第2章 年〜年

住友ゴム工業:住友ゴム工業への改称と日本側株主の経営権掌握

英国ダンロップの投資抑制から住友電工への経営権移転

1950年〜ロンドンの決裁が抑えた設備投資と、生産能力の劣後

設備の拡張には年150パーセントという上限があり、これを超える案は通らなかった。マネージング・ディレクターのA・G・サフェリー氏は、設備投資を借入金でまかなうべきではないと信じており、英国ダンロップ社も方針としてそれを基本に据えていた。同氏は1953年以降、日本経済と自動車工業の先行きを毎年ロンドンに報告したが、見通しはおおむね暗く、日本の道路事情では自動車工業は育たないと考えていた。1件100万円以上の設備支出を決めるのは日本ダンロップ護謨の神戸ではなくロンドンで、伝票から正規の報告書、会議に至るまで英語が使われ、英国人の上長を英語で納得させてから英国ダンロップ社の決裁を待たねばならなかった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [1]ロンドン・サンクションにより設備拡張は年150パーセントが最大限で、それ以上は承認されなかった
    • [4]1件につき100万円以上の設備支出はすべて英国ダンロップ社の決裁(ロンドン・サンクション)を要した
    • [5]上長の決裁・伝票・報告書・各種の会議はすべて英語で行われ、ロンドンの決裁には英国人上長の説得が要った
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [2]サフェリーは借金をして設備投資をしてはならないという信念を持ち、これは英国ダンロップ社の基本ポリシーでもあった
    • [3]サフェリーは1953年以降毎年ロンドンへ悲観的な報告を送り、日本の道路事情では自動車工業は興らないと述べた

1956年、輸出と設備投資に支えられた好況のなかで、日本ダンロップ護謨は高い評価を得ていたトラック・バス用タイヤ「ロード・トラック・メジャー」を品不足に陥らせた。ブリヂストン、横浜護謨、東洋ゴムは数年来の設備投資で生産能力に余裕を持ち、増大する需要へ迅速に応じた。生産余力を失った日本ダンロップ護謨は、前年に始めたばかりの自動車会社への拡販を取りやめ、すでに取引のある会社にだけ納める方針へ戻した。輸出も英国ダンロップ社の方針で積極的に行わず、他社が生産量の30パーセント前後を振り向けるのに対し数パーセントに止まった。1958年の売上高は前年比81.1パーセントの53億円へ落ち、下期は採算が悪化してタイヤ6社中の収益で最下位に転落した。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [6]1956年の好況でトラック・バス用プレミアムタイヤ「ロード・トラック・メジャー」が品不足となった
    • [7]ブリヂストン・横浜護謨・東洋ゴムは数年来の設備投資で生産能力に余裕があり需要へ迅速に対処した
    • [8]生産余力がないため前年から始めた自動車会社への拡販を中止し既存取引先にだけ販売する方向へ転換した
    • [9]他社が生産量の30パーセント前後を輸出したのに対し日本ダンロップの輸出は数パーセントに止まった
    • [10]1958年の売上高は前年比81.1パーセントの53億円で、下期は赤字となりタイヤ6社中収益最下位に転落した

