リッカー の歴史

更新: Author:

創業 1939年
創業者 平木信二
創業地
創業
1939年9月16日、資本金2万円で日本殖産工業株式会社が設立された。1943年4月に理化学工業へ商号を改め、同じ年から平木信二氏が社長を務める。平木氏は1910年に京都で生まれ、1934年に京都帝国大学経済学部を出た計理士である。終戦時の資本金は10万円にとどまったが、1946年12月に750万円まで増資した。ミシンに入ったのは戦後で、1947年7月に立川市の東立工業を買収して立川工場とし、製造へ着手する。1948年8月には直営販売の形で家庭用ミシンの月掛予約と月賦販売を日本で初めて始め、1949年9月に社名をリッカーミシンへ改めた。リッカーとなるのは1973年である。
決断
会社を回した資金は、銀行の融資ではなく客が先に払った掛金だった。月掛予約は毎月500円の掛金を36カ月受け取り、満期に現品を引き渡す方式で、代金はいずれも現品より先に会社へ入る。1962年12月期末の貸借対照表は、総資産306億円のうち月掛契約金173億円が過半を占め、短期・長期を合わせた借入金は7億円あまりと20分の1に達しない。1961年6月8日に東京証券取引所へ上場し、同年10月には立川・八王子両工場の立体化で月産能力5万台へ達した。1965年からは同じ訪問販売の経路へ家庭用電気製品を乗せ、1973年に札幌でホテルリッチの第1号を開設している。現品より先に代金が入る構造が、支店を増やすほど手元資金が増える見かけを作り、増設と多角化の速度を止めなかった。
現況
ミシンを作る会社としての復活は、1987年に管財人の側が断念した。1984年7月23日に東京地裁へ和議を申請し、負債820億円、一説には1,100億円で戦後4番目の大型倒産に数えられる。手続きは会社更生へ移り、事業家管財人は就任7カ月で辞任した。1987年2月に通商産業省の要請でダイエーが支援に入ると、管財人代理の河島博氏は技術者の流出と設備の陳腐化を見て、製造からの撤退と訪問販売への集中を決める。271店あった支店は91店へ、契約販売員は1,800人から436人へ減り、1988年12月期に黒字へ転じた。1993年3月1日に更生手続が終了し、法人は1994年9月にダイエーオーエムシーへ合併されて消滅した。
競合
同業と分かれたのは、開いた販売網に何を乗せるかの判断だった。1948年に始めた月掛予約は家庭用ミシン業界の大勢を占めるまで広がり、1960年代のリッカーは国内のミシン生産で45%近いシェアを握っていた。だが1965年以降、同じ経路へ家庭用電気製品・ホテル・不動産・コンピューターを乗せたことが本業の更新を後回しにし、電子式ミシンへの移行が遅れる。家庭用ミシンに残ったジャノメ情報通信機器へ主力を移したブラザー工業と違い、リッカーは1987年に製造から退き、台湾メーカーのOEM供給を訪問販売へ乗せる形で祖業へ戻った。売り場を資産とみて商品を替えた選び方が、作る側の技術を先に失わせた。

創業ストーリー 毎月500円の掛金を先に集めてミシンを引き渡す会社 (1939年〜)

毎月500円の掛金を先に集めてミシンを引き渡す会社

創業ストーリー(1)

資本金2万円の設立と自前で開いた直営販売網

日本殖産工業は1939年9月16日、資本金2万円で設立された[1]。1943年4月に理化学工業へ商号を変更し、同じ年から平木信二社長が経営にあたった[2]。平木社長は1910年に京都で生まれ、1934年に京都帝国大学経済学部を卒業した計理士である[3]。終戦時の資本金は10万円にとどまったが、1946年12月に750万円まで増資した[4]。ミシンに入ったのは戦後である。1947年7月、立川市の東立工業を買収して立川工場とし、ミシンの製造に着手した[5]。始めた時点の経済情勢は不安定で[6]、ミシンそのものが絶対量として不足していた[7]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [1]1939年9月16日、資本金2万円で日本殖産工業株式会社を設立
    • [3]社長平木信二は1910年京都生まれ、1934年京都帝国大学経済学部卒、税理士・計理士
    • [4]資本異動は終戦時の資本金10万円、1946年12月1日に750万円
    • [5]1947年7月に立川市の東立工業株式会社を買収し、立川工場としてミシン製造に着手
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [2]1943年4月に理化学工業株式会社へ社名変更。平木信二は1943年に社長に就任し、以後在任
    • [6]ミシン製造に着手した当時は終戦直後で不安定な経済情勢下にあった
  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [7]終戦間もない時期のミシンは相対的にも絶対的にも不足した経済財だった

製造に入った同社は、問屋や小売店に卸さず、直営の支店を自前で開く道を選んだ[8]。1948年8月、その直営販売の形で家庭用ミシンの月掛予約と月賦販売を日本で初めて始めた[9]。この売り方は以後、家庭用ミシン業界の大勢を占めるまでに広がった[10]。1949年9月には生産設備の拡充にあわせて直営販売店の拡充へ着手し、社名をリッカーミシンへ改めている[11]。1950年10月には八王子市の中央金属工業を買収して八王子工場とし、1951年10月から脚部の機械加工に入った[12]。資本金も1948年に1,500万円、1949年に2,250万円へ積み増している[13]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [8]直営支店を積極的に開設し、それが同社の基盤となった。販売は全部直営店を通じて行なう
    • [10]この販売方法が以後、家庭用ミシン業界の大勢を占めることとなった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [9]1948年8月、直営販売形態による家庭用ミシンの月掛予約および月賦販売を開始
    • [11]1949年9月、生産設備の拡充に伴う直営販売店の拡充に着手し、社名をリッカーミシン株式会社と改称
    • [12]1950年10月に八王子市の中央金属工業株式会社を買収し八王子工場とし、1951年10月に脚部の機械加工を開始
    • [13]資本異動は1948年に1,500万円(1:1)、1949年に2,250万円(1:0.5)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [1]1939年9月16日、資本金2万円で日本殖産工業株式会社を設立
    • [3]社長平木信二は1910年京都生まれ、1934年京都帝国大学経済学部卒、税理士・計理士
    • [4]資本異動は終戦時の資本金10万円、1946年12月1日に750万円
    • [5]1947年7月に立川市の東立工業株式会社を買収し、立川工場としてミシン製造に着手
    • [9]1948年8月、直営販売形態による家庭用ミシンの月掛予約および月賦販売を開始
    • [11]1949年9月、生産設備の拡充に伴う直営販売店の拡充に着手し、社名をリッカーミシン株式会社と改称
    • [12]1950年10月に八王子市の中央金属工業株式会社を買収し八王子工場とし、1951年10月に脚部の機械加工を開始
    • [13]資本異動は1948年に1,500万円(1:1)、1949年に2,250万円(1:0.5)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [2]1943年4月に理化学工業株式会社へ社名変更。平木信二は1943年に社長に就任し、以後在任
    • [6]ミシン製造に着手した当時は終戦直後で不安定な経済情勢下にあった
    • [8]直営支店を積極的に開設し、それが同社の基盤となった。販売は全部直営店を通じて行なう
    • [10]この販売方法が以後、家庭用ミシン業界の大勢を占めることとなった
  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [7]終戦間もない時期のミシンは相対的にも絶対的にも不足した経済財だった
創業ストーリー(2)

