日本特殊陶業:日本碍子からの分離独立と336名の希望退職
1936年〜日本碍子から派生した創業と戦時下の増産要求
日本特殊陶業は、森村系の企業から枝分かれして生まれた会社である。元会社は米国向けの洋食器を国産した日本陶器で、そこから碍子部門と衛生陶器部門が分かれ、日本碍子と東洋陶器が設立された。点火栓の研究は1921年に日本碍子で着手され、1930年には「NG点火栓」のブランドで発売にこぎ着ける。当時の生産は月産1,000個程度だった。1934年に日本フォードの新車用として採用された際、購買主任からNGはノーグッドに通じるので改称してはどうかと示唆され、ブランドを「NGK」へ改めた。世界へ広がる商標は、この呼び替えから始まっている。
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [1]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- [3]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- [4]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [5]日本フォード社の購買主任から「NG点火プラグはNo Goodに通ずるから、改称してはどうか」と示唆された。これが昭和9年のこと
1936年10月、日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承し、資本金100万円で日本特殊陶業株式会社が設立された。創業地は愛知県名古屋市で、初代社長には江副孫右衛門が就任している。同年には自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変で軍用自動車関係の需要が急増した。1943年6月には濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還して点火プラグに集中し、戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産する体制となる。1943年10月には工場が陸海軍航空本部の管理工場となり、翌1944年4月には軍需会社の指定を受けた。1945年3月時点の従業員数は2,887名に達していた。
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
- [8]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
- [12]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
- [9]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [10]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
- [15]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [11]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
- [13]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [14]昭和18年10月に同社工場は陸海軍航空本部の管理工場となり、昭和19年4月には軍需会社に指定された
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
- [16]1945年3月時点の従業員数 2,887名
戦時下の増産要求は、品質をめぐる経営の考え方と正面からぶつかった。太平洋戦争が航空機の消耗戦の様相を帯びると、軍部は航空機用プラグを作る日本特殊陶業へ月産40万個、50万個という増産命令を下した。創業時の生産能力は月産2万5,000個であり、当時の設備と陣容から見て応じられる数量ではない。3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒と徴用で他業種から移ってきた未経験者で、技術者出身で良品主義を掲げる江副孫右衛門社長は、この陣容では命令を呑めないと軍の監督官へ告げた。これが軍部を刺激し、1944年、江副は社長を退任し、森村勇が第2代社長となった。資本金は1938年11月に200万円、1942年3月に400万円、1944年9月に800万円と積み増され、親会社の日本碍子を追い越した。
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [17]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [18]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [19]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [20]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [21]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [23]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [22]昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
参考文献[1]-[23]
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
- [1]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- [3]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- [4]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
- [11]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
- [13]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
- [7]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
- [12]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- [5]日本フォード社の購買主任から「NG点火プラグはNo Goodに通ずるから、改称してはどうか」と示唆された。これが昭和9年のこと
- [14]昭和18年10月に同社工場は陸海軍航空本部の管理工場となり、昭和19年4月には軍需会社に指定された
- [17]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [18]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [19]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [20]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [21]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- [23]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
- [8]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
- [9]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [10]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
- [15]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
- [22]昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
- [16]1945年3月時点の従業員数 2,887名
1945年〜廃墟からの再出発と乱立するプラグメーカー
終戦で軍需は消え、1945年11月に2,000名を解雇して事業規模を縮小した。軍需会社の指定は、ここで足かせに変わる。航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かす資金を銀行から借りることもできない。再開には進駐軍から民需転換の許可を得るほかなかったが、名古屋の支部へ願書を出しても10日20日と待たされて許可が下りなかった。思案の末、水野智彦専務が京都の司令部へ直接出向いて許可証を持ち帰り、月産5万個の許可を得て農舶用の点火栓の生産にこぎ着ける。自動車工業そのものが、1945年9月に月間1,500台のトラック、1947年6月に年間300台の乗用車の生産を認められるにすぎない状態だった。
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
- [24]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [25]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- [26]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- [27]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [28]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
- [29]当時のわが国自動車工業は、昭和20年9月に月間1,500台に限りトラックが、22年6月には年間300台に限り乗用車の生産がGHQによって認められるという状況であった
再開した市場は、需要に対して作り手が多すぎた。1946年の工場再開時の国内プラグメーカーは8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案に照らせば明らかに供給過剰であり、さらに新規メーカーが続出して競争は激しかった。そのなかで日本特殊陶業は資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名と規模で抜けており、次位の日立製作所多賀工場が月産11万個、愛知化学工業が10万個だった。1947年春には見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、それまで月平均14〜15万個だった販売が同年9月には一挙に40万個へ跳ね上がる。同年10月には物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [30]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [31]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [32]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [34]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [33]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた
需要が戻っても、財務の傷は別に塞ぐ必要があった。1946年10月公布の戦時補償特別措置法により、政府が軍需会社へ公約した損失補償は実質的に帳消しとなる。日本特殊陶業が被った損失は500万円以上、当時の資本金800万円の63%にあたる額で、特別経理会社の指定を受けて新旧勘定の分離と経理の再建整備を迫られた。1948年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額して2,500万円とする増資を行う。1949年5月には株式を公開し、東京・名古屋両証券取引所の第1部へ新規上場した。1950年8月と1951年4月の二度、資産再評価法に基づいて固定資産を再評価し、減価償却を適正化している。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [35]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [36]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [38]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [39]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [41]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [37]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [40]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場
