第2章 年〜年

上村工業:淀川工場の再開とめっき用化学品の製造開始

1946年〜鉄鍋四個の再開と、モノ不足が生んだ売り手市場

事業の再開は同業のどこよりも早かった。戦時に借りていた築港工場を整理して閉じた1946年5月、同じ月に淀川工場で研摩剤の製造を始めている。設備は直径70センチの鉄鍋を4個並べ、レンガを積んだ炉で薪を直炊きし、パラフィンと松ヤニ、鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混ぜるものだった。吹きこぼれないよう、石炭箱の蓋を割った板切れで攪拌している。1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本、金額にして7万円から10万円である。原材料は千船工場と四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込み、昼間は停電して夜間に送電される電力事情のもとで、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [1]戦後の事業再開は同業のどこよりも早かった
    • [6]原材料は千船工場・四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込んだ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [2]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖し、同じ1946年5月に淀川工場でトリポリ、エメリー棒、グローカスといった研摩剤の製造を開始した。有報【沿革】も1946年5月の淀川工場での研磨材製造再開を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [3]再開時の生産設備は直径70センチの鉄鍋4個を並べ、レンガを積み上げた炉で薪を直炊きし、パラフィン・松ヤニ・鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混入するものだった
    • [4]吹きこぼれないように火の加減をみながら、石炭箱のふたを割った板切れで攪拌した
    • [5]1日の生産量はトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本で、金額にして7〜10万円程度だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [7]当時は電力事情・原料事情が極端に悪く、昼間は停電・夜間に送電という状態で、1週間のうち働く日は日曜日を含めて4日ほどしかなかった

復興が進むにつれて足りなくなったのは、設備ではなく原料だった。主力の3Bライムは原料の一つである酸化アルミの入手が難しく、代わりに硅酸アルミや金剛砂を試したものの、硬すぎて用をなさなかった。1948年、自動車用プラグの焼き損ないが工場に山積みされて処分に困っているのを買い取り、粉砕して3Bライムの原料に回したところ、非常に良い結果を得た。取引はすべて現金で、九州から泊まりがけでリュックサックを背負って買いに来る者もいる売り手市場だった。1947年11月期の売上高は2,221万7,000円、翌1948年11月期は5,865万8,000円と、1年で2.6倍に伸びている。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [8]戦後は材料も不足がちで、入手するためにヤミ買いを行うなど苦心した
    • [9]代表商品である3Bライムの原料の一つである酸化アルミの入手が困難で代替材料の研究に苦労した。硅酸アルミ、金剛砂を試みに使ってみたが、硬いので使えなかった
    • [10]1948年に自動車のプラグの焼き損ないを粉砕して再利用する解決策を得た。A社のプラグ工場には焼き損ないのプラグが山積みされ処分に困っており、それを買い取って3Bライムの原料としたところ非常に良い結果を得た
    • [11]取り引きはすべて現金で、九州方面からリュックサックを背負って泊まりがけで買いにくる者もいる売り手市場だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [12]1947年11月期(第19期)の売上高は22,217千円、1948年11月期(第20期)は58,658千円