1955年に入れた加硫機も同じ形で決まった。旧型のマックニール・プレスは厚いエアバッグを用いるので加熱と冷却のどちらにも長い時間を要し、ナイロンコードを使ったタイヤを適切な条件で加硫しにくかった。日本人技術者はすでにあった新型のバッグ・オ・マチック・プレスを入れるよう強く求めたが、英国ダンロップ社は旧型を選び、8台のうち英国から届いた1号機は中古だった。当の英国ダンロップ社にはほどなく新型が据えられ、神戸製鋼所もマックニール社から技術を導入して新型を量産し、1958年にはブリヂストンに納め始めていた。ナイロンコードタイヤを十分に量産できたのは、初めから新型を備えた名古屋工場が主力になって以降のことである。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [11]1955年にマックニール社製の新加硫機を8台導入した
    • [12]旧型は厚いエアバッグを使うため加熱・冷却に時間がかかりナイロンタイヤの適正な加硫が難しかった
    • [13]日本人技術者はバッグ・オ・マチック・プレスの導入を進言したが英国ダンロップ社は旧タイプに決定し、1号機は中古品だった
    • [14]その後まもなく英国ダンロップ社には新型のバッグ・オ・マチック・プレスが設置された
    • [15]神戸製鋼所はマックニール社と技術導入契約を結び新型を量産して1958年にブリヂストンへの納入を始めた
  • 証券(新規上場会社紹介)1975年
    • [16]名古屋工場は住友ゴム工業の主力工場となった
参考文献[1]-[16]
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [1]ロンドン・サンクションにより設備拡張は年150パーセントが最大限で、それ以上は承認されなかった
    • [4]1件につき100万円以上の設備支出はすべて英国ダンロップ社の決裁(ロンドン・サンクション)を要した
    • [5]上長の決裁・伝票・報告書・各種の会議はすべて英語で行われ、ロンドンの決裁には英国人上長の説得が要った
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
    • [2]サフェリーは借金をして設備投資をしてはならないという信念を持ち、これは英国ダンロップ社の基本ポリシーでもあった
    • [3]サフェリーは1953年以降毎年ロンドンへ悲観的な報告を送り、日本の道路事情では自動車工業は興らないと述べた
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [6]1956年の好況でトラック・バス用プレミアムタイヤ「ロード・トラック・メジャー」が品不足となった
    • [7]ブリヂストン・横浜護謨・東洋ゴムは数年来の設備投資で生産能力に余裕があり需要へ迅速に対処した
    • [8]生産余力がないため前年から始めた自動車会社への拡販を中止し既存取引先にだけ販売する方向へ転換した
    • [9]他社が生産量の30パーセント前後を輸出したのに対し日本ダンロップの輸出は数パーセントに止まった
    • [10]1958年の売上高は前年比81.1パーセントの53億円で、下期は赤字となりタイヤ6社中収益最下位に転落した
    • [11]1955年にマックニール社製の新加硫機を8台導入した
    • [12]旧型は厚いエアバッグを使うため加熱・冷却に時間がかかりナイロンタイヤの適正な加硫が難しかった
    • [13]日本人技術者はバッグ・オ・マチック・プレスの導入を進言したが英国ダンロップ社は旧タイプに決定し、1号機は中古品だった
    • [14]その後まもなく英国ダンロップ社には新型のバッグ・オ・マチック・プレスが設置された
    • [15]神戸製鋼所はマックニール社と技術導入契約を結び新型を量産して1958年にブリヂストンへの納入を始めた
  • 証券(新規上場会社紹介)1975年
    • [16]名古屋工場は住友ゴム工業の主力工場となった

1959年〜名古屋工場の資金難が招いた日英50対50の株式再編

東京、大阪をはじめ各地の営業所からは、第二工場を建てて設備を急速に拡張しなければ他社との競争に耐えられないという報告が上がっていた。英国ダンロップ社が新工場の建設を認めたのは1959年春である。工場の建設には当時の金額で50億円から60億円が必要で、英国ダンロップ社にはその資金を調える余裕がなかった。また同社は販売予測の確度を保証するよう求め、宮坂三郎常務が自分の責任で販売を完遂すると記した念書に署名した。同社は1949年に10年間の技術援助契約を結び、高い率のロイヤリティを得ていた。ところが外貨不足に苦しむ日本政府は、契約が更改される1960年以降、100パーセント子会社がロイヤリティを払う形は認めない旨を伝えていた。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [17]各地の営業所は第二工場建設による設備の急速な拡張がなければ他社との競争に耐えられないと報告した
    • [18]英国ダンロップ社が新工場の建設要請を認めたのは1959年春だった
    • [19]新工場には当時で50億〜60億円の資金が必要で、英国ダンロップ社に資金調達の余裕がなかった
    • [20]英国ダンロップ社は販売予測の確度の保証を要求し、宮坂常務が販売完遂の念書に署名した
    • [21]日本政府は1960年の契約更改以降、100パーセント子会社からロイヤリティを取ることを認めないと通告していた

