リッカー:家電・ホテルへの多角化と1984年の和議申請
1973年〜ミシンで開いた訪問販売の経路に乗せた家電と海外現地法人
1973年時点で全国600支店が販売とサービスと集金の三つを担い、人口15万から16万人につき1支店、1つの府県で14から15店舗という密度で配置された。府県単位のブロックには1か所か2か所の中央支店を開設し、ブロック内の支店を統括させた。1965年、平木証三氏は取扱商品の多角化を打ち出し、まず家庭用の電気製品を売り始めたが、ミシン専用の経路に家電を相乗りさせたため、期待した成果は得られなかった。それでも家電を扱った経験は電子レンジの開発を進め、生産体制への自信を残した。支店のサービスセンターでは裁縫教室や編物教室に加え、電子レンジを使う料理教室も開いた。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [1]全国600支店を配置し、支店の仕事は販売活動・サービス活動・集金活動の三つ。人口15〜16万人に1支店、1府県で14〜15店舗の割合
- [2]府県単位のブロックには1〜2か所の割合で中央支店があり、ブロック内の支店を統括していた
- [3]1965年に取扱商品の多角化の方向を打ち出し、まず家電製品を販売した。ミシンで開拓したルートに家電を乗せたため、期待した結果は得られなかった
- [4]家電製品の取扱いに踏み切ったことで電子レンジの開発が進み、技術的にも自信のある生産体制ができた
- [5]支店のサービスセンターで裁縫・編物教室、電子レンジによるクッキング教室を開いていた
海外進出も同じ時期に始まった。1964年2月、ウイルバー・エリス社との合弁でアメリカ・リッカーを設立した。ロサンゼルスを拠点に成績を伸ばし、1973年には郊外の約5,000坪に工場を建設中で、翌1974年2月の完成を見込んでいた。立川工場で生産したミシンを裸のまま送り、現地でノックダウン生産に回す計画だった。西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスを置き、前者がドイツ・オーストリアとベネルックス3国を、後者がより南の地域を担当した。国内でも本社の電子計算室を分離して日比谷コンピューターシステムを発足させ、リッカー不動産、織布と自動車部品の新日工業、輸入商社の日独精機、湯河原の温泉旅館である清水園を抱えた。
- 沢井実「ミシン工業におけるアセンブル・部品メーカーの帰趨」『経営史学』54巻3号
- [6]1964年2月、ウイルバー・エリス社と合弁でアメリカ・リッカー社を設立した
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [7]ロサンゼルスのアメリカ・リッカーは成績を上げており、ロス郊外に約5,000坪の土地を確保して工場を建設中で1974年2月に完成予定。立川工場で生産したものを裸のまま送りノックダウン的な生産をする
- [8]西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスという現地法人があり、リッカー・ヨーロッパはドイツ・オーストリア・ベネルックス3国等、リッカー・フランスはそれより南部を受け持った
- [9]本社の電子計算室を分離独立させ日比谷コンピューターシステムとして発足。ほかにリッカー不動産(土地・建物)、新日工業(織布部門と自動車部品の機械部門)、日独精機(輸入専門商社)、清水園(湯河原の温泉旅館)を持つ
参考文献[1]-[9]
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [1]全国600支店を配置し、支店の仕事は販売活動・サービス活動・集金活動の三つ。人口15〜16万人に1支店、1府県で14〜15店舗の割合
- [2]府県単位のブロックには1〜2か所の割合で中央支店があり、ブロック内の支店を統括していた
- [3]1965年に取扱商品の多角化の方向を打ち出し、まず家電製品を販売した。ミシンで開拓したルートに家電を乗せたため、期待した結果は得られなかった
- [4]家電製品の取扱いに踏み切ったことで電子レンジの開発が進み、技術的にも自信のある生産体制ができた
- [5]支店のサービスセンターで裁縫・編物教室、電子レンジによるクッキング教室を開いていた
- [7]ロサンゼルスのアメリカ・リッカーは成績を上げており、ロス郊外に約5,000坪の土地を確保して工場を建設中で1974年2月に完成予定。立川工場で生産したものを裸のまま送りノックダウン的な生産をする
- [8]西ドイツのフランクフルトにリッカー・ヨーロッパ、フランスのパリにリッカー・フランスという現地法人があり、リッカー・ヨーロッパはドイツ・オーストリア・ベネルックス3国等、リッカー・フランスはそれより南部を受け持った
- [9]本社の電子計算室を分離独立させ日比谷コンピューターシステムとして発足。ほかにリッカー不動産(土地・建物)、新日工業(織布部門と自動車部品の機械部門)、日独精機(輸入専門商社)、清水園(湯河原の温泉旅館)を持つ
- [6]1964年2月、ウイルバー・エリス社と合弁でアメリカ・リッカー社を設立した
1975年〜1万人商区とサービスショップが呼び込んだ関連会社
