第1章 年〜年

ブラザー工業:安井ミシン商会の創設とBROTHER商標のミシン国産化

1908年〜安井ミシン商会と家庭用ミシン国産化の達成

1908年4月、熱田兵器廠の技師だった安井兼吉氏が職を辞し、名古屋市熱田区伝馬町に安井ミシン商会を開店した。事業は中古ミシンを買い取って修理・販売することで、当時の精密加工技術が未熟だった日本市場ではシンガー社の輸入製品が大半のシェアを占め、国産化は手の届かない領域だった。長男・正義氏は九歳の頃から父のもとでミシンについて仕込まれている。1925年、創業者の兼吉氏が逝去し、正義氏が家業を引き継いだ。正義氏の弟5人と妹4人の計10人がミシン修理業に加わり、熱田伝馬町の店を起点に兄弟経営の形が立ち上がった。同年11月の商号を安井ミシン兄弟商会への変更は、こうした兄弟体制の制度化であった。

  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1908年4月 安井兼吉が名古屋市熱田区伝馬町に安井ミシン商会を創業(ミシン修理及び部品製造)
    • [4]1925年11月 商号を安井ミシン兄弟商会に変更
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
    • [2]当時のミシンは輸入のみに依存しており、安井正義は独力での国産化を企図した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]安井正義は九才(数え)の頃から父・兼吉のもとでミシンを教わった

1928年1月、不況でミシン修理需要が縮小するなか、安井兄弟は部品加工用の自由エキセン旋盤の内製化に成功し、麦わら帽子製造用の環縫ミシン(昭三式)を自社開発して販売を開始した。商標"BROTHER"も1928年に制定された。旋盤を自社で抱えて加工設備から組み上げる方式が、後の自社の工作機械内製化路線の起点となる。1932年11月、シンガー社が市場の約90%を握り外貨流出が経済課題として議論されるなか、正義氏は家庭用本縫ミシン"15種70型"を完成させ、家庭用ミシンの国産化に到達した。戦時体制への移行のなかでシンガー社が日本市場から撤退すると、安井兄弟はその空白を取り込むべく組織を株式会社化し、1934年1月に名古屋市瑞穂区で日本ミシン製造を設立した。創業から26年、修理店から国産メーカーへ転じる節目の法人化であった。

  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1928年1月 昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の販売を開始
    • [6]商標「BROTHER」は1928年1月に制定
    • [7]1932年11月 家庭用本縫ミシンを完成させ家庭用ミシンの国産化に成功
    • [8]1934年1月 名古屋市瑞穂区に日本ミシン製造(後のブラザー工業)を設立

国産化の達成から法人化までの間には、量産体制を支える設備投資があった。1933年、安井兄弟は名古屋市堀田に約300坪の工場を建設し、同年秋には念願の国産家庭用ミシンの量産化に乗り出した。正義氏が29歳のときである。個人経営では家庭用ミシンの量産を支えきれないと判断し、組織を株式会社へ改めた。1934年1月15日の日本ミシン製造の創立にあたり、正義氏は専務取締役に就任し、公称資本金は24万円、払込みは6万円であった。設備から組織まで自前で整える流儀が、後の工作機械内製化や事業多角化の素地となった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1933年 名古屋市堀田に約300坪の工場を建設し、同年秋に国産家庭用ミシンの量産化に乗り出した
    • [10]量産化に乗り出した1933年当時、安井正義は29歳であった
    • [11]1934年1月15日 日本ミシン製造の創立、安井正義が専務取締役に就任
    • [12]日本ミシン製造の公称資本金は24万円、払込みは6万円であった
参考文献[1]-[12]
  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1908年4月 安井兼吉が名古屋市熱田区伝馬町に安井ミシン商会を創業(ミシン修理及び部品製造)
    • [4]1925年11月 商号を安井ミシン兄弟商会に変更
    • [5]1928年1月 昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の販売を開始
    • [6]商標「BROTHER」は1928年1月に制定
    • [7]1932年11月 家庭用本縫ミシンを完成させ家庭用ミシンの国産化に成功
    • [8]1934年1月 名古屋市瑞穂区に日本ミシン製造(後のブラザー工業)を設立
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
    • [2]当時のミシンは輸入のみに依存しており、安井正義は独力での国産化を企図した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]安井正義は九才(数え)の頃から父・兼吉のもとでミシンを教わった
    • [9]1933年 名古屋市堀田に約300坪の工場を建設し、同年秋に国産家庭用ミシンの量産化に乗り出した
    • [10]量産化に乗り出した1933年当時、安井正義は29歳であった
    • [11]1934年1月15日 日本ミシン製造の創立、安井正義が専務取締役に就任
    • [12]日本ミシン製造の公称資本金は24万円、払込みは6万円であった

