三和ホールディングス:三和シヤッター製作所の設立と低価格シャッターによる需要創出
市価3〜4割安の受注価格によるシャッター専業首位
1956年〜家内工業の業界を選んだ逆張りの参入
髙山萬司氏は1956年4月、兵庫県尼崎市に資本金100万円で株式会社三和シヤッター製作所を設立した。設立当時の従業員は19人、年間売上高は1,665万円、税込利益は50万円にすぎなかった。髙山氏は前に勤めていた会社を退職したばかりで、シャッターについては素人のまま事業に飛び込んでいる。商店向けの軽量シャッターは、創業のおよそ3年前にようやく普及し始めた品である。大がかりな設備がなくても作れたため、担い手の大半は家内工業に近い小さな業者だった。これに対してビル用の重量シャッターは、イギリスでの発明をアメリカが事業化したもので、当時は日本に入ってから70年ほどを経ていた。長く量産型の企業で働いた髙山氏の目には、未成熟なこの業界こそ、量産と量販を組み合わせれば十分に面白い商売になると映った。
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1956年4月 兵庫県尼崎市に株式会社三和シヤッター製作所を設立(資本金100万円)
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [2]設立当時の年間売上高1,665万円・税込利益50万円・従業員19人
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [3]髙山萬司は前職を退職した後、シャッターについては素人のまま事業を開始した
- [4]軽量シャッターが流行し始めたのは1953年頃で、大きな生産設備を要さず家内工業的な企業が作り手の中心だった
- [5]重量シャッターは英国で発明され米国で企業化され、日本へ伝わったのは1900年前後である
- [6]髙山萬司はマスプロ化された会社での勤務経験から、零細な業界を大量生産・大量販売すれば有望と判断した
世間ではシャッターを高い品とみなしていたが、髙山萬司氏はこの商売の利幅がもともと大きいことに目をつけ、値を下げて需要を掘り起こすほうが得策と考えた。そこで受注価格は、当時の相場を3〜4割下回る水準に置いた。作り方と売り方でも同業と正反対の道を選び、少人数での細々とした製造ではなく精密な機械を揃えた量産に、販売店任せではなく自社による直販網の全国展開に踏み切った。折しも建築の様式が移り変わり、消防庁などが防火のために板戸からシャッターへの切り替えを勧めていた。値下げによって潜在需要は顕在化し、10年で総需要は何十倍にも増えた。当初は業界から非難を浴びたものの、結果として市場そのものが広がった。
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [7]利潤率の高い事業であったため、価格を下げて市場を拡大する方針をとった
- [8]受注価格を当時の市価より3〜4割低い水準へ引き下げた
- [10]建築様式の変化と建築基準法の強化を背景に、消防庁などが板戸からシャッターへの転換を推奨した
- [11]価格引き下げにより潜在需要が顕在化し、過去10年間で総需要が何十倍にも増大した
- [12]当初は業界から非難を受けたが、価格引き下げによって市場そのものが拡大した
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [9]当時の業界と逆に、精密な機械による大量生産と、販売店を経由しない自社直販を全国で採用した
安く売ると決めた会社は、安く作る仕掛けを持たなければ続かない。1958年9月、業界に先がけてパーカライジングとコンベヤシステムによる赤外線焼付塗装装置を完成させ、さび止めペンキで塗るのが当たり前だった業界の旧習を一新した。1959年10月には営業部門を分離して三和シヤッター株式会社を設立し、直営の販売網を全国へ広げた。1961年5月には部品加工部門を独立させて三和商事株式会社を設立し、原価の低減をはかっている。工場も需要の増加に合わせて次々に建て、1960年に大阪工場を増設して札幌工場を、1961年に東京工場、1962年に九州工場を設けた。機能ごとに法人を切り分けて採算と責任を明示したこの組み立ては、のちの事業部制の原型になったとみられる。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [13]1958年9月 パーカライジング及びコンベヤシステムによる赤外線焼付塗装装置を完成
- [15]1959年10月 営業部門を分離して三和シヤッター株式会社を設立し、直営販売網を全国へ拡大
- [16]1961年5月 部品加工部門を独立させ三和商事株式会社を設立し、原価の低減をはかった
- [17]1960年に大阪工場を増設し札幌工場を、1961年に東京工場、1962年に九州工場を設置
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [14]さび止めペンキによる塗装から焼付塗装へいち早く切り替えた
参考文献[1]-[17]
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1956年4月 兵庫県尼崎市に株式会社三和シヤッター製作所を設立(資本金100万円)