日本初の月掛予約と営業所拡大が招いた資金繰りの窮迫

月掛予約は、毎月500円の掛金を36カ月にわたって受け取り、満期に現品を引き渡す方式である[14]。36カ月を納めきれば1万8,000円になり、その全額が現品の引き渡しより先に会社へ入った。月賦販売はこれと組で、掛金が頭金相当額に達した時点で現品を売り渡し、残額を月賦へ切り替える[15]。現金で買う客には、月掛予約の2割相当額を割り引いた[16]。三つの売り方はいずれも直営店だけを通り、代金は現品の引き渡しより先に会社へ入る[17]。ミシンが不足していた時期に1台500円という条件は需要者へ強く訴え、申込みは次第に増えていった[18]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [14]月掛予約方法は毎月500円の掛金を受け36カ月後に現品を引渡す方法で、1948年に日本ではじめて行なった
    • [15]月賦販売方法は月掛予約金が頭金相当額に達した時に現品を売渡し、月賦に切替わる
    • [16]現金販売は月掛予約の2割相当額を割引している
    • [17]販売は全部直営店を通じて行ない、その方法に3種類ある
  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [18]1台500円という月掛予約制が非常に有効に需要者にアッピールし、その申込みが次第にふえた

もっとも、申込みが増えるテンポより、予約を募る営業所の設置費用が膨らむテンポのほうが速かった[19]。同社は高利の資金を借りて営業所を増やし続け、かえって資金繰りに追い詰められた[20]。同社は1954年、数千万円の不渡手形を2度にわたって出し、平木社長は新聞記者を集めて経緯を語ったうえで再建の決意を発表している[21]。平木社長は後年、借金に追いまくられている時は寒さも暑さも分からなくなると、おどけた調子で振り返った[22]。会社がつぶれるという噂が立って社内は意気消沈し、社員の士気の立て直しが再建の重大な要素になっていた[23]

  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [19]申込み増加のテンポと、月掛予約制申込者を募るための全コスト(営業所設置その他)増大のテンポとの差がはなはだしく、後者にかかっていた
    • [20]予約制の危機が到来し、リッカーは高利の金を借りねばならず、さらに危機に追いつめられた
    • [21]数千万円の不渡手形を2回出した当時、新聞記者をあつめて説明し再建の決意を発表した
    • [22]平木信二は那須の山荘で、借金に追いまくられている時は人間、寒さ暑さもよく分からないと述懐した
    • [23]1954年当時はいまにも会社がつぶれそうな噂でいっぱいで社内は意気消沈という有様、社員の士気が会社再建の重大なモメントになっていた

1954年、平木社長は資金繰りが行き詰まるなかで士気を立て直す手として野球チームの結成を発表し、融資銀行の反発を招いた[24]。借金で首が回らない時に社員の野球はあるまいというのが銀行側の言い分だったが、平木社長の説明を受けて銀行は結成を承認している[25]。営業所を増やす支出は続いたものの、申込みの増加がやがてそれを上回った[26]。ここには戦後の経済成長の速さも働いたとみられる[27]。同社は1953年に公募による増資を実施した[28]。生産も伸び、月産台数は同じ1953年に4,000台、翌1954年には5,000台へ達している[29]。従業員は1955年に3,000人を数えた[30]

  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [24]1954年、平木信二は野球チーム結成を発表し、融資銀行を怒らせた
    • [25]借金で首が回らないとき社員のベースボール遊びでもあるまいというのが銀行側の言い分だったが、平木の説明で銀行は承認した
    • [26]幸いなことに、申込み増加のテンポが次第に営業所コスト増大のテンポに優ってきた
    • [27]成功の原因はアイデアの良さ、営業所の数を増やしたこと、経済成長のテンポの速さの3つで、最大のものの1つは経済成長のテンポの速さ
    • [30]従業員は1955年に3,000人だった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [28]資本異動に1953年の公募増資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [29]1953年には月産4,000台、1954年には5,000台を達成
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [14]月掛予約方法は毎月500円の掛金を受け36カ月後に現品を引渡す方法で、1948年に日本ではじめて行なった
    • [15]月賦販売方法は月掛予約金が頭金相当額に達した時に現品を売渡し、月賦に切替わる
    • [16]現金販売は月掛予約の2割相当額を割引している
    • [17]販売は全部直営店を通じて行ない、その方法に3種類ある
    • [28]資本異動に1953年の公募増資
  • マネジメント 1964年(田口憲一)
    • [18]1台500円という月掛予約制が非常に有効に需要者にアッピールし、その申込みが次第にふえた
    • [19]申込み増加のテンポと、月掛予約制申込者を募るための全コスト(営業所設置その他)増大のテンポとの差がはなはだしく、後者にかかっていた
    • [20]予約制の危機が到来し、リッカーは高利の金を借りねばならず、さらに危機に追いつめられた
    • [21]数千万円の不渡手形を2回出した当時、新聞記者をあつめて説明し再建の決意を発表した
    • [22]平木信二は那須の山荘で、借金に追いまくられている時は人間、寒さ暑さもよく分からないと述懐した
    • [23]1954年当時はいまにも会社がつぶれそうな噂でいっぱいで社内は意気消沈という有様、社員の士気が会社再建の重大なモメントになっていた
    • [24]1954年、平木信二は野球チーム結成を発表し、融資銀行を怒らせた
    • [25]借金で首が回らないとき社員のベースボール遊びでもあるまいというのが銀行側の言い分だったが、平木の説明で銀行は承認した
    • [26]幸いなことに、申込み増加のテンポが次第に営業所コスト増大のテンポに優ってきた
    • [27]成功の原因はアイデアの良さ、営業所の数を増やしたこと、経済成長のテンポの速さの3つで、最大のものの1つは経済成長のテンポの速さ
    • [30]従業員は1955年に3,000人だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [29]1953年には月産4,000台、1954年には5,000台を達成
創業ストーリー(3)

月産5万台への立体化と総資産の過半を占めた月掛契約金

掛金が先に入る以上、同社は現品を作る力を先に積み増す必要があった。1956年4月にHA-1型とRW-1型がJISマークの表示許可を受け、同年の月産能力は1万台に届いた[31]。1957年12月にはRW-5型が国産ミシンとして初めてGマークの指定を受け、生産能力は月1万5,000台へ伸びている[32]。1958年2月にジグザグミシンの製造を始めると、同年の月産能力は2万台を超えた[33]。翌1959年5月には立川に第2組立工場が完成し、テーブルコンベア方式の採用で月産2万5,000台となった[34]。1960年11月には立川工場の組立工場にコンベア装置と専用工作機械を増設している[35]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [31]1956年4月にHA-1型、RW-1型がJISマーク表示の許可を受け、同年の月産能力は1万台に達した
    • [32]1957年12月にRW-5型が国産ミシン初のGマークの指定を受け、生産能力は月産1万5,000台に達した
    • [33]1958年2月にジグザグミシンの製造を開始、同年の月産能力は2万台を突破
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [34]1959年5月に立川に第2組立工場が完成し、テーブルコンベア方式によって月産2万5,000台となった
    • [35]1960年11月、立川工場の組立工場コンベア装置および専用工作機械を増設

