日本特殊陶業:点火プラグの海外現地生産とセラミックICパッケージへの参入
1956年〜輸出課の設置とブラジルでの現地生産
輸出そのものは1949年上半期に始まっていたが、専門の組織が置かれたのは1956年4月、営業部のなかに営業課を設けたときだった。基盤が脆弱だったため、1961年頃までプラグの輸出比率は総売上高の5%前後にとどまっている。1960年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つへ掲げて輸出課を設置すると、輸出額は年平均22%の伸びで増え、1961年に6%台だった輸出比率は5年後の1966年に18.4%へ上がった。点火プラグは規格が国際的に共通で、トヨタや日産の車に付いた製品をGMやフィアットの車に付けてもそのまま合う。国内で通用すれば世界でも通用するという製品の性質が、国内市場の外へ出る余地を作っていた。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [1]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- [2]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- [3]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [4]スパークプラグの規格は国際的に共通しており、トヨタや日産の車についているNGKスパークプラグをGMやフィアットの車につけてもピタリと合う。日本で通用すれば世界でも通用する商品である
初の海外生産拠点は、得意先の一社もない市場に置かれた。工業立国を掲げるブラジル政府から駐伯日本大使を通じて工場誘致の話が入り、1959年2月に進出が決まる。同年8月、モザイクタイルを生産していたモジ製陶と折半出資でブラジル特殊陶業を設立した。当時の同国ではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュの二社が市場を占めていた。インフレ率が180%に達するなかで進出を決めたのは森村勇社長の判断である。工場建設に渡った小林朗工業部次長以下14名は、取引を得るため現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、1960年7月のGMへのOEM納入を皮切りに組付け採用を広げ、進出5年後の1964年には同国の全自動車・二輪車メーカーへ採用された。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [5]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [6]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [7]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [9]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [10]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [8]南米市場の将来性に着目し16年前に進出したが、当時のブラジルはインフレ率が180%にも達し、そうした状況下での進出は並大抵のことではなかった。当時の森村社長(現取締役相談役)の英断により進出を決意した
本社工場はもう広げる余地がなく、名古屋市の土地区画整理事業で道路が広がれば敷地の一部を取られることにもなっていたため、新工場の建設が急がれた。そこで国内の供給力は、新しい土地で確保することになった。1960年10月に小牧市岩崎で約94,000平方メートルの用地を取得し、セラミック工場は1961年12月、プラグ工場は1964年2月に完成した。塑性加工用コールドフォーマーなど最新鋭の機械を据え、ラインは自動化された。1966年下期のプラグの生産・販売は月間400万個、うち輸出が100万個に達している。同年6月には初の海外販売会社として、資本金5万ドルの米国NGKスパークプラグをロサンゼルスに設立した。この時点で製品は80カ国以上へ渡り、生産量は世界で4〜5位を占めていた。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [11]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [12]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [13]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [14]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [15]世界80カ国以上に輸出し、世界的にも4〜5位の生産量を誇るにいたっている(1966年時点)
参考文献[1]-[15]
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [1]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- [2]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- [3]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
- [5]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [6]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [7]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [9]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [10]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
- [11]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [12]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [13]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- [14]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [4]スパークプラグの規格は国際的に共通しており、トヨタや日産の車についているNGKスパークプラグをGMやフィアットの車につけてもピタリと合う。日本で通用すれば世界でも通用する商品である
- [8]南米市場の将来性に着目し16年前に進出したが、当時のブラジルはインフレ率が180%にも達し、そうした状況下での進出は並大抵のことではなかった。当時の森村社長(現取締役相談役)の英断により進出を決意した
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [15]世界80カ国以上に輸出し、世界的にも4〜5位の生産量を誇るにいたっている(1966年時点)
1967年〜セラミック部門の拡張とICパッケージへの参入
1966年から1970年にかけて、日本経済は実質成長率が年10%を超えるいざなぎ景気に入り、自動車の生産台数は1967年に300万台、1970年に500万台と大台を更新した。1955年から1965年の10年で自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍になっており、プラグの需要はこの裾野に乗っていた。日本特殊陶業の業績も1970年度までの5年間、平均して年28%近い伸びを続ける。伸びを作ったのは主にプラグの輸出とセラミック製品で、1970年代初めの製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後、輸出の比重も20%前後を占めるに至った。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [16]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [18]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [19]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [20]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [17]昭和30〜40年の10年間で、自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍と急速に上昇した
増産の受け皿は小牧に集中して建てられた。1967年3月にメタライズセラミック製品の需要増へ応える電子部品工場、同年10月に切削工具工場、1968年1月にプラグ絶縁体工場、1969年3月にセラミック工場と、毎年のように工場が加わる。1969年7月には、ICパッケージの集約工場として二つ目の電子部品工場が建った。ICパッケージの製品化は1967年10月、LSI用は1971年10月である。セラミックと金属を密封する磁器のメタライズ法は、主にモリブデンの金属膜を焼き付けて金属を鑞付けする方法で、高い真空度に対しても気密を保つ。この部門は1976年時点で月商2億円から2億5,000万円に達し、米国のRCAほか数社と取引していた。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [21]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- [22]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- [23]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [24]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