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [2]設立当時の年間売上高1,665万円・税込利益50万円・従業員19人
- [7]利潤率の高い事業であったため、価格を下げて市場を拡大する方針をとった
- [8]受注価格を当時の市価より3〜4割低い水準へ引き下げた
- [10]建築様式の変化と建築基準法の強化を背景に、消防庁などが板戸からシャッターへの転換を推奨した
- [11]価格引き下げにより潜在需要が顕在化し、過去10年間で総需要が何十倍にも増大した
- [12]当初は業界から非難を受けたが、価格引き下げによって市場そのものが拡大した
- [14]さび止めペンキによる塗装から焼付塗装へいち早く切り替えた
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [3]髙山萬司は前職を退職した後、シャッターについては素人のまま事業を開始した
- [4]軽量シャッターが流行し始めたのは1953年頃で、大きな生産設備を要さず家内工業的な企業が作り手の中心だった
- [5]重量シャッターは英国で発明され米国で企業化され、日本へ伝わったのは1900年前後である
- [6]髙山萬司はマスプロ化された会社での勤務経験から、零細な業界を大量生産・大量販売すれば有望と判断した
- [9]当時の業界と逆に、精密な機械による大量生産と、販売店を経由しない自社直販を全国で採用した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [13]1958年9月 パーカライジング及びコンベヤシステムによる赤外線焼付塗装装置を完成
- [15]1959年10月 営業部門を分離して三和シヤッター株式会社を設立し、直営販売網を全国へ拡大
- [16]1961年5月 部品加工部門を独立させ三和商事株式会社を設立し、原価の低減をはかった
- [17]1960年に大阪工場を増設し札幌工場を、1961年に東京工場、1962年に九州工場を設置
1963年〜本店の東京移転と東証二部上場が開いた全国展開
1963年4月、株式会社三和工業所が三和シヤッター、三和シヤッター製作所、三和商事の3社を吸収合併した。商号は三和シヤッター工業株式会社に改まり、本店も東京都新宿区へ移った。額面500円を50円に変更するための形式上の合併で、実質上の存続会社は三和シヤッター製作所と三和シヤッターだった。1株220円で公募600千株を売り出して資本金を1億3,000万円に増やし、同年9月30日に東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場の時点で、会社は年間売上高24億円、経常利益1億9,100万円を上げ、1,040名を雇っていた。製品構成は軽量シャッターに大きく偏り、1963年3月期の総売上高19億5千万円に占める比率は90%、重量はわずか10%であった。その後、1968年2月に大阪証券取引所市場第二部へ、1970年7月に東京・大阪両取引所の第一部へと指定替えが進んだ。
- 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
- [18]1963年4月 株式会社三和工業所が三和シヤッター・三和シヤッター製作所・三和商事の3社を吸収合併
- [20]額面500円を50円に変更するための形式上の合併で、実質上の存続会社は三和シヤッター製作所と三和シヤッターだった
- [21]公募600千株を1株220円で発行し、資本金は1億3,000万円となった
- [22]1963年9月30日 東京証券取引所市場第二部に上場
- [24]1963年3月期の総売上高19億5千万円のうち軽量シャッターが90%、重量が10%
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [19]商号を三和シヤッター工業株式会社へ変更し、本店を兵庫県尼崎市から東京都新宿区へ移転
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [23]上場時の企業規模は年間売上高24億円・経常利益1億9,100万円・従業員1,040名
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [25]1968年2月 大阪証券取引所市場第二部に上場、1970年7月 東京・大阪両証券取引所市場第一部銘柄に指定
髙山萬司氏が作った組織は、事業部を単位に採算を切り分ける構造だった。1967年時点で北海道・東北・関東・中部・関西・九州の6事業部、札幌・仙台・秋田・東京・岐阜・大阪・福岡の7工場、104営業所を持つ。各事業部には毎期、受注・生産・販売・回収・利益の目標が与えられ、独立採算とされた。本店は総括だけを行い、営業活動をしない建て付けである。工場を1カ所に集めれば製品の輸送運賃が収益性を圧迫するが、原材料である鉄鋼の輸送運賃は鉄鋼メーカーが負担するため、工場が遠隔地にあっても負担は増えない。この非対称を突いたのが分散配置だった。直販に踏み切った結果、代金の回収期間は縮まり、1967年には工場出荷後80日で回収でき、貸倒れもなくなっていた。