1961年5月、鉄筋コンクリート地上3階地下1階の立川工場本館が完成し、製造工程の立体化が成った[36]。八王子工場にもアーレン建築による鉄筋の機械工場1,534平方メートルが完成したことで、月産能力は4万台へ上がった[37]。1961年6月8日、東京証券取引所第一市場に株式を上場した[38]。同じ年の8月には大阪、10月には名古屋と福岡の各取引所へも上場を広げた[39]。1961年10月には立川・八王子両工場の配列を立体化して新設機械の稼働に入り、生産能力は月5万台へ届いている[40]。1962年5月には山口鋳鋼および木下ミシン塗装と生産提携を結んだ[41]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [36]1961年5月、立川工場本館(鉄筋コンクリート建、地上3階、地下1階)が完成し、製造工程の立体化が成った
    • [37]八王子工場にアーレン建築による鉄筋製の機械工場1,534平方メートルが完成し、月産能力は4万台になった
    • [39]1961年8月に大阪第一市場、同年10月に名古屋第一市場および福岡証券取引所にも上場
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [38]上場開始は1961年6月8日、東京証券取引所第一市場
    • [40]1961年10月、立川・八王子両工場配列を立体化して新設機械の稼働を開始し、生産能力月5万台となる
    • [41]1962年5月に山口鋳鋼、木下ミシン塗装と生産提携

1962年12月期の家庭用ミシンの販売は269,863台、直営店は500店を数えた[42]。同期末の貸借対照表は、流動資産の側に月掛契約金173億円を立て、総資産306億円の過半をこの一項目が占めた[43]。負債の側には同額の予約契約引当金が並び、これとは別に月掛準備金58億円を積んでいる[44]。これに対し借入金は短期・長期を合わせて7億円あまりで、月掛契約金の20分の1に満たない[45]。輸出はベルベデイア・ディストリビューティング社などとの契約による受注生産で、北米、カナダ、ニュージーランド、沖縄へ向かい、売上高の2.0%にとどまった[46]。家庭用ミシンの販売量では、この時点で国内第一位である[47]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [42]1962年12月期の販売実績は家庭用ミシン269,863台。直営店500を数える販売網
    • [43]1962年12月期の貸借対照表で月掛契約金17,300,574千円、資産合計30,612,727千円
    • [44]1962年12月期の予約契約引当金17,300,574千円、固定負債の月掛準備金5,846,074千円
    • [45]1962年12月期の短期借入金290,000千円、長期借入金417,928千円
    • [46]輸出は受注生産でベルベデイア・ディストリビューティング社などと契約し北米、カナダ、ニュージーランド、沖縄へ輸出。1962年12月期の輸出対売上比率は2.0%
    • [47]家庭用ミシンではわが国第一の販売量をもつ会社
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「リッカーミシン」
    • [31]1956年4月にHA-1型、RW-1型がJISマーク表示の許可を受け、同年の月産能力は1万台に達した
    • [32]1957年12月にRW-5型が国産ミシン初のGマークの指定を受け、生産能力は月産1万5,000台に達した
    • [33]1958年2月にジグザグミシンの製造を開始、同年の月産能力は2万台を突破
    • [36]1961年5月、立川工場本館(鉄筋コンクリート建、地上3階、地下1階)が完成し、製造工程の立体化が成った
    • [37]八王子工場にアーレン建築による鉄筋製の機械工場1,534平方メートルが完成し、月産能力は4万台になった
    • [39]1961年8月に大阪第一市場、同年10月に名古屋第一市場および福岡証券取引所にも上場
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「リッカーミシン」
    • [34]1959年5月に立川に第2組立工場が完成し、テーブルコンベア方式によって月産2万5,000台となった
    • [35]1960年11月、立川工場の組立工場コンベア装置および専用工作機械を増設
    • [38]上場開始は1961年6月8日、東京証券取引所第一市場
    • [40]1961年10月、立川・八王子両工場配列を立体化して新設機械の稼働を開始し、生産能力月5万台となる
    • [42]1962年12月期の販売実績は家庭用ミシン269,863台。直営店500を数える販売網
    • [43]1962年12月期の貸借対照表で月掛契約金17,300,574千円、資産合計30,612,727千円
    • [44]1962年12月期の予約契約引当金17,300,574千円、固定負債の月掛準備金5,846,074千円
    • [45]1962年12月期の短期借入金290,000千円、長期借入金417,928千円
    • [46]輸出は受注生産でベルベデイア・ディストリビューティング社などと契約し北米、カナダ、ニュージーランド、沖縄へ輸出。1962年12月期の輸出対売上比率は2.0%
    • [47]家庭用ミシンではわが国第一の販売量をもつ会社
    • [41]1962年5月に山口鋳鋼、木下ミシン塗装と生産提携

販売網に商品を乗せた多角化と、1984年7月の和議申請

創業ストーリー(4)

ミシンで開いた訪問販売の経路に乗せた家電と海外現地法人

1973年時点で全国600支店が販売とサービスと集金の三つを担い、人口15万から16万人につき1支店、1つの府県で14から15店舗という密度で配置された[48]。府県単位のブロックには1か所か2か所の中央支店を置き、ブロック内の支店を統括させた[49]。1965年、平木証三氏は取扱商品の多角化を打ち出し、まず家庭用の電気製品を売り始めたが、ミシン専用の経路に家電を相乗りさせたため、期待した成果は得られなかった[50]。それでも家電を扱った経験は電子レンジの開発を進め、生産体制への自信を残した[51]。支店のサービスセンターでは裁縫教室や編物教室に加え、電子レンジを使う料理教室も開いた[52]

  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [48]全国600支店を配置し、支店の仕事は販売活動・サービス活動・集金活動の三つ。人口15〜16万人に1支店、1府県で14〜15店舗の割合
    • [49]府県単位のブロックには1〜2か所の割合で中央支店があり、ブロック内の支店を統括していた
    • [50]1965年に取扱商品の多角化の方向を打ち出し、まず家電製品を販売した。ミシンで開拓したルートに家電を乗せたため、期待した結果は得られなかった
    • [51]家電製品の取扱いに踏み切ったことで電子レンジの開発が進み、技術的にも自信のある生産体制ができた
    • [52]支店のサービスセンターで裁縫・編物教室、電子レンジによるクッキング教室を開いていた

海外進出も同じ時期に始まった。1964年2月、ウイルバー・エリス社との合弁でアメリカ・リッカーを設立した[53]。ロサンゼルスを拠点に成績を伸ばし、1973年には郊外の約5,000坪に工場を建設中で、翌1974年2月の完成を見込んでいた。立川工場で生産したミシンを裸のまま送り、現地でノックダウン生産に回す計画だった[54]。西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスを置き、前者がドイツ・オーストリアとベネルックス3国を、後者がより南の地域を担当した[55]。国内でも本社の電子計算室を分離して日比谷コンピューターシステムを発足させ、リッカー不動産、織布と自動車部品の新日工業、輸入商社の日独精機、湯河原の温泉旅館である清水園を抱えた[56]