住友電工が住友商事と組んで日本ダンロップ護謨の株式の30パーセントを引き受け、役員を送り込んで経営に加わると答えたのは、1959年8月にサフェリー社長から譲渡の申し入れを受けてのことである。この返答の背後には北川一栄社長の構想があった。戦時中に陸海軍から頼まれて防振ゴムや防弾タンクの開発を取りまとめた北川氏は、ゴムを手がけるなら中核製品であるタイヤに進まねばならないとみて、以前からタイヤへの参入を思い描いていた。日英の合弁は1929年から何度も試みられてきたが、実現したのは1960年2月5日、同社社長室で資本提携契約が調印されたときが初めてである。新工場の用地は豊田市に決まり、同年8月に地鎮祭が行われた。翌1961年、英国ダンロップ社はイングランド銀行が見返りのない海外投資を禁じていることを理由に持株の一部売却を申し入れ、日本長期信用銀行が10パーセントを引き受けて持株比率は日英五分五分となった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [22]1959年8月のサフェリーの30パーセント譲渡の申し入れに対し、住友電工は住友商事と保有し役員を派遣して経営に参加すると回答した
    • [23]北川一栄は戦時中に防振ゴムや防弾タンクの開発を統括し、ゴム事業をやる以上は主力のタイヤをやらなければならないと考えていた
    • [24]1960年2月5日に住友電工と英国ダンロップ社が資本提携契約に調印し、1929年以来の日英合弁がはじめて実現した
    • [25]新工場の用地は豊田市に決まり1960年8月に地鎮祭が行われた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1961年10月に日本長期信用銀行が10パーセントを引き受け、日本側株主の持株比率は約50パーセントとなった

1962年は上期・下期ともに赤字で、年間の欠損は1億4000万円に達した。これまでで最も悪い決算である。売上高そのものは96億2400万円で、前年の102パーセントとかろうじて伸びたものの、タイヤは前年の水準に届かず、増収分はゴルフボールの好調によるものだった。この年の9月、英国ダンロップ社は住友電工に副社長を出すよう求めるとともに、しかるべき時期に株式の過半数と経営権を日本側へ移す考えを示した。1963年9月25日に交わされた取り決めは、経営権と社長を指名する権利が日本側に属すると確かめたうえで、住友ブランドのタイヤ輸出を容認し、ダンロップの名は販売会社の社名に残すという内容を柱とし、10月1日には社名が住友ゴム工業に変わった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [27]1962年は上期・下期とも赤字で年間1億4000万円の欠損となった
    • [28]1962年の決算は過去最悪となった
    • [29]1962年の売上高は前年比102パーセントの96億2400万円で、売上増はゴルフボールの伸長に支えられていた
    • [30]1962年9月にペッパコーン常務は住友電工からの副社長派遣を求め、適当な時期に株式の過半と経営権を譲ると述べた
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [31]1963年9月25日の取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤの輸出承認・経営権は日本側・販売会社にダンロップの社名を残すことを骨子とした
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1963年10月に住友ゴム工業へ商号を変更し、販売会社として日本ダンロップ護謨を設立した
参考文献[17]-[32]
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
    • [17]各地の営業所は第二工場建設による設備の急速な拡張がなければ他社との競争に耐えられないと報告した
    • [18]英国ダンロップ社が新工場の建設要請を認めたのは1959年春だった
    • [19]新工場には当時で50億〜60億円の資金が必要で、英国ダンロップ社に資金調達の余裕がなかった
    • [20]英国ダンロップ社は販売予測の確度の保証を要求し、宮坂常務が販売完遂の念書に署名した
    • [21]日本政府は1960年の契約更改以降、100パーセント子会社からロイヤリティを取ることを認めないと通告していた
    • [22]1959年8月のサフェリーの30パーセント譲渡の申し入れに対し、住友電工は住友商事と保有し役員を派遣して経営に参加すると回答した
    • [23]北川一栄は戦時中に防振ゴムや防弾タンクの開発を統括し、ゴム事業をやる以上は主力のタイヤをやらなければならないと考えていた
    • [24]1960年2月5日に住友電工と英国ダンロップ社が資本提携契約に調印し、1929年以来の日英合弁がはじめて実現した
    • [25]新工場の用地は豊田市に決まり1960年8月に地鎮祭が行われた
    • [27]1962年は上期・下期とも赤字で年間1億4000万円の欠損となった
    • [28]1962年の決算は過去最悪となった
    • [29]1962年の売上高は前年比102パーセントの96億2400万円で、売上増はゴルフボールの伸長に支えられていた
    • [30]1962年9月にペッパコーン常務は住友電工からの副社長派遣を求め、適当な時期に株式の過半と経営権を譲ると述べた
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1961年10月に日本長期信用銀行が10パーセントを引き受け、日本側株主の持株比率は約50パーセントとなった
    • [32]1963年10月に住友ゴム工業へ商号を変更し、販売会社として日本ダンロップ護謨を設立した
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [31]1963年9月25日の取り決めは技術援助契約20年・住友タイヤの輸出承認・経営権は日本側・販売会社にダンロップの社名を残すことを骨子とした

