上村工業:道修町の薬種商から研磨材の上村長兵衞商店へ
1848年〜和漢薬種の店が金属の表面へ商いを移すまで
上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就任し、1929年6月に健康上の理由で辞めた。4代の長男にあたる5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没し、代わって商いを担ったのは、1891年に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に店へ入り、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となった人物だった。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
- [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
- [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
- [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
- [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
- [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
- [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- [7]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
倉橋重平氏が輸入研摩剤と出会ったのは、店へ入った1916年である。当時のバフ研摩に使う油脂性研摩剤――トリポリ、ライム、赤棒、青棒――は、組成も製法も分からないままアメリカとヨーロッパから運ばれてくる品だった。金剛砂は1クウォーター単位の木樽で届いたが粒度の不揃いが大きく、使う側の悩みの種になっていた。ライムは風化性が強いため貯蔵が利かず、半分ほど使えれば良いとされて不経済で、仕上げ用の青棒は高価で研摩の原価を押し上げた。店はそのころ、1915年ごろからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始めており、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入し、ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めていた。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [8]6代上村長兵衞が当時輸入されていた研摩剤と出会ったのは大正5年(1916)で、輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなかった
- [9]大正末期〜昭和初期の研摩材料・研摩具・油脂性研摩剤(トリポリ、ライム、赤棒、青棒)はすべてアメリカ・ヨーロッパの製品で、その組成・製法とも全く未知の状況だった
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
- [10]金剛砂(現在のエメリー粉)は1クウォーター(110〜112ポンド)単位の木樽で輸入され、#00台の粒度の不揃いが多く、需要家の悩みの一つだった
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- [11]マチレス(ライム)は風化性が強く貯蔵に不便で、大体半分程度使えばよいとされ不経済だった。仕上げ用研摩剤の青棒は非常に高価で研摩コストを高めていた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [12]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
- [13]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した。ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
明治後期にイギリスとアメリカから研摩剤とバフが持ち込まれたとき、日本側にあったのは足踏式のロクロに似た研摩機だけで、ベルトがけへ替わったのは大正末期である。素材も機械も輸入に依存するこの産業で、道修町の店が握っていたのは薬品の目利きと、めっき資材の直輸入で作った販路だった。販路は東へ伸び、1920年に東京・日本橋本銀町へ出張所を開設したが、1、2年後に移った本所区の建物は1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った。昭和の初めには神戸と岡山にも出張所を置いている。輸入品を並べる棚を持つ者が、その中身を自分で作る側へ回る条件は、この時点で揃っていた。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [14]明治後期にイギリス・アメリカから研摩剤とともにバフ(鉄バフ、バラバフなど)が輸入されたが、当時のバフ研摩機は足踏式のロクロのようなものだった。大正末期〜昭和初期に足踏式からベルトがけになった
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [15]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- [16]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
- [17]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
参考文献[1]-[17]
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
- [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
- [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
- [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
- [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
- [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
- [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- [7]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [8]6代上村長兵衞が当時輸入されていた研摩剤と出会ったのは大正5年(1916)で、輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなかった
