日本殖産工業は1939年9月16日、資本金2万円で設立された[1]。1943年4月に理化学工業へ商号を変更し、同じ年から平木信二社長が経営にあたった[2]。平木社長は1910年に京都で生まれ、1934年に京都帝国大学経済学部を卒業した計理士である[3]。終戦時の資本金は10万円にとどまったが、1946年12月に750万円まで増資した[4]。ミシンに入ったのは戦後である。1947年7月、立川市の東立工業を買収して立川工場とし、ミシンの製造に着手した[5]。始めた時点の経済情勢は不安定で[6]、ミシンそのものが絶対量として不足していた[7]。
製造に入った同社は、問屋や小売店に卸さず、直営の支店を自前で開く道を選んだ[8]。1948年8月、その直営販売の形で家庭用ミシンの月掛予約と月賦販売を日本で初めて始めた[9]。この売り方は以後、家庭用ミシン業界の大勢を占めるまでに広がった[10]。1949年9月には生産設備の拡充にあわせて直営販売店の拡充へ着手し、社名をリッカーミシンへ改めている[11]。1950年10月には八王子市の中央金属工業を買収して八王子工場とし、1951年10月から脚部の機械加工に入った[12]。資本金も1948年に1,500万円、1949年に2,250万円へ積み増している[13]。
月掛予約は、毎月500円の掛金を36カ月にわたって受け取り、満期に現品を引き渡す方式である[14]。36カ月を納めきれば1万8,000円になり、その全額が現品の引き渡しより先に会社へ入った。月賦販売はこれと組で、掛金が頭金相当額に達した時点で現品を売り渡し、残額を月賦へ切り替える[15]。現金で買う客には、月掛予約の2割相当額を割り引いた[16]。三つの売り方はいずれも直営店だけを通り、代金は現品の引き渡しより先に会社へ入る[17]。ミシンが不足していた時期に1台500円という条件は需要者へ強く訴え、申込みは次第に増えていった[18]。
もっとも、申込みが増えるテンポより、予約を募る営業所の設置費用が膨らむテンポのほうが速かった[19]。同社は高利の資金を借りて営業所を増やし続け、かえって資金繰りに追い詰められた[20]。同社は1954年、数千万円の不渡手形を2度にわたって出し、平木社長は新聞記者を集めて経緯を語ったうえで再建の決意を発表している[21]。平木社長は後年、借金に追いまくられている時は寒さも暑さも分からなくなると、おどけた調子で振り返った[22]。会社がつぶれるという噂が立って社内は意気消沈し、社員の士気の立て直しが再建の重大な要素になっていた[23]。
1954年、平木社長は資金繰りが行き詰まるなかで士気を立て直す手として野球チームの結成を発表し、融資銀行の反発を招いた[24]。借金で首が回らない時に社員の野球はあるまいというのが銀行側の言い分だったが、平木社長の説明を受けて銀行は結成を承認している[25]。営業所を増やす支出は続いたものの、申込みの増加がやがてそれを上回った[26]。ここには戦後の経済成長の速さも働いたとみられる[27]。同社は1953年に公募による増資を実施した[28]。生産も伸び、月産台数は同じ1953年に4,000台、翌1954年には5,000台へ達している[29]。従業員は1955年に3,000人を数えた[30]。
掛金が先に入る以上、同社は現品を作る力を先に積み増す必要があった。1956年4月にHA-1型とRW-1型がJISマークの表示許可を受け、同年の月産能力は1万台に届いた[31]。1957年12月にはRW-5型が国産ミシンとして初めてGマークの指定を受け、生産能力は月1万5,000台へ伸びている[32]。1958年2月にジグザグミシンの製造を始めると、同年の月産能力は2万台を超えた[33]。翌1959年5月には立川に第2組立工場が完成し、テーブルコンベア方式の採用で月産2万5,000台となった[34]。1960年11月には立川工場の組立工場にコンベア装置と専用工作機械を増設している[35]。
1961年5月、鉄筋コンクリート地上3階地下1階の立川工場本館が完成し、製造工程の立体化が成った[36]。八王子工場にもアーレン建築による鉄筋の機械工場1,534平方メートルが完成したことで、月産能力は4万台へ上がった[37]。1961年6月8日、東京証券取引所第一市場に株式を上場した[38]。同じ年の8月には大阪、10月には名古屋と福岡の各取引所へも上場を広げた[39]。1961年10月には立川・八王子両工場の配列を立体化して新設機械の稼働に入り、生産能力は月5万台へ届いている[40]。1962年5月には山口鋳鋼および木下ミシン塗装と生産提携を結んだ[41]。
1962年12月期の家庭用ミシンの販売は269,863台、直営店は500店を数えた[42]。同期末の貸借対照表は、流動資産の側に月掛契約金173億円を立て、総資産306億円の過半をこの一項目が占めた[43]。負債の側には同額の予約契約引当金が並び、これとは別に月掛準備金58億円を積んでいる[44]。これに対し借入金は短期・長期を合わせて7億円あまりで、月掛契約金の20分の1に満たない[45]。輸出はベルベデイア・ディストリビューティング社などとの契約による受注生産で、北米、カナダ、ニュージーランド、沖縄へ向かい、売上高の2.0%にとどまった[46]。家庭用ミシンの販売量では、この時点で国内第一位である[47]。