- [25]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
拡張の途中で、為替と経営陣の両方が揺れた。1971年8月のニクソン声明に続くスミソニアン合意で円は対ドル16.88%の切り上げとなり、1971年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近く減り、1972年度はプラグの輸出が前年度比6%の微増にとどまった。経営陣の交代も相次いだ。1966年10月に松尾義人社長が急逝し、1971年6月には後を継いだ星野茂雄社長も心臓マヒで他界する。資本自由化が「第2の黒船」と受け取られた時期でもあったが、日本特殊陶業は外資との提携を選ばず、逆に米国へ自ら進出して外国の動向をいち早く掴んだ。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [26]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [27]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [28]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [29]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [30]優秀な欧米の機械設備、原料相場や景気の動向をいち早くキャッチしてそれに対処することの方が重要であり、当社に利益をもたらす。当社が外資と提携しないで米国に逆に進出したのは、外国の動向をいち早くキャッチすることを一つのねらいとしているからである
参考文献[16]-[30]
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [16]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [18]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [19]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [20]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
- [21]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- [22]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- [23]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
- [26]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [27]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [28]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- [29]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [17]昭和30〜40年の10年間で、自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍と急速に上昇した
- [24]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
- [25]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
- [30]優秀な欧米の機械設備、原料相場や景気の動向をいち早くキャッチしてそれに対処することの方が重要であり、当社に利益をもたらす。当社が外資と提携しないで米国に逆に進出したのは、外国の動向をいち早くキャッチすることを一つのねらいとしているからである
1974年〜石油危機下での海外現地生産の連鎖
1973年10月の第一次石油危機は、需要の減少となって遅れて効いた。1973年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と前進したが、1974年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり、税引利益は5億4,600万円減少する。1975年度はプラグの輸出が0.5%減、セラミック部門も7.5%減で、総売上高はわずか4%の微増にとどまった。危機のさなかの1973年11月に第8代社長へ就任した小川修次は、輸出の増進、国際的な生産・販売体制の確立、新商品開発への積極的な取り組み、全員参加によるコスト低減の四つを重点施策に掲げた。石油ショック以降は米国から安い製品が入り、電子部品が大きな打撃を受けていた。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [31]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [32]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [33]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [34]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [35]先般の石油ショック以来アメリカから安い製品が輸入され、セラミック部門特に電子部門は大きな打撃を受けた
四つの施策のうち最も速く実を結んだのは、国際的な生産・販売体制だった。1973年3月にマレーシアNGKスパークプラグ、1974年4月にサイアムNGKスパークプラグを現地資本との合弁で設立し、1975年5月に英国NGKスパークプラグ、1976年5月には米国NGKスパークプラグ製造をカリフォルニア州バンナイス市へ置いて翌1977年7月から製造に入る。韓国とパキスタンへは、プラグの生命である絶縁体を国内で作って輸出し、相手国のブランドで生産させるプラント輸出の形を採った。小川修次は現地生産の条件として、現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の三つを挙げている。日本からの輸出だけでは米国のビッグスリーに対抗できないという判断があった。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [36]48年3月にマレーシアNGKスパークプラグ(当社40%、文秀有限公司40%、トウンクナランダ20%)、49年4月にサイアムNGKスパークプラグ(当社30%)を現地資本との合弁で設立。50年5月に英国NGKスパークプラグ(当社90%、シムズ10%)をエセックス州に設立。51年5月には米国NGKスパークプラグの販売代理店アーニー・マッカフィー・エンジニアリング社との合弁による「米国NGKスパークプラグ製造株式会社」(当社70%)をカリフォルニア州バンナイス市に設立し、52年7月から製造を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [37]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
- [38]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
- [39]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
1976年時点のプラグの生産は月産1,200万個、海外分を加えて1,600万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位だった。国内では1955年の月産70万個のうち50万個、1965年の400万個のうち300万個を占め、競合は日本電装と日立の二社にとどまる。輸出は売上高の4割、そのうち半分が米国向けである。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用の比率が1対3という構造が需要の振れを和らげた。1978年度は円高でプラグの内外需が低下して利益が2.5%減り、第二次石油危機の1980年度も内需の4%減を輸出の29.2%増で補いながら利益は再び前年を割ったが、1981年度は全社の合理化で利益が7%台まで戻っている。
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [40]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [41]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [42]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [43]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [44]53年度は売上高に若干の鈍化傾向が見られ利益も2.5%のマイナスとなった。これはプラグの内・外需の低下と円高によるもの。第二次石油危機の影響を大きく受けた55年度は売上高こそ14%台を達成したが利益は2度目のマイナスとなった。主力製品であるプラグの販売が輸出努力によって29.2%増と上昇したにもかかわらず内需が4%減となったためである。56年度に入るとセラミック部門が内・外需共低水準で推移したが、利益は全社あげての合理化努力によって7%台まで上向いた