    • [53]1964年2月、ウイルバー・エリス社と合弁でアメリカ・リッカー社を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [54]ロサンゼルスのアメリカ・リッカーは成績を上げており、ロス郊外に約5,000坪の土地を確保して工場を建設中で1974年2月に完成予定。立川工場で生産したものを裸のまま送りノックダウン的な生産をする
    • [55]西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスという現地法人があり、リッカー・ヨーロッパはドイツ・オーストリア・ベネルックス3国等、リッカー・フランスはそれより南部を受け持った
    • [56]本社の電子計算室を分離独立させ日比谷コンピューターシステムとして発足。ほかにリッカー不動産(土地・建物)、新日工業(織布部門と自動車部品の機械部門)、日独精機(輸入専門商社)、清水園(湯河原の温泉旅館)を持つ
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [48]全国600支店を配置し、支店の仕事は販売活動・サービス活動・集金活動の三つ。人口15〜16万人に1支店、1府県で14〜15店舗の割合
    • [49]府県単位のブロックには1〜2か所の割合で中央支店があり、ブロック内の支店を統括していた
    • [50]1965年に取扱商品の多角化の方向を打ち出し、まず家電製品を販売した。ミシンで開拓したルートに家電を乗せたため、期待した結果は得られなかった
    • [51]家電製品の取扱いに踏み切ったことで電子レンジの開発が進み、技術的にも自信のある生産体制ができた
    • [52]支店のサービスセンターで裁縫・編物教室、電子レンジによるクッキング教室を開いていた
    • [54]ロサンゼルスのアメリカ・リッカーは成績を上げており、ロス郊外に約5,000坪の土地を確保して工場を建設中で1974年2月に完成予定。立川工場で生産したものを裸のまま送りノックダウン的な生産をする
    • [55]西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスという現地法人があり、リッカー・ヨーロッパはドイツ・オーストリア・ベネルックス3国等、リッカー・フランスはそれより南部を受け持った
    • [56]本社の電子計算室を分離独立させ日比谷コンピューターシステムとして発足。ほかにリッカー不動産(土地・建物)、新日工業(織布部門と自動車部品の機械部門)、日独精機(輸入専門商社)、清水園(湯河原の温泉旅館)を持つ
    • [53]1964年2月、ウイルバー・エリス社と合弁でアメリカ・リッカー社を設立した
創業ストーリー(5)

1万人商区とサービスショップが呼び込んだ関連会社

1970年ごろから流通部門の建て直しに入った[57]。15万人の商区では担当どうしが競合するため、人口1万人を1単位とする商区へ組み替えた。1万人は世帯数で2,500から2,600、セールスマン1人が回るのに最も効率のよい規模である[58]。ところが広い商区で育ったセールスマンは自分の作り上げた固定客を手放せず、小さな商区になじまなかった[59]。価格体系もまた現場に摩擦を生んでいた。予約販売、月賦販売、現金販売はいずれも価格が定められ、値引きはできない[60]。同じ商品でも予約で買うか月賦で買うかで値段が変わるため、月賦の客に予約販売の値段で話をつけてしまうと、後から集金係が回ったときに値段が食い違い、たびたびもめごとが起きた[61]

  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [57]1970年ごろから流通部門の強化に取り組んだ
    • [58]1支店15万人の商区では互いに競合するため人口1万人単位の商区をつくった。1万人は世帯数で2,500〜2,600、セールスマン1人が活動するのに最も効率的な単位
    • [59]広い商区で鍛えられたセールスマンは自分でつくり上げた固定客を捨てられず、1万人商区への移行は困難だった
    • [60]予約販売・月賦販売・現金販売いずれも価格が決められており、値引きはあり得ない
    • [61]同じ商品でも予約で買う場合と月賦で買う場合とでは価格が違うため、セールスマンが月賦の客に予約販売の値段で話をしてしまい、集金係が行くと値段が食い違ってトラブルが発生した

そこで生まれたのがサービスショップである。1万人の商区に長く住み、いまの仕事から転向したい人に声をかけ、店舗を改造する費用は全額を会社が負担した[62]。世帯の大半が顔なじみの土地では、その場限りの売り込みは悪評を招き、自分がそこに住めなくなる[63]。1973年時点でライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を任せられる有資格者が約2,500人、サービスショップの商区には約2,000人を数えた[64]。平木証三社長は3年をかけて全国のサービスショップを回り、口のうまさで売るのは下の売り方であり、客のほうから金を持ってきて買っていくのが上の売り方だと説いた[65]

  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [62]サービスショップの開設にあたり、1万人の商区に長く住み現在の仕事から転向したい人々に呼びかけ、店舗を改造する費用等は一切会社が負担した
    • [63]人口1万人は世帯数2,500〜2,600で大半が顔なじみのため、その場限りのセールス話法を用いると悪評を買い自分がそこに住めなくなる
    • [64]ライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を担当するにふさわしい有資格者は約2,500名、導入済みのサービスショップ商区には約2,000名がいた
    • [65]平木証三社長は3年間、全国のサービスショップを回り、口がうまくて売るのは下の売り方で、何もしゃべらずに客のほうが金を持ってきて買ってくれるのが上の売り方だと話していた

1975年に1万商区を完成させる計画を置き、1商区あたり月100万円、平均単価6万円の商品を月20台という積み上げから、月間100億円、年間1,200億円を見込んだ。1,000億円企業が全社の目標だった[66]。この規模の販売網を支えると支店を束ねる中央支店が大型化するが、中央支店に要る床は2フロアで足りる。そこで大型店を建てて上の階をホテルにし、全国チェーンにする構想を立てた[67]。1973年2月に札幌でホテルリッチ第1号を開業し、函館、新潟、横浜、名古屋、福岡で建設を進めた[68]。規模は150室から200室のビジネスタイプで、最終目標を全国60カ所に置いた[69]。札幌は180室、稼働率は平均95%と損益分岐点の70%を上回り、8月の売上高は約3,000万円に達した[70]