- [9]大正末期〜昭和初期の研摩材料・研摩具・油脂性研摩剤(トリポリ、ライム、赤棒、青棒)はすべてアメリカ・ヨーロッパの製品で、その組成・製法とも全く未知の状況だった
- [14]明治後期にイギリス・アメリカから研摩剤とともにバフ(鉄バフ、バラバフなど)が輸入されたが、当時のバフ研摩機は足踏式のロクロのようなものだった。大正末期〜昭和初期に足踏式からベルトがけになった
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
- [10]金剛砂(現在のエメリー粉)は1クウォーター(110〜112ポンド)単位の木樽で輸入され、#00台の粒度の不揃いが多く、需要家の悩みの一つだった
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- [11]マチレス(ライム)は風化性が強く貯蔵に不便で、大体半分程度使えばよいとされ不経済だった。仕上げ用研摩剤の青棒は非常に高価で研摩コストを高めていた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [12]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
- [13]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した。ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
- [15]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- [16]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
- [17]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
1918年〜輸入品を一つずつ国産へ置き換えた15年
輸入品に依存し続けることはできないという判断から、倉橋重平氏は研摩剤の国産化に着手した。大阪東区の宮林ニッケル鍍金所社長・宮林操三氏の協力を得て、原料となるドロマイトとトリポリパウダーは米ロックウエルライム社から入手した。そして1918年にトリポリの国産化に成功し、大阪府堺に工場を設けて製造を始めた。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励した時期と重なる動きだった。1922年には医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に商いを絞っている。創業から74年続いた家業の本体を手放し、まだ市場の定まらない国産品へ経営資源を集中する判断だった。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [18]輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなく、いつまでも輸入品に頼ることはできないと判断して国産化への意志を固めた
- [19]宮林ニッケル鍍金所(現・宮林工業株式会社、大阪東区)社長 宮林操三氏の協力を得、米ロックウエルライム社の協力で原料(主としてドロマイト、トリポリパウダー)を入手して研究に着手した
- [20]大正7年(1918)にトリポリの国産化に成功し、大阪堺に工場を作って製造を開始した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [21]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
- [22]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した
国産化は製品だけでなく、その原料まで遡って進められた。トリポリの原料であるトリポリ粉は全面的に輸入していたが、国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山と鉱区を行脚し、岐阜県の山中で良質のものを見つけた。各地で採れるライムも試作記号A・Bを付けて比較試験にかけている。仕上げ用の青棒が高価で研摩の原価を押し上げていた問題には、1927年にグリーンルージュを安価に国産化する方法で応え、その製法は同年3月8日の出願を経て10月25日に特許第74097号として登録された。昭和の初めには原料まで含めた純国産化に到達し、6代長兵衞氏の名で取得した特許はこの時期だけで7件を数えた。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [23]昭和初期にはすべての原料も含めて純国産化に成功した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
- [24]トリポリ原料のトリポリ粉は従来は全面的に輸入していたが、国産風化硅石による研究を志し、全国到る所の鉱山・鉱区を行脚して調査に赴き、岐阜県の山中で良質の風化硅石を発見した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
- [25]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- [26]仕上げ用研摩剤の青棒が非常に高価で研摩コストを高めていたため、昭和2年(1927)特許第74097号にかかる発明により従来輸入していたグリンルージを極めて安価に国産化した。出願は昭和2年3月8日、特許は同年10月25日
- [27]昭和初期には6代上村長兵衞の発明として特許第74097号(昭和2年)他6件の特許取得がみられる
もう一つの主力マチレスが純国産で完成したのは、1936年に出願したドロマイトの特殊加工法が特許第127131号となったことによる。この製品は研摩の性能が主原料ドロマイトの質で大きく変わり、質の良い鉱石は外国産に頼るしかなかった。業界からは純国産品が求められていた。そこで良質の鉱石を全国で調べて探す一方、国内産ドロマイトの品質を上げる研究を長く重ねた。製品は3Bライムの名で売られ、品質は欧米品に優るものと認められて、研摩剤の代名詞と評されるまでになった。1929年の完成から特許出願まで7年、輸入品と同じものを作るのではなく、輸入品より良いものを国内の原料で作るところまで押し切った。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- [28]昭和11年(1936)出願の特許第127131号にかかるドロマイトの特殊加工法を創案し、これによって純国産のマチレス(ライム)を完成した
- [29]マチレス(ライム)の研摩性能は主要原料であるドロマイトの品質に大きく左右され、良質のドロマイト鉱石は外国産に頼る以外に方法がなかった
- [30]業界の要望に応えて純国産品によるマチレスの完成を期し、良質のドロマイト鉱石を全国的に調査探索する一方、内地産ドロマイトの品質向上の研究に没頭した
- [31]その品質は欧米品に優るものとして認められ、3Bライムとして名声を博し、研摩剤の代名詞として評価された
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
- [32]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