1963年〜井上文左衛門の原価低減が一掃した繰越赤字

社内で使う言葉が英語から日本語に切り替わったのは1963年10月1日である。この日、住友電気工業で専務・副社長を歴任して社長に就いた井上文左衛門氏が、食堂ホールに全従業員を集め、五つの基本方針を打ち出した。中身は、信用を重んじて確実を旨とする、原価低減を徹底する、技術と経営の自主性を尊重する、営業活動を積極的に進める、人材を育てる、の5項だった。外国人が経営していた頃には、社長が社員全員に向けてじかに方針を語った前例はない。起案の手続きも改まった。新しい規程は、関係部門との合議を経て上長に出す流れを定めた。それまでは役員や部長が必要とみた相手に写しを回せば済み、それ以上の連絡や打ち合わせは求められなかった。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [33]1963年10月1日から英語に代えて日本語を社内の公用語とした
    • [34]1963年10月1日に井上文左衛門が社長に就任し、全従業員を食堂ホールに集めて五つの基本方針を示した
    • [35]五方針は信用を重んじ確実を旨とする・原価低減の徹底・自主性の尊重・積極的な営業活動・人材の育成だった
    • [36]社長が全社員に直接方針を述べることは外国人経営の時代には例がなかった
    • [37]1963年10月1日に起案手続規程が制定され、関係部門と合議ののち上長へ提出することとなった
    • [38]旧日本ダンロップ時代は役員・部長段階で写しを送るだけで、それ以上の連絡や打合せは不要とされていた

1964年秋に置かれたCR調整委員会は、5年後にあたる1969年の復配を目指し、毎年の原価を5パーセント以上ずつ切り下げることを基本の方針に定めた。出発点には、同業他社よりおよそ10パーセント高いとみられた当時の製造コストがあった。英国人が経営していた頃は原価はおろか売上高すら従業員に伏せられていたが、以前なら想像もできなかった原価資料の公開が進み、会社の損益と原価の関係を従業員が理解するようになって、活動は根づいた。作業の改善も、生産技術者に任せず作業者が自ら手がける形へ変わり、同年2月に発足したQC中央委員会がこの方式を採った。神戸工場のQCサークルは1966年末に23だったものが、一時は100にまで増えた。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [39]1964年秋に設置されたCR調整委員会は1969年の復配を目標に毎年5パーセント以上の原価低減を基本方針とした
    • [40]当時の住友ゴムの製造コストは同業他社と比べて10パーセント程度高いとみられていた
    • [41]イギリス人経営の時代には原価はもちろん売上高すら厚いベールに包まれていた
    • [42]CR活動が定着したのは原価資料の公開と、損益と原価の関係についての理解が従業員に深まったためだった
    • [43]1964年2月にQC中央委員会が発足し、作業者自身が自らの考えで作業改善を行う形が採られた
    • [44]神戸工場では1966年末に23サークルが活動を始め、一時は100サークルに及んだ