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [26]1967年時点で北海道・東北・関東・中部・関西・九州の6事業部、札幌・仙台・秋田・東京・岐阜・大阪・福岡の7工場、104営業所を設置
- [27]各事業部に受注・生産・販売・回収・利益の目標を与えて独立採算とした
- [28]本店は総括のみを行い、営業活動は行わない建て付けだった
- [29]工場を1カ所に集中すると製品の輸送運賃が収益性を圧迫するが、原材料である鉄鋼の輸送運賃は鉄鋼メーカー負担のため遠隔地の工場でも負担が増えない
- [30]直販により回収期間が短縮し、1967年時点で工場出荷後80日で回収可能となり貸倒れもなくなった
成果の配分も仕組みとして設計された。1963年からラッカープランを採り、付加価値の54%を従業員へ分配している。配分額は1963年度2,027万円から1966年度9,385万円へ増え、1967年度は1億2,000万円に達する見込みだった。一般社員1人当たりの年収は1961年度を100として1966年度180まで上がった。労働組合は置かず、労使協議の場として企業合理化委員会を設けている。人は外部からスカウトせず社内で養成して登用し、独自の試験制度に合格した者だけを引き上げ、その職に適さなければ役職を変える運用をとった。役員も若い社員から登用する方針だった。ラッカープランは事業部別に適用されており、事業部制と組になって働く配分の装置だった。
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [31]1963年からラッカープランを採用し、付加価値の54%を従業員へ分配した
- [32]分配額は1963年度2,027万円・1964年度2,155万円・1965年度4,926万円・1966年度9,385万円、1967年度は1億2,000万円の見込み
- [33]一般社員1人当たりの年収は1961年度を100として1966年度180
- [34]労働組合を持たず、労使協議の場として企業合理化委員会を設置した
- [35]外部からの人材スカウトを避けて社内で養成し、独自の試験制度に合格した者だけを登用、適さなければ役職を変更した
- [36]役員人事もできるだけ若い社員から登用する方針をとった
- [37]ラッカープランは事業部別に適用された
参考文献[18]-[37]
- 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
- [18]1963年4月 株式会社三和工業所が三和シヤッター・三和シヤッター製作所・三和商事の3社を吸収合併
- [20]額面500円を50円に変更するための形式上の合併で、実質上の存続会社は三和シヤッター製作所と三和シヤッターだった
- [21]公募600千株を1株220円で発行し、資本金は1億3,000万円となった
- [22]1963年9月30日 東京証券取引所市場第二部に上場
- [24]1963年3月期の総売上高19億5千万円のうち軽量シャッターが90%、重量が10%
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [19]商号を三和シヤッター工業株式会社へ変更し、本店を兵庫県尼崎市から東京都新宿区へ移転
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [23]上場時の企業規模は年間売上高24億円・経常利益1億9,100万円・従業員1,040名
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [25]1968年2月 大阪証券取引所市場第二部に上場、1970年7月 東京・大阪両証券取引所市場第一部銘柄に指定
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [26]1967年時点で北海道・東北・関東・中部・関西・九州の6事業部、札幌・仙台・秋田・東京・岐阜・大阪・福岡の7工場、104営業所を設置
- [27]各事業部に受注・生産・販売・回収・利益の目標を与えて独立採算とした
- [28]本店は総括のみを行い、営業活動は行わない建て付けだった
- [29]工場を1カ所に集中すると製品の輸送運賃が収益性を圧迫するが、原材料である鉄鋼の輸送運賃は鉄鋼メーカー負担のため遠隔地の工場でも負担が増えない
- [30]直販により回収期間が短縮し、1967年時点で工場出荷後80日で回収可能となり貸倒れもなくなった
- [31]1963年からラッカープランを採用し、付加価値の54%を従業員へ分配した
- [32]分配額は1963年度2,027万円・1964年度2,155万円・1965年度4,926万円・1966年度9,385万円、1967年度は1億2,000万円の見込み
- [33]一般社員1人当たりの年収は1961年度を100として1966年度180
- [34]労働組合を持たず、労使協議の場として企業合理化委員会を設置した
- [35]外部からの人材スカウトを避けて社内で養成し、独自の試験制度に合格した者だけを登用、適さなければ役職を変更した
- [36]役員人事もできるだけ若い社員から登用する方針をとった
- [37]ラッカープランは事業部別に適用された