参考文献[31]-[44]
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [31]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [32]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [33]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [34]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
- [36]48年3月にマレーシアNGKスパークプラグ(当社40%、文秀有限公司40%、トウンクナランダ20%)、49年4月にサイアムNGKスパークプラグ(当社30%)を現地資本との合弁で設立。50年5月に英国NGKスパークプラグ(当社90%、シムズ10%)をエセックス州に設立。51年5月には米国NGKスパークプラグの販売代理店アーニー・マッカフィー・エンジニアリング社との合弁による「米国NGKスパークプラグ製造株式会社」(当社70%)をカリフォルニア州バンナイス市に設立し、52年7月から製造を開始した
- [44]53年度は売上高に若干の鈍化傾向が見られ利益も2.5%のマイナスとなった。これはプラグの内・外需の低下と円高によるもの。第二次石油危機の影響を大きく受けた55年度は売上高こそ14%台を達成したが利益は2度目のマイナスとなった。主力製品であるプラグの販売が輸出努力によって29.2%増と上昇したにもかかわらず内需が4%減となったためである。56年度に入るとセラミック部門が内・外需共低水準で推移したが、利益は全社あげての合理化努力によって7%台まで上向いた
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [35]先般の石油ショック以来アメリカから安い製品が輸入され、セラミック部門特に電子部門は大きな打撃を受けた
- [37]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
- [38]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
- [39]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
- [40]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [41]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [42]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
- [43]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
筆者考察
点火プラグは、規格が国際的に共通している製品である。トヨタや日産の車に付いた製品はGMやフィアットの車にもそのまま合い、国内で通用すれば世界でも通用する。1960年8月に輸出課を置いた日本特殊陶業が、輸出比率を1961年の6%台から5年で18.4%へ引き上げられたのは、この性質があったからだった。ただし規格の共通性は、売れる約束ではない。1959年に進出したブラジルではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュが市場を占め、日本特殊陶業に得意先は一社もなかった。小林朗以下14名が現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、5年かけて全メーカーの採用へ届かせている。共通規格は入場券であって、扉は人が叩いて開けた。
1976年の生産は月産1,200万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位、国内では1965年の400万個のうち300万個を占めた。この位置を得た会社が次に問われたのは、プラグに依存し続けるかどうかである。1967年10月に製品化したセラミックICパッケージは、プラグと同じ焼物の技術を自動車以外の産業へ持ち込む試みで、1970年代初めにはセラミック部門が売上構成の35%前後を占めた。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用が1対3という構造が需要の減少を和らげる。安定した本業を抱えたまま、価格競争の激しい電子部品へ資源を割いたところに、この25年の性格がある。
- 出所は証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)と日本特殊陶業株式会社五十年史(1987年)。
1956年〜1981年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1956年03月期 | 単体 | 8 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 11 | +38.6% | n/a | 1 | 14.7% | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 10 | ▲2.6% | n/a | 1 | 12.4% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 9 | ▲10.2% | n/a | 1 | 10.6% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 14 | +47.4% | n/a | 1 | 10.6% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 20 | +41.1% | n/a | 2 | 11.0% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 23 | +17.3% | n/a | 3 | 12.7% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 26 | +12.5% | n/a | 3 | 11.6% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 33 | +23.4% | n/a | 3 | 9.9% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 35 | +7.9% | n/a | 3 | 9.3% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 38 | +6.5% | n/a | 3 | 9.2% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 104 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 130 | +25.0% | 24 | 13 | 10.0% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 135 | +3.8% | 24 | 12 | 8.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 152 | +12.6% | 26 | 14 | 9.2% | マレーシアに製造販売会社を設立(1973/03) |
| 1974年03月期 | 単体 | 200 | +31.6% | 37 | 18 | 9.0% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 220 | +10.0% | 29 | 13 | 5.9% | 鹿児島県で宮之城工場が操業開始(1974/04) |
| 1976年03月期 | 単体 | 227 | +3.2% | n/a | 10 | 4.4% | 英国に販売会社を設立(1975/05)米国NGKスパークプラグ製造を設立(1976) |
| 1977年03月期 | 単体 | 282 | +24.2% | n/a | 17 | 6.0% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 321 | +13.8% | n/a | 21 | 6.5% | インドネシアに製造販売会社を設立(1977/05)米国にセラミック製造会社の米国特殊陶業を設立(1978) |
| 1979年03月期 | 単体 | 355 | +10.6% | n/a | 20 | 5.6% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 435 | +22.5% | n/a | 22 | 5.1% | ドイツに販売会社を設立(1979/11)オーストラリアに販売会社を設立(1980/02) |
| 1981年03月期 | 単体 | 498 | +14.5% | n/a | 21 | 4.2% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
3件
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)