ジャストシステム:「一太郎オフィス8」の不振による初の赤字と人員削減
マイクロソフトへの対抗が招いた一太郎オフィスの失速
1992年〜マイクロソフトの価格攻勢と一太郎の市場地位
1993年、マイクロソフトは日本でワープロソフトのワードを買う際に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くという販促を始めた。狙いが、1985年の発売以来150万本を売り国内シェア6割を占めるとされた一太郎にあることは、ソフト業界では常識とされた。それでも一太郎は店頭の販売順位で首位を保った。アスキーの西和彦社長は、その強さを親切さときめ細かさ、言い換えれば使い勝手の良さに見て、男性が開発を担う他社製品にはまねしにくいと評した。ジャストシステムはこの一太郎を軸に年商100億円を超え、社員600人の半数を開発が占める国内有数のパッケージソフト会社になっており、1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円に達した。
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [1]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [2]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [3]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [4]アスキーの西和彦社長は、一太郎には女性的な親切さときめ細かさ、すなわち使い勝手の良さがあり、男性が開発を担当する他社製品にはまねできないと分析した
- [5]ジャストシステムは一太郎を武器に年商100億円を超える国内有数のパッケージソフトメーカーに成長し、600人の社員の半数が開発部隊であった
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [6]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
1996年7月、マイクロソフトの日本法人はワードだけを専門に売る営業部隊、パーソナルシステム事業部ワードスワットグループを置いた。東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配し、顧客の業種別に組んできた同法人の営業体制のなかで、一つの商品に特化した部隊は初めてであった。同時に、一太郎より弱いとされてきたかな漢字変換にも手を入れ、1995年10月のワード95から他社製に代えて自社開発の変換ソフトを載せ、次の版に関わる開発担当者を3倍から4倍へ増やした。ワード95は自社の基本ソフトであるウィンドウズ95に完全対応し、長いファイル名や複数ページの同時表示といった特徴をそのまま使えた。これに対し1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は次の版を待つことになった。基本ソフトを持つ側が応用ソフトでも先に動く構図を、浮川初子氏は世界市場に通用する商品が要るという言葉で受け止めていた。
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [7]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
- [8]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
- [9]マイクロソフトは1995年10月発売のワード95から初めて自社開発のかな漢字変換ソフトを搭載し、次期バージョンの変換ソフトの開発担当者を3〜4倍に増やした
- [10]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
- [11]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [12]浮川初子氏は、ウィンドウズの普及で応用ソフトの競争が激しくなるなか、より大きく成長するには表計算やデータベースで世界市場に通用する商品を開発することが必要だと述べた
一太郎の累計出荷は、1996年4月の時点で500万本を超えていた。その同じ4月にマイクロソフトがインターネット対応を強めたワードのセットへ1万2000円という希望小売価格を付けて売り出し、4万円の一太郎6.3に迫ると、販売本数ではワードが一太郎を抜いたとの観測も一時出た。7月に定価を2万円まで下げて応じたジャストシステムの一太郎は持ち直しつつあり、取締役販売推進部長の喜屋武博氏は、プレインストールや法人向けライセンスという売り先もあって小売店を通る分は全体の25%にすぎず、市場全体でならシェアの低下は大きくないと説明した。1998年1月には、表計算ソフトのエクセルとワードをまとめて買うようパソコンメーカーに事実上迫った疑いで、公正取引委員会がマイクロソフトの日本法人へ立ち入り調査に入っている。
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [13]一太郎シリーズの累計出荷本数は1996年4月に500万本を超えた
- [14]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [15]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [16]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [17]喜屋武博・取締役販売推進部長は、一太郎の販売ルートにはパソコンへのバンドルや企業向けライセンス販売もあり小売りルートは全体の25%程度にすぎないため、市場全体で見ればシェアはそれほど落ちていないと述べた