1967年〜軽量シャッター30%の首位と、専業を続けるという宣言
売上高35億4,300万円、従業員1,200名という1966年度の規模で、当時の三和シヤッター工業はシェアで軽量・重量の合計25%、軽量単独では30%を握る業界第1位であり、重量に限れば鈴木シャッターに続く第2位だった。1967年8月、日本証券アナリスト協会の企業分析部会に出た髙山萬司社長は、シャッター専業で伸びていく方針を語った。開発中の新製品について質問が出ると、それがオートドアではないことを明言し、両者は技術が根本から異なるのでその領域へ出ることはないと答えている。軽量は利益率が高い一方、重量は受注を奪い合って単価が下がり、据え付けから代金回収までにも長い期間がかかったため、軽量を柱に据えつつ重量も並行して伸ばす方針を採った。1967年には年商50億円の壁を破り、直営営業所は120に増えていた。
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [38]1966年度の売上高35億4,300万円・税込利益2億4,900万円・従業員1,200名
- [39]1967年時点のシェアは軽重合計25%・軽量30%で業界第1位、重量は鈴木シャッターに次ぐ第2位
- [40]1967年8月28日の日本証券アナリスト協会企業分析第1部会で、髙山萬司社長はシャッター専業の会社として発展したいと述べた
- [41]同席で、開発中の新製品はオートドアではなく、シャッターとオートドアは技術が全く異なるためその分野には進出しないと述べた
- [42]軽量シャッターは収益性が高く、重量シャッターは受注競争が激しく単価が下落し回収に長期を要するため、軽量を主に重量も伸ばす方針をとった
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [43]1967年に年商50億円を突破し、直営営業所は120カ所
直販網は10年でさらに厚くなった。1973年時点で全国を8地区に分けて直接販売し、営業所は230カ所、工場は13を数える。シャッター業界には団体が2つあって統計が定まらないため、髙山萬司社長は鉄鋼メーカーから流れる材料の使用高から市場の規模を推計していた。この推計では1972年度の需要は約530億円、自社の売上160億円はその約3割に当たった。最初に手をつけた北海道では65%以上を占めた。通商産業省の統計では1963年から1972年の9年間で市場は約4倍、1967年からの5年間で2.6倍に伸びており、今後も年20%の需要増が見込めるとしていた。単体の売上高は1971年2月期126億円、1972年2月期133億円、1973年2月期161億円と推移した。
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [44]1973年時点で全国8地区での直接販売、営業所230カ所、工場13カ所
- [45]業界団体が2つに分かれ統計が定まらないため、鉄鋼メーカーから流される材料の使用高から市場規模を推計していた
- [46]1972年度のシャッター需要は約530億円、自社売上約160億円で約3割のシェア
- [47]北海道では65%以上のシェアを持っていた
- [48]通商産業省の統計で1963年から1972年の9年間に市場は約4倍、1967年からの5年間で2.6倍、今後は年20%程度の需要増を見込んだ
- 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- [49]単体売上高は1971年2月期126億円・1972年2月期133億円・1973年2月期161億円
1973年3月、三和シヤッター工業は雨戸の製造・販売を始めた。同年8月期の売上高は106億5,600万円で、前年同期比は軽量シャッターが20%増、重量シャッターが55%増だったのに対し、ドアは127%増と際立っていた。髙山萬司社長は、なお過半を占める軽量シャッターの比率が将来は3分の1程度まで低下すると見通し、1975年に予定する売上448億円の内訳として、軽量167億円・重量177億円・ドア60億円・窓シャッターのサンパック17億円・折たたみ雨戸のアコーダー25億円を挙げた。6年前に進出しないと明言したドアの領域へ、業績が最も伸びている最中に足を踏み入れたことになる。
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [50]1973年3月 雨戸の製造・販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [51]1973年8月期の売上高106億5,600万円、前年同期比は軽量シャッター20%増・重量シャッター55%増・ドア127%増
- [52]髙山萬司社長は軽量シャッターの比率が将来3分の1程度へ低下すると見通した
- [53]1975年の売上計画448億円の内訳は軽量167億円・重量177億円・ドア60億円・サンパック17億円・アコーダー25億円・その他2億円
参考文献[38]-[53]
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- [38]1966年度の売上高35億4,300万円・税込利益2億4,900万円・従業員1,200名