東京支店は戦災を免れたものの、物資の欠乏と交通機関の麻痺で、売る商品そのものが本社から届かなかった。矢のように出荷を催促する支店へ、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示を返した。代表商品の3Bライムは月に100本から200本しか入荷せず、店頭に出すいとまもなく売れた。本社はこの商品に限って現金で売るよう命じており、立ち上がりの資金繰りを支えた。東京では山中研磨材工業所に委託生産したトリポリを「3山トリポリ」の名で売り、1950年には東京都北区東十条へ敷地60坪の東京工場を設けている。溶解釜と攪拌機が各2基、作業員3人、1日500本から600本という規模だった。運賃が製品の利を食う距離が、生産の分散を決めた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
    • [13]東京支店は戦災を免れたものの、終戦による社会の混乱、極度の物資欠乏、食糧難、交通機関のマヒなどで、商売をしようにも肝心の商品が本社からなかなか届かなかった
    • [14]東京支店が矢のように本社へ出荷を催促すると、6代長兵衞社長から東京での自給自足を求める指示が返ってきた
    • [15]代表商品の3Bライムは月に100〜200本しか入荷がなく、店頭へ出すいとまもなく売れてしまう状態だった
    • [16]本社から3Bライムについては「現金で売るように」と特に指示があり、戦後の立ち上がりに資金面で貢献した
    • [17]東京ではまずトリポリの製造を考え、山中研磨材工業所に委託生産したものを「3山トリポリ」のブランドで販売した。東京工場ができるまでの短い期間の、初めての東京独自の製品だった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1950年に東京都北区東十条へ東京工場を設置(敷地198平方メートル=60坪、木造平家1棟132平方メートル、生産設備は溶解釜・攪拌機が各2基、作業員3人、生産能力は1日500〜600本)。有報【沿革】は1950年3月に東京工場を設置し研磨材の製造を開始と記す
参考文献[1]-[18]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [1]戦後の事業再開は同業のどこよりも早かった
    • [6]原材料は千船工場・四貫島倉庫から毎日馬車一車ずつ運び込んだ
    • [8]戦後は材料も不足がちで、入手するためにヤミ買いを行うなど苦心した
    • [9]代表商品である3Bライムの原料の一つである酸化アルミの入手が困難で代替材料の研究に苦労した。硅酸アルミ、金剛砂を試みに使ってみたが、硬いので使えなかった
    • [10]1948年に自動車のプラグの焼き損ないを粉砕して再利用する解決策を得た。A社のプラグ工場には焼き損ないのプラグが山積みされ処分に困っており、それを買い取って3Bライムの原料としたところ非常に良い結果を得た
    • [11]取り引きはすべて現金で、九州方面からリュックサックを背負って泊まりがけで買いにくる者もいる売り手市場だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [2]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖し、同じ1946年5月に淀川工場でトリポリ、エメリー棒、グローカスといった研摩剤の製造を開始した。有報【沿革】も1946年5月の淀川工場での研磨材製造再開を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [3]再開時の生産設備は直径70センチの鉄鍋4個を並べ、レンガを積み上げた炉で薪を直炊きし、パラフィン・松ヤニ・鯨油を原料とする脂肪酸を煮て原料を混入するものだった
    • [4]吹きこぼれないように火の加減をみながら、石炭箱のふたを割った板切れで攪拌した
    • [5]1日の生産量はトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本で、金額にして7〜10万円程度だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [7]当時は電力事情・原料事情が極端に悪く、昼間は停電・夜間に送電という状態で、1週間のうち働く日は日曜日を含めて4日ほどしかなかった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [12]1947年11月期(第19期)の売上高は22,217千円、1948年11月期(第20期)は58,658千円
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
    • [13]東京支店は戦災を免れたものの、終戦による社会の混乱、極度の物資欠乏、食糧難、交通機関のマヒなどで、商売をしようにも肝心の商品が本社からなかなか届かなかった
    • [14]東京支店が矢のように本社へ出荷を催促すると、6代長兵衞社長から東京での自給自足を求める指示が返ってきた
    • [15]代表商品の3Bライムは月に100〜200本しか入荷がなく、店頭へ出すいとまもなく売れてしまう状態だった
    • [16]本社から3Bライムについては「現金で売るように」と特に指示があり、戦後の立ち上がりに資金面で貢献した
    • [17]東京ではまずトリポリの製造を考え、山中研磨材工業所に委託生産したものを「3山トリポリ」のブランドで販売した。東京工場ができるまでの短い期間の、初めての東京独自の製品だった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1950年に東京都北区東十条へ東京工場を設置(敷地198平方メートル=60坪、木造平家1棟132平方メートル、生産設備は溶解釜・攪拌機が各2基、作業員3人、生産能力は1日500〜600本)。有報【沿革】は1950年3月に東京工場を設置し研磨材の製造を開始と記す