  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [66]1万商区の完成を1975年に置き、サービスショップ1商区の売上を月約100万円(平均単価約6万円の商品を月20台)と見て、月間100億円・年間1,200億円。1,000億円企業を全社の目標としていた
    • [67]サービスショップ体制の流通ネットをつくると支店規模が大きくなり、支店を統括する中央支店の店舗も大型化が必要になる。中央支店として使う分は2フロアで足りるため、大型店を建てて上の階層をホテルとし全国チェーン化する計画を立てた
    • [68]ホテルリッチは1973年2月に札幌で第1号をオープンし、函館・新潟・横浜・名古屋・福岡でホテルを建設中だった
    • [69]ホテルの規模は150室〜200室のビジネスタイプで、最終目標は全国60カ所という構想
    • [70]ホテルリッチ札幌は180室で、利用率は平均95%、損益分岐点は70%。1973年8月の売上げは約3,000万円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [57]1970年ごろから流通部門の強化に取り組んだ
    • [58]1支店15万人の商区では互いに競合するため人口1万人単位の商区をつくった。1万人は世帯数で2,500〜2,600、セールスマン1人が活動するのに最も効率的な単位
    • [59]広い商区で鍛えられたセールスマンは自分でつくり上げた固定客を捨てられず、1万人商区への移行は困難だった
    • [60]予約販売・月賦販売・現金販売いずれも価格が決められており、値引きはあり得ない
    • [61]同じ商品でも予約で買う場合と月賦で買う場合とでは価格が違うため、セールスマンが月賦の客に予約販売の値段で話をしてしまい、集金係が行くと値段が食い違ってトラブルが発生した
    • [62]サービスショップの開設にあたり、1万人の商区に長く住み現在の仕事から転向したい人々に呼びかけ、店舗を改造する費用等は一切会社が負担した
    • [63]人口1万人は世帯数2,500〜2,600で大半が顔なじみのため、その場限りのセールス話法を用いると悪評を買い自分がそこに住めなくなる
    • [64]ライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を担当するにふさわしい有資格者は約2,500名、導入済みのサービスショップ商区には約2,000名がいた
    • [65]平木証三社長は3年間、全国のサービスショップを回り、口がうまくて売るのは下の売り方で、何もしゃべらずに客のほうが金を持ってきて買ってくれるのが上の売り方だと話していた
    • [66]1万商区の完成を1975年に置き、サービスショップ1商区の売上を月約100万円(平均単価約6万円の商品を月20台)と見て、月間100億円・年間1,200億円。1,000億円企業を全社の目標としていた
    • [67]サービスショップ体制の流通ネットをつくると支店規模が大きくなり、支店を統括する中央支店の店舗も大型化が必要になる。中央支店として使う分は2フロアで足りるため、大型店を建てて上の階層をホテルとし全国チェーン化する計画を立てた
    • [68]ホテルリッチは1973年2月に札幌で第1号をオープンし、函館・新潟・横浜・名古屋・福岡でホテルを建設中だった
    • [69]ホテルの規模は150室〜200室のビジネスタイプで、最終目標は全国60カ所という構想
    • [70]ホテルリッチ札幌は180室で、利用率は平均95%、損益分岐点は70%。1973年8月の売上げは約3,000万円だった
創業ストーリー(6)

本業の停滞と架空売上計上、和議法を選んだ倒産処理

本業の足取りは重かった。1960年代には国内のミシン生産で45%近いシェアを占めた[71]。もっとも1974年3月期の売上高は200億円を目標としながら、金融引き締めもあって190億円程度にとどまる見通しへ下がっていた[72]。生産から販売までの直営を掲げてデパートには置いてこなかったが、1973年から陳列に踏み切り、都内では月に約1,000台を売った[73]。多角化が裏目に出て、電子式ミシンへの移行も遅れた[74]。会社ぐるみの架空売上計上が続くあいだ、家庭用ミシンは大量に売れ残り、この不良在庫は倒産後に処分され、換金されて資金源になった[75]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [71]1960年代に国内のミシン生産で45%近いシェアを握っていた
    • [75]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で家庭用ミシンが大量に売れ残っており、この不良在庫を処分し換金することが当時のリッカーにとって貴重な資金源になった
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [72]1974年3月期の業績は200億円が目標だったが、金融引き締めなど予測しない事態も起き190億円くらいの見通しになった
    • [73]生産から販売までの直営を標榜しデパート販売はしていなかったが、1973年からデパート販売に踏み切り、都内のデパートの大部分がミシンを陳列し月間約1,000台を販売していた
    • [74]多角化が裏目に出て、電子式ミシンへの移行が遅れた

1984年7月23日、東京地裁に和議を申請した。負債は820億円、一説には1,100億円とされた[76]。負債総額を1,200億円とし、興人や永大産業に続く戦後4番目の大型倒産と数える集計もある[77]。1か月前の6月30日には、サラ金業界のヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱え、同じ東京地裁に和議開始を申し立てていた。ヤタガイは6月11日に3億8,000万円の手形を決済できず不渡りを出し、一部債権者から破産を申し立てられたため和議に踏み切った[78]。倒産当時のリッカーの従業員は1,987人である[79]

  • 法令ニュース 1984年
    • [76]リッカーミシンは820億円(一説には1,100億円)の負債を抱えて1984年7月23日に東京地裁へ和議を申請した
    • [78]リッカーより1か月前の1984年6月30日、ヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱えて東京地裁に和議開始を申し立てた。6月11日に3億8,000万円の手形決済ができず不渡りを出し、一部債権者から破産の申立てが出されたため和議申立てに踏み切った
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [77]1984年7月に和議開始を申請して事実上倒産した時の負債総額は1,200億円で、当時では興人・永大産業などに続く戦後4番目の大型倒産だった
    • [79]リッカーの従業員数は倒産当時1,987人だった

和議は債務者しか申し立てられず、会社更生法と違って大口債権者の側からは申し立てられない。申立てには取締役会の多数決ではなく取締役全員の賛成が要る[80]。和議案は出席した和議債権者の過半数、かつ和議債権総額の4分の3以上の同意で可決される。会社更生法はより厳しい多数の同意を求め、とくに更生担保権者について厳しい[81]。和議では担保権の実行が禁止されず、管財人は経営者を監督するだけで、経営権は経営者に残る[82]。裁判所は和議条件を認可した後は履行に関与せず、管財人も解任される。大型倒産はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方も出た[83]。手続きはその後、和議から会社更生へ移った[84]