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [18]1998年1月13日、マイクロソフトの日本法人は、パソコンメーカーに表計算ソフトのエクセルとワープロソフトのワードの一括購入を強要した疑いで公正取引委員会の立ち入り調査を受けた
参考文献[1]-[18]
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [1]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [2]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [3]マイクロソフトはワード購入時に他社のワープロソフトを店頭へ持参すれば半値以下に割り引くキャンペーンを行い、業界ではこれが1985年の発売以来150万本を販売し国内シェア6割とされる一太郎の狙い撃ちであることが常識とされたが、一太郎は店頭の販売ランキングで常にトップを維持した
- [4]アスキーの西和彦社長は、一太郎には女性的な親切さときめ細かさ、すなわち使い勝手の良さがあり、男性が開発を担当する他社製品にはまねできないと分析した
- [5]ジャストシステムは一太郎を武器に年商100億円を超える国内有数のパッケージソフトメーカーに成長し、600人の社員の半数が開発部隊であった
- [12]浮川初子氏は、ウィンドウズの普及で応用ソフトの競争が激しくなるなか、より大きく成長するには表計算やデータベースで世界市場に通用する商品を開発することが必要だと述べた
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [6]1994年度の売上高は195億円、経常利益は29億円であった
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [7]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
- [8]1996年7月にマイクロソフト日本法人にワード専門の営業部隊「パーソナルシステム事業部ワードスワットグループ」が発足し、東京に6人、大阪と名古屋に各1人を配置した。同社で1商品に特化した営業部隊は初めてであった
- [9]マイクロソフトは1995年10月発売のワード95から初めて自社開発のかな漢字変換ソフトを搭載し、次期バージョンの変換ソフトの開発担当者を3〜4倍に増やした
- [10]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
- [11]ワード95はウィンドウズ95に完全対応して長いファイル名や複数ページの同時表示が可能だったのに対し、1995年8月発売の一太郎6.3はウィンドウズ95の特徴を生かし切れず、完全対応は一太郎7を待つことになった
- [13]一太郎シリーズの累計出荷本数は1996年4月に500万本を超えた
- [14]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [15]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [16]1996年4月にマイクロソフトがインターネット対応を強化したワードのセットを希望小売価格1万2000円で投入して4万円の一太郎6.3を追撃し、一時はワードの販売本数が一太郎を上回ったとの見方も出たため、ジャストシステムは同年7月に定価を2万円へ値下げし、一太郎は盛り返しつつあった
- [17]喜屋武博・取締役販売推進部長は、一太郎の販売ルートにはパソコンへのバンドルや企業向けライセンス販売もあり小売りルートは全体の25%程度にすぎないため、市場全体で見ればシェアはそれほど落ちていないと述べた
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [18]1998年1月13日、マイクロソフトの日本法人は、パソコンメーカーに表計算ソフトのエクセルとワープロソフトのワードの一括購入を強要した疑いで公正取引委員会の立ち入り調査を受けた
1995年〜ネットワークへの賭けと店頭公開による資金調達
浮川和宣氏は、ネットワーク社会ができあがるのを待つより、自分で網を張ってそれを商売にすると語り、ジャストシステムは1995年8月、パソコン通信サービスのジャストネットを始めた。接続の入口には一太郎6.3が置かれ、手元のパソコンから直接つなげる機能が組み込まれた。サービスは二層で組まれ、会員には専用の領域を用意してそこから外のサーバー群へ出られるようにし、会員以外にも一部を開いた。家庭への普及ではパソコンが10万円かかることが壁になるため、任天堂およびスクウェアとゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からの接続も置いた。会員は1996年8月に10万人へ届こうとしており、同年度の目標は30万人であった。
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [19]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
- [20]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
- [21]一太郎6.3には手元のパソコンから簡単にインターネットへアクセスできる機能を組み込んだ
- [22]ジャストネットは会員だけが集まる領域からインターネットへ出られる構成で、非会員もジャストネットのサービスの一部を利用できた
- [23]パソコンは安くなっても10万円かかるため家庭への普及には限界があるとして、任天堂とスクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からネットワークへつなぐ道を用意した