参考文献[18]-[32]
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- [18]輸入研摩剤は品質的にも経済的にも満足すべきものではなく、いつまでも輸入品に頼ることはできないと判断して国産化への意志を固めた
- [19]宮林ニッケル鍍金所(現・宮林工業株式会社、大阪東区)社長 宮林操三氏の協力を得、米ロックウエルライム社の協力で原料(主としてドロマイト、トリポリパウダー)を入手して研究に着手した
- [20]大正7年(1918)にトリポリの国産化に成功し、大阪堺に工場を作って製造を開始した
- [23]昭和初期にはすべての原料も含めて純国産化に成功した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- [21]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
- [22]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
- [24]トリポリ原料のトリポリ粉は従来は全面的に輸入していたが、国産風化硅石による研究を志し、全国到る所の鉱山・鉱区を行脚して調査に赴き、岐阜県の山中で良質の風化硅石を発見した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
- [25]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
- [32]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- [26]仕上げ用研摩剤の青棒が非常に高価で研摩コストを高めていたため、昭和2年(1927)特許第74097号にかかる発明により従来輸入していたグリンルージを極めて安価に国産化した。出願は昭和2年3月8日、特許は同年10月25日
- [27]昭和初期には6代上村長兵衞の発明として特許第74097号(昭和2年)他6件の特許取得がみられる
- [28]昭和11年(1936)出願の特許第127131号にかかるドロマイトの特殊加工法を創案し、これによって純国産のマチレス(ライム)を完成した
- [29]マチレス(ライム)の研摩性能は主要原料であるドロマイトの品質に大きく左右され、良質のドロマイト鉱石は外国産に頼る以外に方法がなかった
- [30]業界の要望に応えて純国産品によるマチレスの完成を期し、良質のドロマイト鉱石を全国的に調査探索する一方、内地産ドロマイトの品質向上の研究に没頭した
- [31]その品質は欧米品に優るものとして認められ、3Bライムとして名声を博し、研摩剤の代名詞として評価された
1930年〜家業から企業への改組と、ニッケルが国家資材になった戦時
1930年11月、上村重平氏が6代長兵衞を襲名した。翌12月には資本総額26万円の匿名組合を設け、鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となる。そして1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し、初代社長には6代長兵衞氏が就任した。定款には営業品目と株式、役員が具体的に定められ、明治と大正を通じて受け継いできた家業を近代化する意図が置かれた。この12月3日が創立記念日となった。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- [33]6代長兵衞(旧姓 倉橋重平)は1930年11月に6代長兵衞を襲名した
- [35]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- [34]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
- [36]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立、初代社長は6代長兵衞
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
- [37]定款には匿名組合のものから具体的に営業品目、株式、役員などが定められ、明治・大正と受け継がれてきた家業を近代化させようというねらいがみられる
- [38]12月3日を創立記念日として定めている
株式会社としての第1期は1933年12月から翌年5月までの半年で、売上高は160万5,441円、利益は2万8,945円、部門は大阪メッキ、東京メッキ、ゴム部の3つに分かれていた。東京では1933年12月に浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には支店へ昇格させた。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化し、中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送った。1938年12月から1939年11月までの期の売上高は499万8,000円で、発足から5年半で3倍に達している。もっともこの伸びは、調達の側から会社を締め上げる統制の強まりと同じ時期に起きていた。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
- [39]第1回決算書(昭和8年12月〜昭和9年5月)の当期売上高は1,605,441.98円、当期利益は28,945.46円。科目は大阪メッキ・東京メッキ・ゴム部の3部門に分かれて計上されている
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】
- [40]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
- [41]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
- [42]第11期(昭和13年12月〜昭和14年11月)の売上高は4,998千円。第1期(昭和8年12月〜昭和9年5月)は1,605千円で、1期から10期までは年2回決算
電気めっきに最大の消費量を持つニッケルは、輸入が困難になるにつれて国家の重要資材とされた。めっき資材の供給に当たる立場からこの情勢に対処するため、1939年に大阪府泉大津市板原へ約9,900平方メートルの泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。並行して大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借り、約500平方メートルの築港工場を設けた。ここではモネルメタルを原料に電解法で銅などの不純物を取り除き、粗ニッケルを泉大津へ運んで電気精錬している。輸入の途絶えた原料を、他の合金から取り出して作り直したことになる。
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
- [43]戦争によってニッケルなどの輸入が次第に困難になり、電気めっきに最大の消費量をもつニッケルは国家の重要資材となった