  • 法令ニュース 1984年
    • [80]和議は申し立てられるのが債務者に限られ、会社更生法は会社自身のほか大口債権者の申立ても可能。和議の申立てには通常の取締役会決議と違い取締役全員の賛成が必要で、ひとりでも反対すると申立てができない
    • [81]和議法による和議では、和議債権者の出席者の過半数かつ和議債権総額の4分の3以上の同意があれば和議案が可決される。会社更生法の場合はより厳しい多数の債権者の同意が要求され、とくに更生担保権者についてはそうである
    • [82]会社更生の場合は担保権の実行が禁止されるが和議では禁止されない。会社更生法では保全管財人が会社の管理権を握るのに対し、和議では管財人は経営者を監督するだけで経営者が従来どおり経営権を持つ
    • [83]和議は裁判所が和議条件を認可すると管財人も解任され会社は裁判所の監督から解放され、裁判所は和議条件どおり履行されるかにタッチしない。大型倒産の場合はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方が示された
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [84]リッカーの倒産処理は和議から会社更生へ移り、東京地裁の更生手続として管財人・更生計画のもとで進められた
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [71]1960年代に国内のミシン生産で45%近いシェアを握っていた
    • [75]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で家庭用ミシンが大量に売れ残っており、この不良在庫を処分し換金することが当時のリッカーにとって貴重な資金源になった
    • [77]1984年7月に和議開始を申請して事実上倒産した時の負債総額は1,200億円で、当時では興人・永大産業などに続く戦後4番目の大型倒産だった
    • [79]リッカーの従業員数は倒産当時1,987人だった
    • [84]リッカーの倒産処理は和議から会社更生へ移り、東京地裁の更生手続として管財人・更生計画のもとで進められた
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
    • [72]1974年3月期の業績は200億円が目標だったが、金融引き締めなど予測しない事態も起き190億円くらいの見通しになった
    • [73]生産から販売までの直営を標榜しデパート販売はしていなかったが、1973年からデパート販売に踏み切り、都内のデパートの大部分がミシンを陳列し月間約1,000台を販売していた
    • [74]多角化が裏目に出て、電子式ミシンへの移行が遅れた
  • 法令ニュース 1984年
    • [76]リッカーミシンは820億円(一説には1,100億円)の負債を抱えて1984年7月23日に東京地裁へ和議を申請した
    • [78]リッカーより1か月前の1984年6月30日、ヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱えて東京地裁に和議開始を申し立てた。6月11日に3億8,000万円の手形決済ができず不渡りを出し、一部債権者から破産の申立てが出されたため和議申立てに踏み切った
    • [80]和議は申し立てられるのが債務者に限られ、会社更生法は会社自身のほか大口債権者の申立ても可能。和議の申立てには通常の取締役会決議と違い取締役全員の賛成が必要で、ひとりでも反対すると申立てができない
    • [81]和議法による和議では、和議債権者の出席者の過半数かつ和議債権総額の4分の3以上の同意があれば和議案が可決される。会社更生法の場合はより厳しい多数の債権者の同意が要求され、とくに更生担保権者についてはそうである
    • [82]会社更生の場合は担保権の実行が禁止されるが和議では禁止されない。会社更生法では保全管財人が会社の管理権を握るのに対し、和議では管財人は経営者を監督するだけで経営者が従来どおり経営権を持つ
    • [83]和議は裁判所が和議条件を認可すると管財人も解任され会社は裁判所の監督から解放され、裁判所は和議条件どおり履行されるかにタッチしない。大型倒産の場合はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方が示された

管財人が交代を重ね、ミシン製造を捨てて訪問販売へ絞り込むまで

創業ストーリー(7)

就任7カ月で辞任した事業家管財人と粉飾が残した資金

1985年2月19日、東京地方裁判所で会社更生手続の開始が決まった[85]。同じ2月、財界四天王の一人とされた今里広記氏らに推され、ダイニッカの横地治男氏が事業家管財人に就いた[86]。横地氏を担ぎ出したのは東邦生命保険の太田新太郎社長で、1984年7月23日の和議申請の直後にはツガミの大山梅雄社長を再建に引き出そうと動いていた[87]。東邦生命は幹部として15人ほどをリッカーへ出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円も同社元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出た[88]。横地氏は支店を統廃合し、1985年7月には前払い式割賦販売を再開した[89]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [85]1985年2月19日に会社更生手続の開始が決まった
    • [86]1985年2月、今里広記氏らに推されたダイニッカの横地治男社長が管財人に就任した
  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [87]太田新太郎東邦生命保険社長は横地氏を管財人にかつぎ出した立役者で、1984年7月23日の和議申請直後には大山梅雄ツガミ社長を再建に引っ張り出そうとした
    • [88]東邦生命は15人ばかり社員をリッカーに幹部として出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円の資金は東邦生命元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出ている
    • [89]支店の統廃合、従業員の意識改革、7月からの前払い式割賦販売の再開など、再建の地ならしは終わった

出費を徹底して切り詰めるおしん経営は、社内と取引先の双方から反発を招いた[90]。立川工場に部品を納める業者でつくる債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るもつれから、横地氏の不信任を求める上申書を東京地裁へ出した[91]。立川工場では部品業者との対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社でも空いた席を東邦生命からダイニッカを経由して送り込まれた人材が埋めた[92]。朝7時30分に管財人室の前へ並ばなければ決裁が下りず、販促用のビラ一枚にも判子がなかなかもらえないという不満が社内に残った[93]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [90]出費を徹底的に切り詰める「おしん経営」が社員や取引先の反発を招いた
  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [91]立川工場に部品を納入する業者を中心に組織している債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るトラブルから横地氏不信任の上申書を地裁に出している
    • [92]立川工場では部品業者との問題を巡る対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社も似た事情で東邦生命からダイニッカを経由して人材が送り込まれた
    • [93]朝7時30分に管財人室の前に並んでいないと決裁がもらえず、販促用のビラ一つ作るにもなかなか判子がもらえなかったという不満が社内にあった

1985年8月31日、太田氏はホテルニューオータニで横地氏に勇退を促した[94]。横地氏は9月2日に東京地裁へ意見書を出して裁判官と対立し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出した[95]。就任からわずか7カ月だった[96]。残った法律家管財人の阿部昭吾弁護士は、スポンサーを置かない自主再建に動いた[97]。資金繰りそのものは詰まっていない[98]。旧経営陣が約330億円の利益を水増ししていたため簿外の在庫が積み上がっており、その販売と回収で1〜2年はしのげる状態にあった[99]。払い過ぎた税金の還付として国税庁へ請求した額は58億円にのぼった[100]

  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [94]8月31日にホテルニューオータニで太田氏が横地氏に円満な勇退を勧めた
    • [95]横地氏は9月2日に東京地方裁判所へ意見書を出して裁判官と激論し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出して記者発表となった
    • [97]阿部昭吾弁護士が一人管財人に残り、リッカーはスポンサーなしで自主再建に動いている
    • [98]横地氏辞任の直後は再建に暗雲との論調が広がったが、リッカーは資金繰りに苦しんでいない
    • [99]利益の水増し約330億円という粉飾決算により簿外在庫の販売と資金回収で1〜2年は資金要らずで行ける
    • [100]粉飾決算で払いすぎた税金の還付として国税庁に請求している金額は58億円
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [96]横地治男管財人はわずか7カ月で辞任に追い込まれた
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [85]1985年2月19日に会社更生手続の開始が決まった
    • [86]1985年2月、今里広記氏らに推されたダイニッカの横地治男社長が管財人に就任した
    • [90]出費を徹底的に切り詰める「おしん経営」が社員や取引先の反発を招いた
    • [96]横地治男管財人はわずか7カ月で辞任に追い込まれた
  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [87]太田新太郎東邦生命保険社長は横地氏を管財人にかつぎ出した立役者で、1984年7月23日の和議申請直後には大山梅雄ツガミ社長を再建に引っ張り出そうとした
    • [88]東邦生命は15人ばかり社員をリッカーに幹部として出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円の資金は東邦生命元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出ている
    • [89]支店の統廃合、従業員の意識改革、7月からの前払い式割賦販売の再開など、再建の地ならしは終わった
    • [91]立川工場に部品を納入する業者を中心に組織している債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るトラブルから横地氏不信任の上申書を地裁に出している
    • [92]立川工場では部品業者との問題を巡る対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社も似た事情で東邦生命からダイニッカを経由して人材が送り込まれた
    • [93]朝7時30分に管財人室の前に並んでいないと決裁がもらえず、販促用のビラ一つ作るにもなかなか判子がもらえなかったという不満が社内にあった
    • [94]8月31日にホテルニューオータニで太田氏が横地氏に円満な勇退を勧めた
    • [95]横地氏は9月2日に東京地方裁判所へ意見書を出して裁判官と激論し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出して記者発表となった
    • [97]阿部昭吾弁護士が一人管財人に残り、リッカーはスポンサーなしで自主再建に動いている
    • [98]横地氏辞任の直後は再建に暗雲との論調が広がったが、リッカーは資金繰りに苦しんでいない
    • [99]利益の水増し約330億円という粉飾決算により簿外在庫の販売と資金回収で1〜2年は資金要らずで行ける
    • [100]粉飾決算で払いすぎた税金の還付として国税庁に請求している金額は58億円
創業ストーリー(8)