井上社長は社名変更の直後、古い設備の合理化と近代化には一流品を使い、増設する機械は世界第一級のものを使えと宣言した。だが会社は大きな赤字を抱え、国内の銀行は累積赤字を持つ住友ゴム工業への融資に消極的だった。経理を預かる下川常雄専務は英国ダンロップ社に融資の斡旋を頼んで断られ、1964年末、西ドイツのコメルツバンクとドイチェバンクから100万ドルずつ、当時の金額で約7億円を調達した。神戸工場の近代化は1967年中に一通りを終え、名古屋工場では1967年に3億8000万円だった設備投資額が1969年には28億5000万円まで増えた。1968年11月に完成した第二期工事で、日本で初めて乗用車用ラジアルタイヤの量産態勢が整った。1967年上期には、前期から繰り越した1億5000万円の赤字を一掃した。

  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [45]井上社長は社名変更直後に古い設備の合理化・近代化には一流品を、増設機械は世界第一級のものを使えと宣言した
    • [46]1964年当時、日本の各銀行は大きな累積赤字を抱える住友ゴムへの融資に消極的だった
    • [47]下川常雄専務は英国ダンロップ社に融資の斡旋を断られた後、コメルツバンクとドイチェバンクから各100万ドル・計約7億円を調達した
    • [48]神戸工場の近代化は1967年中に一通りの完成を見た
    • [49]名古屋工場の設備投資額は1967年の3億8000万円から1969年の28億5000万円へ増加した
    • [50]1968年11月完成の第二期工事でわが国初の乗用車用ラジアルタイヤの量産態勢が整った
    • [51]1967年上期に売上高80億7000万円・利益2億5800万円を計上し、前期からの繰越赤字1億5000万円を一掃した

1972年に加古川工場、1974年に白河工場が操業を始め、神戸と名古屋を含む四つの工場が揃った。1975年1月14日、住友ゴム工業は東京・大阪・名古屋の三証券取引所の第二部へ株式を上場した。売出しに応じたのは住友電気工業340万株、日本長期信用銀行89万株、住友商事71万株で、上場後もダンロップ・インタナショナルが43.75パーセント、住友電工が38.25パーセントを握る資本構成は変わらなかった。売上高の70.0パーセントはタイヤ、23.1パーセントはスポーツ用品が占め、従業員は4440名、自動車タイヤ業界では第4位だった。1979年12月期の売上高は1197億円と初めて1000億円台に乗り、経常利益は74億円を計上した。1981年にはオーツタイヤの株式48パーセントを取得して全面提携に入った。