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [24]ジャストネットの会員は1996年8月時点で間もなく10万人に達し、同年度の目標は30万人であった
1997年の株式公開に向けて、浮川和宣氏は狙いを資金調達に置いた。以前は公開をさほど意識していなかったが、米国での企業提携や買収まで含めて事業を広げるには内部留保だけでは足りないと判断した。公開の場としては米国の店頭市場も真剣に検討し、日本の店頭市場より利点が多いと感じていた。それでも国内を選んだのは、米国で株式を公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度の不備を論じるのは筋が通らないという理由からであった。1995年4月には米国子会社をシリコンバレーに設け、1996年4月にはピッツバーグのカーネギーメロン大学の近くへ先端技術研究所を開いて同大学の教授を所長に迎えた。株式は1997年10月に店頭登録銘柄として公開された。
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [25]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
- [26]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
- [27]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
- [28]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [29]1995年4月に米国シリコンバレーへ米国子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くに先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [30]1997年10月に店頭登録銘柄として株式を公開した
マイクロソフトの基本ソフトの上で版を重ねていく限り、新しい基本ソフトへの対応の速さでワードに並ぶことはできないとの見通しから、基本ソフトに縛られない作りが目指された。その手段として採ったオブジェクト指向という新しい設計手法は、罫線描画や印刷などの働きを細かな部品に分け、要る部品だけを組み合わせて動かすもので、大規模なパッケージソフトで実現すれば世界で初めての例になるはずだったが、これを取り入れたことこそが一太郎7の開発を遅らせた最大の要因となった。浮川和宣氏は後に、基本ソフトを開発する部隊と応用ソフトの部隊のあいだで情報が自由に行き来しており、他社より早く情報が流れていると述べている。発売時期は当初の1996年2月から4度延びて9月13日に落ち着き、この時点でも売上に占める一太郎の比率は7割であった。
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [31]マイクロソフトのOS上でバージョンアップを繰り返す限り新OSへの対応の早さでワードにかなわないため、一太郎の部品化は特定のOSに依存しない環境で威力を発揮するとされた
- [32]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [33]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [34]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [36]一太郎7の発売時期は当初の1996年2月から4度先延ばしされて同年9月13日となり、この時点で売上高に占める一太郎の比率は7割であった
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [35]浮川和宣氏は、米国マイクロソフト本社の資料によれば基本ソフトの開発部隊と応用ソフトの部隊の間で情報の行き来は自由であり、他のソフト会社より早く情報が流れていると述べた
参考文献[19]-[36]
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [19]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
- [20]1995年8月にパソコン通信「ジャストネット」を開始した。浮川和宣氏はネットワーク社会ができるのを待つのではなく自らネットワークを構築して事業化しようと思い立ったと述べた
- [21]一太郎6.3には手元のパソコンから簡単にインターネットへアクセスできる機能を組み込んだ
- [22]ジャストネットは会員だけが集まる領域からインターネットへ出られる構成で、非会員もジャストネットのサービスの一部を利用できた
- [23]パソコンは安くなっても10万円かかるため家庭への普及には限界があるとして、任天堂とスクウェアとともにゲームソフトの合弁会社を設立し、ゲーム機からネットワークへつなぐ道を用意した
- [25]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
- [26]浮川和宣氏は株式公開の狙いを資金調達に置き、以前は公開を意識していなかったが事業展開には株式市場からの資金調達が必要で内部留保だけでは限界があると述べた
- [27]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
- [28]浮川和宣氏はNASDAQへの公開も真剣に検討し日本の店頭市場より公開のメリットがあると感じたが、米国で公開しながら日本で事業を続けて日本の公開制度を批判するのは筋が通らないとして国内公開を選んだ
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [24]ジャストネットの会員は1996年8月時点で間もなく10万人に達し、同年度の目標は30万人であった