1973年時点で全国600支店が販売とサービスと集金の三つを担い、人口15万から16万人につき1支店、1つの府県で14から15店舗という密度で配置された[48]。府県単位のブロックには1か所か2か所の中央支店を置き、ブロック内の支店を統括させた[49]。1965年、平木証三氏は取扱商品の多角化を打ち出し、まず家庭用の電気製品を売り始めたが、ミシン専用の経路に家電を相乗りさせたため、期待した成果は得られなかった[50]。それでも家電を扱った経験は電子レンジの開発を進め、生産体制への自信を残した[51]。支店のサービスセンターでは裁縫教室や編物教室に加え、電子レンジを使う料理教室も開いた[52]。
海外進出も同じ時期に始まった。1964年2月、ウイルバー・エリス社との合弁でアメリカ・リッカーを設立した[53]。ロサンゼルスを拠点に成績を伸ばし、1973年には郊外の約5,000坪に工場を建設中で、翌1974年2月の完成を見込んでいた。立川工場で生産したミシンを裸のまま送り、現地でノックダウン生産に回す計画だった[54]。西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスを置き、前者がドイツ・オーストリアとベネルックス3国を、後者がより南の地域を担当した[55]。国内でも本社の電子計算室を分離して日比谷コンピューターシステムを発足させ、リッカー不動産、織布と自動車部品の新日工業、輸入商社の日独精機、湯河原の温泉旅館である清水園を抱えた[56]。
1970年ごろから流通部門の建て直しに入った[57]。15万人の商区では担当どうしが競合するため、人口1万人を1単位とする商区へ組み替えた。1万人は世帯数で2,500から2,600、セールスマン1人が回るのに最も効率のよい規模である[58]。ところが広い商区で育ったセールスマンは自分の作り上げた固定客を手放せず、小さな商区になじまなかった[59]。価格体系もまた現場に摩擦を生んでいた。予約販売、月賦販売、現金販売はいずれも価格が定められ、値引きはできない[60]。同じ商品でも予約で買うか月賦で買うかで値段が変わるため、月賦の客に予約販売の値段で話をつけてしまうと、後から集金係が回ったときに値段が食い違い、たびたびもめごとが起きた[61]。
そこで生まれたのがサービスショップである。1万人の商区に長く住み、いまの仕事から転向したい人に声をかけ、店舗を改造する費用は全額を会社が負担した[62]。世帯の大半が顔なじみの土地では、その場限りの売り込みは悪評を招き、自分がそこに住めなくなる[63]。1973年時点でライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を任せられる有資格者が約2,500人、サービスショップの商区には約2,000人を数えた[64]。平木証三社長は3年をかけて全国のサービスショップを回り、口のうまさで売るのは下の売り方であり、客のほうから金を持ってきて買っていくのが上の売り方だと説いた[65]。
1975年に1万商区を完成させる計画を置き、1商区あたり月100万円、平均単価6万円の商品を月20台という積み上げから、月間100億円、年間1,200億円を見込んだ。1,000億円企業が全社の目標だった[66]。この規模の販売網を支えると支店を束ねる中央支店が大型化するが、中央支店に要る床は2フロアで足りる。そこで大型店を建てて上の階をホテルにし、全国チェーンにする構想を立てた[67]。1973年2月に札幌でホテルリッチ第1号を開業し、函館、新潟、横浜、名古屋、福岡で建設を進めた[68]。規模は150室から200室のビジネスタイプで、最終目標を全国60カ所に置いた[69]。札幌は180室、稼働率は平均95%と損益分岐点の70%を上回り、8月の売上高は約3,000万円に達した[70]。
本業の足取りは重かった。1960年代には国内のミシン生産で45%近いシェアを占めた[71]。もっとも1974年3月期の売上高は200億円を目標としながら、金融引き締めもあって190億円程度にとどまる見通しへ下がっていた[72]。生産から販売までの直営を掲げてデパートには置いてこなかったが、1973年から陳列に踏み切り、都内では月に約1,000台を売った[73]。多角化が裏目に出て、電子式ミシンへの移行も遅れた[74]。会社ぐるみの架空売上計上が続くあいだ、家庭用ミシンは大量に売れ残り、この不良在庫は倒産後に処分され、換金されて資金源になった[75]。