1949年〜仕入れた商品で伸びた十年と、研摩を減らす技術

1949年8月、大阪市阿倍野区万代に敷地578坪の住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた。木製のめっき槽は耐薬品のために内部へアスファルトを塗るか鉛板を張っていたので、これに代わる内張りと電気絶縁の材料にしようというねらいだった。製品は厚手の0.5ミリに重点を置いたが、めっきの分野では量に限りがあり、薄手0.3ミリのフィルムを風呂敷やテーブル掛け、雨合羽に仕立てて売った。一時はよく売れたものの、市中価格が不安定なうえ、雑貨の販売業者は営業基盤が弱く倒産がよく起こった。市場が狭く将来に期待が持てないと判断して拡大策は取らず、1963年2月に工場での生産を止めて倉庫に転じている。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1949年8月に大阪市阿倍野区万代1丁目へ住吉工場を設置(敷地1,908平方メートル=578坪、平家・木造建)。所在は阿倍野区だが住吉区に近いので住吉工場と呼ばれた。有報【沿革】は1949年8月に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
    • [20]木製のめっき槽は耐薬品のために内部にアスファルトを塗ったり鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使うのが新規部門へ進出した目的だった
    • [21]製品は厚手のシート(0.5ミリ)に重点を置いたが、当初の目的としためっきの分野では量的に限りがあるので、薄手のフィルム(0.3ミリ)も製造し、ふろしき、テーブル掛けなどの雑貨や雨かっぱにして販売した
    • [22]一時はよく売れたが、フィルム・シートの市中価格が不安定であるのに加え、雑貨関係は販売業者の営業基盤が弱く、よく倒産が起こった
    • [23]シートに関しては市場が狭く将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず、1963年2月に工場生産を停止し、以後1978年まで倉庫として利用した

1940年代後半の主力は、自社で作った品ではなく仕入れた品だった。そのころの主な取扱商品は、住友金属鉱山と日本鉱業から仕入れた硫酸ニッケル、日本曹達から仕入れたカ性ソーダと青化ソーダ、日本鉱業と三菱金属から仕入れた硫酸銅だった。光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛もこの時期の商材だった。なかでも青化第一銅は千葉の総房化学が開発した品で、当時東京都工業奨励館化学部技師だった理学博士・虎石成美氏がめっきへの効能を実証し、その裏書きを得て販売を始めた。最初に採用したのは市川市の福井電化工業であり、これを突破口に需要は従来の硫酸銅から青化第一銅へすっかり移った。月10トンから15トンを一手販売したが、本社では扱えず東京支店の独壇場になった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [24]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」の会社だった
    • [26]昭和20年代の大ヒット商品は光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛だった
    • [27]青化第一銅は千葉の総房化学(後に日本冶金工業に吸収合併)で開発されたといわれ、理学博士 虎石成美(当時 東京都工業奨励館化学部技師)がめっきに優れた効能があることを実証し、その「お墨つき」を得て販売を開始した
    • [28]青化第一銅を最初に採用したのは業界の雄といわれた福井電化工業(市川市)で、これを突破口に広がり、従来の硫酸銅から青化第一銅へ需要がすっかり変わった
    • [29]総房化学のものを一手販売(月10〜15トン)したが、本社で扱えず東京支店の独壇場となった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [25]戦後の取り扱い商品は硫酸ニッケル(住友金属鉱山、日本鉱業)、カ性ソーダ(日本曹達)、青化ソーダ(同)、硫酸銅(日本鉱業、三菱金属)などを主力としていた