1936年〜工業用ミシンへの拡張と、製販を分離した法人の形

1936年12月、日本ミシン製造は工業用本縫ミシンの製造を開始し、家庭用に偏らない工業用ミシン事業の柱を立ち上げた。1941年7月、ミシンの国内販売を担うブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を別法人として設立した。販売子会社の経営はシンガー社出身の営業マンに委ね、製造側との資本関係は希薄なまま運営された。製造と販売を別法人に分ける構造はミシンの全国流通を加速させた一方、製造側が販売現場をコントロールしにくい弱点を残し、その負債処理は1999年4月のブラザー販売100%子会社化まで持ち越された。

  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1936年12月 工業用本縫ミシンの製造を開始
    • [14]1941年7月 国内販売会社ブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を設立
    • [15]1999年4月 ブラザー販売を100%子会社化(製販分離の終止符)

日中戦争から太平洋戦争にかけては、工業用ミシンの製造で軍需に応じる時期が続いた。1939年には名古屋市南区浜田町に星崎工場を新設してテーブルの製造を始め、ミシン本体以外の部材へも事業を拡大した。1942年に軍の管理工場の指定を受け、以後は一貫して工業用ミシンの製造に従事する。1945年には戦災で工場の過半数を焼失したが、ただちに復興へ着手した。1947年にはミシンの優秀性が認められて商工大臣賞を受け、1949年には物価庁から最優秀ミシンとして特級品の指定を受けるとともに再び商工大臣賞を受賞した。戦後復興のなかで、品質を軸に再起した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1939年 名古屋市南区浜田町に星崎工場を新設しテーブルの製造を開始
    • [17]1942年 軍の管理工場の指定を受け、以後は一貫して工業用ミシンの製造に従事
    • [18]1945年 戦災で工場の過半数を焼失し、ただちに復興へ着手
    • [19]1947年 ミシンの優秀性を認められ商工大臣賞を受賞
    • [20]1949年 物価庁から最優秀ミシンとして特級品の指定を受け、再び商工大臣賞を受賞

ミシンの国産化を事業にするため、正義氏は会社の設立に先立って銀行へ借入の交渉に出向いている。将来もうかる自信があるかと問われて自信はないと答え、個人保証を求められると保証するほどの資金があれば借りに来ないと返したため、資本も信用も実績もない相手として融資は断られた。この交渉から正義氏は、事業は借金でやるものではないという教訓を引き出した。1936年には、ミシンを売っても代金が現金にならない販売上の紛争が起き、作った台数がそのまま資金に変わらないことを経験する。部品を外注に出せば思いどおりの精度が得られないとして下請けを使わなかったことも、同じ判断の延長にあった。自分で作ったものを自分で売り、資金は自分で貯めるという型は、設立前後の行き詰まりから組み上がった。

  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [21]ミシン国産化の会社を設立するため銀行へ借金の交渉に行った
    • [22]借入交渉で、資本も信用も実績もないとして銀行から融資を受けられなかった
    • [23]借入交渉の結果から安井正義は事業は借金してやるものではないとの教訓を得た
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
    • [24]無借金は1936年のミシン販売上のトラブルで、いくら作っても代金にならなかった経験による教訓である
  • 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
    • [25]思いどおりの部品を得られないことを理由に下請けを用いなかった
参考文献[13]-[25]
  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1936年12月 工業用本縫ミシンの製造を開始
    • [14]1941年7月 国内販売会社ブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を設立
    • [15]1999年4月 ブラザー販売を100%子会社化(製販分離の終止符)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1939年 名古屋市南区浜田町に星崎工場を新設しテーブルの製造を開始
    • [17]1942年 軍の管理工場の指定を受け、以後は一貫して工業用ミシンの製造に従事
    • [18]1945年 戦災で工場の過半数を焼失し、ただちに復興へ着手
    • [19]1947年 ミシンの優秀性を認められ商工大臣賞を受賞
    • [20]1949年 物価庁から最優秀ミシンとして特級品の指定を受け、再び商工大臣賞を受賞
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [21]ミシン国産化の会社を設立するため銀行へ借金の交渉に行った
    • [22]借入交渉で、資本も信用も実績もないとして銀行から融資を受けられなかった
    • [23]借入交渉の結果から安井正義は事業は借金してやるものではないとの教訓を得た
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
    • [24]無借金は1936年のミシン販売上のトラブルで、いくら作っても代金にならなかった経験による教訓である
  • 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
    • [25]思いどおりの部品を得られないことを理由に下請けを用いなかった