- [44]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、敷地約9,900平方メートル=300坪、事務所平家建て1棟・工場平家建て1棟、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
- [45]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用、約500平方メートル=150坪の平家建て)
- [46]築港工場ではモネルメタルを原料に、電解法で銅などの不純物を取り除いて粗ニッケルを作り、泉大津工場へ運んで電気精錬した
1942年に取得した大阪市東淀川区西中島町の淀川工場は、金属ニッケルを増産する計画のもとにあった。ただ、そこで生産はせず、原料を置く倉庫代わりに使うにとどめた。西隣に国鉄宮原操車場があり、周りが田圃ばかりで爆撃の標的になりやすいとみたためである。1943年にはその原料も千船工場と四貫島倉庫へ分けて疎開させた。空襲は重なったが、1945年8月15日に終戦を迎えた時点で本社も工場も倉庫も東京支店も被災しておらず、人員は本社27人、工場14人、東京支店5人が残っていた。増産用に取得した設備を動かさずにおいたことが、戦後に再開する際の設備を残す結果になった。
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】
- [47]1942年に大阪市東淀川区西中島町へ淀川工場を取得し、金属ニッケルの増産を行う計画だった。有報【沿革】は1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置と記す
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
- [48]淀川工場は西側に国鉄宮原操車場があり周囲がいずれも田圃で爆撃の目標になりやすいとして、生産は行わず倉庫代わりに原料を置いた
- [49]1943年に千船工場(大阪市西淀川区)・四貫島倉庫(同此花区)へ原料を分散疎開させた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
- [50]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
- [51]終戦時の陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
参考文献[33]-[51]
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- [33]6代長兵衞(旧姓 倉橋重平)は1930年11月に6代長兵衞を襲名した
- [35]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- [34]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
- [36]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立、初代社長は6代長兵衞
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
- [37]定款には匿名組合のものから具体的に営業品目、株式、役員などが定められ、明治・大正と受け継がれてきた家業を近代化させようというねらいがみられる
- [38]12月3日を創立記念日として定めている
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
- [39]第1回決算書(昭和8年12月〜昭和9年5月)の当期売上高は1,605,441.98円、当期利益は28,945.46円。科目は大阪メッキ・東京メッキ・ゴム部の3部門に分かれて計上されている
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】
- [40]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
- [47]1942年に大阪市東淀川区西中島町へ淀川工場を取得し、金属ニッケルの増産を行う計画だった。有報【沿革】は1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置と記す
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
- [41]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
- [42]第11期(昭和13年12月〜昭和14年11月)の売上高は4,998千円。第1期(昭和8年12月〜昭和9年5月)は1,605千円で、1期から10期までは年2回決算
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
- [43]戦争によってニッケルなどの輸入が次第に困難になり、電気めっきに最大の消費量をもつニッケルは国家の重要資材となった
- [44]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、敷地約9,900平方メートル=300坪、事務所平家建て1棟・工場平家建て1棟、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
- [45]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用、約500平方メートル=150坪の平家建て)
- [46]築港工場ではモネルメタルを原料に、電解法で銅などの不純物を取り除いて粗ニッケルを作り、泉大津工場へ運んで電気精錬した
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
- [48]淀川工場は西側に国鉄宮原操車場があり周囲がいずれも田圃で爆撃の目標になりやすいとして、生産は行わず倉庫代わりに原料を置いた
- [49]1943年に千船工場(大阪市西淀川区)・四貫島倉庫(同此花区)へ原料を分散疎開させた
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
- [50]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
- [51]終戦時の陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
出典・参考
18件
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.76-77
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編「研摩技術の歴史」p.77
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)第2章「礎の時代」〈株式会社設立〉第1回決算書
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
- 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15