第2章 年〜年

三和ホールディングス:三和ドアー工業の合併による開口部建材への業態転換

三和ドアー工業の合併による製品系列の複線化

1974年〜三和ドアー工業の合併と米国からの技術導入

需要が伸びている最中に専業をやめる

1974年3月、三和シヤッター工業は三和ドアー工業株式会社を吸収合併し、ドアの製造・販売を始めた。前年3月の雨戸参入に続く手で、創業から18年守ってきたシャッター専業の看板をここで下ろした。決めた時期は業績の谷ではなく、むしろ山の途中だった。1973年8月期の重量シャッターは前年同期比55%増と伸びており、単体売上高も1973年2月期の161億円から1974年2月期252億円へ跳ねている。髙山萬司社長は、主力の軽量シャッターの比率がいずれ3分の1程度まで低下すると見て、同じ開口部という接点を持つドアと雨戸を量産品として系列へ加えた。需要が旺盛なうちに専業をやめる判断だった。

  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1974年3月 三和ドアー工業株式会社を吸収合併しドアの製造・販売を開始
    • [2]1973年3月 雨戸の製造・販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [3]1973年8月期の重量シャッターは前年同期比55%増
    • [5]髙山萬司社長は軽量シャッターの比率が将来3分の1程度へ低下すると見通し、ドア・雨戸・窓シャッターを量産品として育てる計画を示した
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
    • [4]単体売上高は1973年2月期161億円・1974年2月期252億円
米国から技術を入れ、シャッター技術を渡す

ドアの品揃えのうち、オーバーヘッドドアは自前の技術では作れなかった。米国ではガレージや工場など至るところで、日本のシャッターと同じ程度に上方収納式のドアが使われている。髙山萬司社長はこれを日本へ持ち込むため、テキサス州ダラスのオーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入し、三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する交換として関係を結んだ。生産は北海道で計画された。1974年8月、オーバーヘッドドアの製造・販売が始まる。買う側と売る側ではなく技術を出し合う対等な関係として始まったこの結び付きは、22年後の1996年、三和シヤッター工業が同社の買収へと変わった。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [6]米国ではガレージや工場など至るところで、日本のシャッターと同程度にオーバーヘッドドアが使われていた
    • [7]テキサス州ダラスのオーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入した
    • [8]三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する技術交換だった
    • [9]オーバーヘッドドアの生産は北海道で計画された
  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1974年8月 オーバーヘッドドアの製造・販売を開始
    • [11]1996年7月 持株会社Sanwa USA Inc.を設立しOverhead Door Corporationを買収
住宅向け量産品とエクステリアへ事業を拡大する

住宅向けの量産品も同時に立ち上がった。窓シャッターのサンパックと折たたみ雨戸のアコーダーを量産品と位置づけ、静岡に量産工場を建てている。1973年の時点で、ドアとサンパック、アコーダーを担当する建材事業部の発足が計画されていた。1977年3月にはバルコニーなどのエクステリア製品へも広げる。単体売上高は1975年2月期339億円、1976年2月期374億円、1977年2月期448億円と伸び、髙山萬司社長が1973年に掲げた1975年448億円という目標額に、2年遅れで届いた。一方で経常利益は1975年2月期の31億円から1976年2月期18億円へ低下し、間口を広げる費用が一度は利益を減少させた。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [12]窓シャッター「サンパック」と折たたみ雨戸「アコーダー」を量産品と位置づけ、静岡に量産工場を建設していた
    • [13]ドア・サンパック・アコーダーを担当する建材事業部の発足を計画していた
    • [16]1975年の売上計画は軽量167億円・重量177億円・ドア60億円ほかの合計448億円
  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1977年3月 バルコニー等エクステリア製品の製造・販売を開始
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
    • [15]単体売上高は1975年2月期339億円・1976年2月期374億円・1977年2月期448億円
    • [17]経常利益は1975年2月期31億円・1976年2月期18億円
参考文献[1]-[17]
  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1974年3月 三和ドアー工業株式会社を吸収合併しドアの製造・販売を開始
    • [2]1973年3月 雨戸の製造・販売を開始
    • [10]1974年8月 オーバーヘッドドアの製造・販売を開始
    • [11]1996年7月 持株会社Sanwa USA Inc.を設立しOverhead Door Corporationを買収
    • [14]1977年3月 バルコニー等エクステリア製品の製造・販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [3]1973年8月期の重量シャッターは前年同期比55%増
    • [5]髙山萬司社長は軽量シャッターの比率が将来3分の1程度へ低下すると見通し、ドア・雨戸・窓シャッターを量産品として育てる計画を示した
    • [6]米国ではガレージや工場など至るところで、日本のシャッターと同程度にオーバーヘッドドアが使われていた
    • [7]テキサス州ダラスのオーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入した
    • [8]三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する技術交換だった
    • [9]オーバーヘッドドアの生産は北海道で計画された
    • [12]窓シャッター「サンパック」と折たたみ雨戸「アコーダー」を量産品と位置づけ、静岡に量産工場を建設していた
    • [13]ドア・サンパック・アコーダーを担当する建材事業部の発足を計画していた
    • [16]1975年の売上計画は軽量167億円・重量177億円・ドア60億円ほかの合計448億円
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
    • [4]単体売上高は1973年2月期161億円・1974年2月期252億円
    • [15]単体売上高は1975年2月期339億円・1976年2月期374億円・1977年2月期448億円
    • [17]経常利益は1975年2月期31億円・1976年2月期18億円