通産省の要請で支援に入ったダイエーと製造業復活の断念

ダイエーが通商産業省の強い要請を受けてリッカーの全面支援に乗り出したのは、1987年2月である[101]。倒産から2年半が過ぎ、優秀な人材がかなり流出していた[102]。主力のミシンの製造販売は斜陽産業とされ、不動産の売却による弁済だけならともかく事業の再建は難しいというのが大方の見方だった[103]ダイエーの中内功会長兼社長にとって倒産企業の再建の請負は初めてで、訪問販売というダイエーが持たない事業を傘下に入れ、顧客の開拓と品ぞろえの両面で効果を見込んだ[104]。再建の表舞台に立ったのは、ヤマハの社長を務めダイエー副社長だった河島博氏で、管財人代理として1987年9月にリッカーへ入った[105]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [101]ダイエーが通産省の強い要請を受けて全面支援に乗り出したのは1987年2月
    • [102]1987年2月までに優秀な人材がかなり流出しており、再建を疑問視する見方が強かった
    • [103]主力のミシンの製造販売は斜陽産業で、不動産売却などによる債務の弁済だけならともかく事業の再建は難しいとの見方がほとんどだった
    • [104]中内功氏にとってリッカーは倒産企業の再建を請け負う初めての経験で、訪問販売を手掛けるリッカーを傘下に入れ顧客開拓や品ぞろえの相乗効果を期待した
    • [105]ヤマハの社長を務めた経験がありダイエー副社長だった河島博氏がリッカー再建の表舞台に立ったのは1987年9月、管財人代理に就任した

河島氏はまず、限られた人員と資金で何ができるかを部長級の検討委員会に洗い出させた[106]。顧客情報活用、商品企画開発、販売体制構築、販売手法開発、経営管理制度構築の五つを置き、ミシン製造という本業を本当に捨ててよいのか、捨てるなら何を核に据えるのかを幹部社員に問うた[107]。国内のミシン生産で高いシェアを占めた生産部門は、すでにほぼ解体されていた[108]。中核となる技術者もほとんど流出し、製造設備にも他社を上回るものはない[109]。河島氏は製造業としての復活を断念し、再建の的を訪問販売のための支店をどう使うかに絞った[110]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [106]河島氏は管財人代理に就任後、リッカーの限られた経営資源で何ができるかの検討を始め、部長を中心に構成する検討委員会を設置した
    • [107]顧客情報活用委員会・商品企画開発委員会・販売体制構築委員会・販売手法開発委員会・経営管理制度構築委員会の五つを設け、ミシン製造という本業を捨てて良いのか、何を核となる事業にするのかなど幹部社員の生の声を吸い上げた
    • [108]国内のミシン生産で高いシェアを握っていたリッカーの生産部門はほぼ解体されていた
    • [109]中核となる技術者がほとんど流出し、製造設備でも他社を上回るものがなかった
    • [110]製造業としての復活は不可能とみて、再建の方向を訪問販売のための支店をどのように利用するかに絞った

1987年11月に認可された更生計画は、5年後の1992年1〜12月に売上高199億円を掲げた[111]。更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んだ計算になる[112]。同時に、売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、1992年に59%まで引き下げる目標を置いた[113]。手元に残っていたのは、最盛期に全国400カ所あった支店のうちの270カ所以上と、ミシンの販売を委託する契約販売員1800人だった[114]。架空売上の陰で売れ残った家庭用ミシンを処分して換金した金が、販売網に乗せる商品の購入と給与の支払いを支えた[115]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [111]1987年11月に認可された更生計画には5年後の1992年1〜12月に199億円の売上高を目指すとある
    • [112]更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んでいた
    • [113]売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、5年後の1992年には59%に引き下げる方針を打ち出した
    • [114]最盛期には全国400カ所に展開していた支店はまだ270カ所以上が残り、ミシンの販売を委託していた契約販売員も1800人が在籍していた
    • [115]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で売れ残った家庭用ミシンの不良在庫を処分し換金することが貴重な資金源となり、この資金がなければ販売網に乗せる商品の購入や従業員への給与の支払いも滞りかねなかった
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [101]ダイエーが通産省の強い要請を受けて全面支援に乗り出したのは1987年2月
    • [102]1987年2月までに優秀な人材がかなり流出しており、再建を疑問視する見方が強かった
    • [103]主力のミシンの製造販売は斜陽産業で、不動産売却などによる債務の弁済だけならともかく事業の再建は難しいとの見方がほとんどだった
    • [104]中内功氏にとってリッカーは倒産企業の再建を請け負う初めての経験で、訪問販売を手掛けるリッカーを傘下に入れ顧客開拓や品ぞろえの相乗効果を期待した
    • [105]ヤマハの社長を務めた経験がありダイエー副社長だった河島博氏がリッカー再建の表舞台に立ったのは1987年9月、管財人代理に就任した
    • [106]河島氏は管財人代理に就任後、リッカーの限られた経営資源で何ができるかの検討を始め、部長を中心に構成する検討委員会を設置した
    • [107]顧客情報活用委員会・商品企画開発委員会・販売体制構築委員会・販売手法開発委員会・経営管理制度構築委員会の五つを設け、ミシン製造という本業を捨てて良いのか、何を核となる事業にするのかなど幹部社員の生の声を吸い上げた
    • [108]国内のミシン生産で高いシェアを握っていたリッカーの生産部門はほぼ解体されていた
    • [109]中核となる技術者がほとんど流出し、製造設備でも他社を上回るものがなかった
    • [110]製造業としての復活は不可能とみて、再建の方向を訪問販売のための支店をどのように利用するかに絞った
    • [111]1987年11月に認可された更生計画には5年後の1992年1〜12月に199億円の売上高を目指すとある
    • [112]更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んでいた
    • [113]売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、5年後の1992年には59%に引き下げる方針を打ち出した
    • [114]最盛期には全国400カ所に展開していた支店はまだ270カ所以上が残り、ミシンの販売を委託していた契約販売員も1800人が在籍していた
    • [115]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で売れ残った家庭用ミシンの不良在庫を処分し換金することが貴重な資金源となり、この資金がなければ販売網に乗せる商品の購入や従業員への給与の支払いも滞りかねなかった
創業ストーリー(9)