1984年7月23日、東京地裁に和議を申請した。負債は820億円、一説には1,100億円とされた[76]。負債総額を1,200億円とし、興人や永大産業に続く戦後4番目の大型倒産と数える集計もある[77]。1か月前の6月30日には、サラ金業界のヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱え、同じ東京地裁に和議開始を申し立てていた。ヤタガイは6月11日に3億8,000万円の手形を決済できず不渡りを出し、一部債権者から破産を申し立てられたため和議に踏み切った[78]。倒産当時のリッカーの従業員は1,987人である[79]。
和議は債務者しか申し立てられず、会社更生法と違って大口債権者の側からは申し立てられない。申立てには取締役会の多数決ではなく取締役全員の賛成が要る[80]。和議案は出席した和議債権者の過半数、かつ和議債権総額の4分の3以上の同意で可決される。会社更生法はより厳しい多数の同意を求め、とくに更生担保権者について厳しい[81]。和議では担保権の実行が禁止されず、管財人は経営者を監督するだけで、経営権は経営者に残る[82]。裁判所は和議条件を認可した後は履行に関与せず、管財人も解任される。大型倒産はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方も出た[83]。手続きはその後、和議から会社更生へ移った[84]。
1985年2月19日、東京地方裁判所で会社更生手続の開始が決まった[85]。同じ2月、財界四天王の一人とされた今里広記氏らに推され、ダイニッカの横地治男氏が事業家管財人に就いた[86]。横地氏を担ぎ出したのは東邦生命保険の太田新太郎社長で、1984年7月23日の和議申請の直後にはツガミの大山梅雄社長を再建に引き出そうと動いていた[87]。東邦生命は幹部として15人ほどをリッカーへ出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円も同社元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出た[88]。横地氏は支店を統廃合し、1985年7月には前払い式割賦販売を再開した[89]。
出費を徹底して切り詰めるおしん経営は、社内と取引先の双方から反発を招いた[90]。立川工場に部品を納める業者でつくる債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るもつれから、横地氏の不信任を求める上申書を東京地裁へ出した[91]。立川工場では部品業者との対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社でも空いた席を東邦生命からダイニッカを経由して送り込まれた人材が埋めた[92]。朝7時30分に管財人室の前へ並ばなければ決裁が下りず、販促用のビラ一枚にも判子がなかなかもらえないという不満が社内に残った[93]。
1985年8月31日、太田氏はホテルニューオータニで横地氏に勇退を促した[94]。横地氏は9月2日に東京地裁へ意見書を出して裁判官と対立し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出した[95]。就任からわずか7カ月だった[96]。残った法律家管財人の阿部昭吾弁護士は、スポンサーを置かない自主再建に動いた[97]。資金繰りそのものは詰まっていない[98]。旧経営陣が約330億円の利益を水増ししていたため簿外の在庫が積み上がっており、その販売と回収で1〜2年はしのげる状態にあった[99]。払い過ぎた税金の還付として国税庁へ請求した額は58億円にのぼった[100]。
ダイエーが通商産業省の強い要請を受けてリッカーの全面支援に乗り出したのは、1987年2月である[101]。倒産から2年半が過ぎ、優秀な人材がかなり流出していた[102]。主力のミシンの製造販売は斜陽産業とされ、不動産の売却による弁済だけならともかく事業の再建は難しいというのが大方の見方だった[103]。ダイエーの中内功会長兼社長にとって倒産企業の再建の請負は初めてで、訪問販売というダイエーが持たない事業を傘下に入れ、顧客の開拓と品ぞろえの両面で効果を見込んだ[104]。再建の表舞台に立ったのは、ヤマハの社長を務めダイエー副社長だった河島博氏で、管財人代理として1987年9月にリッカーへ入った[105]。
河島氏はまず、限られた人員と資金で何ができるかを部長級の検討委員会に洗い出させた[106]。顧客情報活用、商品企画開発、販売体制構築、販売手法開発、経営管理制度構築の五つを置き、ミシン製造という本業を本当に捨ててよいのか、捨てるなら何を核に据えるのかを幹部社員に問うた[107]。国内のミシン生産で高いシェアを占めた生産部門は、すでにほぼ解体されていた[108]。中核となる技術者もほとんど流出し、製造設備にも他社を上回るものはない[109]。河島氏は製造業としての復活を断念し、再建の的を訪問販売のための支店をどう使うかに絞った[110]。