1974年〜銀行出身者に託した営業組織の体系化

銀行から来た人物に営業を任せる

1974年、三和シヤッター工業は神戸銀行の新宿支店長だった岸本新一氏を51歳で迎えた。創業者で当時社長の髙山萬司氏が自ら誘った人物だった。創業期からこの会社は実績を重んじ、多く売り多く稼ぐ者を高く評価しており、髙山氏は勉強が足りないと見た取締役4人をまとめて降格させたこともある。その髙山氏は、銀行から迎えた岸本氏を、通例の財務ではなく営業の担当に就けた。岸本氏は後年、支店長だったころ世界へ打って出る会社になってほしいと地球儀を髙山氏に贈ったことがあり、その発想が評価されたのだと語っている。製品系列がドアと雨戸の両方にまたがった年に、販売体制へ外部の人材を加えた形である。

  • 日経ビジネス 1993年12月6日号 岸本新一(三和シヤッター工業会長)
    • [18]岸本新一は1974年、51歳で三和シヤッター工業へ入社した
    • [19]岸本新一は創業者で当時社長の髙山萬司に誘われて入社した
    • [20]創業時から実力主義で、多く売って多く利益を上げることを高く評価する社風だった
    • [21]髙山萬司は不勉強と判断した取締役を一度に4人降格させたことがある
    • [22]銀行出身者は財務担当に据えるのが通例だが、髙山萬司は岸本新一を営業担当に置いた
    • [23]岸本新一は神戸銀行新宿支店長の時代に髙山萬司を訪ね、世界の三和シヤッターになってほしいと述べて地球儀を贈った
営業の手引きを配り、個人技を組織に変える

三和シヤッター工業には腕の立つ営業担当者が多くいたが、組織として動く営業の体制はできていなかった。岸本新一氏が手をつけたのは、そうした担当者一人ひとりの力量を組織の仕組みに組み込むことで、自身の得意先回りのやり方を営業の手引き書として社内に配り、個人の力を全体の体制へつなげた。銀行員出身で営業が分かるのかと疑っていた社内の空気も、手引き書が配られてから変わったという。もともと大きかった販売網も広がり、直営営業所は1967年の104カ所から、1973年には230カ所となった。髙山萬司氏が敷いたその直販網に、属人的でない売り方を通す仕事だった。

  • 日経ビジネス 1993年12月6日号 岸本新一(三和シヤッター工業会長)
    • [24]優れた営業担当者はそろっていたが、組織的な営業とは言えない状態だった
    • [25]岸本新一は個々の営業力をまとめて体系的な営業組織を作り上げた
    • [26]岸本新一は得意先回りのノウハウを営業の手引きとして本にまとめ、社内へ配った
    • [27]銀行出身者に営業が分かるかという社内の空気は、営業の手引きを配った後に変わった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
    • [28]1967年時点の直営営業所は104カ所
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [29]1973年時点の営業所は230カ所
10年で売上を920億円へ積み上げる

単体の売上高は、ドアを取り込んだ後の10年で着実に積み上がった。1978年2月期500億円、1980年2月期664億円、1981年2月期780億円と伸び、1982年2月期は781億円とほぼ横ばいに止まったが、1983年2月期816億円、1984年2月期858億円、1985年2月期920億円と戻している。経常利益も1981年2月期の39億円から1985年2月期48億円へ増えた。東証二部へ上場した1963年の年間売上高が24億円だったから、22年でおよそ38倍である。シャッター1品を安く売って市場を広げた会社は、製品を足し、売り方を組み替えることで年商900億円台の建材メーカーへ移っていた。