1970年ごろから流通部門の建て直しに入った。15万人の商区では担当どうしが競合するため、人口1万人を1単位とする商区へ組み替えた。1万人は世帯数で2,500から2,600、セールスマン1人が回るのに最も効率のよい規模である。ところが広い商区で育ったセールスマンは自分の作り上げた固定客を手放せず、小さな商区になじまなかった。価格体系もまた現場に摩擦を生んでいた。予約販売、月賦販売、現金販売はいずれも価格が定められ、値引きはできない。同じ商品でも予約で買うか月賦で買うかで値段が変わるため、月賦の客に予約販売の値段で話をつけてしまうと、後から集金係が回ったときに値段が食い違い、たびたびもめごとが起きた。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [10]1970年ごろから流通部門の強化に取り組んだ
- [11]1支店15万人の商区では互いに競合するため人口1万人単位の商区をつくった。1万人は世帯数で2,500〜2,600、セールスマン1人が活動するのに最も効率的な単位
- [12]広い商区で鍛えられたセールスマンは自分でつくり上げた固定客を捨てられず、1万人商区への移行は困難だった
- [13]予約販売・月賦販売・現金販売いずれも価格が決められており、値引きはあり得ない
- [14]同じ商品でも予約で買う場合と月賦で買う場合とでは価格が違うため、セールスマンが月賦の客に予約販売の値段で話をしてしまい、集金係が行くと値段が食い違ってトラブルが発生した
そこで生まれたのがサービスショップである。1万人の商区に長く住み、いまの仕事から転向したい人に声をかけ、店舗を改造する費用は全額を会社が負担した。世帯の大半が顔なじみの土地では、その場限りの売り込みは悪評を招き、自分がそこに住めなくなる。1973年時点でライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を任せられる有資格者が約2,500人、サービスショップの商区には約2,000人を数えた。口のうまさで売るのは下の売り方であり、客のほうから金を持ってきて買っていくのが上の売り方——平木証三社長が3年をかけて全国のサービスショップを回りながら示した売り方の序列である。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [15]サービスショップの開設にあたり、1万人の商区に長く住み現在の仕事から転向したい人々に呼びかけ、店舗を改造する費用等は一切会社が負担した
- [16]人口1万人は世帯数2,500〜2,600で大半が顔なじみのため、その場限りのセールス話法を用いると悪評を買い自分がそこに住めなくなる
- [17]ライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を担当するにふさわしい有資格者は約2,500名、導入済みのサービスショップ商区には約2,000名がいた
- [18]平木証三社長は3年間、全国のサービスショップを回り、口がうまくて売るのは下の売り方で、何もしゃべらずに客のほうが金を持ってきて買ってくれるのが上の売り方だと話していた
1975年に1万商区を完成させる計画を置き、1商区あたり月100万円、平均単価6万円の商品を月20台という積み上げから、月間100億円、年間1,200億円を見込んだ。1,000億円企業が全社の目標だった。この規模の販売網を支えると支店を統括する中央支店が大型化するが、中央支店に要る床は2フロアで足りる。そこで大型店を建てて上の階をホテルにし、全国チェーンにする構想を立てた。1973年2月に札幌でホテルリッチ第1号を開業し、函館、新潟、横浜、名古屋、福岡で建設を進めた。規模は150室から200室のビジネスタイプで、最終目標を全国60カ所に置いた。札幌は180室、稼働率は平均95%と損益分岐点の70%を上回り、8月の売上高は約3,000万円に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [19]1万商区の完成を1975年に置き、サービスショップ1商区の売上を月約100万円(平均単価約6万円の商品を月20台)と見て、月間100億円・年間1,200億円。1,000億円企業を全社の目標としていた
- [20]サービスショップ体制の流通ネットをつくると支店規模が大きくなり、支店を統括する中央支店の店舗も大型化が必要になる。中央支店として使う分は2フロアで足りるため、大型店を建てて上の階層をホテルとし全国チェーン化する計画を立てた
- [21]ホテルリッチは1973年2月に札幌で第1号をオープンし、函館・新潟・横浜・名古屋・福岡でホテルを建設中だった
- [22]ホテルの規模は150室〜200室のビジネスタイプで、最終目標は全国60カ所という構想
- [23]ホテルリッチ札幌は180室で、利用率は平均95%、損益分岐点は70%。1973年8月の売上げは約3,000万円だった
参考文献[10]-[23]
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [10]1970年ごろから流通部門の強化に取り組んだ
- [11]1支店15万人の商区では互いに競合するため人口1万人単位の商区をつくった。1万人は世帯数で2,500〜2,600、セールスマン1人が活動するのに最も効率的な単位