- [39]1967年時点のシェアは軽重合計25%・軽量30%で業界第1位、重量は鈴木シャッターに次ぐ第2位
- [40]1967年8月28日の日本証券アナリスト協会企業分析第1部会で、髙山萬司社長はシャッター専業の会社として発展したいと述べた
- [41]同席で、開発中の新製品はオートドアではなく、シャッターとオートドアは技術が全く異なるためその分野には進出しないと述べた
- [42]軽量シャッターは収益性が高く、重量シャッターは受注競争が激しく単価が下落し回収に長期を要するため、軽量を主に重量も伸ばす方針をとった
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- [43]1967年に年商50億円を突破し、直営営業所は120カ所
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- [44]1973年時点で全国8地区での直接販売、営業所230カ所、工場13カ所
- [45]業界団体が2つに分かれ統計が定まらないため、鉄鋼メーカーから流される材料の使用高から市場規模を推計していた
- [46]1972年度のシャッター需要は約530億円、自社売上約160億円で約3割のシェア
- [47]北海道では65%以上のシェアを持っていた
- [48]通商産業省の統計で1963年から1972年の9年間に市場は約4倍、1967年からの5年間で2.6倍、今後は年20%程度の需要増を見込んだ
- [51]1973年8月期の売上高106億5,600万円、前年同期比は軽量シャッター20%増・重量シャッター55%増・ドア127%増
- [52]髙山萬司社長は軽量シャッターの比率が将来3分の1程度へ低下すると見通した
- [53]1975年の売上計画448億円の内訳は軽量167億円・重量177億円・ドア60億円・サンパック17億円・アコーダー25億円・その他2億円
- 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- [49]単体売上高は1971年2月期126億円・1972年2月期133億円・1973年2月期161億円
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- [50]1973年3月 雨戸の製造・販売を開始
筆者考察
髙山萬司が売ろうとしたのはシャッターではなく、シャッターが要る建物の数そのものだった。1956年に尼崎で始めたとき、この製品は高価なものと考えられており、作り手は簡単な設備で細々と組み立てる家内工業が中心だった。そこへ市価より3〜4割低い受注価格を持ち込めば、一件あたりの利ざやは細る。それでも髙山が引き下げたのは、値段が下がった分だけ、これまでシャッターを付けなかった商店や倉庫が買い手に変わると見ていたからである。値下げは譲歩ではなく、市場の大きさを自分で決めにいく手だった。10年で総需要は何十倍にもなり、その大半を、値下げを仕掛けた当人が取った。
ただし安く売ると決めた瞬間から、この会社は安く作り続けなければならなくなる。1958年の焼付塗装装置、1959年の販売会社分離、1961年の部品会社独立、そして全国7工場への分散は、いずれも品質を落とさずに原価を下げるための配置だった。工場を散らせば製品の運賃は縮み、材料である鉄鋼の運賃は鉄鋼メーカーが負う。付加価値の54%を従業員へ返すラッカープランも、値下げの原資を現場から出させるための装置である。1967年に軽量シャッターで30%のシェアを握った髙山が、なおシャッター一品にとどまり、オートドアへ進まなかったのは、この原価の仕組みが一品に最適化されていたからだった。
- 1963年3月期は『証券』1963年の新規上場会社紹介、1966年度は証券アナリストジャーナル1967年10月号、1971年2月期以降は会社年鑑(1976年版)による単体の売上高。
1956年〜1973年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年02月期 | 単体 | 126 | n/a | 9 | 7.1% | 5 | n/a |
| 1972年02月期 | 単体 | 133 | +5.6% | 6 | 4.5% | 4 | n/a |
| 1973年02月期 | 単体 | 161 | +21.1% | 10 | 6.2% | 5 | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- 三和ホールディングス 有価証券報告書 第90期(2025年3月期)【沿革】
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「三和シャッター工業」の項
- 三和シヤッター工業 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- 『証券』第15巻第11号(1963年)「新規上場会社紹介 三和シャッター工業株式会社」
- 証券アナリストジャーナル 1967年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会)
- 証券アナリストジャーナル 1973年10月号 髙山萬司社長 講演要旨(日本証券アナリスト協会企業分析部会)