  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(単体業績)
    • [30]単体売上高は1978年2月期500億円・1979年2月期560億円・1980年2月期664億円・1981年2月期780億円・1982年2月期781億円・1983年2月期816億円・1984年2月期858億円・1985年2月期920億円
    • [31]経常利益は1981年2月期39億円・1985年2月期48億円
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [32]東京証券取引所市場第二部へ上場した1963年の年間売上高は24億円
参考文献[18]-[32]
  • 日経ビジネス 1993年12月6日号 岸本新一(三和シヤッター工業会長)
    • [18]岸本新一は1974年、51歳で三和シヤッター工業へ入社した
    • [19]岸本新一は創業者で当時社長の髙山萬司に誘われて入社した
    • [20]創業時から実力主義で、多く売って多く利益を上げることを高く評価する社風だった
    • [21]髙山萬司は不勉強と判断した取締役を一度に4人降格させたことがある
    • [22]銀行出身者は財務担当に据えるのが通例だが、髙山萬司は岸本新一を営業担当に置いた
    • [23]岸本新一は神戸銀行新宿支店長の時代に髙山萬司を訪ね、世界の三和シヤッターになってほしいと述べて地球儀を贈った
    • [24]優れた営業担当者はそろっていたが、組織的な営業とは言えない状態だった
    • [25]岸本新一は個々の営業力をまとめて体系的な営業組織を作り上げた
    • [26]岸本新一は得意先回りのノウハウを営業の手引きとして本にまとめ、社内へ配った
    • [27]銀行出身者に営業が分かるかという社内の空気は、営業の手引きを配った後に変わった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
    • [28]1967年時点の直営営業所は104カ所
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [29]1973年時点の営業所は230カ所
    • [32]東京証券取引所市場第二部へ上場した1963年の年間売上高は24億円
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(単体業績)
    • [30]単体売上高は1978年2月期500億円・1979年2月期560億円・1980年2月期664億円・1981年2月期780億円・1982年2月期781億円・1983年2月期816億円・1984年2月期858億円・1985年2月期920億円
    • [31]経常利益は1981年2月期39億円・1985年2月期48億円

1982年〜24時間保守とアジア3拠点への広がり

取り付けた後を24時間引き受ける

1982年7月、三和シヤッター工業は24時間フルタイムサービス(FTS)を始めた。シャッターは建物ごとに構造が異なるためすべて受注生産で、取り付け工事を伴い、販売は営業所中心の直売形式をとっていた。売った先がそのまま保守の相手になる構造である。開いたまま閉じないシャッターでは店を閉められず、閉じたまま開かないシャッターでは荷を出せない。故障の時間帯を選ばない設備を昼間だけの窓口で受けることの限界を、この会社は全国230カ所の営業所を持つ立場から突いた。工場出荷後80日で代金を回収する売り切りの商いに、取り付けた後の時間を足す拡張であり、直販で持っていた営業所の網がそのまま保守の受け皿になった。

  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [33]1982年7月 24時間フルタイムサービス(FTS)を開始
  • 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
    • [34]シャッターは建物の構造が異なるためすべて受注生産で、取付工事を必要とし、営業所中心の直売形式をとっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [35]1973年時点の営業所は230カ所
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
    • [36]1967年時点で工場出荷後80日で代金を回収できた
シンガポール・香港・台湾に拠点を設置する

海外は製品の輸出ではなく、現地法人の設立から始まった。1986年8月にシンガポールで三和シヤッター有限公司を、同年10月に香港で三和捲閘有限公司を設立し、1988年9月には台湾で安和金属工業股份有限公司を設けている。輸出で売るのではなく、現地で作って現地で売った。海外との関わり自体は新しくない。1970年代前半に米国のオーバーヘッド・ドア・コーポレーションと技術を交換し、米国で普及していた製品を日本国内で生産した経験があった。そこで身につけたのは製品の設計だけでなく、異なる建築基準と施工の慣行を持つ市場へ自社の製品を合わせる手順だったとみられる。

  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [37]1986年8月 シンガポールに三和シヤッター有限公司を設立
    • [38]1986年10月 香港に三和捲閘有限公司を設立
    • [39]1988年9月 台湾に安和金属工業股份有限公司を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [40]米オーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入し、三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する技術交換を行った
否定したはずの自動ドアへ資本を入れる

1990年1月、三和シヤッター工業は自動ドアの昭和建産株式会社へ資本参加した。1967年に髙山萬司社長が、シャッターとオートドアは技術が全く違うのでその分野には進出しないと明言した領域である。23年を隔てて判断は反転したが、その間に挟まるのは、ドアとオーバーヘッドドア、エクステリアと広げてきた製品系列と、1982年に始めた24時間の保守網だった。専業を掲げた1967年の年商は50億円の壁を破ったばかりだったが、1985年2月期の単体売上高は920億円に達していた。開口部という接点を持ち続ける会社になった以上、そこに付く装置が手動か自動かは、もはや事業の境界を決める線ではなくなっていた。