- [12]広い商区で鍛えられたセールスマンは自分でつくり上げた固定客を捨てられず、1万人商区への移行は困難だった
- [13]予約販売・月賦販売・現金販売いずれも価格が決められており、値引きはあり得ない
- [14]同じ商品でも予約で買う場合と月賦で買う場合とでは価格が違うため、セールスマンが月賦の客に予約販売の値段で話をしてしまい、集金係が行くと値段が食い違ってトラブルが発生した
- [15]サービスショップの開設にあたり、1万人の商区に長く住み現在の仕事から転向したい人々に呼びかけ、店舗を改造する費用等は一切会社が負担した
- [16]人口1万人は世帯数2,500〜2,600で大半が顔なじみのため、その場限りのセールス話法を用いると悪評を買い自分がそこに住めなくなる
- [17]ライン・セールスマンは約4,000人、うち商区を担当するにふさわしい有資格者は約2,500名、導入済みのサービスショップ商区には約2,000名がいた
- [18]平木証三社長は3年間、全国のサービスショップを回り、口がうまくて売るのは下の売り方で、何もしゃべらずに客のほうが金を持ってきて買ってくれるのが上の売り方だと話していた
- [19]1万商区の完成を1975年に置き、サービスショップ1商区の売上を月約100万円(平均単価約6万円の商品を月20台)と見て、月間100億円・年間1,200億円。1,000億円企業を全社の目標としていた
- [20]サービスショップ体制の流通ネットをつくると支店規模が大きくなり、支店を統括する中央支店の店舗も大型化が必要になる。中央支店として使う分は2フロアで足りるため、大型店を建てて上の階層をホテルとし全国チェーン化する計画を立てた
- [21]ホテルリッチは1973年2月に札幌で第1号をオープンし、函館・新潟・横浜・名古屋・福岡でホテルを建設中だった
- [22]ホテルの規模は150室〜200室のビジネスタイプで、最終目標は全国60カ所という構想
- [23]ホテルリッチ札幌は180室で、利用率は平均95%、損益分岐点は70%。1973年8月の売上げは約3,000万円だった
1984年〜本業の停滞と架空売上計上、和議法を選んだ倒産処理
本業の足取りは重かった。1960年代には国内のミシン生産で45%近いシェアを占めた。もっとも1974年3月期の売上高は200億円を目標としながら、金融引き締めもあって190億円程度にとどまる見通しへ下がっていた。生産から販売までの直営を掲げてデパートには置いてこなかったが、1973年から陳列に踏み切り、都内では月に約1,000台を売った。会社ぐるみの架空売上計上が続くあいだ、家庭用ミシンは大量に売れ残り、この不良在庫は倒産後に処分され、換金されて資金源になった。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [24]1960年代に国内のミシン生産で45%近いシェアを握っていた
- [27]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で家庭用ミシンが大量に売れ残っており、この不良在庫を処分し換金することが当時のリッカーにとって貴重な資金源になった
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [25]1974年3月期の業績は200億円が目標だったが、金融引き締めなど予測しない事態も起き190億円くらいの見通しになった
- [26]生産から販売までの直営を標榜しデパート販売はしていなかったが、1973年からデパート販売に踏み切り、都内のデパートの大部分がミシンを陳列し月間約1,000台を販売していた
1984年7月23日、東京地裁に和議を申請した。負債は820億円、一説には1,100億円とされた。負債総額を1,200億円とし、興人や永大産業に続く戦後4番目の大型倒産と数える集計もある。1か月前の6月30日には、サラ金業界のヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱え、同じ東京地裁に和議開始を申し立てていた。ヤタガイは6月11日に3億8,000万円の手形を決済できず不渡りを出し、一部債権者から破産を申し立てられたため和議に踏み切った。倒産当時のリッカーの従業員は1,987人である。
- 法令ニュース 1984年
- [28]リッカーミシンは820億円(一説には1,100億円)の負債を抱えて1984年7月23日に東京地裁へ和議を申請した
- [30]リッカーより1か月前の1984年6月30日、ヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱えて東京地裁に和議開始を申し立てた。6月11日に3億8,000万円の手形決済ができず不渡りを出し、一部債権者から破産の申立てが出されたため和議申立てに踏み切った
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [29]1984年7月に和議開始を申請して事実上倒産した時の負債総額は1,200億円で、当時では興人・永大産業などに続く戦後4番目の大型倒産だった
- [31]リッカーの従業員数は倒産当時1,987人だった