1987年11月に認可された更生計画は、5年後の1992年1〜12月に売上高199億円を掲げた[111]。更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んだ計算になる[112]。同時に、売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、1992年に59%まで引き下げる目標を置いた[113]。手元に残っていたのは、最盛期に全国400カ所あった支店のうちの270カ所以上と、ミシンの販売を委託する契約販売員1800人だった[114]。架空売上の陰で売れ残った家庭用ミシンを処分して換金した金が、販売網に乗せる商品の購入と給与の支払いを支えた[115]。
1987年11月時点の従業員は727人まで減り、働き盛りの20代後半から30代はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳に上がっていた[116]。訪問販売部門の管理は、横地氏の管財人時代の1985年7月にダイエーから出向していた内野喬氏が担った[117]。当時のリッカーには体系だった管理の仕組みがなく、支店の朝礼で販売員が形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった[118]。内野氏は商品別・個人別に目標を設定して達成状況を本社が管理する方式を持ち込み、支店ごとの在庫管理と損益管理にも手を入れた[119]。
ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいとみて、家電製品や浴槽など他の商品へ販売の重点を移した[120]。ところが販売員はミシンの売り方しか知らず、営業成績は伸びない[121]。そこで訪問販売の主力を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからのOEM供給に切り替えた[122]。黒字にならない不採算店は統廃合し、1987年11月に271店あった支店を91店まで絞り込んだ[123]。支店の社員は504人から271人へ、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を除いて解雇による人員削減はせず、肩たたきもしなかった[124]。更生計画の認可の翌年、1988年12月期から利益が黒字に転じた[125]。
河島氏は、女性の就労率が上がって昼間に留守の家庭が増えたことと販売員の新規採用が難しくなったことから、既存の訪問販売に頼っていては大きな成長を望めないと判断した[126]。中内氏に直談判し、ダイエーが手がけていた折り込みチラシによる通信販売をリッカーへ引き受けた[127]。1988年7月に尾崎正氏ら20人のダイエー社員が関連会社へ出向し、1989年4月にはリッカーへ移籍して、カタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販を始めた[128]。1993年3月1日、東京地裁の更生手続が終了した[129]。債務は5割強を切り捨てられたとはいえ、当初予定した通り5年間で完済した[130]。1993年3月期の売上高は330億円、従業員は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えた[131]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1939〜1962年毎月500円の掛金を先に集めてミシンを引き渡す会社 | 平木信二が資本金2万円で日本殖産工業を設立 | ★ | ||
| 理化学工業に商号変更 | ★ | |||
| 立川市の東立工業を買収 | ★★ | |||
| 立川工場でミシンの製造を開始 | ★★ | |||
| 家庭用ミシンの月掛予約と月賦販売を日本で初めて開始 | ★★★ | |||
| リッカーミシンに商号変更 | ★ | |||
| 八王子市の中央金属工業を買収 | ★ | |||
| ジグザグミシンの製造を開始 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 立川・八王子両工場の立体化で生産能力が月5万台に到達 | ★ | |||
| 1963〜1984年販売網に商品を乗せた多角化と、1984年7月の和議申請 | 家庭用電気製品の販売を開始 | ★★ | ||
| リッカー販売を設立 | ★ | |||
| 電子レンジの販売を開始 | ★★ | |||
| リッカーに商号変更 | ★ | |||
| ホテル事業に参入 | ★★★ | |||
| 販売不振を隠す粉飾決算を開始 | ★★ | |||
| 東京地裁に和議を申請 | ★★★ | |||
| 会社更生手続を申請 | ★★★ | |||
| 東京証券取引所第一部で上場廃止 | ★ |
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事実根拠:出所(リッカー)