- [29]1995年4月に米国シリコンバレーへ米国子会社を設立し、1996年4月にピッツバーグのカーネギーメロン大学近くに先端技術研究所を開設して同大学教授を所長に迎えた
- [31]マイクロソフトのOS上でバージョンアップを繰り返す限り新OSへの対応の早さでワードにかなわないため、一太郎の部品化は特定のOSに依存しない環境で威力を発揮するとされた
- [32]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [33]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [34]一太郎7の開発が手間取った最大の理由はオブジェクト指向の採用で、罫線を引く・印刷するといった機能を持つ部品にソフトを分け、大規模なパッケージソフトで部品化すれば世界初の事例となるはずであった
- [36]一太郎7の発売時期は当初の1996年2月から4度先延ばしされて同年9月13日となり、この時点で売上高に占める一太郎の比率は7割であった
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [30]1997年10月に店頭登録銘柄として株式を公開した
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [35]浮川和宣氏は、米国マイクロソフト本社の資料によれば基本ソフトの開発部隊と応用ソフトの部隊の間で情報の行き来は自由であり、他のソフト会社より早く情報が流れていると述べた
1997年〜店頭公開直後の初の赤字と損益分岐点の引き下げ
一太郎に頼るだけでは大きく伸びられないというのが会社の判断だった。そこで表計算ソフトの三四郎をてこ入れし、データベースソフトの五郎を新たに開発した。三四郎自体は1993年9月に発売済みの製品で、データベースソフトもこの時点で研究が6年に及んでいた。これらの新製品は、1997年10月に予定した店頭公開に先立って世に出された。1997年9月には一太郎に表計算ソフトなどを組み合わせた一太郎オフィスも発売し、1998年3月末までに出荷180万本、売上金額170億円を見込んだ。開発のために3年前から毎年100人単位で人を増やし、1997年10月の最も多い時期には派遣社員400人を含めて1700人に達していた。浮川和宣氏は後に、これらの新製品のほとんどをマイクロソフトが品揃えしているからという理由で開発したと述べている。
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [37]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
- [39]店頭公開後に業績を大きく伸ばそうとして、パソコンソフトの新製品を公開直前にいくつも投入し、ほとんどがゼロからの立ち上げだったためかなりのコスト負担になった
- [40]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
- [41]新しいソフトの開発のため3年前から毎年100人単位で増員し、1997年10月のピーク時には派遣社員400人を含め1700人に達した
- [42]浮川和宣氏は、業績拡大を狙って開発した新製品のほとんどはマイクロソフトがそろえているからという理由で開発したと述べた
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [38]表計算ソフト「三四郎」は1993年9月に発売され、新たな大型商品として期待されたデータベースソフトは同時点で6年間の研究を続けていた
1998年3月期、ジャストシステムは1979年7月の創業以来初めての赤字に転落した。一太郎オフィスの出荷は80万本、売上金額は74億円と、見込みの半分に満たなかった。前年から続くアジアの通貨危機に、1997年11月の三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が重なり、消費は冷え込んだ。売上高は公開目論見書で396億円、1997年11月の中間決算の段階でも364億5200万円と見込んでいたが、実際には240億800万円にとどまった。最終損益も30億3300万円の黒字予想が45億2000万円の赤字に変わった。浮川和宣氏は自分の力が足りなかったと認める一方、消費がここまで極端に落ち込まなければ赤字にはならなかったはずだとも語った。一太郎頼みの収益構造では、その不振がそのまま業績の悪化につながるという点は、2年前から指摘されていた。
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [43]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
- [44]一太郎オフィスの1998年3月末までの出荷本数は80万本、売上金額は74億円に終わる見込みとなった
- [45]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
- [46]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
- [47]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [48]1996年時点で売上に占める一太郎の比率は7割で、インターネット事業が収益源として確立していないなか一太郎が不振に陥れば収益悪化に直結すると指摘されていた