支店271店を91店に絞り込んだ5年と更生手続の終了

1987年11月時点の従業員は727人まで減り、働き盛りの20代後半から30代はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳に上がっていた[116]。訪問販売部門の管理は、横地氏の管財人時代の1985年7月にダイエーから出向していた内野喬氏が担った[117]。当時のリッカーには体系だった管理の仕組みがなく、支店の朝礼で販売員が形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった[118]。内野氏は商品別・個人別に目標を設定して達成状況を本社が管理する方式を持ち込み、支店ごとの在庫管理と損益管理にも手を入れた[119]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [116]従業員数は1987年11月段階で727人に減少し、20代後半から30代の社員はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳と高齢化が進んでいた
    • [117]訪販部門の管理は、横地管財人時代の1985年7月にダイエーからリッカーに出向していた内野喬氏が担当した
    • [118]リッカーには当時、体系的な管理システムがなく、各支店の朝礼で販売員は形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった
    • [119]内野氏は商品別・個人別のきめ細かい管理を導入し、個々の販売員の目標設定と達成状況の本社管理、支店ごとの在庫管理や損益管理に力を入れた

ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいとみて、家電製品や浴槽など他の商品へ販売の重点を移した[120]。ところが販売員はミシンの売り方しか知らず、営業成績は伸びない[121]。そこで訪問販売の主力を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからのOEM供給に切り替えた[122]。黒字にならない不採算店は統廃合し、1987年11月に271店あった支店を91店まで絞り込んだ[123]。支店の社員は504人から271人へ、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を除いて解雇による人員削減はせず、肩たたきもしなかった[124]。更生計画の認可の翌年、1988年12月期から利益が黒字に転じた[125]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [120]ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいと判断し、家電製品や浴槽など他の商品の販売に重点を移そうとした
    • [121]販売員は昔から手掛けてきたミシンの売り方なら熟知しているが他の商品の販売ノウハウがないため、営業成績は思うように伸びなかった
    • [122]訪販の主力商品を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからOEMで供給してもらうよう事業方針を手直しした
    • [123]計数管理を厳しくしても黒字化しない不採算店は統廃合を進め、1987年11月に271店あった支店は91店に絞り込まれた
    • [124]支店の社員数は504人から271人へほぼ半減し、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を別として解雇による人員削減はせず、肩たたきもしていない
    • [125]更生計画が裁判所に認可された翌年の1988年12月期から利益の面で黒字化した

河島氏は、女性の就労率が上がって昼間に留守の家庭が増えたことと販売員の新規採用が難しくなったことから、既存の訪問販売に頼っていては大きな成長を望めないと判断した[126]。中内氏に直談判し、ダイエーが手がけていた折り込みチラシによる通信販売をリッカーへ引き受けた[127]。1988年7月に尾崎正氏ら20人のダイエー社員が関連会社へ出向し、1989年4月にはリッカーへ移籍して、カタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販を始めた[128]。1993年3月1日、東京地裁の更生手続が終了した[129]。債務は5割強を切り捨てられたとはいえ、当初予定した通り5年間で完済した[130]。1993年3月期の売上高は330億円、従業員は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えた[131]

  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [126]河島氏は女性の就労率が増加して昼間は留守の家庭が多くなってきたことや販売員の新規採用が難しい点などから、既存の訪販事業に頼っていては大きな成長を望めないと判断した
    • [127]河島氏は中内氏に直談判し、ダイエーが当時手掛けていた折り込みチラシによる通信販売事業をリッカーで引き受けることを認めさせた
    • [128]1988年7月に尾崎正氏など20人のダイエー社員がリッカーの関連会社に出向し、翌年4月には正式にリッカーに移籍してカタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販事業を開始した
    • [129]1993年3月1日にリッカーの更生手続きが終了し、東京・銀座のリッカー本社で更生終了を祝うパーティーが開かれた
    • [130]5割強カットされたとはいえ当初予定した通り5年間で債務を完済した
    • [131]1993年3月期の売上高は330億円、従業員数は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えている
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号
    • [116]従業員数は1987年11月段階で727人に減少し、20代後半から30代の社員はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳と高齢化が進んでいた
    • [117]訪販部門の管理は、横地管財人時代の1985年7月にダイエーからリッカーに出向していた内野喬氏が担当した
    • [118]リッカーには当時、体系的な管理システムがなく、各支店の朝礼で販売員は形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった
    • [119]内野氏は商品別・個人別のきめ細かい管理を導入し、個々の販売員の目標設定と達成状況の本社管理、支店ごとの在庫管理や損益管理に力を入れた
    • [120]ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいと判断し、家電製品や浴槽など他の商品の販売に重点を移そうとした
    • [121]販売員は昔から手掛けてきたミシンの売り方なら熟知しているが他の商品の販売ノウハウがないため、営業成績は思うように伸びなかった
    • [122]訪販の主力商品を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからOEMで供給してもらうよう事業方針を手直しした
    • [123]計数管理を厳しくしても黒字化しない不採算店は統廃合を進め、1987年11月に271店あった支店は91店に絞り込まれた
    • [124]支店の社員数は504人から271人へほぼ半減し、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を別として解雇による人員削減はせず、肩たたきもしていない
    • [125]更生計画が裁判所に認可された翌年の1988年12月期から利益の面で黒字化した
    • [126]河島氏は女性の就労率が増加して昼間は留守の家庭が多くなってきたことや販売員の新規採用が難しい点などから、既存の訪販事業に頼っていては大きな成長を望めないと判断した
    • [127]河島氏は中内氏に直談判し、ダイエーが当時手掛けていた折り込みチラシによる通信販売事業をリッカーで引き受けることを認めさせた
    • [128]1988年7月に尾崎正氏など20人のダイエー社員がリッカーの関連会社に出向し、翌年4月には正式にリッカーに移籍してカタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販事業を開始した
    • [129]1993年3月1日にリッカーの更生手続きが終了し、東京・銀座のリッカー本社で更生終了を祝うパーティーが開かれた
    • [130]5割強カットされたとはいえ当初予定した通り5年間で債務を完済した
    • [131]1993年3月期の売上高は330億円、従業員数は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えている

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

沿革年表 1939〜1984年

リッカーの沿革1939〜1984年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1939〜1962年毎月500円の掛金を先に集めてミシンを引き渡す会社平木信二が資本金2万円で日本殖産工業を設立
理化学工業に商号変更
立川市の東立工業を買収★★
立川工場でミシンの製造を開始★★
家庭用ミシンの月掛予約と月賦販売を日本で初めて開始★★★
リッカーミシンに商号変更
八王子市の中央金属工業を買収
ジグザグミシンの製造を開始★★
東京証券取引所に上場
立川・八王子両工場の立体化で生産能力が月5万台に到達
1963〜1984年販売網に商品を乗せた多角化と、1984年7月の和議申請家庭用電気製品の販売を開始★★
リッカー販売を設立
電子レンジの販売を開始★★
リッカーに商号変更
ホテル事業に参入★★★
販売不振を隠す粉飾決算を開始★★
東京地裁に和議を申請★★★
会社更生手続を申請★★★
東京証券取引所第一部で上場廃止
出典・参考 9件
出典・参考

免責事項およびポリシー