぼ価格で決まり、同業でシナジーを見込めるブラザーのほうが高い値を出しやすい。対するMBO陣営には、後から価格を上げれば当初価格の正当性に疑義が生じるという構造上の弱みがあった。ローランドDGの取締役会はタイヨウの5035円に賛同していたため、そこを上回る値を積めば競り勝てる算段が立っていた[6]

ブラザーが欲したのは価格そのものより、印刷ヘッドを軸とする協業の完成であった。石黒雅副社長は「4年間の共同開発を通じ、一緒になればより成長できるという思いは同じだと思っていた」と語り、できれば同意の下でTOBを進めたかったと振り返る。MBOが引き金となって「同意なき」の形になったにすぎず、ブラザーの側に相手を屈服させる意図は薄かったとうかがえる[7]

ディスシナジーとネガティブキャンペーン

ローランドDGの反撃は価格ではなく論点で来た。同社は使用する印刷ヘッドの8割を1社から調達し、残りをブラザーと別の1社から1割ずつ仕入れている。その主力供給元とブラザーは競合にあたるため、傘下に入れば従来の供給関係を保てず業績に響くという「ディスシナジー」を前面に立てた。4月26日には緊急記者会見を開き、ブラザー製ヘッドの不良品率の高さや共同開発での問題にも言及した[8]

主張はやがてメディアを舞台にした攻勢へ広がった。4月30日にはテレビ東京の経済番組にローランドDGの田部耕平社長が出演し、仕上がりの粗い印刷物の映像とともに「ブラザー製ヘッドは不良品率が高い」とのナレーションが流れた。技術的にはヘッドの性能と印刷不良は無関係だったが、ブラザー製品を使うと美しく刷れないかのような印象を残す構成であった。ブラザーの社内には「自分たちのものづくりを全否定された」と受け止めた社員も少なくなかった[9]

結果

価格を上げずに降りる

4月26日、タイヨウはTOB価格を5035円から5370円へ引き上げ、ブラザーの5200円を上回った。ここでブラザーが再度上乗せすれば競り勝てたはずだったが、同社は5月9日、価格を引き上げないと発表する。5月16日にタイヨウのTOBが成立したことを受け、MBO不成立を条件としていた対抗TOBの提案を取り下げた。ローランドDGのMBOには株式の約75%が応募し、非公開化が確定した[10][11]

断念の理由を、ブラザーは価格の限界ではなく信頼の欠落に置いた。佐々木一郎社長は5月9日の決算会見で「根拠を欠く批判を繰り返す経営陣とは信頼関係を築くことはできないと判断した」と述べた。石黒副社長も、メディアを通じた主張が「ネガティブキャンペーンの一線を越えていた」とし、事実を歪めてまで批判を重ねるやり方はブラザーの倫理観にそぐわないと語る。買収の断念は「必要な、勇気ある決断だった」というのが当事者の弁であった[12][13]

「勇気」か「勝負どころの誤り」か

撤退の評価は割れた。買収防衛策に詳しいIBコンサルティングの鈴木賢一郎社長は、ローランドDGが「価格の戦い」を避けてディスシナジー論に持ち込んだ巧みさを指摘する。MBOは高く売りたい株主と安く買いたい経営陣の利益相反を抱えるため、タイヨウの価格引き上げに対しブラザーは「引き上げはおかしい」と切り込む余地があった。それをせず価格でも沈黙したまま降りた点は、勝負どころを逃したとの見方も残る[14]

一方でローランドDGは逃げ切ったが、身軽ではない。MBOに要する資金は当初642億円の試算がTOB価格引き上げで684億円へ膨らみ、うち471億円は借り入れとなった。売上高540億円、営業利益52億円(2023年12月期)の企業には重い負債である。再上場すれば、また同意なきTOBを仕掛けられる余地も残る。ブラザーにとっては、産業印刷機を伸ばすうえで欠かせない一手を逃した格好にもなった[15][16]

出典・参考