1945年〜焼け跡からの生産再開と月産4,000台への量産

ミシンの設備は兵器の生産にたやすく回せるため、占領軍はミシン産業の立ち直りを許さないのではないかと正義氏は懸念していた。1945年の空襲による被害は日本ミシン製造の全工場設備の7割に達し、およそ1,600人を数えた従業員も150人ほどに減って、とても工場とはいえない有様だった。焼け残った機械でさしあたり作ったのは、配給の小麦をひく手回しの製粉機と電気コンロで、三菱電機の下請けとして電気ストーブを手がけた時期もある。ところが終戦から4か月後の1945年末、連合軍総司令部はミシン製造の再開を許可する。賠償指定も接収も免れていたうえ、軍の管理工場だった時期に被服廠へ納めた工業用ミシンの部品が焼けずに大量に残り、無償で払い下げを受けられたため、1946年早々に他社へ先んじて生産へ戻った。

  • 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
    • [26]ミシンの設備は兵器生産へ転用できるため、占領軍がミシン産業の復活を許さないのではないかと安井正義は考えていた
    • [28]1,600人ほどいた従業員のうち終戦後に残ったのは約150人で、設備は空襲で7割を焼失した
    • [29]焼け残りの機械で手回し式の製粉機と電気コンロの生産を始め、一時期は三菱電機の下請けで電気ストーブも製造した
    • [30]終戦から4か月後の1945年末に連合軍総司令部からミシン製造再開の許可が出た
    • [31]陸軍被服廠へ納入した工業用ミシン部品が大量に保管されており無償で払い下げを受け、1946年早々に他社に先がけて生産を開始した
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
    • [27]終戦時に全工場設備の7割に及ぶ被害を受け、1945年10月に工場の再建・復興へ着手した

終戦直後、三菱重工業をはじめ軍需工場の機械がくず鉄と変わらない値で払い下げられたとき、会社は用途も決めずに資金をかき集めてそれらを買い込んでおり、これがのちの量産を支える設備になった。再開してすぐは月産200〜300台しか作れず、特約店は現金を手に会社に詰めかけ、完成するそばから持ち帰っていくほど品が足りなかったうえ、統制価格が敷かれていたものの町のミシン店で定価を守る店はなく、会社にもヤミ値で構わないという注文がひっきりなしに来た。1950年7月に瑞穂工場が稼働すると月産規模は4,000台に達し、生産再開から四年半で戦前のピークの二倍を超え、その半分近くを輸出へ回した。同年9月、正義氏は日本ミシン製造の4代目社長に就任する。1955年には月産能力2万5,000台を備え、生産数量は国内首位を続けていた。

  • 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
    • [32]終戦直後に軍需工場の機械がくず鉄同然の値段で放出され、使い道を決めないまま資金を工面して買い集めた
    • [33]生産再開直後は月産200〜300台にとどまり、特約店が現金を持って会社へ押しかける品不足であった
    • [34]物価は統制されていたが町のミシン店は定価を守らず、会社にもヤミ値でよいという注文が入った
    • [35]1950年7月に瑞穂工場が稼働し月産規模は4,000台、生産再開から四年半で戦前のピークの二倍を超え、半分近くを輸出した
    • [36]1950年9月 安井正義が日本ミシン製造の4代目社長に就任
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
    • [37]1955年時点でミシンの月産能力は2万5,000台、生産数量は国内首位を継続していた

戦後復興期、1947年5月に家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出して海外取引を再開した。ミシンが夏に売れる季節商品であった事情から工場稼働率の平準化が課題となり、安井兄弟は精密加工の技術を別領域へ転用する道を選んだ。1954年4月にミシン製造の金属プレス技術を応用して家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始、同年5月には米国カリフォルニア州にブラザーインターナショナル(U.S.A.)を設立し、ミシン輸出の現地販売拠点を開設した。創業46年目の米国子会社設立で、後の北米市場での主力事業を支えるネットワークの起点を作った。ミシンの販路へ家庭電器を乗せる形はその後も残り、1977年11月期でも家庭電器が売上高の18.1%を占めた。