アメリカで光沢めっきが使えるようになったのは1937年から1938年ごろで、日本には終戦後の1947年から1948年ごろに入ってきたが、実際に広まるのはさらに10年後、1955年以降である。1950年に朝鮮動乱が始まり戦略物資のニッケルが値上がりして量も不足すると、代わりの材料やニッケルの節約に関心が集まり、光沢ニッケルめっき法がにわかに注目された。この方法なら、研摩工程で失われるニッケルを節約でき、バフ研摩の工程自体も要らなくなる。めっき浴の質が変わり光沢効果が進んでバフ加工が省かれることは、研摩材料を売る側からすれば需要を削られることでもあった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [30]光沢めっきが実用化されたのは昭和12、13年ごろのアメリカで、この技術が日本に導入されたのは終戦後の昭和22、23年ごろ、実際に普及するようになったのはそれより10年後の昭和30年以降である
    • [31]朝鮮戦争の特需ブームによって戦略物資であるニッケルが高騰し、量的にも不足して深刻な事態になった
    • [32]ニッケルの代替材料の開発やニッケルの節約に目が向けられ、にわかに光沢ニッケルめっき法がクローズアップした
    • [33]光沢ニッケルめっきの採用により研摩工程で消耗するニッケルが相当量節約され、同時にバフ研摩の工程が省略される
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
    • [34]めっき工程中のニッケル・クロムめっき浴、銅めっき浴の質的変化と光沢効果の進歩によりバフ加工が省略された
参考文献[19]-[34]
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1949年8月に大阪市阿倍野区万代1丁目へ住吉工場を設置(敷地1,908平方メートル=578坪、平家・木造建)。所在は阿倍野区だが住吉区に近いので住吉工場と呼ばれた。有報【沿革】は1949年8月に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
    • [20]木製のめっき槽は耐薬品のために内部にアスファルトを塗ったり鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使うのが新規部門へ進出した目的だった
    • [21]製品は厚手のシート(0.5ミリ)に重点を置いたが、当初の目的としためっきの分野では量的に限りがあるので、薄手のフィルム(0.3ミリ)も製造し、ふろしき、テーブル掛けなどの雑貨や雨かっぱにして販売した
    • [22]一時はよく売れたが、フィルム・シートの市中価格が不安定であるのに加え、雑貨関係は販売業者の営業基盤が弱く、よく倒産が起こった
    • [23]シートに関しては市場が狭く将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず、1963年2月に工場生産を停止し、以後1978年まで倉庫として利用した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [24]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」の会社だった
    • [26]昭和20年代の大ヒット商品は光沢剤のウエライト、基礎薬品の硫酸コバルト、青化第一銅、青化亜鉛だった
    • [27]青化第一銅は千葉の総房化学(後に日本冶金工業に吸収合併)で開発されたといわれ、理学博士 虎石成美(当時 東京都工業奨励館化学部技師)がめっきに優れた効能があることを実証し、その「お墨つき」を得て販売を開始した
    • [28]青化第一銅を最初に採用したのは業界の雄といわれた福井電化工業(市川市)で、これを突破口に広がり、従来の硫酸銅から青化第一銅へ需要がすっかり変わった
    • [29]総房化学のものを一手販売(月10〜15トン)したが、本社で扱えず東京支店の独壇場となった
    • [30]光沢めっきが実用化されたのは昭和12、13年ごろのアメリカで、この技術が日本に導入されたのは終戦後の昭和22、23年ごろ、実際に普及するようになったのはそれより10年後の昭和30年以降である
    • [31]朝鮮戦争の特需ブームによって戦略物資であるニッケルが高騰し、量的にも不足して深刻な事態になった
    • [32]ニッケルの代替材料の開発やニッケルの節約に目が向けられ、にわかに光沢ニッケルめっき法がクローズアップした
    • [33]光沢ニッケルめっきの採用により研摩工程で消耗するニッケルが相当量節約され、同時にバフ研摩の工程が省略される
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
    • [25]戦後の取り扱い商品は硫酸ニッケル(住友金属鉱山、日本鉱業)、カ性ソーダ(日本曹達)、青化ソーダ(同)、硫酸銅(日本鉱業、三菱金属)などを主力としていた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
    • [34]めっき工程中のニッケル・クロムめっき浴、銅めっき浴の質的変化と光沢効果の進歩によりバフ加工が省略された

1957年〜商社的色彩を脱し、薬品と機械を柱に加える

薬品の取り扱いは1940年代からあったが、めっき技術の研究に本腰を入れ、光沢剤をはじめとする薬品類を自ら開発し始めたのは1957年である。この年、本社に薬品部が置かれ、9月にはめっき用化学品の製造にも入った。のちに青化銅めっきに使う光沢剤アサヒカプナーと光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発してどちらも成功し、開発品にはすべてアサヒ印を付けた。1957年は、仕入品ではない自社製品が稼ぎ手として育ち始める境目になった。バフ研摩を不要にする技術に使う薬品を自社で作ることは、祖業の需要を減らす側に自分から立つことでもあった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [35]薬品については1940年代から取り扱っていたが、本格的にめっき技術の研究を進め光沢剤など薬品類の開発に取り組んだのは1957年に本社に薬品部を設けてからである
    • [36]1957年に本社に薬品部を設置した
    • [38]青化銅めっき用の光沢剤アサヒカプナー、光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発して成功を収めた
    • [39]開発された製品のトレードマークにはすべてアサヒ印を付している
    • [40]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」であった会社が、1957年を境に独自製品としての大きな柱を築くことになった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]有報【沿革】は1957年9月にめっき用化学品の製造を開始と記す