和議は債務者しか申し立てられず、会社更生法と違って大口債権者の側からは申し立てられない。和議案の可決には、出席した和議債権者の過半数と、和議債権総額の4分の3以上の同意がそろえばよい。申立てのほうは取締役会の多数決では足りず、取締役の全員が賛成しなければならない。会社更生法が課す同意の要件はこれより重く、更生担保権者に対してとりわけ厳しい。和議では担保権を実行することは妨げられず、経営の権限も経営者の手にとどまり、管財人の役目はその監督に限られる。和議条件を認可してしまえば裁判所は履行にかかわらず、管財人も解任される。規模の大きな倒産には会社更生法こそふさわしく、和議法に基づく和議は中小企業に向けた倒産法ではないのか、という見方も出たが、手続きはその後、和議から会社更生へ移った。
- 法令ニュース 1984年
- [32]和議は申し立てられるのが債務者に限られ、会社更生法は会社自身のほか大口債権者の申立ても可能。和議の申立てには通常の取締役会決議と違い取締役全員の賛成が必要で、ひとりでも反対すると申立てができない
- [33]和議法による和議では、和議債権者の出席者の過半数かつ和議債権総額の4分の3以上の同意があれば和議案が可決される。会社更生法の場合はより厳しい多数の債権者の同意が要求され、とくに更生担保権者についてはそうである
- [34]会社更生の場合は担保権の実行が禁止されるが和議では禁止されない。会社更生法では保全管財人が会社の管理権を握るのに対し、和議では管財人は経営者を監督するだけで経営者が従来どおり経営権を持つ
- [35]和議は裁判所が和議条件を認可すると管財人も解任され会社は裁判所の監督から解放され、裁判所は和議条件どおり履行されるかにタッチしない。大型倒産の場合はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方が示された
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [36]リッカーの倒産処理は和議から会社更生へ移り、東京地裁の更生手続として管財人・更生計画のもとで進められた
参考文献[24]-[36]
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [24]1960年代に国内のミシン生産で45%近いシェアを握っていた
- [27]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で家庭用ミシンが大量に売れ残っており、この不良在庫を処分し換金することが当時のリッカーにとって貴重な資金源になった
- [29]1984年7月に和議開始を申請して事実上倒産した時の負債総額は1,200億円で、当時では興人・永大産業などに続く戦後4番目の大型倒産だった
- [31]リッカーの従業員数は倒産当時1,987人だった
- [36]リッカーの倒産処理は和議から会社更生へ移り、東京地裁の更生手続として管財人・更生計画のもとで進められた
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- [25]1974年3月期の業績は200億円が目標だったが、金融引き締めなど予測しない事態も起き190億円くらいの見通しになった
- [26]生産から販売までの直営を標榜しデパート販売はしていなかったが、1973年からデパート販売に踏み切り、都内のデパートの大部分がミシンを陳列し月間約1,000台を販売していた
- 法令ニュース 1984年
- [28]リッカーミシンは820億円(一説には1,100億円)の負債を抱えて1984年7月23日に東京地裁へ和議を申請した
- [30]リッカーより1か月前の1984年6月30日、ヤタガイ・クレジットが負債総額約270億円を抱えて東京地裁に和議開始を申し立てた。6月11日に3億8,000万円の手形決済ができず不渡りを出し、一部債権者から破産の申立てが出されたため和議申立てに踏み切った
- [32]和議は申し立てられるのが債務者に限られ、会社更生法は会社自身のほか大口債権者の申立ても可能。和議の申立てには通常の取締役会決議と違い取締役全員の賛成が必要で、ひとりでも反対すると申立てができない
- [33]和議法による和議では、和議債権者の出席者の過半数かつ和議債権総額の4分の3以上の同意があれば和議案が可決される。会社更生法の場合はより厳しい多数の債権者の同意が要求され、とくに更生担保権者についてはそうである
- [34]会社更生の場合は担保権の実行が禁止されるが和議では禁止されない。会社更生法では保全管財人が会社の管理権を握るのに対し、和議では管財人は経営者を監督するだけで経営者が従来どおり経営権を持つ
- [35]和議は裁判所が和議条件を認可すると管財人も解任され会社は裁判所の監督から解放され、裁判所は和議条件どおり履行されるかにタッチしない。大型倒産の場合はむしろ会社更生法を選ぶべきで、和議法による和議は中小企業向きの倒産法ではないかという見方が示された
出典・参考
4件
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号(平木証三・講演)
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- 沢井実「ミシン工業におけるアセンブル・部品メーカーの帰趨」『経営史学』54巻3号
- 法令ニュース 1984年