  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1947年5月 家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出
    • [39]1954年4月 家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始
    • [40]米国ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A.)の設立は1954年5月(沿革・timelineと一致)
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [41]1977年11月期の製品別売上構成で家庭電器は18.1%を占めた
参考文献[26]-[41]
  • 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)
    • [26]ミシンの設備は兵器生産へ転用できるため、占領軍がミシン産業の復活を許さないのではないかと安井正義は考えていた
    • [28]1,600人ほどいた従業員のうち終戦後に残ったのは約150人で、設備は空襲で7割を焼失した
    • [29]焼け残りの機械で手回し式の製粉機と電気コンロの生産を始め、一時期は三菱電機の下請けで電気ストーブも製造した
    • [30]終戦から4か月後の1945年末に連合軍総司令部からミシン製造再開の許可が出た
    • [31]陸軍被服廠へ納入した工業用ミシン部品が大量に保管されており無償で払い下げを受け、1946年早々に他社に先がけて生産を開始した
    • [32]終戦直後に軍需工場の機械がくず鉄同然の値段で放出され、使い道を決めないまま資金を工面して買い集めた
    • [33]生産再開直後は月産200〜300台にとどまり、特約店が現金を持って会社へ押しかける品不足であった
    • [34]物価は統制されていたが町のミシン店は定価を守らず、会社にもヤミ値でよいという注文が入った
    • [35]1950年7月に瑞穂工場が稼働し月産規模は4,000台、生産再開から四年半で戦前のピークの二倍を超え、半分近くを輸出した
    • [36]1950年9月 安井正義が日本ミシン製造の4代目社長に就任
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
    • [27]終戦時に全工場設備の7割に及ぶ被害を受け、1945年10月に工場の再建・復興へ着手した
    • [37]1955年時点でミシンの月産能力は2万5,000台、生産数量は国内首位を継続していた
  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1947年5月 家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出
    • [39]1954年4月 家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始
    • [40]米国ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A.)の設立は1954年5月(沿革・timelineと一致)
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [41]1977年11月期の製品別売上構成で家庭電器は18.1%を占めた

筆者考察

ブラザー工業の戦前は、資金の無さを技術の内製へ振り替えていった過程である。安井正義氏はミシンを作るための工作機械を買えず、製造第一号が工作機械になった。会社を興すために訪ねた銀行は、資本も信用も実績もない相手に金を貸さず、正義氏はそこから事業は借金でやるものではないという結論を引き出している。シンガー社の輸入品が市場の大半を占めるなかで家庭用本縫ミシンを完成させた1932年までに、設備から組織まで自前で揃える手順が固まった。国産化は技術の達成である前に、他人の資金と他人の部品に頼らない構えの帰結だった。

その構えは1945年に試された。設備の7割を焼かれ、1,600人いた従業員は150人まで減り、正義氏自身がミシン産業の復活は許されないと考えていた。それでも日本ミシン製造は終戦から4か月で生産再開の許可を得て、被服廠へ納めた部品の払い下げと、くず鉄同然で放出された軍需工場の機械を組み合わせ、1946年早々に同業より先へ出た。焼けたのは設備であって、部品を自分で作り機械を自分で選ぶ能力ではない。再開直後に月産200〜300台だった生産が1950年に4,000台、1955年に月産能力2万5,000台へ届いた速度は、戦前に積んだ自給の型がそのまま資産として残っていたことを示している。

日本ミシン製造のミシン月産台数 1946年の生産再開から1955年まで(台)

300 46年 再開直後 4,000 50年 瑞穂工場稼働 25,000 55年 月産能力
  • 1946年は生産再開直後の月産(200〜300台)、1950年は瑞穂工場稼働後の月産規模、1955年は月産能力。
  • 出所は私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)、会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)。

出典・参考

7件
出典・参考
  • ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史「日本ミシン製造」(1955)
  • 歴史をつくる人々「無言の信念」(1965)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日経ビジネス 1975年3月3日号
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
  • 私の履歴書 安井正義(日本経済新聞社, 1981)

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