機械工場の建設は1960年9月、淀川工場の敷地内で始まり、広さは990平方メートルだった。同じ9月、道修町の本社では機械を受け持つ技術第二課が動き出し、自動めっき機械やバレルから付帯設備までを含むめっき設備全般の企画と設計を担った。この工場が最初に出した全自動の銅・ニッケル・クロムめっき装置CUF-2型と全自動亜鉛めっき装置CUF-1型の2機種は、大手メーカー向けの納入第1号として川崎航空機工業に入った。その後は松下電器産業、フタバ産業、新家工業も装置を採用し、大型プラントの商談が相次ぐようになった。時期としては、手作業だっためっきが半自動、さらに全自動へと移り、省人化と省力化が進んだころにあたる。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1960年9月より淀川工場内に990平方メートル(300坪)の機械工場を着工した。有報【沿革】は1960年9月に機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始と記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
    • [42]1960年に道修町本社へ技術第二課を設置し、機械担当として自動めっき機械をはじめバレル、その他付帯設備に至る各種めっき設備の企画設計を業務とし、9月より業務を開始した
    • [43]新装なった機械工場でうぶ声をあげたのはCUF-2型(全自動 銅-ニッケル-クロムめっき装置)およびCUF-1型(全自動亜鉛めっき装置)だった
    • [44]CUF-2型とCUF-1型は川崎航空機工業(現 川崎重工業)に納入され、大手メーカーへの納入第1号となった
    • [45]この装置がその後、松下電器産業、フタバ産業、新家工業にも採用され、この実績から大型プラントの引き合いが活発になった
    • [46]それまで手作業で行われていためっきの作業が高度成長を契機に徐々に半自動から全自動へ移り、省人化・省力化の方向へ進んだ

1960年7月、名古屋市西区西菊井町に敷地約2,000平方メートルの名古屋営業所を開設した。本社と東京支店で東西に二分していた市場の中間を受け持たせ、三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県を担当させている。初代所長には後に7代社長となる上村晃史氏が赴任し、当初のスタッフは8人、4年から5年の赤字を覚悟したところ初年度から黒字を計上した。1963年9月には三菱商事、東邦ダイカストとの共同出資で三和防錆を設立し、製品を世に送り出す前に実験を行う工場とした。同じ年には英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結び、これが外国企業との提携第1号となった。売上高は1955年11月期の3億8,107万円から1966年11月期の20億8,300万円へ伸びた。