  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1972年1月に加古川工場、1974年8月に白河工場が操業を開始した
    • [58]1981年5月にオーツタイヤの株式48パーセントを取得し全面提携した
  • 証券(新規上場会社紹介)1975年
    • [53]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [54]売出人は住友電気工業340万株・日本長期信用銀行89万株・住友商事71万株で、大株主はダンロップ・インタナショナル43.75パーセント、住友電気工業38.25パーセントだった
    • [55]製品別の売上高構成比はタイヤ70.0パーセント・スポーツ用品23.1パーセント・特殊用品6.9パーセント(1974年6月期実績)で、従業員は4440名、自動車タイヤ業界第4位だった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
    • [56]1979年12月期の売上高は1197億円だった
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [57]1979年12月期に年間売上高が初めて1000億円台に乗り、経常利益は74億円となった
参考文献[33]-[58]
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
    • [33]1963年10月1日から英語に代えて日本語を社内の公用語とした
    • [34]1963年10月1日に井上文左衛門が社長に就任し、全従業員を食堂ホールに集めて五つの基本方針を示した
    • [35]五方針は信用を重んじ確実を旨とする・原価低減の徹底・自主性の尊重・積極的な営業活動・人材の育成だった
    • [36]社長が全社員に直接方針を述べることは外国人経営の時代には例がなかった
    • [37]1963年10月1日に起案手続規程が制定され、関係部門と合議ののち上長へ提出することとなった
    • [38]旧日本ダンロップ時代は役員・部長段階で写しを送るだけで、それ以上の連絡や打合せは不要とされていた
    • [39]1964年秋に設置されたCR調整委員会は1969年の復配を目標に毎年5パーセント以上の原価低減を基本方針とした
    • [40]当時の住友ゴムの製造コストは同業他社と比べて10パーセント程度高いとみられていた
    • [41]イギリス人経営の時代には原価はもちろん売上高すら厚いベールに包まれていた
    • [42]CR活動が定着したのは原価資料の公開と、損益と原価の関係についての理解が従業員に深まったためだった
    • [43]1964年2月にQC中央委員会が発足し、作業者自身が自らの考えで作業改善を行う形が採られた
    • [44]神戸工場では1966年末に23サークルが活動を始め、一時は100サークルに及んだ
    • [45]井上社長は社名変更直後に古い設備の合理化・近代化には一流品を、増設機械は世界第一級のものを使えと宣言した
    • [46]1964年当時、日本の各銀行は大きな累積赤字を抱える住友ゴムへの融資に消極的だった
    • [47]下川常雄専務は英国ダンロップ社に融資の斡旋を断られた後、コメルツバンクとドイチェバンクから各100万ドル・計約7億円を調達した
    • [48]神戸工場の近代化は1967年中に一通りの完成を見た
    • [49]名古屋工場の設備投資額は1967年の3億8000万円から1969年の28億5000万円へ増加した
    • [50]1968年11月完成の第二期工事でわが国初の乗用車用ラジアルタイヤの量産態勢が整った
    • [51]1967年上期に売上高80億7000万円・利益2億5800万円を計上し、前期からの繰越赤字1億5000万円を一掃した
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1972年1月に加古川工場、1974年8月に白河工場が操業を開始した
    • [58]1981年5月にオーツタイヤの株式48パーセントを取得し全面提携した
  • 証券(新規上場会社紹介)1975年
    • [53]1975年1月14日に東京・大阪・名古屋の3証券取引所第二部へ上場した
    • [54]売出人は住友電気工業340万株・日本長期信用銀行89万株・住友商事71万株で、大株主はダンロップ・インタナショナル43.75パーセント、住友電気工業38.25パーセントだった
    • [55]製品別の売上高構成比はタイヤ70.0パーセント・スポーツ用品23.1パーセント・特殊用品6.9パーセント(1974年6月期実績)で、従業員は4440名、自動車タイヤ業界第4位だった
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
    • [56]1979年12月期の売上高は1197億円だった
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [57]1979年12月期に年間売上高が初めて1000億円台に乗り、経常利益は74億円となった

1950年〜1982年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1950年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年12月期 単体 99 n/a ▲3 ▲3 ▲3.0% n/a
1964年12月期 単体 116 +17.2% ▲1 ▲1 ▲0.9% n/a
1965年12月期 単体 125 +7.8% 1 1 0.8% n/a
1966年12月期 単体 148 +18.4% 1 2 1.4% n/a
1967年12月期 単体 179 +20.9% 6 6 3.4% n/a
1968年12月期 単体 211 +17.9% 5 4 1.9% n/a
1969年12月期 単体 256 +21.3% 5 4 1.6% n/a
1970年12月期 単体 303 +18.4% 7 7 2.3% n/a
1971年12月期 単体 363 +19.8% 19 5 1.4% n/a
1972年12月期 単体 418 +15.2% 24 10 2.4% n/a
1973年12月期 単体 530 +26.8% 33 14 2.6% n/a
1974年12月期 単体 689 +30.0% 31 15 2.2% n/a
1975年12月期 単体 776 +12.6% 10 11 1.4% n/a
1976年12月期 単体 869 +12.0% 6 6 0.7% 宮崎工場が操業開始(1976)
1977年12月期 単体 900 +3.6% 14 6 0.7% n/a
1978年12月期 単体 978 +8.7% 27 12 1.2% n/a
1979年12月期 単体 1,197 +22.4% 74 36 3.0% n/a
1980年12月期 単体 1,521 +27.1% 60 36 2.4% n/a
1981年12月期 単体 1,710 +12.4% 23 11 0.6% マレーシア工場が操業開始(1981)
1982年12月期 単体 1,787 +4.5% 33 13 0.7% n/a

出所:住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」

出典・参考

7件
出典・参考
  • 住友ゴム工業 有価証券報告書【沿革】
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第七章 住友ゴム工業株式会社の誕生」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第五章 戦後「復興」の軌跡」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)「第六章 「戦後」終わり高度成長期へ」
  • 住友ゴム八十年史(1989年)巻末「住友ゴム業績推移表」
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
  • 証券(新規上場会社紹介)1975年

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