立て直しの骨格は、費用を回収できる売上高を下げることに置かれた。事業の絞り込みはすでに前年から始まっており、1996年には自社製グループウェアの提供をやめてイントラネットに経営資源を振り向けていた。新体制の計画では、研究開発費45億円と宣伝広告費など30億円、合わせて75億円をすぐに削り、損益分岐点の売上高を300億円から210億円程度に引き下げる。人員は派遣を含めた1700人体制から1000人体制へ戻す目標を置いた。正社員については定年退職などの自然減で百数十人を減らし、1999年春の新卒採用も見合わせる。性能の数を競った3年間に一太郎への開発投資が細っていたことを浮川和宣氏は認め、立て直しの第一条件はマイクロソフトと異なる土俵に戦いの場を移すことだと述べた。会社は身売りのうわさを否定し、地元のメーンバンクである百十四銀行の支えを受けて、1999年3月期の黒字化を目標とした。多角化で広げた面積を畳み、最初に持っていた一点へ戻る作業であった。
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [49]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
- [51]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
- [52]派遣社員を合わせた人員数を1000人を目標に削減し、正社員は定年退職など自然減を中心に百数十人を減らし、1999年春採用の新卒採用は見合わせるとした
- [53]浮川和宣氏は再建の第1条件をマイクロソフトとは違う土俵で戦えるようにすることとし、ここ3年は新製品の開発に重点を置いたため一太郎への開発投資が若干低下したと認めた
- [54]浮川和宣氏は身売りの噂を否定し、四国に本店を置くメーンバンクの百十四銀行から資金手当ての面で応援を受けているとして1999年3月期の黒字転換を掲げた
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [50]ジャストシステムは1991年に独自のグループウェアを発売していたが、今後はイントラネットが主流になると割り切ってグループウェアを捨て、イントラネットへ経営資源を集中した
参考文献[37]-[54]
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [37]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
- [39]店頭公開後に業績を大きく伸ばそうとして、パソコンソフトの新製品を公開直前にいくつも投入し、ほとんどがゼロからの立ち上げだったためかなりのコスト負担になった
- [40]一太郎だけでは大きな飛躍は見込めないとして表計算ソフト「三四郎」を機能強化しデータベースソフト「五郎」を新たに開発し、1997年9月に一太郎と表計算ソフトなどをセットにした「一太郎オフィス」を投入して1998年3月末までの出荷本数180万本・売上金額170億円を見込んだ
- [41]新しいソフトの開発のため3年前から毎年100人単位で増員し、1997年10月のピーク時には派遣社員400人を含め1700人に達した
- [42]浮川和宣氏は、業績拡大を狙って開発した新製品のほとんどはマイクロソフトがそろえているからという理由で開発したと述べた
- [43]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
- [44]一太郎オフィスの1998年3月末までの出荷本数は80万本、売上金額は74億円に終わる見込みとなった
- [45]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
- [46]1998年3月期にジャストシステムは1979年7月の創業以来初の赤字に転落し、売上高は公開目論見書の396億円・1997年11月19日の中間決算発表時の見通し364億5200万円から240億800万円へ、最終損益は30億3300万円の黒字から45億2000万円の赤字となる見込みとなった
- [47]1997年のアジア通貨危機に続き同年11月に三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業が相次いで消費が急速に冷え込み、浮川和宣氏は力不足を認めつつ極端な消費の低迷がなければ赤字転落はなかったと述べた
- [49]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
- [51]損益分岐点となる売上高を現在の300億円から210億円程度へ下げ、研究開発費で45億円、宣伝広告費とその他諸経費で30億円、合わせて75億円をすみやかに削減するとした
- [52]派遣社員を合わせた人員数を1000人を目標に削減し、正社員は定年退職など自然減を中心に百数十人を減らし、1999年春採用の新卒採用は見合わせるとした
- [53]浮川和宣氏は再建の第1条件をマイクロソフトとは違う土俵で戦えるようにすることとし、ここ3年は新製品の開発に重点を置いたため一太郎への開発投資が若干低下したと認めた
- [54]浮川和宣氏は身売りの噂を否定し、四国に本店を置くメーンバンクの百十四銀行から資金手当ての面で応援を受けているとして1999年3月期の黒字転換を掲げた
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [38]表計算ソフト「三四郎」は1993年9月に発売され、新たな大型商品として期待されたデータベースソフトは同時点で6年間の研究を続けていた
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- [48]1996年時点で売上に占める一太郎の比率は7割で、インターネット事業が収益源として確立していないなか一太郎が不振に陥れば収益悪化に直結すると指摘されていた
- [50]ジャストシステムは1991年に独自のグループウェアを発売していたが、今後はイントラネットが主流になると割り切ってグループウェアを捨て、イントラネットへ経営資源を集中した
出典・参考
5件
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- 日経ビジネス 1996年8月19日号
- 日経ビジネス 1998年3月9日号