  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [41]1990年1月 自動ドアの昭和建産株式会社へ資本参加
    • [43]1974年3月にドア、1974年8月にオーバーヘッドドア、1977年3月にエクステリア製品の製造・販売を開始
    • [44]1982年7月 24時間フルタイムサービス(FTS)を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
    • [42]1967年に髙山萬司社長は、シャッターとオートドアは技術が全く異なるためその分野には進出しないと述べた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
    • [45]1967年に年商50億円を突破した
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(単体業績)
    • [46]単体売上高は1985年2月期920億円
参考文献[33]-[46]
  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
    • [33]1982年7月 24時間フルタイムサービス(FTS)を開始
    • [37]1986年8月 シンガポールに三和シヤッター有限公司を設立
    • [38]1986年10月 香港に三和捲閘有限公司を設立
    • [39]1988年9月 台湾に安和金属工業股份有限公司を設立
    • [41]1990年1月 自動ドアの昭和建産株式会社へ資本参加
    • [43]1974年3月にドア、1974年8月にオーバーヘッドドア、1977年3月にエクステリア製品の製造・販売を開始
    • [44]1982年7月 24時間フルタイムサービス(FTS)を開始
  • 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
    • [34]シャッターは建物の構造が異なるためすべて受注生産で、取付工事を必要とし、営業所中心の直売形式をとっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
    • [35]1973年時点の営業所は230カ所
    • [40]米オーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入し、三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する技術交換を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
    • [36]1967年時点で工場出荷後80日で代金を回収できた
    • [42]1967年に髙山萬司社長は、シャッターとオートドアは技術が全く異なるためその分野には進出しないと述べた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
    • [45]1967年に年商50億円を突破した
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(単体業績)
    • [46]単体売上高は1985年2月期920億円

筆者考察

会社が製品を増やす動機は、たいてい主力が売れなくなったことにある。三和シヤッター工業の場合は逆だった。1974年に三和ドアー工業を合併したとき、重量シャッターは前年同期比55%増、単体売上高は161億円から252億円へ跳ねている最中である。髙山萬司が見ていたのは自社の売れ行きではなく、シャッターという製品が張り付いている市場の天井だった。建物の開口部という接点は変わらないまま、そこに付く物をシャッターからドアへ、雨戸へ、バルコニーへと足していけば、同じ営業所と同じ職人でより多くを売れる。専業の看板は、その拡張を邪魔する側に回っていた。

もうひとつ、この22年で変わったのは売り方である。創業者が敷いた直販網は、腕の立つ営業担当者が個々の力で回すものだった。1974年に神戸銀行から迎えられた岸本新一が手をつけたのは、その個人技を手引きに書き出して誰でも使える手順に直す作業であり、売上が252億円から920億円へ積み上がる10年は、この置き換えの期間と重なる。1982年に始めた24時間のフルタイムサービスも同じ延長にある。取り付けて代金を回収すれば終わりだった関係を、故障を受ける窓口として持ち続ける関係に変えた。1967年に進出しないと言い切った自動ドアへ1990年に資本を入れられたのは、この二つの組み替えが済んでいたからである。

1974年〜1995年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1974年02月期 単体 252 n/a 20 7.9% 8 n/a
1975年02月期 単体 339 +34.5% 31 9.1% 10 n/a
1976年02月期 単体 374 +10.3% 18 4.8% 8 n/a
1977年02月期 単体 448 +19.8% 19 4.2% 9 n/a
1978年02月期 単体 500 +11.6% 21 4.2% 9 n/a
1979年02月期 単体 560 +12.0% 24 4.3% 10 n/a
1980年02月期 単体 664 +18.6% 31 4.7% 12 n/a
1981年02月期 単体 780 +17.5% 39 5.0% 14 n/a
1982年02月期 単体 781 +0.1% 42 5.4% 15 n/a
1983年02月期 単体 816 +4.5% 49 6.0% 16 n/a
1984年02月期 単体 858 +5.1% 46 5.4% 17 n/a
1985年02月期 単体 920 +7.2% 48 5.2% 18 n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a タイにサンメタルを設立(1992)
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
  • 三和シヤッター工業 会社年鑑(単体業績)
  • 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
  • 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
  • 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
  • 日経ビジネス 1993年12月6日号 岸本新一(三和シヤッター工業会長)

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