  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1960年7月に名古屋市西区西菊井町へ名古屋営業所を開設した(敷地約2,000平方メートル=600坪、鉄筋3階建、建坪1,240平方メートル)。有報【沿革】も1960年7月の名古屋営業所設置を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
    • [48]従来は本社と東京支店で市場を東西に二分していたが、その中間に当たる地域を名古屋営業所のテリトリーとし、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を担当させた
    • [49]初代営業所長として上村晃史(のちの7代社長)が赴任し、当初のスタッフは8人だった。上村晃史は「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」と振り返っている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
    • [50]1963年9月に大阪府守口市梶町へ、上村工業・三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山に交代)の3社共同出資で三和防錆株式会社を設立した。製品を開発して世に送り出すまでに実験を行う工場と位置づけられた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉
    • [51]1963年に英国のアルブライト&ウィルソン社(本社ロンドン)とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を行った。外国企業との提携第1号で、「ピロブライト」の商標で販売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [52]1955年11月期(第27期)の売上高は381,071千円、1966年11月期の売上高は20.83億円
参考文献[35]-[52]
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
    • [35]薬品については1940年代から取り扱っていたが、本格的にめっき技術の研究を進め光沢剤など薬品類の開発に取り組んだのは1957年に本社に薬品部を設けてからである
    • [36]1957年に本社に薬品部を設置した
    • [38]青化銅めっき用の光沢剤アサヒカプナー、光沢ニッケルめっき用のアサヒライトを開発して成功を収めた
    • [39]開発された製品のトレードマークにはすべてアサヒ印を付している
    • [40]研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という「商社的色彩」であった会社が、1957年を境に独自製品としての大きな柱を築くことになった
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]有報【沿革】は1957年9月にめっき用化学品の製造を開始と記す
    • [41]1960年9月より淀川工場内に990平方メートル(300坪)の機械工場を着工した。有報【沿革】は1960年9月に機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始と記す
    • [47]1960年7月に名古屋市西区西菊井町へ名古屋営業所を開設した(敷地約2,000平方メートル=600坪、鉄筋3階建、建坪1,240平方メートル)。有報【沿革】も1960年7月の名古屋営業所設置を記す
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
    • [42]1960年に道修町本社へ技術第二課を設置し、機械担当として自動めっき機械をはじめバレル、その他付帯設備に至る各種めっき設備の企画設計を業務とし、9月より業務を開始した
    • [43]新装なった機械工場でうぶ声をあげたのはCUF-2型(全自動 銅-ニッケル-クロムめっき装置)およびCUF-1型(全自動亜鉛めっき装置)だった
    • [44]CUF-2型とCUF-1型は川崎航空機工業(現 川崎重工業)に納入され、大手メーカーへの納入第1号となった
    • [45]この装置がその後、松下電器産業、フタバ産業、新家工業にも採用され、この実績から大型プラントの引き合いが活発になった
    • [46]それまで手作業で行われていためっきの作業が高度成長を契機に徐々に半自動から全自動へ移り、省人化・省力化の方向へ進んだ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
    • [48]従来は本社と東京支店で市場を東西に二分していたが、その中間に当たる地域を名古屋営業所のテリトリーとし、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を担当させた
    • [49]初代営業所長として上村晃史(のちの7代社長)が赴任し、当初のスタッフは8人だった。上村晃史は「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」と振り返っている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
    • [50]1963年9月に大阪府守口市梶町へ、上村工業・三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山に交代)の3社共同出資で三和防錆株式会社を設立した。製品を開発して世に送り出すまでに実験を行う工場と位置づけられた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉
    • [51]1963年に英国のアルブライト&ウィルソン社(本社ロンドン)とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を行った。外国企業との提携第1号で、「ピロブライト」の商標で販売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [52]1955年11月期(第27期)の売上高は381,071千円、1966年11月期の売上高は20.83億円

1946年〜1966年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年11月期 単体 1 n/a 0 7.9% n/a
1950年11月期 単体 1 +30.7% 0 9.1% n/a
1951年11月期 単体 1 +37.9% 0 8.2% n/a
1952年11月期 単体 1 ▲8.8% 0 8.4% n/a
1953年11月期 単体 3 +94.0% 0 8.7% n/a
1954年11月期 単体 3 +8.7% 0 11.4% n/a
1955年11月期 単体 3 +8.9% 0 2.9% n/a
1956年11月期 単体 5 +38.1% 0 4.2% n/a
1957年11月期 単体 6 +32.3% 0 3.4% n/a
1958年11月期 単体 7 +5.5% 0 3.1% n/a
1959年11月期 単体 8 +12.0% 0 3.5% n/a
1960年11月期 単体 10 +29.4% 0 5.5% n/a
1961年11月期 単体 12 +14.6% 0 4.1% n/a
1962年11月期 単体 13 +11.5% 0 4.0% n/a
1963年11月期 単体 15 +14.8% 0 2.1% n/a
1964年11月期 単体 18 +18.8% 0 1.7% n/a
1965年11月期 単体 17 ▲5.1% 0 1.8% n/a
1966年11月期 単体 20 +18.4% 0 1.5% n/a

出所:上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」

出典・参考

14件
出典・参考
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈戦後復興の中で〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈東京工場の設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈住吉工場の設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈薬品部設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.78
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈機械事業部設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈名古屋支店設置〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈三和防錆株式会社の設立〉
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第3章「総合化への足がかり」〈英国アルブライト社との販売提携〉

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