参考文献[24]-[41]
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
- [24]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [25]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- [26]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- [27]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
- [33]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた
- [37]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [28]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
- [29]当時のわが国自動車工業は、昭和20年9月に月間1,500台に限りトラックが、22年6月には年間300台に限り乗用車の生産がGHQによって認められるという状況であった
- [30]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [31]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [32]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [34]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
- [35]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [36]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [38]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [39]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- [41]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [40]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場
1949年〜ドッジ不況の希望退職と朝鮮動乱による再建
1948年初めに500円を上回っていた同社の株価は、1949年4月にドッジ・ラインのもとで安定強化予算が決まって株式市場が崩れると、17円まで落ち込んだ。市場では、日本特殊陶業は倒産するとの見方まで出た。プラグは販売の3.5か月分にあたる70万個超が在庫として積み上がっていた。退職金を払う資金もなく、銀行には融資を拒まれた。同年7月、全従業員782名の43%に当たる336名の希望退職を募り、「創業以来初めて迎えた難局」を乗り越えた。森村勇社長は、今はぬるま湯につかっている時だから飛び出しては風邪を引くと繰り返し、耐えることを説いた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円の支給を申し入れられ、逼迫した資金のなかから12月に120万円、翌年4月に残る40万円を払っている。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [42]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- [45]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- [46]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [43]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)
- [44]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
- [47]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
翌1950年に始まった朝鮮動乱は自動車産業を活況に導いた。受注急増によって売上高はわずか半年で1.6倍に増え、操業以来初めて1億円の大台を突破し、1年後には2.6倍の2億円に達する。1951年3月には配当を年8%から一挙に20%へ引き上げ、同年9月には創立15周年の記念増配分20%を加えた40%という同社史上最高の配当で株主に応えた。同年12月には資本金を5,000万円へ倍額増資し、生産力の拡充と近代化のための設備投資に充てている。労働集約的な生産方式だったため受注増はそのまま人員増につながり、従業員は1950年3月末の422人から1954年3月末には809人へ増えた。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [48]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [49]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [50]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [51]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [52]当時のプラグの生産方式はかなり労働集約的であったため受注増は人員増につながり、従業員数は25年3月末の422人から26年3月末には509人、29年3月末には809人へと大幅に増加した
エンジンの高性能化は、プラグの絶縁体に一段と厳しい使用条件を課した。焼物の素地はコージライト系からムライト系、さらにアルミナ系へと改良され、1951年5月には機械的強度と耐急熱性能を高めたP-5素地へ、1955年8月には高アルミナ質のP-6素地へ全面的に切り替えられた。成形方法も1954年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から、噴霧乾燥した微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改められている。当時すでにチャンピオンとACはアルミナ磁器を採用しており、素地の転換は世界の先行メーカーに追いつくために避けて通れない作業だった。大規模生産に対応してコールドフォーマーが導入され、金具の増産と原価低減に寄与した。
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [53]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [54]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
- [55]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [56]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [57]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
- [58]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
参考文献[42]-[58]
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- [42]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- [45]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- [46]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- [43]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)
- [44]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
- [47]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
- [48]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [49]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [50]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [51]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
- [52]当時のプラグの生産方式はかなり労働集約的であったため受注増は人員増につながり、従業員数は25年3月末の422人から26年3月末には509人、29年3月末には809人へと大幅に増加した
- [53]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [54]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
- [55]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [56]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
- [57]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
- [58]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
筆者考察
日本特殊陶業の最初の20年は、需要の出どころが三度入れ替わった期間だった。日本碍子の一部門として始まった点火栓は、独立した翌年の日華事変で軍用自動車の部品となり、太平洋戦争では航空機の消耗品になった。軍部は月産40万個、50万個を求めたが、創業時の生産能力は月産2万5,000個である。良品主義を掲げた技術者の江副孫右衛門が、この陣容では呑めないと軍の監督官へ告げたのは、会社の設計上の限界をそのまま言ったにすぎない。だが戦時に正直は通らず、江副は社長の座を降りた。1944年に資本金が親会社の日本碍子を追い越したとき、日本特殊陶業は森村系でただ一社、本業のまま繁忙を極めていた。そしてその本業は、翌年に消えた。
戦後に残ったのは、点火プラグしか作れない体と、資本金の63%にあたる戦時補償の損失だった。1946年の再開時、国内のプラグメーカーは8社あり、復興計画案に照らせば明らかに作り手が多すぎた。それでも月産能力20万個という規模は次位の倍近くあり、朝鮮向け60万個の大口注文を引き受けられたのはこの規模があったからである。1949年のドッジ不況では従業員の43%を手放し、翌年の朝鮮動乱では半年で売上高が1.6倍になった。同じ会社が1年のうちに人を切り、史上最高の40%配当を出している。この上下の落差に耐えられたのは、プラグ一品へ資源を集めていたためで、縮むときも伸びるときも動きが速かった。
- 出所は産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(1966年)と日本特殊陶業株式会社五十年史(1987年)。
1936年〜1955年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 4 | +20.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 8 | +69.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 7 | ▲9.3% | n/a | n/a | n/a |
出典・参考
9件
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
- 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
- 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
- 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)